仏教の真実 (講談社現代新書)

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  • 講談社 (2013年8月13日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784062882200

作品紹介・あらすじ

釈迦がほんとうに伝えたかったこと。●釈迦は霊魂の存在をいかにとらえたか?●「人生は苦」とはどういうことか?●往生、仏滅、渡世の本来の意味とは? 神と仏の違いとは? 愛とは、苦とは、煩悩とは? 現代日本で常識のように考えられている思想、習慣、言葉の本来の意味を平易に解説。(講談社現代新書)


釈迦がほんとうに伝えたかったこと
●釈迦は霊魂の存在をいかにとらえたか?
●「人生は苦」とはどういうことか?
●往生、仏滅、渡世の本来の意味とは?

神と仏の違いとは? 愛とは、苦とは、煩悩とは?
現代日本で常識のように考えられている思想、習慣、言葉の本来の意味を平易に解説。

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

釈迦が伝えた教えを深く掘り下げ、現代における仏教の本質を探求する内容が魅力です。特に、煩悩の三毒である貪り、怒り、愚かさについての解説は、心の在り方を見直すきっかけを与えてくれます。また、仏教の哲学的...

感想・レビュー・書評

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    田上太秀
    昭和10(1935)年生まれ。東京大学大学院卒。駒澤大学教授、同副学長、駒澤大学禅研究所所長を歴任。 駒澤大学名誉教授・文学博士。 [主な著書] 『仏典のことば さとりへの十二講』『ブッダのいいたかったこと』『道元の考えたこと』『ブッダ最後のことば』(以上、講談社学術文庫)、『ブッダの人生哲学』(講談社選書メチエ)、『仏教の真実』(講談社現代新書)、『ブッダが語る人間関係の智慧 六方礼経を読む』『仏教と女性』(以上、東京書籍)、『釈尊の譬喩と説話』『人間ブッダ』(以上、第三文明社レグルス文庫)、『迷いから悟りへの十二章』『ブッダの最期のことば 涅槃経を読む』(以上、NHK出版)、『仏性とは何か』(以上、大蔵出版)、『道元』のこころ(大法輪閣)、ほか多数。

    仏教の真実 (講談社現代新書)
    by 田上太秀
    仏教は神を立てない

    一般にどんな宗教も神信心をするものと考えている人が多い。たしかにその考えはまちがっていない。なぜなら多くの宗教が神の存在を説いているからである。わが国では、仏教国と言われていながら神仏信仰をする人が多いので、何の抵抗もなく仏を神と一緒に信仰している。おそらくこの場合の仏は御利益をくれる神と同類に考えているのであろう。

    宗教には大きくわけて、神を立てる宗教と神を立てない宗教がある。神を立てない宗教、つまり神を信仰しない宗教は唯一、仏教だけで、その他の宗教はみな神を信仰している。この意味で考えると、無神論者と自称する人たちは、仏教を信仰している人かまったく宗教的信仰を持たない人かのいずれかである。

    仏教は神を信仰しない宗教であることをまず知ってもらいたい。そして仏教はもともと「ブッダの教えを信奉する人びと」という意味でサンスクリット語(古代インドの言語) でバウッダと呼ばれた。古くは「ブッダになる教え」が強調されていたのが、のちに「ブッダの教え」と理解されて、ブッダになることより神格化されたブッダへの祈願が強くなり、ブッダは御利益を求める対象となった。現代のわが国の仏教はその典型的な信仰の姿を呈している。

     ブッダは宗教家だけがなるのではない。いろいろな分野でもその道を究めて真理に目覚めた人はみなブッダと呼ばれるのである。  これまでわが国の仏教徒のあいだではブッダと言えば、釈迦の固有名詞のように考えられていたが、じつはブッダと呼ばれる人は弟子のなかにもいたし、釈迦の死後の仏教徒にもいた。また、紀元後に作られたお経に登場するブッダは諸仏(もろもろのブッダたち) で表されているので、数多くのブッダがいたことになる。また、仏教の出家者以外、哲学者や文学者にもブッダがいたので、ブッダという呼び名は固有名詞でなく、普通名詞であったことがわかる。

    ブッダは前にも述べたように世界の創造主ではない。実在の人間である。崇高な人格があり、人びとに尊敬された人間である。  たとえばブッダと呼ばれた釈迦はその人格と行状に応じて、いろいろな呼び名を与えられていた。彼が人間であった証拠である。

