中国社会の見えない掟─潜規則とは何か (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881234

作品紹介・あらすじ

不当逮捕、違法監禁、冤罪、汚職、言論弾圧、闇取引-法より優先される面子・掟とは何か?暗黙のルールが支配する中国の裏側を覗く。

感想・レビュー・書評

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  • 中国人と日本人の気質の違いを例えるものとして私が聞いた小話をあげておく。
    自分が男性として、自分の母親と妻と娘との女性3人がいたと仮定して、そこに絶対に勝ち目のない怪獣が現れたと想像してほしい。怪獣は女性3人のうち2人を食べさせろと求めてきたが、1人だけは助けてやると言ってきた場合、母親、妻、娘の3人のうち、だれを助けてもらう1人として選ぶか?
    日本人のほとんどは、娘を助けてもらおうとする。つまり娘を助けるためなら母親と妻は犠牲となってやむなしと考える。しかし中国人は全然違う選択をするらしい。中国人のほとんどは母親を助けようとすると聞いた。その理由は、妻はまた探せばよいし娘はまた新しい妻と作ればよいが、母親はこの世に1人であり失えば再び得ることはできないということらしい。

    この本では中国人に脈々と受け継がれてきた「潜規則」という目に見えないルールについて著者自身が見聞きした事例を交えて詳細に記述されている。
    しかし、この本であげられたいくつかの“えげつない”潜規則の実例を見て、潜規則の存在を以て中国人や中国社会を“劣ったもの”“遅れたもの”と決めつけるのは、早計であり現状認識を大きく誤ったものと私は考えている。
    なぜなら日本にも、潜規則に相当する、外国人から見て見えない(または理解できない)ルールが厳然として存在しているのは誰も否定できないだろうからだ。昨今の森友加計問題なんか、まさに日本の潜規則が表出したものだろう。
    つまり、潜規則とは中国独自のものではない。しかしながら、何を「潜規則」と見なすかは日本や中国でも全然違ってくるので、中国の潜規則に特化して記載されたこの本を表面的に読んだだけでは、日本に思いを至らせられないかもしれない。冒頭にあげた小話でもわかるように、歴史を経て形成され共有されるに至った見えないルールには正解はなく、優劣は簡単にはつけられないところが解決を難しくしている。

    ではこの本から私たちは何を学べるのかというと、私は『人間が社会を制御するために、私たちは常に「未来」「社会(他人)」を思考の軸にして考えるべき』だと結論づける。
    未来を考えれば、私たちは安易に原発の稼働のスイッチに手をかけられないだろうし、社会(他人)を念頭に置けば、面子(メンツ)という考えは後ろに下がるはずだ。

    昨今では、中国人や日本人のほかアメリカ人やヨーロッパ人など世界中の人々の多くが他人の劣ったところを見てそれと比較して自分の優位性に満足するような発想に陥りがちに思えるが、この本で多く挙げられた中国の潜規則の事例を見て、中国は劣ってるとか、あるいは日本はまだマシとか考えて終わるのは短絡的。
    そこから一歩踏み込んで、中国の潜規則を日本の潜規則の解消のための教材と考えて、中国の長い歴史の負の遺産が潜規則とすれば、正の遺産である古典(詩経)にあるように「他山の石」とすべきである。
    つまり、この本は中国を語っていながら、日本についての批判や教訓を多分に含んでいる。

  • テンポよく読めます。ただ、そのぶん、一つ一つのテーマについての掘り下げが浅くなっていて、もう少し突っ込んで欲しいと思うこともあります。「潜規則」という単語をキーワードにしていますが、言葉自体は新しくても、その言葉が表わしている現象についてはそれほど目新しいものではなく、多くの現代中国モノとそれほど懸け離れているわけでもありません。結局、最後に著者が指摘していますが、なまじ経済成長がうまくいってしまったために、政治の民主化が却って遅れてしまっている、というのが中国の現状なのでしょう。しかし、経済成長はいつまでも続くわけではなく、その時、中国の政治はどうなるのでしょうか?

