宇宙はなぜこのような宇宙なのか――人間原理と宇宙論 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882194

作品紹介・あらすじ

科学書の名翻訳で知られる青木薫、初の書き下ろし!

「この宇宙は人間が存在するようにできている!?」
かつて科学者の大反発を浴びた異端の考え方は、なぜ今、支持を広げているのか。

最新宇宙論の世界で起きつつあるパラダイム・シフトの全貌をわかりやすく語る、
一気読み必至のスリリングな科学ミステリー。


【目 次】

第1章 天の動きを人間はどう見てきたか
第2章 天の全体像を人間はどう考えてきたか
第3章 宇宙はなぜこのような宇宙なのか
第4章 宇宙はわれわれの宇宙だけではない
第5章 人間原理のひもランドスケープ
終 章 グレーの階調の中の科学

感想・レビュー・書評

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  •  「人間原理」なんて当たり前じゃないか、と思っていたが、僕はどうやら「弱い人間原理」と「強い人間原理」を区別して理解できていなかったようだ。
     人間原理というのは、20世紀半ばにケンブリッジ大学の物理学者ブランドン・カーターによって提案された、宇宙物理における原理である。その背景には、物理定数の様々な組み合わせから10^40という無次元量が見られる「コインシデンス」があった。些か数秘術じみている気もするが、それはともかく、この理由を考えていくうちに生まれたのが人間原理であった。
     人間原理には、弱い人間原理と強い人間原理の二つがある。前者は「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」(三浦俊彦『論理学入門』p.153)というもので、後者は「宇宙は、その歴史のどこかにおいて観測者を創り出すことを許すようなものでなければならない」(同、本書には一般的な形の人間原理のステートメントが書かれていなかったので、三浦から引いた)というものである。
     簡単に言えば、前者はこの宇宙に観測者(人間)がいるという事実から物理定数の値がなぜそのような値なのかを説明する立場である。例えば、もしも重力の値がこの宇宙での値より大きければ星はグシャッと潰れ、人間どころか如何なる生命も生まれないだろう。一方で、重力が弱くても、宇宙にあるのはガスばかりで生命が生まれそうにない。弱い人間原理は、現代の言葉で言えば「観測選択効果」の一種として説明される。「実験家ならば誰しも、観測選択効果のことをつねに念頭に置いている。例としてよく持ち出されるのは、湖に網を打って魚を捕るという話だろう。もしも網目が直径5センチもあるような粗い網だったなら、小さな魚は網にかからず、漁師は、「この湖には胴回りの直径が5センチ以下の小さな魚はいないようだ」と結論してしまうかもしれない。一方、もしも直径5ミリほどの目の細かい網を使ったとしたら、メダカのような小さな魚もどっさりかかるだろう。どんな網を使うかによって、見えるものがちがってくるのである。」(p.151)言ってみれば当たり前のことで、実際殆どの物理学者は弱い人間原理に関しては問題にすらしていないそうだ。
     一方で、如何にも眉唾で、発表当時多くの物理学者から反発を受けたのが強い人間原理である。というのも、その主張から、人間中心主義、或いは「目的論」が透けて見えるからだ。勿論それはカーターも分かっていて、そこで彼はこう述べた。「物理定数の値や初期条件が異なるような、無数の宇宙を考えてみることには、原理的には何の問題もない」(p.159)これが、人間原理におけるマルチバースである(世界アンサンブル、多宇宙ヴィジョンとも)。
     マルチバースという概念がまともに取り上げられるようになるには、宇宙論・素粒子論の発展を待たねばならなかった。宇宙論ではインフレーション+ビッグバン仮説が有力視されるようになっているが、この理論からはマルチバースという考えが自然に出てくる(この見方では、マルチバースではなくメガバースと呼ぶ方がより適当らしい)。また、素粒子論において究極の理論の最有力候補であるひも理論では宇宙は11次元であるとされており、宇宙のあり得る可能性は膨大なものとなる。
     宇宙(universe)が一つのものだという考えの下では、強い人間原理は確かに目的論に堕してしまうが、宇宙が複数(それも膨大な数が)存在する事を認めてしまえば、強い人間原理も単なる観測選択効果となるのである。
     ただ、本書でも指摘されていることだが、他の宇宙というのはこの宇宙から観測不可能であり、その存在を認めることは「検証可能性」を大前提とする近代科学と呼べるのかという疑問がある。マクロ(インフレーションモデル)とミクロ(ひも理論)から、ともにマルチバースの可能性が示唆されているのだから、気持ちとしては、非常にありそうだと思えるのだが、未来永劫存在が確認できないものを仮定して良いのかというところにやはり抵抗がある。今よりもっと研究が進み、マルチバースの(間接的な)裏付けが続々と上がるようになれば、例えばブラックホールやクォークのように、いつかはマルチバースなんて当たり前になるのだろうか?