    思いつくままにあだ名を挙げてみよう。 明 行 足(学識と行いを兼ね備えた人) 調 御 丈夫(迷える人を教導するすぐれた人) 天人 師(神々と人びとを教導する先生) 世尊(世間でもっとも尊敬するに値する人) 大仙(偉大なる仙人) 人 雄、 世 雄(人類の英雄) 勝者(人を破滅に導く煩悩に勝利した人) 大医王(人の心の病を治癒する人)

    釈迦はイエスやムハンマドのように人間であった。しかし神を信仰しなかったので、神の預言者ではなかった。

    イスラム教ではとくに愛を表面には出さないが、すでに述べたように神は人びとの苦しみや難事を必ず解決してくれ、つねに力を与えてくれると教えているので、神の愛は絶大と説いている点で同じである。  インドのヒンドゥー教では信愛(バクティ) を説く。宗教色が薄い儒教の「仁の思想」でも人間愛を説いている。

    ところが、仏教では愛ということばはお経のなかで人間の悪い面を表すことばとして使われている。仏教辞典で愛の項目を調べれば、執着すること、妄執することなどの意味が見られる。つまりものに激しく執着する心を表すことばとして理解されている。釈迦は愛について、『法句経』(第二一〇~二一二偈) のなかでつぎのように述べている。

    釈迦は、愛は神から示されたものではなく、人と人との関わりのなかで人の願い、愛憎が絡まっているものと考えた。人を愛する行為は、相手をわがもののように思う心情の現れと考えたのである。しかし愛する心情には裏切りがある。したがって愛するものから憂いが生ずると説いたのである。愛が強ければ強いほど、憎しみに変わるとその憎しみも激しい。

    他宗教がいう愛の意味に代わることばは仏教では慈悲である。これは広い意味では愛と言ってもよいが、誤解を招きかねない。

    釈迦は八十歳でこの世を去った。信者が寄進したきのこ料理を食べて、激しい腹痛に襲われ、七転八倒の苦しみのなか死亡したと文献に詳しく記されている。おそらく息絶え絶えの状態であったと想像されるが、それでも最後の弟子となった遍歴行者のスバッダに臨終の説法をした。侍者のアヌルッダ尊者やアーナンダ尊者が止めるのも聞かず、力を振り絞って教えを垂れている。

    身体的にも、言語的にも、心理的にもあらゆる行いが極端でないこと、公正で中正であること、適正であり、平衡を保ったよい加減であることが「正しい」ことである。これを生活のなかで実現するには 八正道 を歩めと釈迦は説いているが、八正道の「正道」が中道である。

    釈迦は三十五歳でさとった。そのあとの最初の説法で八正道を説いた。そして八十歳で亡くなる直前の臨終の説法でも八正道を説いた。つまり四十五年間八正道を説き続けた。彼が説いた人の道は中道であったと言うべきである。八正道については後で述べる。

     己の為になるだけでは偏りである。また、他の為になるだけでも偏りである。生きているものだけに為になるのも偏りである。彼は現存するもの、そしてこれから誕生するであろうものも含めて、あらゆるものにとって為になることが「善いこと」と説いた。

    気づいた読者もあろうが、多くの宗教家は説法するときに、善いことをしよう、すなわち「一日一善」を勧めている。一方で、「悪いことをしない」を強調する例は少ない。ところが右の詩では、ブッダたちは「悪いことをしない」を先に掲げている。善いことをせよと説いてもなかなか実行できない人が多い。やはり人間は悪いことをしてしまいがちなのだろうか。そこで釈迦は悪事をしなくなれば、自然とそれは善行につながると考えて、まず「悪いことをしない」を最初に掲げたのだろうと考える。つまり悪行をしないことが善なのである。

    釈迦の戒律の内容は多くは悪行の制御である。悪行の代表として殺生、盗み、不倫、妄語を挙げている。これらの悪行は己の為にも他の為にもならず、これから生まれくるものにも為にならないのであるから、生き物を殺さない、盗まない、不倫をしない、妄語、悪口などを言わないのが戒律の基本として制された。

