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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784062881616
みんなの感想まとめ
音楽と贅沢な生活の関係を鋭く切り取った一冊で、著者はクラシック音楽を理解するためには特定の豊かな環境が必要だと主張します。香港やオーストリアなどの国々を舞台に、オーケストラやオペラ、さらには音楽ホール...
感想・レビュー・書評
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著者は冒頭で「学生食堂でご飯なんか食べていたら、プルーストはわからないよ」と言って大顰蹙を買った学生のことを引き合いに出して、返す刀で「電車に乗って通勤している人にはクラシックはわからない」「トヨタ車に乗って満足している人にはクラシックはわからない」と言い切ってしまう。
裕福な生活の中で作曲され、裕福な暮らしの人に供された音楽は、そのような環境で楽しまなければわからないという訳だ。
そんな視点から香港・オーストリア・イタリア・ドイツ・フランス、そして青森県の六ヶ所村の音楽ホールと、オーケストラ/オペラとレストランについて語った一冊。
常に上から目線で語り下ろす口調はあとがきで書いているようにわざと嫌味で書いており、それは大成功を収めてページを繰る度に「そういうお前は何様のつもりだ」と思わずにいられなかった訳だが、書かれた内容なさておき、著者の言いたい「贅沢なクラシックの味わい方」は読み取れた気がする。
その上で、著者の様に世界中のオーケストラを聞きまくって見えてくる風景も当然あるとは思うが、それはいささか品がないようにも思えた。
年に数回、各地の演奏を聴くのもいいが、地元のオーケストラ(でもオペラ団でも劇団でもよい)の水準を知りつつも長くそれを支援し続けるのも贅沢な味わい方じゃないだろうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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許 光俊(きょ みつとし)
1965年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部美学美術史学科卒業。東京都立大学修士課程人文科学研究科修了。同博士課程中退。横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程を経て現在、慶應義塾大学法学部教授。近代の、文芸を含む諸芸術と芸術批評を専門としている。『邪悪な文学誌 監禁・恐怖・エロスの遊戯』(青弓社 )、『オペラに連れてって! お気楽極楽オペラ入門』(青弓社、のちポプラ文庫)、『クラシック批評という運命』(青弓社)、『世界最高のクラシック、『世界最高のピアニスト』(ともに光文社新書)、『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書)、『昭和のドラマトゥルギー 戦後期昭和の時代精神』、『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』(ともに講談社選書メチエ )など多数の著書がある。
最高に贅沢なクラシック (講談社現代新書)
by 許光俊
一九九七年にイギリスから中国に返還されるまで一五五年間、西洋文明と文化の植民地だった街。少なくとも、ここでのクラシック音楽の歴史は、日本でのそれより若干なりとも長いことは間違いない。
かつては、日本各地と香港、ソウルなどをセットにしてアジアツアーを行う西洋の演奏家が多かった。が、現在は、香港と北京、上海を組み合わせるのがほとんどのようで、せっかくヨーロッパから一万キロも飛んできたオーケストラが、東京へ立ち寄ることなく帰ってしまうのはもったいない気もするが、これも世の流れである。日本のクラシック音楽界が飽和状態だということを、ヨーロッパやアメリカの音楽関係者はよく知っている。それよりも、中国に新たな市場を開拓したいのだ。そのためには、一流とは言い難い中国人演奏家との共演も辞さない。資本主義は、搾取するための外部を必要とする。クラシック音楽も、外部を必要としているのだ。今、中国と南米がことあるごとに話題に上るのもゆえなきことではない。やがて、アフリカが標的になろう。