  • いつか中国の「不文律」について書かれた本が出てこないかな、と思ったらようやく出てきました。後ろに参考文献がきちんと書かれてる、というのも良いところです。

    よく「経済発展したら民主化が進む」法則があるように思うけれど、中国に限っては全くあてはまらないというのがよく分かる。本書に述べられてる諸問題が解決しない限り、現体制がもし仮に崩れてもまた同じことのくり返しなんだと気づかされる。

    中国を知る上で語学学習は大事だと私は思うけれど、触れてはいけない「不文律」についても知るべきじゃないかと思う。

  • 著者のオンライン記事は拝見しており、中国という国にどっぷりと浸かり、冷静に中国人を観察しているように見受けられ、この本も購入するに至った。本が出版された2011年までの現代に起きたさまざまな事件とその背景、展開、結末を歴史と絡めて考察している。なぜ中国は何かあると結局歴史に行き着くのか、よく自分たちで自分たちの歴史を破壊しているようなところがあるが、破壊されても破壊されても変わらない何かが脈に流れているようなところがあるのか、そんな感想を持った。

    愛国とはただ外国を批判すればいいわけではなく、いろいろ目をつぶって国家を持ち上げればいいものでもない。結局何かの”罪人”とされてしまうが、よりよい国を願っているであろう本当の愛国者の事例がいくつも出てくる。しかしそれが単発で終わってしまうか、大きなうねりになるほどではない。コロナでもそれなりに大ごとにはなっていたが、結局冷めてしまったようなところがある。中国人は結構冷めやすいのか・・なんとなくそんな印象を持っている今日この頃。

    中国人で語る上でよく出てくる面子というものが、日本にも類似したものがよくあることが気が付く。いじめがあったことを否定する教育委員会や学校のそれがまさに中国で言うところの面子なんだなと思った。

    だが彼らのロジックを理解できたとして、彼らがこちらのロジックを理解や迎合をするつもりがない場合、どう付き合っていくべきなのか。

    P.6(海上保安庁の船にぶつかってきた船の船長を解放したことなど)
    異質な中国式ルールに譲歩を続けるだけでは、日本社会に禍根を残すだけでなく、両国関係の将来にとっても決してプラスにならない。中国人の多くは、日本の司法制度も中国同様、政治に左右されると認識した。日本や欧米の司法制度を手本にしながら、中国において司法の独立を訴えている民主化論者たちを失望させた側面を忘れてはならない。

    P.18
    著書『潜規則』の序文では、呉の取材した化学肥料横流し事件の終幕が語られている。報道によって地方政府ぐるみの不正が暴露され、共産党中央規律検査委員会(中規委)が調査の末、制度の改善を指示したが、集団内で確立された利益配分の慣習はびくともしなかった。やがて、経済成長によって物資が増え、化学肥料の価格が市場化されると、配給の転売による利権は自然消滅した。(中略)必要なのは、スローガンや学習による道徳運動ではなく、市場のルールによって実現される公平、透明な手続きということだ。

    P.21
    仁者の徳を尊重する伝統は、日常的に行われる交通事故の処理を見れば明らかだ。
    自動車による歩行者の死亡事故で、仮に車の過失責任がゼロだった場合も、警官は現場に介入し、「葬式代ぐらい出してあげなさい」と朝廷する。運転手も、ごく当然のこととしてその朝廷を受け入れ、数万元を支払う。過失責任をめぐって訴訟沙汰になったとしても、裁判所は判決で「人道主義による援助」として被害者への見舞金をもとめる。(中略)中国で理想的な判決とされるのは、「合情合理」「入情入理」「通情達理」である。いずれも情理にかなっていることを意味する言葉だ。情理は、人情、そして人為を超えた道理である天理を指す。(中略)最高人民法院(最高裁)は死刑判決への量刑基準として、法的根拠、治安情勢と並んで「社会と人民大衆の感覚」を挙げているが、それも情理の表れである。西洋近代思想が法による正義を説くのに対し、中国では情理が正義の尺度になっている。(中略)一方、中国の法思想には、儒家が説く徳による教化に加え、教化に従わない者への厳罰を主張する法家の流れが併存している。(中略)重刑主義は権力による弾圧や報復の形をとって現れ、人権を無視した摘発、みせしめとしての処刑などを産んできた。道徳による教化を廃し、法による賞罰の徹底を求めた法家思想は、西洋式法治と親和性を備えているが、長年にわたって「法」による圧政に苦しめられてきた庶民の恨みは深く、法治不信を生む大きな要因となっている。こうした伝統的な法意識を温存したまま、形式的な法制度の整備が進んだ結果、その間を埋めるようにはびこったのが潜規則だ。