  • 青木薫氏の初の著書ということで話題になっているようだ.本格的な内容は最近の新書の中ではかなり硬派な部類に属するだろう.

    カーターの強い人間原理(p.155)とは

    宇宙は(それゆえ宇宙の性質を決めている物理定数は),
    ある時点で観測者を想像することを見込むような性質を持っていなければならない.デカルトをもじって言えば,
    『我思う.ゆえに世界はかくの如く存在する』のである.

    ということ.ストア学派の目的論の再生のように考えられた人間原理が,ビッグバン・インフレーションモデルから多宇宙ヴィジョンの誕生という宇宙像の変遷の中で,観測選択効果として受け入れられるようになっている.

    というのが内容.

    前半のギリシャ以来の宇宙観の解説が長い,そして少々退屈.先に進むと必要だというのはわかってくるのだが.人間原理が登場するのは半ばより後で,それ以後の展開ははやい.そしてゆっくり読まないと難しい.

    こうなると物理と哲学の距離はかなり近そうだ.大変だろうな.

  • これは面白い!!
    今年度読んだベストは「量子革命」と今のところ思っているが、これにも匹敵する面白さ。しかもなんと、その訳者の青木薫さんの、本書は書き下ろしだったとは。
    「人間原理」という言葉を最初に知ったのは、グレック・イーガンの傑作SF「万物理論」だった。てっきりイーガンのフィクションだと思っていたが、後で実在のマジメな学問だと知り驚いた。
    その後読んだ宇宙論や素粒子物理学の啓蒙書で、時々、簡単な言及には出会ったが、詳細な解説を読んだ事が無く、書籍がないかなと思っていた。
    学説の成立過程の歴史を丹念に追っており、「量子革命」と同様、その場にいあわせたようなスリリングな知的興奮が味わえる。この記述スタイルは、青木氏の持ち味なのかな。
    しかしなんですね。理論物理の最先端が、このような「途方も無い」考えに到達しマジメに議論・研究されているとは、現実がSFを超えたような感じというか、この世界は知り得ないことがたくさんあるというか、そのビジョンに呆然とするばかり。
    でもまあ、これが講談社のブルーバックスではなくて、現代新書から出版されたというのも、ちょっと意味シンかな。学説の内容から、まあそうなのかな、という感じはします。

  • 青木薫さんと言えばサイモン・シンの暗号解読やフェルマーの最終定理、マーシャ・ガッセンの完全なる証明などなど。サイエンスライターの翻訳者としては指名買いして間違いない。そんな青木さんが10年がかりで書き下ろしたのが本書で、テーマは人間原理と言う。

    物理学者の言う所の言う所の人間原理とは「我思う故にこの世界はある」とでも言ったところで観測者(人間)のために世界はこのように作られていると言う概念が含まれている。いわば神の摂理でこうなったと言うものだ。物理学者としてはこれは受け入れられない。一方でもっと簡単な説明もある。「たまたま」世界はこうなった、だ。これも物理学者は受け入れられない。宇宙を理論的に解明しようとした結果が神頼みでもたまたまでもそれでは学者の出番が無いのだ。