    アメリカは平和な国だとよく言われる。しかし住んでみると、そこには人種差別がいまだにあり、とくに黒人の生活は白人のそれより貧しく、惨めであると実感する。黒人だけでなく、有色人種と言われる人たちも白人から少なからず差別されていることは事実である。肌の色の違いによる差別が生活環境に影響をおよぼしている現実を見たとき、決して平和な国だとは言いがたい。  世界史の記録には、先住民と侵略者のあいだの紛争が多い。これも先住民への差別が原因である。現代世界でも民族間の争いはやはりお互いの差別観念によるものである。

    いのちもはかない。人の体もはかない。いのちも体もはかないゆえに、一度失ったら二度と得ることはできない。このいのちと体はありがたい(希有) と言わなければならない。ありがたいものだから尊い、と釈迦は説いている。

     前節の 五蘊 盛 苦 でわかったように、釈迦でさえ己の体から生ずる悩みは思うようにならないことを多くの説法で述べている。臨終の様子を記述した仏典には、釈迦は激しい腹痛を起こし、血がほとばしるほどの下痢に悩まされて亡くなったと記されている。これを考えると、ブッダと呼ばれた釈迦でさえ体の病を思うように制御できなかったのである。  世間は無常であるから、己の思うようにならない。無常で思うようにならないから「私」も「私のもの」もないと釈迦は説いた。 「私」がない、「私のもの」がないという意味をもう少し説明しよう。

    シュラマナたちのなかにアジタという唯物論者がいた。彼はインドではじめて唯物論を唱えた人である。彼はつぎのように語っている。  人は地・水・火・風の四つの要素から構成されている。人が死ねば、肉体を構成する地は地界に帰り、血などを作る水は水界に帰り、体温などを作る火は火界に帰り、そして呼吸の息などを作る風は風界に帰るので、すべての体の諸部分は死して虚空となる。死後はなにも残らない、と。

    釈迦はとにかく医学的知識を用いて人の道を説いたことを知ってもらいたい。つまり彼の説法はきわめて科学的であり、現実的であり、体験にもとづき、日常的比喩をもって説くのが特徴である。  したがって釈迦は己の体の仕組みを熟知して、その身体から起こる種々の悩みや煩いなどによる苦しみはなぜ避けられないのかを考えたのである。神に助けを求めたり、ゆるしを乞うたりしなかった。  読者は腹痛、腰痛、頭痛などの痛みを 鎮めるとき、神に祈るだろうか。交通事故で重傷を負ったとき、神が治療してくれるだろうか。

    性欲そのものは子孫を残すための欲であるから、善でも悪でもない。動物が子孫を残すのは性欲があるからで、その性欲が悪であるわけがない。ところが人の性欲を悪と見るのは、人が性欲に快楽を求めるからではないか。動物は性欲を楽しもうとはしない。ただ子孫を残すために性欲があるのに対して、人は子孫を残すことより快楽に走り結果的に子孫を残すという場合が一般的ではないか。性欲は人が快楽の糧にしているかぎり、悪と見られても致し方ない。

    なまぐさと言えば生の魚や生肉・血のにおいがする様子を表すのが一般的だが、ある国語辞典では「[超俗的・半ば聖的と考えられてきた物事が]世間の他の物事と同じように、利殖・利益や異性との交渉、また醜い勢力争いなどにかかわる所が見られる様子だ」と説明されている。仏教用語で言えば、出世間的なこと(仏法) が世間的なこと(世法) に様変わりすることをなまぐさという。

    別な言い方をすると、世俗生活を離れて、生涯結婚をしない、異性との関わりを禁じた生活を送るのが仏法にしたがった修行僧の生き方であるが、今日のように結婚し、世俗と変わりない生活を送るのは世法である。この世法の生き方がなまぐさと言われる。  普通は生の魚や生肉のにおいをなまぐさというが、インドの仏典でもなまぐさの原語はアーマ・ガンダといい、魚や肉の 生 のにおいを表すことばである。

     弟子たちの持ち物は六種、あるいは十八種と決められていたが、そのなかに数珠は含まれていない。現在でも正統の仏教を伝えるスリランカ、ミャンマー、タイ、ベトナムなどの南方仏教では僧侶は数珠を必携していない。

    現在、学者のあいだでも数珠の起源をどのあたりまでさかのぼれるのか研究しているが、おそらく紀元二、三世紀の頃に使われはじめたのではないかという程度しか解っていない。数珠が使われはじめると、数珠に関するお経が作られるようになった。つまり釈迦が使ったことも説いたこともない数珠について、釈迦が数珠について説法している内容のお経が創作された。そこには数珠の重要さとその功徳が事細かに記されている。