    P.24(林語堂『My Country and My People 吾國與吾民』中英対訳版 黄嘉德訳)
    中国人がみな面子を捨てなければ、中国は真の民主主義国家となることはできない。庶民は大した面子は持っていないのであって、問題は役人がいつ自分たちの面子を捨てる事ができるかである。警察の面子が失われた時、交通はようやく安全となり、裁判所の面子が失われた時、初めて正義が実現されるのである。

    P.26(林語堂『My Country and My People』からの引用)
    「面子を定義することは難しいが、例えば、北京の役人が制限時速三十五マイルの道路を六十マイルで走る事ができる時、彼は大いに面子があるという」と見事に言い当てている。社会を拘束する法を凌駕する実質的な権力が、面子の源泉なのである。

    P.32(中国社会において)
    周囲から認められるためには、社会生活の中で個々人の面子の大小を見極め、まず引き立てなければならないのは誰か、それに準ずるのは誰かを判断し、かつ、最も小さな面子にも配慮をする気遣いが求められる。様々な面子に配慮した立ち居振る舞いができて初めて、一人前の大人として敬意を払われるのである。
    逆に、平気で相手の面子をつぶす者は、世故に通じていない人間として軽んじられる。

    P.46
    インターネットを通じて個人の意見を公表できるようにもなり、自由を求める意識も刺激された。法による権利保護を求める動きがますます加速された結果、個人は必然的に「法を超えた面子」と衝突することになる。(中略)一見、自由と権利を主張できるように見える社会だが、実際、行動規範を決めているのは明文化されたルールではなく、権力の潜規則である。権力が網の目のように張り巡らされた中国社会に良いては、官と民が奉仕者と納税者の権利・義務関係で向き合うのではなく、権力を媒介とした支配・服従関係によって序列化される。
    林語堂は「中国人が警察に逮捕された時、恐らくそれは誤認逮捕かもしれないが、彼の親類が本能的に取る行動は、法律の保護を求めて法廷で決着をつけようとすることではなく、長官に恩恵を施してくれるように間に立って取りなすことのできる長官の知人を探し出すことである。中国人は個人的関係や相手の顔、つまり面子を非常に重視する。間に立つ人の面子が大きければ大きいほど成功率は高くなるのである」(『My Country and My People』)と言った。間に立つ面子がなければ、ひたすら忍従するしかない。

    P.50
    判決が覆るばかりでなく、捜査の過程まで法廷で検証されることは、中国では望むべくもない。そもそも、法によってではなく、奇跡によってしか冤罪の名誉回復は行われない。冤罪を生む過程は政治が司法を飲み込む「黒箱(ブラックボックス)』の中で遂行されるからだ。しかも、その黒箱は、同一集団に属する権力の衝突を回避し、責任をあいまいにする潜規則によって操作されている。

    P.57
    「安定団結」とは、「未解決事件を残してはいけない」「いったん試験判決を下した事件をひっくり返すわけにはいかない」という権力の面子にほかならない。無力な農民はあらゆる手続きから排除されている。権力者のみが、黒箱の中で行われるゲームに参加する資格を持っている。しかも、公開されない手続きの中では各プレーヤーがどのような決定を下したか、果たして誰がプレーヤーなのかさえわからない。

    P.69
    文革後、冤罪の犠牲者の名誉回復に尽力した胡耀邦・元総書記(一九八九年四月脂肪)は、「どうして神を求め、仏を拝む人々がどんどん増えているのか?これは『庶民に意見があっても述べることができず、無実の罪が晴らされなければ、神に訴えるしかない』からだ。これは顧炎武が言った言葉だ。夢にも思わなかったことだ。我々、世の中を改革する志を立てた共産党員が、結局は歴代の封建統治者と同様、冤罪、偽証、誤審事件に遭いながら救われない大量の人々を生み出してしまったとは!」