    科学が神様から離れたのは一つはコペルニクスの地動説であり、もう一つはこの本のテーマではないがダーウィンの進化論だ。コペルニクス自身は宇宙は人間のために作られたと考えており神を否定しているわけではなかった様だが。また進化論に関してはインテリジェント・デザインと言う進化論を組み込みながらもそれも含めて偉大なる知性(わざわざ神という言葉をはずしている)が設計したと言う考えも出て来ている。科学者の中にも宗教はそれはそれと両立するひとと、無神論者のいずれもいるようではある。

    時代は下がり宇宙のはじまりがビッグ・バンであることが次第にわかってくると神の関与が賦活してくる。「光あれ」だ。しかし、キリスト教圏でビッグ・バン理論が受け入れやすかったかと言うとそうでもなく、物理学者は科学に宗教を持ち込むものとして攻撃した。結局は様々な実験結果からビッグ・バン理論は主流の学説になって来ている。

    本書の本来のテーマは例えば光速はなぜこの速度なのかなど様々な物理学の定数や粒子の大きさや質量がどうやって決まったかと言うことである。例えば重力がもう少し強い力であれば宇宙は膨張せずすぐに収縮してしまっていたかもしれない。逆に重力がもう少し弱ければ膨張はするものの星間物質は集まらず、星どころか重い原子すら生まれなかったに違いない。たまたま宇宙がこのように出来たから人類は今ここにいると言うことは言えるわけだ。そこで人間原理(神の摂理とでも言った方がイメージしやすいか?)が出てくるのだが人間原理を拒否し、また「たまたま」でもないとするとビッグ・バンから始まり膨張する宇宙はいくつもあり、違う宇宙では違う定数に支配されているという説(多宇宙ヴィジョン)が支持されて来ているらしい。

    「起こりうることはかならず起こる、何度でも起こる。」なんだか宇宙はマーフィーの法則に支配されているような気になる。

    科学で証明できないことはまだまだあると言うのは非常に正しい。い不確定性原理自体がそのようなものでミクロな領域では位置と速度は一歩を確定するともう一方は全くわからなくなる。確率的にしかわからないのだ。宇宙のなぞも量子論も理論と実証が協力してもわからないことはまだまだあり、ビッグ・バン仮説もいずれはどこかに追いやられるかもしれない。人間原理はいろんなモデルを考えるときに反証すべき相手として置いとけばいいんじゃないかと思う。

  • この宇宙が特別なのかそれとも普通にある宇宙の一つなのか。

     物理学と神の関係、そこから派生して「人間原理」と物理学の関係を詳説します。

     欧米の物理学者は「この世は神がつくりたもうた」という発想からビッグバン仮説などを考えだした(すくなくとも違和感はないだろう)というのは日本人の誤解。欧米人の物理学者は説明のつかないことを異常に嫌い、物理学は純粋完璧な学問、という位置づけにしたいのだそうです。

     人間原理とは、「この宇宙は人間が存在するのに条件が合いすぎている」ということから人間を存在させようとする何かが宇宙の生成に影響している、という考え方を言います。

     この本の中でふーん、と思ったのは、ビッグバン後、インフレーションに揺らぎ(むら)があった、という部分。インフレーションは宇宙発生後10のマイナス36乗秒後に始まり同35乗秒後に終了したとされます。もし均一に宇宙が拡大したのなら今の宇宙も均一で銀河や恒星が発生することができず、必然的に人間も存在できません。インフレーションにはごくわずから揺らぎがあったはず、という仮説が出され、その後インフレーションの残渣である宇宙背景放射にごくわずかなむらがあることが立証され、この揺らぎは証明された…と。

     別の本で読んだ対称性の破れと同じように興味深い現象です。

     この世を神が作った、という話と矛盾するからです。完璧な神が作ったこの宇宙は完璧なはず。それが「対称性の破れ」や「インフレーションの揺らぎ」の結果となると…?

