- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062881722
作品紹介・あらすじ
嫌いな自分を肯定するには? 自分らしさはどう生まれるのか? 他者との距離をいかに取るか? 恋愛・職場・家族……人間関係に悩むすべての人へ。小説と格闘する中で生まれた、目からウロコの人間観!
感想・レビュー・書評
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現代社会の最大のテーマ「ありのままの自分」「本当の自分」
それを根本から問い直す一冊。
以前、読書好きの友人が、こんなことを言っていた。
「人前で演じちゃう自分がいて、でも西加奈子の作品にそれを肯定する作品があって、それでいいんだなと思って救われた」と。
この話を聴いた時に、「演じる」ということについてもう少し深く考えてみたものの、うまく考えがまとまらなかった。
そしてその答えが、ここにあった。
人と関わる時、「演じている」というのとは別の、「その人の前での自分」がいること。
本作品では、それを「分人」と定義づけている。
その人の前では常に、「その人の前での分人」。
でもまた、別の人の前では別の分人が登場する。この、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」「ありのままの自分」である。
ヨガや瞑想の中で繰り返される「ありのままの自分」。最近のブームだ。
わたしはそれを、「人と違う意見であっても、自分がそう思うのならそれでいい」ことだと解釈している。
生きていく上で「自分がどう思うか」、を大切にしている。
それは他人とは違う。だから他人には「あなたはどう思うの」と常に問うている。
そこで出てくる答えこそが「ありのままの自分」の意見であって、みんな、ありのままの自分が一つしかないと思っている。わたしもそう思ってきた。
そしてそれをさらけ出せる相手こそがパートナーであるべきだ、とずっと信じてきた。
ありのままの自分は一人。つまり「本当の自分」。それを肯定したり高め合ったりするのが結婚なんだろうなと、そんな風に思ってきた。
そして、その自分らしさを見つけるために、足掻く。人生って、それにいつ気付いてどう実行するか、早い者勝ちなのかな、と思っていた。
オードリー若林さんの作品に必ず登場する平野啓一郎さんの「分人」という考え方。
実際は、「本当の自分」なんてものが一つ存在しているわけではなく、「分人」の集合体が自分自身、つまりそれら全て「本当の自分」である、という考え方。この作品は、自分という存在が揺らいでいる人の、救いになる一冊だ。
嫌いな分人も、好きな分人も、自分自身。好きな分人を足がかりに生きていくこと。例えば、虐められている分人だけが、自分の全てじゃない。虐められていない分人だっているはずだ。
「本当の自分」が一人しかいない、という考え方は、人を苦しめる。平野さんは、リストカットや自殺を「分人」の視点から解説する。
(P59)自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、「自己像(セルフイメージ)」を殺そうとしているのだと。(中略)今の自分では生き辛いから、そのイメージを否定して、違う自己像を獲得しようとしている。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の表れではないのか。もし「この自分」ではなく、「別の自分」になろうとしているのであれば、自分は複数なければならない。自傷行為は言わば、アイデンティティの整理なのではないか?そして、もし、たった一つの「本当の自分」しかないとするなら、自己イメージの否定は自己そのものの否定に繋がってしまう。
自殺については、以下のように解説する。
(P125)人間が抱えきれる分人の数は限られている。学校で孤独だとしても、何も級友全員から好かれなければならない理由はない。友達が三人しかいないと思うか、好きな分人が三つもあると思うかは考え方次第だ。(中略)そうして好きな分人が一つずつ増えていくなら、私たちは、その分、自分に肯定的になれる。否定したい自己があったとしても、自分の全体を自殺というかたちで消滅させることを考えずに済むからだ。
2020年、芸能界では多くの人が自ら命を絶って、特に春馬くんの死は本当にショックで、未だに思い出すと落ち込んでしまう。春馬くんも、他に命を絶った方も、否定したい自己の比率が、自分の全てを占めてしまったんだろうか。自己イメージは、一つじゃなくていい、否定したい自己は複数あっていい。でもたぶん、芸能界はきっとそんな世界じゃない。