夢とは、それが夢だと気づいた瞬間に、実はもっとも強い幸福を喪失してしまうと僕は考える。が、ウィーンは、夢を夢として崇める。夢と現実をきちんと対置させる。それがこの街の下らなさであり、浅はかさであり、噓くささだという感想が、この街を歩いているといつでもついて回る。それが、僕がこの街に愛情を抱けない大きな理由なのだ。
何はともあれヨーロッパにおいてクラシックが豊かさや文明の象徴だということをもっともよく示すのは、ドイツの主要都市の中で一番南に位置するミュンヘンだということに誰も異論はないはずだ。 この街はイタリアから電車で国境を越えて行くことも難しくない、ほとんどドイツ最南端にある。そのためもあってか、ドイツの中でもっともイタリア的と評されることも多い。芸術や快楽への好みが強いという市民性。南方的と言ってよいのか、何か緩んだ空気。それに、他のドイツでは見られないような、怠惰さ、いい加減さ。
ミュンヘンは南ドイツ、バイエルン州の州都である。この街の国際空港、すなわちフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港は、その名から容易に推察できるように人名、正確にはバイエルン州の政治家のそれを冠している。田中角栄(一九一八─一九九三) やどんな政治家でもよいが、日本の大臣や首相の名前が公共建築や道路の命名に添えられることはほとんどあり得ないことを改めて思い出すにつけ、通りや建物に個人の名前を付けたくて仕方がないヨーロッパのあり方を痛感させられる。もっとも、政治家が後世に自分の名前を残したくて大きな建築を計画したがるのは、洋の東西を問わないようだが。
ミュンヘンは、地理的にはベルリンよりもウィーンに近い。が、ウィーンとははなはだしく異なった趣を持つ。もっとあからさまで開放的なのだ。ミュンヘンが、バイエルン州が、他の住民から田舎っぽいと評されることが多いのも解せなくはない。ミュンヘンは富裕な地方都市である。ベルリンやパリやロンドンといった首都が持つ不穏さや 禍々しさがきわめて希薄である。ベルリンやフランクフルトの車は、焦燥と競争のために速く走っているように見えるが、ここの車は快楽のために速く走っている。この街の空気は不思議なまでに緩んでいる。奇妙なものだ。それは空港に降り立った瞬間から感じられる。街の中心部ではなおさらだ。ドイツのどこにでもありそうな、歩行者天国の商店街。が、ミュンヘンのそこだけは明らかに空気が違う。
ベルリンは、ドイツの首都であり、大都市である。なぜこんな当たり前のことを書くかと言うと、飛行機だろうが鉄道だろうが、この街に到着し、いざ道を歩き出すと、ここがドイツのどこよりも大都市の殺伐を感じさせることに気づかされるからである。どんな人間がいるかわからないという警戒心を呼び起こす何かが、間違いなくこの街にはある。ことに、緩んだ空気のミュンヘンから到着すれば、一瞬ぎょっとするほどの禍々しささえ感じる。いきなり暴漢に襲われるかもしれない、そんなすさんだ空気が、あのバイエルンの州都と決定的に違う。
ベルリンはしつらえの大きさにうんざりする街である。一ブロックが大きいし、これでもかと威圧的な建物がある。タクシーであっという間の距離が、歩くととてつもなく遠い。人間的な発想で作られていない街、自ずとできあがった街ではない証拠である。日本でなら、各地のニュータウンを想像してみればよい。ああいった感じの白々しさ、不便さがある。それも無理はない。ベルリンはプロイセンの首都、やがてドイツ帝国の首都として、短い間に爆発的に大きくなった街なのである。ドイツの主要な都市は、中世以来の繁栄の歴史を持つことが多い。時間の積み重ねの多い少ないがいろいろな面で決定的だと思い知らされる。
ベルリンでは、地下鉄やバス網がよく整備されている。が、ミュンヘンやハンブルクから来て公共交通機関に乗ってみると、人々の衣服が粗末なのに驚く。そもそも、地下鉄の車両自体や駅が、今時珍しいほど古くて汚い。落書き防止のために妙な模様になっているケバケバしい椅子にも驚かされる。古ぼけた車両に、むりやり電光表示のニュース機能など取り付けたものだから、ますますおかしなことになっている。色彩感覚がすてきとはお世辞にも言えない。街全体が灰色っぽく、そこに青や黄や赤の原色がぶちまけられて、惨憺…