    昔は緊急の報せ、時報として太鼓は使われていた。釈迦の説法は人びとを、誤った生き方に気づかせて正しい方向に導くので、太鼓を打つことに似ているというのである。かつてネパールを旅行したとき、首都にあった寺院の山門の近くに梵鐘のような大きな鐘と巨大な太鼓が置かれていた。聞くと、緊急のときにこれらを打って報せるものだと教えてくれた。太鼓がわが国の火の見やぐらの鐘と同じ役目で使われていた。

    私は駒澤大学で四十年余り仏教学の研究と学生の仏教教育に尽くしてきたが、七十歳定年を迎え、大学を退職した。退職にあたり特別に一般公開の最終講義をさせてもらった。高名で碩学の教授の皆様は各人の専門分野の学問の高度な成果と蓄積された知識を披露されるのが恒例であった。私と一緒に最終講義をした友人もその例に漏れない学者であった。

  • ふむ

  • 130ページにある煩悩の核、貪りと怒りと愚かさは三毒である。
    これは常に心がけておきたい。

  • 小乗仏教を信仰する人に共通する印象を一言で表現すれば『原理主義』あるいは『教条主義』である。ブッダはこう言った、更にはこうは言わなかった、ということを殊更に強調し、真偽も定かでないブッダの説話を歴史的真実のように表現する。まあ信仰なんてそんなものではあるのだが、この手の人たちは仏教の哲学的側面も強調するため、視野の狭さが少し分かりにくくなっている。結局日本で小乗仏教が根付かなかったのは、こういう狭量さに対する拒否反応があるのではないか?
    思うに仏教というのは一つの集合知であって、特に日本ではブッダの死後いろんな人がいろんな事を唱えたものを全てまとめて受け入れた思想体系である。そこに日本固有の神道の思想が融合し、極めて広い概念を包含している。要は何でもありだ。でもそれでいいのだ。本書に違和感があるのは、こういう日本人の宗教観を一段上から断罪し、『それはブッダの教えではない』などと日本人にとってどうでもいいことを長々と述べたてているからだろう。
    ただ個人的には本書に書かれている禅宗的な思想には共感できるものが多い。もっとも我が家は代々浄土真宗であるのだが。

  • ボクは無宗教派ですが、結局実家の浄土真宗本願寺派の思想が染み付いているのだと感じる時があります。

    同じ仏教でも他にうさん臭さを感じるのはお互い様でしょうが、本来の仏教の思想と日本の仏教の思想はかなり違ったものとなっているという点では、ますます宗教からの興味が無くなると感じました。

  • ブッダは真理に目覚めた人。それまでの考え方が一点して、新たな境地に至った人のこと。この境地は誰でも体験できる。
    戦争や紛争の原因は差別。
    無学者とはまだ学ぶことが多く、毎日新な発見を求めて精進している者の意味。

  • 釈迦が説いた世界観はだいたい理解できた。現代の日本の仏教はそれとは全然違うことも理解できた。でもなぜそう変化したかの説明がまったくないので、ただ現代の仏教を批判するだけになっている。結局、仏教とは何か、というもっとも知りたかった所が分からないままです。

  • 13/08/23

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著者プロフィール

昭和10(1935)年生まれ。
最終学歴 東京大学大学院卒
職  歴 駒澤大学教授、同副学長、駒澤大学禅研究所所長を歴任。
駒澤大学名誉教授・文学博士。

[主な著書]
『仏典のことば さとりへの十二講』『ブッダのいいたかったこと』『道元の考えたこと』『ブッダ最後のことば』(以上、講談社学術文庫)、『ブッダの人生哲学』(講談社選書メチエ)、『仏教の真実』(講談社現代新書)、『ブッダが語る人間関係の智慧 六方礼経を読む』『仏教と女性』(以上、東京書籍)、『釈尊の譬喩と説話』『人間ブッダ』(以上、第三文明社レグルス文庫)、『迷いから悟りへの十二章』『ブッダの最期のことば 涅槃経を読む』(以上、NHK出版)、『仏性とは何か』(以上、大蔵出版)、『道元』のこころ(大法輪閣)、ほか多数。


「2022年 『ブッダ臨終の説法 完訳 大般涅槃経』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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