また、薬物や不倫も、芸能人に発覚すると、ものすごい勢いで批判される。それはたぶん、芸能人とは別の分人が、芸能界での生活を成り立たせるためにしたことだと思う。しかし、不倫をした分人を責めるのではなく、その人全体を否定した報道がされる。どんなに家族を大事にした分人がいても、薬物をしていた分人がありのままのその人であるかのような報道がなされる。
分人主義は不倫を容認する考え方だ。今は時代として複数の仕事、コミュニティを持つ時代。不倫を叩きたがるのも絶対的に愛するその人を全体として見ているからであって、分人主義の考え方にのっとって考えたらそれは妻の前での夫、子の前での父である。だとしたら愛人の前での分人がいてもおかしくない、ということになる。なんだかいよいよ血縁とは別の視点から、家族の捉え方が変わってくるんじゃないかなって気がしている。
現代人が囚われている「本当の自分」という幻想。それに苦しむ人を救ってくれる言葉が数多く記されている。
平野啓一郎さんの作品にすごく興味がわいて、むっちゃ本棚登録した。
わたしは今まで彼の作品は読んでこなかったけれど、どのような想いでその作品を描いたかがわかるので、平野啓一郎作品の入門書としてもベストな一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「本当の自分はひとつじゃない。」
オビに書いてあるこの一言が、この本の主題だ。
あなたはひとつではない。いくつものあなたがいる。
…このように書くと、「えっ、多重人格?解離性障害?」とびっくりされる方もいるかもしれないが、多重人格者でなくても、人は多面性を持つものだ。
対人関係ごとに、様々な顔を使い分けている。そして、その顔全てが「本当の自分」なのだ。
本書は「分人」という言葉を使い、この概念を説明する。
そして核となる本当の自分、つまり「自我」はひとつとする、人を「個人」と捉える一般的な考え方の危うさを説く。
なかなか興味深く、示唆に富んだ内容だ。
ぜひ、「私とは何か」悩んでいる人に読んでほしい。
救いとなる考え方が散りばめられている。
生き方の指針にもなるだろう。 -
この本は前々から興味があり、読みたいと思っていた。Kindle Unlimitedの読み放題に追加されていたことを機に読みました。
私は小学生の頃から、会話する人それぞれによってその時々に、違う自分がいることに気が付いていた。多面的である自分を俯瞰した時に、本当の自分はどれなのだろうと思うこともあったし、会話がぎこちなくなった後に、あれは本当の自分じゃないのになぁなんて思っていた。
引用
恣意的に「本当の姿」だと決められてしまうことに、私たちは抵抗を感じる。だからつい、アレはあの場だけの表面的な自分だったと考えそうになる。そういうキャラを演じ、仮面をかぶっていただけだ。「本当の自分」は、もっと色んな音楽が好きなのだ、もっとITについて詳しいのだ、と。
私たちは、他人から本質を規定されて、自分を矮小化されることが不安なのである。
重要ポイント
どこかに「本当の自分」があると考えようとするが、すべての分人は「本当の自分」であると肯定すること。
しかし私たちは、そう考えることが出来ずに、唯一無二の本当の自分を見つけようとする。だから歯痒い。
引きこもりと自分探しの旅、両方経験した。
どちらも本当の自分、今までと違う自分を見つけるためと背負い生きながら、本当は社会から逃げていただけなのかもしれない。しかしそれもまた、自分と、肯定することが大事。全ての分人は本当の自分ということを認めれば、少し楽に生きれるかもね。 -
十代の頃、自分は二重人格なのではないかと悩んだことがある。
家族といるときの自分と学校にいる自分があまりにも乖離しているように感じたからだ。
今振り返ると、自分が考えるほど二つの自分は遠くなかったようにも思うが、当時は外の世界に対して自分を偽っている、という罪悪感のようなものをずっと持ち続けていた。
本書では、作家の平野啓一郎さんが私の青春期の悩みを「分人」という理念で説明してくれている。「個人」は分けられないけれど、「分人」は対人関係ごとに構成される。そしてその人の個性は複数の分人の構成比率によって決定される、というのである。
分人は、人と人との反復的な関わりから、だいたい3つのステップによって発生していく、と平野氏はいう。