    P.109
    淘汰清官とは、儒教の教えを受け、高い徳を備えたはずの清官がひとたび地方へ赴任するや、地縁血縁の人間関係に縛られ、人情や賄賂の誘惑に流されてしまうことを指す。宋代から、しがらみの多い出身地での任官を禁じる「回避」の制度が採用されていたが、明朝はこれをさらに厳格化した。(中略)明朝であっても腐敗の横行は防ぐことができなかった。皇帝一人の権威や権力に頼った荒療治は、その人物を欠いた時にたちまち効力を失ってしまう。

    P.132(最高検察人民院、王雪梅の発言。同院の政治闘争に巻き込まれて解任された女性エリート検察官の冤罪疑惑に関して)
    中国人は人口が世界で一番多く、今や政治上の地位も高い。こうした大国の中国で不正義がまかり通れば、全世界に悪影響を及ぼす。ずっと自分の組織、国内で解決しようと努力してきたが、とうとう面子を捨てる段階に達した。本日をもって、全世界のメディアの取材を受ける。もう我々には自分の病根を自分で取り除く力がない。正義の立場に立ち、真実を追求するのである以上、何も恐れるものはない。命さえも惜しくない。

    P.141
    法を超越する党が存在する以上、法律監督は国民の利益を反映するものではなく、党に奉仕するものとなる。しかも、党は全体の組織を意味するのではなく、特定の人物、利益集団に過ぎない。

    P.151(范美忠:四川大地震で生徒を置き去りに逃げ出してしまった元教師の発言)
    道徳的犠牲が強制される社会について、范はその元凶を、儒教の身分秩序が生む被支配者意識に求めていた。被支配者意識は独立した人格を持ち得ず、権力に付き従う精神しか持てない。清末民国初の国難にあって、魯迅は個人の自立を妨げる儒教道徳を批判し、『阿Q正伝』を著した。阿Qは真実に向き合うことをせず、自分を偽って精神的な優位に逃げ込む奴隷根性の持ち主だ。魯迅が中国人の奴隷根性を批判してから九十年たった今もなお、更新的な国民性を克服できていないと、魯迅崇拝者の范は強い憤りを感じていた。

    P.155(范美忠の発言)
    教育や政治などの社会問題が山積しているにもかかわらず、喜んで自らを欺く国の制度をもう受け入れることができない。一般大衆はこうして長期にわたってはびこった道徳やゲームのルールの中で、うそを語ることに慣れてしまった。中国の歴史で十大な事件の後に残るのは毎回、経験や教訓ではなく、悪を善に変えて政府がまた生き残るということだ。こうした民族に希望はない。

    P.160
    メディアが規制下にあり、シナリオ作成の権限が権力者に握られている現状で、情報の公開は特定のイメージを演出する役割から大きくはみ出ることはない。国民の知る権利に応え、行政を透明化させ、政治への参加を補完する情報公開の民主的な機能とはほど遠い。
    しかも洗脳に慣らされ、権力になびく国民性もがある。こうして、「災難を祭典に、悲劇を喜悦に、問責を恩義に、反省を賛美に、生命の尊重を組織への忠誠に、個人の善意への感謝を国家への賞賛に変えてしまう」宣伝工作が効果を上げる。災害に対する反省は、政府の責任にかかわる政治問題として封印され、一時的な感動ドラマの中で解消される。

    P.166
    一九八八年、黄河をテーマとして民族の歴史に反省を迫り、大反響を呼んだテレビ・ドキュメンタリー『河殤』にはこうしたナレーションが流れる。
    「中国の歴史は科学を推進し、民主の勝利を担うべき中産階級を作り出す事ができなかった。中国文化も公民意識を育てることができず、逆に臣民の心理を教化した。臣民の心理はただ理不尽に耐える従順な民か、あるいは、行き場を失って反乱を起こす暴徒化の、いずれかを生み出すだけだった」