     非常に面白い本でした。

  • 非常に分かりやすい!
    分かりやすいんだけど、相変わらず「宇宙」というものは分からない。

    人間原理というおよそ科学的ではないと思われていた考え方により、宇宙の起源・有様を考える。

    なぜこのような宇宙なのか=たまたま人間が存在しているこの宇宙を、人間が観測しているから
    言われてみれば、まぁそうかもしれないと納得。
    つまり、宇宙はユニバースではなくマルチバースでありメガバースだった。
    たくさんある宇宙の中の1つの宇宙たまたま我々人間が存在しているだけ。

    現在では証明不可能のようだけど、いつの日か科学者が明らかにしてくれる日が来るだろう。
    ロマンだ!

  • サイエンス・ノンフィクションの翻訳と言えば、今は右に出るものがいないのではと思われる青木薫さん。堀江貴文も『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた そしたら意外に役立った』の中で、「彼女が訳しているものであれば即買いしてもいいくらいだ」と評している。自分もそう思う。堀江さんがそう言ったからというのではなく、自分自身も2010年の段階で『完全なる証明』を読んだレビューで「翻訳者の青木薫さん、サイモン・シンの一連の著作も翻訳していますが、読みやすくていいですね。」ときちんと書いている。科学ものの翻訳は重要。思わず翻訳者の名前を書評に出してしまうくらい、他と比べて違うのだ。

    その彼女がオリジナルの著作を出すというからには、そこには彼女が世に出したいことがきっとあるはずだ。その答えは、疑問形のタイトルに集約されている。つまり「人間原理」だ。

    科学的説明の放棄とも考えられてきた「人間原理」が受け入れられつつあるということなのだが、その背景として、多宇宙論が近年その正当性を増してきているという現状がある。多宇宙論については、例えば、リサ・ランドールの『ワープする宇宙』やブライアン・グリーンの『隠れていた宇宙』などの優れた一般向けの本があるが、それらの本を読んでも、どうやら「多宇宙ヴィジョンはほとんどデフォルト」というのがこの世界のコンセンサスのようだ。著者も言うように、「この十年間に人間原理をめぐる風向きは変わった」のである。無限にも近い多宇宙の存在があるのだから、われわれ観測者である人間が住む「この」宇宙において各種のパラメータがまさにこの値であることが説明可能なのである。

    その上で、「多宇宙ヴィジョンは科学なのか」という正当な疑問が出てくる。つまり反証可能性(すなわち観測可能性)がないものが科学的と言えるのかという健全な疑問だ。それでも、素粒子論が「宇宙がこのような宇宙であること」を説明してくれない以上、多宇宙を前提とした「人間原理」が妥当性をもっているように見える。

    「もし百年後の人びとが振り返ってみたとすれば、われわれの生きるこの時代を、宇宙像に大きなパラダイムの転換が起った時期と位置づけるにちがいない」と言う。そして、その知識の更新による「知のドラマ」は現在進行中なのだ。その知的高揚感が著者がこの本を(最初のきっかけから十年もかかった後でも)書き上げた理由だろう。

    青木さんが翻訳したローレンス・クラウス『宇宙が始まる前には何があったのか?』も読んでみたい (kindle化待ち)。
    青木さん、これからも素敵な本の翻訳もよろしくお願いします。

  • 「宇宙は本当にひとつなのか」を読み終え、もうちょっと最近の宇宙論について知識を補充したくて最近出たこの本も読んでみました。
    こちらの方は、天文学史を中心とした記述ですが、後半はやはり現代の「多元宇宙論」に関する記述で、合わせて読むことでようやくいわんとすることがちょっとわかってきた気がします。
    結局やはり昔からSFではよく出てきてた「パラレルワールド」というものが、現代物理学ではどうやら本当に存在する、そうでないとむしろ現在の宇宙のことをうまく説明できないということになってきているようです。で、今の宇宙というのは、我々が存在しうるような条件の整ったものだから我々が現に存在している、そうでない宇宙には我々は存在し得ないので存在していない、と。
    言われてみると当たり前の論理ですが、あとは、それを何らかの観測上の証拠から証明できる可能性があるのかどうか、また、ここから何か有意義な知見の広がりが得られるのかどうか、ということなのでしょう。
    ともあれ、現代物理学というのは、かえって宗教に近づいてきているようで、おもしろく思いました。