最初は、よく知らない人と当たり障りのない世間話ができるほどの「社会的な分人」である。そこから、学校や会社、サークルといったより狭いカテゴリーに限定された社会的な分人として、「グループ向けの分人」が形成される。最後に、お互いのことをわかってきた相手に対してより具体化した分人が形成される。
これは、さまざまな人やグループと接する経験を重ねてきた大人ならすんなりと理解できる説明ではないだろうか。そして、まだ対人関係の経験の少ない若者諸君においては、実感できずともこの考え方を頭の隅に置いておいてほしいな、と思う。「偽りの自分」なんかいないし、ある分人では人間関係がうまくいかなくても、別の分人で素敵な人間関係が形成できるかもしれない。
平野氏は、小説の中で分人の概念を反映させてきたそうだ。これまで『ドーン』や『マチネの終わりに』など、平野氏の小説を何冊か読んできたが、分人という概念を意識して読んだことはなかったので、改めて小説を読み直してみたい。 -
なるほど面白くて為になった。
この手の本はやっぱり読み進めるのが遅くて居眠りばっかり…悲
"個人"ではなく"文人"という考え方で、生きやすくなる人は増えると思う。
私も大分考えが変わった。
生きにくいと感じてる人にお勧めしたい1冊。 -
高校の現代文の教科書に載っていて、授業でもとりあつかった作品を最初から最後まで読んでみた。高校のときに教科書で読んだときにはほとんど理解できなかったが、本書のなかでの分人の定義を十分に理解したうえで、読み進めると平野さんが言いたいことがよく理解できたと感じる。
接する人によって自分というキャラクターは違うが、それを意識して人と接することなどほとんどないのが当たり前のこと。それゆえに、自分って何者なのか、どれが本当の自分なのか分からなくなってしまう。この分人の存在を自分の中に認めることにより、人間関係やアイデンティティの問題や悩みは少しは解決されるのではないかと考える。
自分を構成する多数の分人のなかで、自分がある誰かと接しているときの好きな分人をなるべく多く占めるようにするという考え方は素晴らしいと感じた。
また、本書のなかの説明や具体例でたびたび出てきた平野さんの小説も興味があるので読んでみたい。一冊も読んだことがないから、どんな作品なのか気になった。 -
一個人同士の関係にて生まれる自分。
個人から「分人」へ
とてもおもしろい考え方だと思った。
個人よりも一回り小さな単位を導入し、分人とする。
individual(個人)の語源は、もうこれ以上分けられないという意味。
inを取った、dividualは、(分ける)という意味。
私達は、コミュニケーションをとる相手によって違う自分がいる。
両親の前での自分。学校での自分。職場での自分。
それぞれの違う自分のことを分人という。
本当の自分(個人)という認識は腑に落ちにくい。
分人化して考えると、彼の前での私はリラックスしていて気分がいいとか、彼女の前での私はいつも緊張していてイライラしているとか。
でも自分を作っている訳ではなく、それらすべての分人の集合体で私(個人)なのである。
「誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。」
比較的新しい友人と話していて、自分に対する評価が思ったより高めの時、「自分は本当はそんな人じゃないのに」と感じる。
と同時に少し嬉しい気持ちにもなるが、とてもじゃないが素直に喜べない。
理由は2つあり、1つはこのままの評価を継続できないということ。2つめは幼い頃からの積み重ねである私自身が散々周りから言われてきた評価との相違であるということ。
私はその評価を後者に戻そうとしてしまう相手には、比較的心を許している。(深く考えたことはなかったのだが、その傾向がある事に気付いた。)
相手との関係がぎくしゃくしているということは、お互いの分人がそのような対応をしているということなので、半分は私の出方次第という解釈をした。
自分がバリアを張っていては相手も感じ取る。
改めてそこだけを切り取って考えてみると今まで漠然と雰囲気で解決しようとしてきた事がどんなに難易度の高いスキルだったことか。
「分人」という考え方で腑に落ちたのだ。
著者の作品は一冊だけしか読んだ事がなかった。
「マチネの終わりに」は、私にとっては苦手な小説だった。
このような恋愛が数多く存在するのか。知的な世界観で私の性格上縁遠いかも。
分人はそれぞれの恋愛をすることができるそうだが、それは非常に納得できる。笑
たくさんの分人がいることは深い喜びであり、本当の自分はこうと決めなくても良いと言われたことでなんだか心がとても落ち着いた。