    P.182
    私的関係が社会ルールに優先する人間関係の濃厚さも公徳の発達を阻んでいる要因の一つだ。中国では、立ち遅れた公徳とは好対照に、私徳がことのほか重んじられる。多くの中国人は、家族や友人と交わす職場での私用電話やネットでのチャットを非常に大切にする。職場の廊下に出てこそこそと電話をする日本社会の不文律、つまり日本式潜規則はなかなか受け入れられない。上司から注意を受けても、「自分が困っているとき、実際に助けてくれるのは家族や友人だから、それを大切にするのは当たり前。会社は何もしてくれない」と腹の中では思っている。逆に、日本人のように形式を重んじる姿勢を、中国人はむしろ「虚無」といってさげすむ。(中略)笑顔で応対する日本人のサービスでさえ、時に「虚無」だと批判される。中国人にとっても最も大事なのは家族、友人などの相互扶助によって結ばれた人間関係だ。
    しばし驚かされるのが、中国では血縁関係も法的関係もない父母、きょうだいが多数いることとだ。特別に仲のよい男友達は「兄弟」、女友達は「姐妹」と肉親同様に呼び合う。きょうだいの契りを結ぶことは「結拝」「結義」と言う。(中略)こうした疑似家族は、私徳に基づく関係だ。社会的地位を安定させるため、私的関係を強固にしようとする動機が背景にある。

    P.189
    長い強固な専制体制の下、中国の人々は、人間社会の善意を解く儒教と無為自然を描く老荘の道家思想によって、老練な生活の知恵を育ててきた。こうした楽感文化によって私徳が発達してきたが、その分、公徳をないがしろにする精神構造が育った。交通取り締まりのキャンペーン中はお上の顔色をうかがいながら、終わって仕舞えば「風は去った」とやり過ごす庶民の姿は、楽感文化がもたらしたものに違いない。

    P.201(姜維平:筆禍事件の被害者として登場、の言葉)
    私の名誉が回復されるかどうかは、国家の発展と情勢によるもので、個人で決められるものではない。中国の歴史には同種の文字の獄はしばしば起きており、私の事件もそのうちの一つに過ぎない。街頭での議論で死刑になった時代に比べれば進歩したと言えるが、中国の社会には今もなお、言論の自由を妨げる封建意識が根強く残っている。

    P.205
    記者弾圧の手法が、海外からの批判を招く政治犯から、個人犯罪である経済犯へと巧妙化していること。そして記者の職業倫理の低さ、それによって生じる腐敗体質が、権力側に付け入る隙を与えているという実態だ。貴社の腐敗体質は権力による言論弾圧を招き、メディアによる世論監督機能への信頼を傷つけ、さらに権力の干渉を許すという三重の罪を犯している。

    P.231(北京五輪開会式で中華民族の団結を演出する56人の民族衣装を着たアトラクションの大半が漢族だったことを指摘されて)
    北京五輪組織委員会の王偉執行副会長は「中国では演技者が異なる民族の服を着るのはよくある」と釈明し、さらに「細かすぎる指摘だ」と一蹴した。当局者の頭の中には最初から、各民族の子どもたちを集めようというごく当たり前の発想がない。その意識は、漢族の中で共産党幹部から一般庶民に至るまで共有されている。

    P.232
    漢族こそが中国という国家を代表し、漢族支配に反発する者には国家の名において制裁を加えるという構図がある。漢族の一般庶民は、漢族の官僚が腐敗し、漢族の人権が守られていない現状に対しては抗議行動を起こすが、少数民族の立場には思いが至らない。むしろ、少数民族との差別化によって、自身が優越感を得るという精神構造さえもたらしている。
    漢族の優越感は他の少数民族文化に対する理解を妨げている。(中略)漢族の旅行者はチベットの自然や宗教建築に感動することはあっても、チベット族の宗教生活には関心を示さない。無神論社会の伝統と宗教をアヘンとして否定した共産主義の影響によって、そもそも宗教に対する理解が浅い上、少数民族の文化を劣っているとみなす優越感が邪魔をするのである。体を地面に投げ出すように礼拝を繰り返す五体投地を見て、彼らはたいてい「こんなことに一生をかけて何の価値があるのか?」「だからチベット族は貧乏なんだ」と口にする。これでは宗教の自由が脅かされているチベット問題の本質を理解できない。

    P.234
    華夷思想は、漢族が異民族支配を受けたことによって強化された。モンゴル族の元朝に取って代わった明の朱元璋は「中華の回復」を訴え、満州族が打ち立てた清朝妥当の革命運動は、無能で腐敗した満州族政権を打倒し、漢族の天下を取り戻す「滅満興漢」が政治的スローガンになった。