  • 人間原理的な考え方は、まだ科学を十分に学んでいない小学生ぐらいの考え方だと思っていた。しかし、その人間原理が常に最先端の宇宙論の中で見え隠れしているという構図が面白い。

    著者の青木薫氏は数々のサイエンス・ノンフィクションを翻訳していて、幅広い知識と分かり易い説明が特徴なので、本書もすんなりと読み進める事が出来る。

    標準理論での限界や、インフレーション理論とひも理論のオーダーが全く異なる両極端から多宇宙ヴィジョンがでてくる件は非常に興味深い。

    現在測定可能な宇宙と、多宇宙ヴィジョンが相容れない事も事実であろうし、我々が生きている間に検証が行われる可能性少ないだろうが、固定概念にとらわれず想像力を働かせる事により宇宙誕生の全体像が説明出来ると考えるだけでワクワクする。

    「確実に正しい事などない」という疑問を持つ事が科学を進歩させる。
    人間原理にもとづく宇宙論は、我々信じている科学がまだまだ発展途上であることを教えてくれているということではないか。
    また、多宇宙ヴィジョンが間違っていたとしても実生活にはなんの支障もないであろう。

    最先端の科学的アプローチの方法そのものを楽しめるのだから幸せな時代だと言える。

  •  人間原理とはなにか。「宇宙がなぜこのような宇宙であるのかを理解するためには、われわれ人間が現に存在しているという事実を考慮に入れなければならない」という考え方のこと。作者は古代メソポタミアまでさかのぼり、人間原理とはなにか、なぜそんな考え方が生まれたのか、そしてその教訓は何であるのかをあきらかにしていく。
     なぜ歴史をたどることが必要なのか? 宇宙論の歴史が、神が世界をどうつくったのか、そのなかで地球がどのような地位にあるのかという問いへの答えとして進化してきたからだ。たとえば本書では地動説を打ち出したコペルニクスが「人間を宇宙の中心から追い出した」犯人ではなく、「人間は特別な存在」だと思っていたことが明かされる。キリスト教的世界観では、天に近いほうがよい場所であり、中心=下の方は地獄であって、コペルニクスは地球をよりよい場所に位置づけたのだ、なんてことは本書を読んで初めて知ったことだ。
     第2章から、天の全体像を人間はどう考えてきたのか、宇宙論がなぜ出てきたのかと話がすすんでいく。ニュートンの宇宙では、重力の作用により、宇宙がそのうちひとかたまりになってしまうこと。アインシュタインの宇宙で「宇宙が空間的に閉じている」なら「地の果て」が存在しなくなることになり、ひとつの回答を得たこと。ところがそうした静的な宇宙観を破るビッグバン・モデルが徐々に力を得ていったこと。そうした背景のもと、「人間原理」がなにを提起したのかが描かれる。
    「宇宙がなぜこのような宇宙であるのか」という問いは、「各種の物理定数がなぜこのような値を取るのか」と言い換えることができる。しかし、「人間原理」はその問いに意味があるのかどうかを問題にする爆弾のようなものなのだ。
     サイモン・シンの一連の著作などの翻訳で、すばらしい仕事をされている著者。自分で書いている本書も、訳文以上に読みやすく、一度で理解できて、さらに読者をぐいぐいと先に引っ張っていく力強さがある文章で書かれている。新書1冊で、これだけまとまりのある、内容のある宇宙論が読めるのは幸せなことだ。

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著者プロフィール

(あおき・かおる)
翻訳家。1956年、山形県生まれ。Ph.D.(物理学)。著書に『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(講談社現代新書、2013)。訳書に、S・シン『フェルマーの最終定理』(新潮文庫、2006)、ハイゼンベルク他『物理学に生きて』(ちくま学芸文庫、2008)、J・スタチェル編『アインシュタイン論文選「奇跡の年」の5論文』(ちくま学芸文庫、2011)など多数。2007年、数学普及への貢献により日本数学会出版賞受賞。
*ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。

「2023年 『科学革命の構造 新版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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