実は、僕はこのコンサートのときに、生まれて初めて、音楽を聴いて号泣したのである。なぜだか知らないが、最後のほうで涙が次から次へと出て仕方がなかったのである。その理由ははっきりとはわからない。交響曲第七番が、いわゆる悲劇的な、聴いている人間を悲しくさせる音楽ではないことは確かだ。だから悲しくて泣いたわけではない。むしろ逆で、僕はあまりの幸福ゆえに泣いたのではなかったかと思う。音楽好きはよく「泣ける演奏」などと言うが、僕は泣くなどということには何の意味も価値も見出さない。これまで、間違ったことに感激して泣いた人は数え切れないほどいるに違いない。僕はそもそも感動という言葉が嫌いである。下らないものに感動する人間はいくらでもいる。泣いた、感動したということは、何も意味しない。何かの生理的反応から起きるただの生理的現象である、そう僕は思いたい。それゆえ、自分が泣いたと書くのはきわめて不本意なことなのだ。だが、それは僕が他に経験したことがない例外的なものだったからこそ、あえて書いているのだ。
もっとも、かつて共産圏であったことはごまかしようがない。ドレスデン中央駅を出たところの大きな通りはプラハ通りと称する。四角い、機能だけしか考えていないような建物がいくつも目に入る。現在では商店が増えたから雰囲気が明るさを増したけれど、以前はいかにも東側的な、戦車が行進するのに都合がよさそうな寒々とした大通りだった。そこに同じ形の建物が三つ並ぶ、現在はフランスのホテルチェーンに属するイビス・ホテルは、かつて東ドイツが建てたものを改装したものだ。広い道にたくさんの空間と真四角な建物。確かにここでは反政府活動をしてもたちまち捕らえられてしまうだろうと推測できる。機関銃で狙われたら、隠れる場所がない。壁が崩壊してからしばらくの間、ドレスデンには飲食店も少なく、観光客はこの辺のホテルの食堂に行くことを強いられたが、そこではこれもまた東側の感覚が横溢した、重苦しい煮込み料理などを食べさせられたものだった。
リヨンのオペラが始まる時刻は、つまり終わる時刻は、パリよりも遅い。ワーグナーの長い作品でもかかろうものなら、終演はほとんど真夜中に近くなる。この点でも、リヨンが南の街ということがわかる。ミラノにしても、長い作品は、日付が変わる頃に終わることも珍しくないのである。地下鉄や路面電車の終電に近い。
住民数約四五万人、近郊を含めても一五〇万人に満たないリヨンでは、同じオペラが一〇回近く上演されるのに、チケットはまず売り切れる。住民が桁外れに多いパリや、観光客が一度はと見に来るウィーンではないのに。人々は、好奇心いっぱいに舞台に見入っている。フランス人はオペラやクラシックが大好きなのである。それゆえ、大西洋岸のナントという地方都市で始まったラ・フォル・ジュルネが成功したのである。携帯電話に着信があるとクラシックの有名曲が鳴り出す光景は、フランスやドイツでは頻繁に目にする。
こんなことを最後に記すのも、本書は最初から最後まで嫌味の霧に包まれた本にしたかったからである。しかし、真実とは残念ながら嫌味なものではないだろうか。
クラシックは基本的には豊かな人の音楽である。あるいは豊かであろうとする人の音楽である。豊かでもなければ、豊かになろうともしていない人の音楽ではない。クラシックだけではない。日本の伝統芸能や芸術もそうした面を強く持っているはずだ。いわゆるハイカルチャーと呼ばれるものはみなそうであるはずだ。むろん、ここで僕が言っている豊かさとは、経済的な余裕という意味だけではない。心の余裕、人間はこう生きるべきという倫理という側面も持っている。失われて久しい教養という概念もこの豊かさに含まれる。幸福と言い換えても間違いにはなるまい。
ピアニストのポゴレリチはロンドンに高級マンションを持っているが、スイスにも豪邸を買ったという。そこにグランドピアノを何台も置いていると伝えられている。普通の人の感覚では無駄のようだが、彼にとってはそれが必要だとのことだ。同じくピアニストのワレリー・アファナシエフ(一九四七─) は数千本のワインを所有している。この本を書いているとき、彼とパリのレストランで食事をする機会があった。僕たちはダグノー、ドヴネ、ヴュー・テレグラフという、ワインに詳しい人なら舌なめずりをするに違いないフランスの銘酒を飲み干した。アファナシエフは、グラスを次々に空けながらマリア・カラスに賛嘆の声をあげ、同業者をこき下ろし、会話に興じるのだった。彼らがしていることは、下らない浪費ではなく、感覚の上で明らかに彼らの芸術とつながっていると僕には思える。
