- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062882095
作品紹介・あらすじ
詩は難解で意味不明? 何を言いたいのかわからない?
いや、だからこそ、実はおもしろいんです。
そもそも詩とは何か。
詩を読むとはどういうことか。
「技巧」や「作者の思い」などよりももっと奥にある詩の本質とは?
谷川俊太郎、安東次男から川田絢音、井坂洋子まで、日本語表現の最尖端を紹介しながら、詩を味わうためのヒントを明かす。
初めての人も、どこかで詩とはぐれた人も、ことばの魔法に誘う一冊です。
「詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。」(本文より)
感想・レビュー・書評
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・大人の一般常識や実感の積み重ねでわかる詩と、幻の時としての未来と響き合う詩。後者は少年少女をも魅了する。
・授業でいう「作者の伝えたかったこと」がなくてもいい!
・詩が先で体験があと。
・読み終わらないことの幸福。
・「あらすじ」を言うことができないこと。
・「まだわからないでいる」権利、「わからない状態のたいせつさ」
・意味ではなく、音でもなく、図像。たとえば、各行のおわりの文字を線でつないだときの曲線。
・音読してくれるな、という指示。
・読み手の眼を遅くする。
・テクニックを目標としない現代絵画、現代音楽、現代詩の登場で孤独なテロリストが増加。
・外国で母語に頼れない孤独。
・常に変転する自分。不変の自分という有害なフィクション。
・詩とは、こうした高次元の知覚や思考の「予告篇」のようなものだ。
うすうす感じていたこと、初めて触れる考え、もりだくさん。
また全体を通じて少女から大人の女性へと読む題材も読み方も変わっていく。
詩論という形式の成長物語でもあるところが感動的。
そして何よりも、
「バベルの図書館」に匹敵する入沢康夫「「木の船」のための素描」、
ずたずた改行の安東次男「薄明について」、
に触れられただけでも価値は十分。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
なかなか読み応えがある。
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国語の授業の教材には絶対なり得ないような現代詩、たとえばここで採りあげられている安藤次男、川田絢音。
抽象画と同じようなもんだと言われると納得できた。言葉を言葉として解釈しない。いかなる哲学的思考でも捉えきれないのが現代詩。
世の中何でもかんでも批評したり分析したりできるものばかりではない。謙虚な気持ちを思い起こさせてくれるのも現代詩である。 -
以前、Twitterでとある詩が話題になったことから影響を受け、何か詩に関する本を読んでみたいと思い手にとった。学校の授業ぐらいでしか詩に触れてこなかったがが、そんな詩に馴染みのない私でも読みやすい文章だった。
この前読んだ本にも出てきたキースのネガティヴ・ケイパビリティという言葉が出てきて少し嬉しかった。わからない部分はわからないままに素直に受け入れて、全てがわかるはずがないと謙虚にわからないことを楽しむ視点を大切にしたいと思った。
詩の読み方ではなく、自分なりの楽しみ方が書かれておりこのタイミングで読めてよかったと思う。これからは詩を楽しんでみたいと思った。
また、人間は変わりゆくものという筆者の人間観や筆者が歩んできた経験から語られる言葉も興味深かった。 -
図書館より。
解説やただの評論ではなく、著者(詩人)の目線での詩とのふれあいの思い出が語られているのがよい。 -
例えば、
水を
ください。
と、
水
をください。
の違いが、
読んだ、
あとに、
わ、
かります。 -
501
人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。
渡邊十絲子(わたなべ としこ)
1964年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科在学中、鈴木志郎康ゼミで詩を書きはじめる。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞受賞。詩集『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)、『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。書評集『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)。エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)。ことばによる自己表現の入門書『ことばを深呼吸』(川口晴美との共著、東京書籍)。本を読み書評を書くこと、スポーツ観戦、公営ギャンブルに人生の時間と情熱をささげる。月刊専門誌「競艇マクール」のコラムは連載14年め。
歌もそうだ。一分の隙もなく楽譜に指示されているとおりに歌を歌えたとしても、 それが人のこころを動かすことに直接はつながらない。たとえ技巧はへたであっても、楽譜どおりに歌えていなくても、その「理想とのずれ」には意味がある。息継ぎやため息のようなノイズにさえ魅力はある。歌っているのはたしかに人間であって、 「こう歌おうというプランの機械的な遠成」ではないことを感じとらせるからだ。
人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。
失敗は失敗だけれども「こんなところまで攻めることができた」。それを感じて、 われわれ人間は芸術に感動するのではないか。その感動は、一流のスポーツ競技者を 見るときの感動とまったくおなじものであると、わたしには感じられる。 詩もそんな試みであってほしかった。あらかじめ伝えたい内容が決まっていて、それを過不足なく読む人にわからせるのは、詩の使命ではないと思った。
ある詩が、そのときその人にとって「わかりやすい」ということはつまり、あたまやこころのなかの既知の番地に整理しやすいということである。
なるべく道を一直線にして、寄り道や袋小路を排除し、誰でもおなじ道をまちがいなくたどれるようにマニュアル化する。そういう行為を、われわれは詩の外であまりにもたくさんこなしてきた。ビジネスの場でも、教育の場でも、あるいは家事のようなことにおいてさえ、効率を目標にしてきた。それは一見、むだをはぶいて経済的でもあり、人間に余暇をもたらすようにも見えたかもしれない。しかし、いまやわれわれは効率のあじけなさを知り、効率を最優先にした行動がいかに人間的なこころをだめにするかも知っている。
わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。
詩とは、あらすじを言うことのできないもの。詩とは、伝遠のためのことばではないもの。「なにかでないもの」という言い方ならばできそうだが、「詩とはこれだ」とひとことで言うことはむずかしい。 詩は、雨上がりの路面にできた水たまりや、ベランダから見える鉄塔や、すがたは 見えないけれどもとおくから重い音だけひびかせてくる飛行機や、あした切ろうと 思って台所に置いてあるフランスパンや、そういうものと似ている。
数学者が難問にとりくんでいる最中に、非常にシンプルで美しい式を得たら、かれはその正しさを確信するにちがいない。 おなじように詩人は、詩を書き、推敲し、詩句をひねりまわしている最中に思いが けない美しいことばを得たら、その詩の正しさを確信するのである。 -
現代詩を読むのは「わからない」を楽しむということ。「わからない」と「わかる」とのあいだを往復しながら、未来に向かってひらかれた言葉を丁寧に獲得していきたい。
わたしが好きな詩人の名前を挙げると女性ばかりになる。正直、男性の書く詩は苦手で、現代詩文庫だと五人のうち三人は最後まで読み通せない。レース編みのような繊細さが足りないとか、言葉が物理的な力で押してくるようで重くて疲弊する、というふうに感覚的にしかその理由を説明できなかった。
本書はそれに明確な答えを示してくれた。焦点が一ヶ所に定まっているかいないかの差。