    辛亥革命によって清朝が滅んだ後、中華民国を樹立した孫文は領土の分裂を恐れ、「漢・満・モンゴル・回・チベットの五族が一つとなって共和を建設する」と五族共和を唱えたが、その後、民族意識が独立運動を刺激するに至って建前が破綻し、「満・モンゴル・回・チベットを漢族に同化させる」路線に修正される。従来の華夷思想に逆戻りしたのである。現代にも根強く残る漢族の少数民族に対する優越感、差別意識は、こうした歴史的背景を持っている。

    P.235
    テレビドキュメンタリー『河殤』は、中国による製紙、活字印刷、羅針盤、火薬の4大発明について、それがヨーロッパで封建社会の終焉を早めたのに対し、中国では国家の統一を図り、封建社会を支える技術として専制権力から利用されただけだと反省を促した。(中略)『河殤』は、中原の人びとが劣った夷狄による侵略を恐れるあまり、城壁を築いてその中に閉じこもったことが、文化の衰退を招いたと指摘する。城壁は華夷思想の象徴である。
    民主化のうねりの中、『河殤』が示した大漢民族主義の根源に触れる問題提起は、価値観を異にする少数民族の文化に目を向ける契機をはらんでいた。だが、そうした漢族の自省も天安門事件によって封殺されてしまった。『河殤』による問題提起は、天安門事件後に強化された愛国主義教育にかき消され、もう聞くことができない。

    P.240
    いつもは政府の宣伝工作を信じない漢族も、民族問題についてはすんなり受け入れる。無神論や華夷思想が少数民族の文化や宗教に対する理解を阻んでいる上、漢族を基準とする愛国の物差しが、少数民族の権利を飲み込んでしまう。愛国主義教育は漢族の内部矛盾を解消する政策として極めて効果的だが、中華民族=漢族の価値観、歴史認識を強制される被支配者の少数民族には、全く違ったものに映る。

    P.257
    中国人の外国に対する認識を歴史的にみれば、清朝末からの近代は、先進的な思想や技術を持った西洋への崇拝、そして、祖国の分割をたくらむ外敵への憎悪という両者の拮抗から始まる。前者は、儒教を中心とする中国の制度と文化を基本としながら、富国強兵のため西洋の技術文明を導入すべきと唱えた「中体西用」論、あるいは西欧近代思想の導入をスローガンとした新文化運動であり、後者は「扶清滅洋(清朝を助けて外国を討伐する)」を叫んだ排外主義の義和団事件が代表例である。

    P.267
    普遍的価値感を求める動きは、辛亥革命(一九一一年)によって二千年に及ぶ王朝体制が終わり、政治・文化秩序の解体が進む中、西洋近代思想の影響を受けて始まる。(中略)それは必然的に、固定された身分秩序によって個の独立を阻んできた儒教への否定を不可避とした。(中略)だが、中国の近代は、列強の侵略に脅かされた救国の時代であり、個人の尊厳よりも国家、民族の存続が最優先課題とされる時代的制約があった。
    抗日戦争、国共内戦の激化に伴って普遍的価値は現実的な意味を失い、共産党が持ち込んだ社会主義イデオロギーに取って代わられる。文化大革命は、新文化運動と同様、伝統の破壊という形をとりながら、毛沢東の階級闘争によって、「個の独立」と対極にある「個人崇拝」に向かった。(中略)天安門事件を支援し、国外に逃れた天文物理学者の方励之は「人権問題をかたるときはいつも、これは中国人の人権であると言い張り、あるいは外部の内政干渉などと非難しています。これこそが人権の普遍的適用性に違反する」(『中国の結末ー中国共産党は死んだ』末吉作訳、学生社)と、国内の矛盾を外国への敵視に転嫁する手法を批判している。
    強制収用への不満などで政府への直訴を繰り返す多くの中国人は、国内メディアに相手にされず、裁判所から門前払いを受けると、やむなく外国メディアを頼ってくる。彼らはたいてい、「私は愛国者だ。本来、国の批判を外国人記者にするのは良くないが、国が私を愛してくれない以上、やむを得ない」と前置きする。外国人やメディアに情報を提供した場合、それが国家機密と認定されれば国家秘密提供罪で最高無期懲役の刑に問われる。国のイメージを損なう行為は愛国主義に反する売国奴のレッテルを貼られかねない。彼らには道徳的にも法的にも大きなハードルがある。それでも外国報道機関を頼ってくるのは、完全に行き場を失ったからである。だが当局は彼らに伝える。「外国人記者は中国を悪く言うために、あなたたちを利用しているだけなのだ」と。外国人に敵対勢力のレッテルを貼る分断工作は、愛国主義教育と対になって効果を発揮する。