若者よ、厳しい時代かもしれないが、無理をしてでも贅沢を知りたまえ。豊かさと余裕の中で熟成してきた美を知りたまえ。それは、消えてしまうにはあまりにも惜しい甘露である。たとえこの文明が絶対的に正しいわけではなくても、唯一の可能性ではなくても、僕たちはもうこの文明を生き過ぎた。今まで死を免れた文明はない。文明は例外なく死の匂いから逃れられない。だとしたら、毒の甘味をしっかりと味わいたまえ。この世に生まれてきたからには、人間が作り出した精華を胸にしみこませたまえ。 -
うーむ、なんというか単なる一俗人の好みの披露、という感がぬぐえない(著者はそうではないとあとがきでも再主張しているが、それはちょっと違うのでは?と反論もしたくなる)。が、音楽通史として読めるし、なるほど面白いという点も多く、楽しめた。確かにいんちきくささがある、というのは納得できる。が、フォローではないが、もう少し客観的な記述でも良い。個人的にはこれくらいガンガン個人的主張がされて、潔いとすら思うが・・・。色々複雑な思いに駆られる。
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読んでいて何度も、村上龍の文章を連想した。「本物」を求めて時間と金をかけて移動する、美食について書く……ということ以上に、たぶん「芸術」を受容するということについての態度そのものに、通底するものを感じたからだと思う。
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久しぶりに星ひとつの最低評価をさせてもらいました。
偏見偏向がひどく、自らを貴族に擬し自慢たらたら、庶民や東洋を愚弄するような話ばかり。
電車ののっている人間にはクラシックは分からない。
トヨタ車に乗っている人間にはクラシックは分からない。
香港の嘘くささ。
マカオでクラシックを聴く場違い。
などなど冒頭からこんな調子。
金持ち自慢と西洋至上主義の差別的言動をよくぞ本にしたもんだと思う。
成り上がりのスノッブらしい金満主義で、著者のお里が知れます。
読んでいて最初はムカつき、そのうち呆れ、最後は著者の痛さに目を覆うばかりでした。
講談社もよくぞこんな著作を現代新書に選定したものです。 -
豊かさの中で生み出されたクラシックは、豊かさの中にいなければ肉薄することができないという、良識の中ではなかなか語られなかったが真実に近いことを具体例と経験から説いている。旅行記として読まれた方も多いのではないかと思う。
豊かさと浪費は違う、という指摘はもっともだと思う。 -
クラシックは基本的に豊かな人の音楽であると主張する著者による世界各都市でのクラシック体験とホテル、レストラン、酒、街、車についてのうんちく集。日本の真面目なクラシックファンが怒ることを承知で書いている露悪ぶりが楽しめた。消費ではなく、浪費のすすめとしても筋が通っている。
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痛快無比。贅沢な感覚を身につけ・・・られるかしら。
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図書館で借りた。
著者曰く、「要約しにくいこと」を書いていて、「感覚的に」納得してもらえればよいことを述べている。音楽に関する旅日記のような体裁とも言えそうであった。
贅沢を知っているか知らないかによって、ある作品が理解できないということがある、ということが一番最初に書かれている。クラシックの作曲家で国の財政を傾かせるほどの贅沢をしたり、貧しい生活を送ったのはいいワインを飲んでいたせいだったりするケースを聞くと、現代の裕福ではない人間はそんな人の感覚には近づけないのも理解できる。
本の内容としては、本物の音楽を聴ける場所を探すようにして、香港、オーストリア、イタリアなどが紹介されていく。各場所のいいホテルやいいレストラン、オペラハウスや当地のオーケストラの品評がなされている。
お金のある人を僻む癖がある場合は読まないのがベストだと思う。ただ、貧すれば鈍するとはいうけれど、そんな中でも贅沢というものを知っておくことは必要だという感じの主張には頷きたい。
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