    P.272
    儒教文化に代表される封建社会の遺訓を批判し、個人を解放しようとする思想上の試みは、清朝末依頼、中国の知識人の間で何度も繰り返されてきた。体制内での斬新的改革を主張した清朝官僚の梁啓超は、中国国民が持っている「奴性(奴隷根性)」から脱却し、独立した個人を作り出すことを議会開設の前提条件と考えた。辛亥革命後の新文化運動を主導した胡適は、伝統を破る口語文学を提唱し、民主主義と科学精神に基づく個の確立を訴えた。魯迅の『阿Q正伝』は、抵抗することも批判することもできず、服従するしかない愚民を描き、個人の覚醒を求めた。海外に中国を紹介しようと務めた作家の林語堂は、中国人が高尚な道徳論を繰り返しながら、実際は人情や面子に縛られ、法治社会を築くことができないでいることを嘆いた。

  • この本を読むと、中国を理解するのが、(日本人にとって)どれほど難しいのか
    よくわかります。私も中国で数年働き、業務は中国語で行うが、

    「なぜ、そのように考えるのか?」
    「なぜ、そのように行動するのか?」

    あまりに、日本人のそれと違うので、仕事上でも葛藤の連続である。
    言語の問題というより、(当たり前ですが、、、)文化そのモノが、違うなとつくづく感じていました。

     この著作を読み、「潜規則」に関して、おぼろげながら、理解できるものの、
    その習慣を受け入れることは、到底できません。そして、
    どのように、対処していけばいいのか、、、まるでわかりません。

     ただ、なぜ、中国で文革のような、何千万人も犠牲となった事件、運動が起こった理由がわかった気がします。
    それは、潜規則に代表されるような、不透明で、理解し難い、慣習が脈々と受け継がれているからだと思います。

     日本での中国の事件に対する報道は、どこか、見下したような、失笑が含まれていますが、
    こういう著作を読むと、「笑えない」現実が、中国にあるのだと、つくづく思います。

  • 中国社会を支配する潜規則と面子。中国の伝統のなかで培われ、深く染み付いた気質。

  • 確かにそうだよね、と思いつつなんとなく気分が暗~くなりました。私の気持ちが参っていたからかな?

  • 中国人の面子。
    日本人が思う面子とは違うことを認識しなければならない。

    先日読んだ石平さんの本。
    ほんまかいな?という話がこの本でも出てくる。

    どの国にも裏社会ってのがあるんだろうが、中国のそれははっきりいって、怖い!

  • 中国では法律よりも面子の方が重要。
    警察の面子をつ日したら、それだけで逮捕、監禁される。
    死刑判決後にはすぐに執行される。見せしめの死刑もある。

  • 日本にも確かに類似した思考の慣習があるが、
    それが中国にはもっと先鋭化した状態で残っている。

    だから、これを読むと
    中国を「理解できない」とは言えない、言ってしまえないなぁ、と思う。

    また、同時に中国でも西側的な発想をする人々がいるが
    追い出されるか、黙らされるかという情景も描かれている。
    こうした時、華僑のネットワークというさらに一歩引いたスケールから観る
    中国社会はどのように立ち現われるか、それが
    今後の中国のありようを左右するように思われる。

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著者プロフィール

1962年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1986~87年、北京で語学留学。88年、読売新聞入社。東京社会部で司法、皇室を担当。2005年7月~11年3月まで上海支局長。11年6月から読売新聞中国総局長。共著書に、『中国環境報告』(日中出版)、『メガチャイナ』(中公新書)など。

「2011年 『中国社会の見えない掟─潜規則とは何か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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