マックス・ウェーバーを読む (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
3.85
  • (19)
  • (24)
  • (18)
  • (4)
  • (1)
本棚登録 : 439
感想 : 36
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882798

作品紹介・あらすじ

政治思想、現代ドイツ思想、社会哲学、基礎法学など幅広い分野にわたり、著者独自の視点・展開から解釈を試みる仲正教授。その入門書には定評があるが、根底に流れるのは「思考する」ことを鍛える力強さにある。
本書は20世紀のヨーロッパのみならず、日本の哲学思想界にも多大な影響を与えたマックス・ウェーバーの著作を読み、彼の主要なテーマに迫る試みである。
ウェーバーの主著である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、プロテスタントの禁欲が資本主義の精神に適合性を持っていたという逆説的論理で思想界のみならず世界史に興味のある多くの人々の心を捉えた。
彼の講演である『職業としての学問』は、学問の「国家資本主義化」に疑問を呈し、学者の基本姿勢を問い正した書物だが、現在のSTAP細胞問題を考える示唆に富んだ書物である。
また社会科学の根本概念に言及した書物は、宗教・経済・政治・法律など主要な分析対象を定義、その論理的体系化を試みており、現在読み直す課題は大きい。
思想・哲学を再考したいひとへ好適な入門書でもある。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 『マックス・ウェーバーを読む』というタイトルの通り、ウェーバーの主要な四つの著作を中心に解読していった本。章立ては次のようになっている。
    第一章『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
    第二章『職業としての政治』
    第三章『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
    第四章『職業としての学問』

    ■ 第一章『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

    資本主義の発展が、プロテスタント社会で特異的に見られたことに対して、その歴史的経緯と論理について考察したもの。ここからウェーバーの宗教社会学の構築が始まる代表作。

    金儲けを卑しいものとするキリスト教の宗派であるプロテスタントで逆説的に資本主義が隆盛を極めることとなったのはなぜか。まずはルターの聖書翻訳に端を発する天職概念(Beruf)により世俗の仕事に対して積極的な宗教上の意味が付与されることに加えて、禁欲的実践が修道院の中だけに留まらず、世俗の生活にまで浸透する(世俗内禁欲)こととなり、その手段として仕事への没頭が善きものとされたことに始まる。

    しかし、資本主義につながる資本の蓄積への行動に人々を駆り立てるにはそれだけでは足りず、後のカルヴィニズムが重要な役割を果たしたという。カルヴィニズムを特徴付ける「二重予定説」――人間が救われるかどうかは予め神の意志によって定めれていて、その予定を変更することはできない――が人々の考えと行動に決定的な影響を与えたという。救済されるかどうかが信者にとって何よりも重要であった当時において、自分が選ばれているのかどうか、それは何よりも重要なことであった。この点において人々は教会や祈りなどの呪術的なものから解放され、神の前で孤独化されるのである。そして、現世での神の栄光を増すための道具として自らを規定し、道具として有効であることをもって自らが救われていることを確信することができるという心情になる。そのことが、仕事をとおして神からの預かりものである財産をひたすらに増やすというその精神が各個人の中で確立していくことになるのである。

    また、天職(Beruf)という言葉において、それを生涯変えないことを求めるのではなく、もしより多くの神の栄光を積み増す機会があるのであれば、積極的に職業を変えることさえ推奨される、ときには義務として、ことも重要である。つまり、プロテスタントの教義は、職業選択の自由や、なんとなれば資本主義社会において求められる起業家精神にも合致するのである。

    ここにおいて、労働や資本蓄積自体が目的となり、また同時にきわめて個人主義的な資本主義に有利な精神とエートスがプロテスタントの社会において拡がってきたというのである。

    ここで論じたようなプロテスタント的禁欲主義は、ウェーバーの時代においてもすでに過去のものとなっている。しかしながら、そこから形成された資本主義的合理的秩序はそれを産むこととなった世俗内禁欲の倫理が失われた後も残り続けている、事実上その中で暮らさざるをえない、いわゆる有名な「鉄の檻」として、というのがウェーバーの主張である。この論理展開は、著者も指摘するように相当に疎外などの資本主義の抱える問題点を指摘するマルクス主義を意識していたと思われる。そして、マルクス主義の下部構造を主とする唯物史観への反論の意味もあったはずである。

    次のウェーバーの言葉は100年経った今もまだ有効であり続けているように思われる。
    「経済生活全面を支配するにいたった今日の資本主義は、経済的淘汰によって、自分が必要とする経済主体――企業家と労働者――を教育し、作り出していく」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)

    この章の最後に著者が次のように言う。
    「ウェーバーの「資本主義の精神」論の魅力は、「禁欲」「労働」「営利」という一見すると、互いに異質な三つの要素が、歴史の特定の局面で連動し、資本主義発展の契機になったことを、「天職」概念を軸にしてピンポイントで追跡したこと、そして、それによって経済史のなかで(倫理的な)「観念」が担っている役割を探求する方法論を示したことにある」

    この本の魅力は、その通りこの意外な組み合わせの妙と巧みな論理展開なのである。歴史の謎解きを読んでいるようでわくわくするとともに、それが現在の社会においてもつながっているものであることから色々な考えを刺激してくれる点にある。

    ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以降、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教など世界宗教が経済社会に与えた影響を比較宗教学的な観点から研究していくことになるのである。その壮大なプロジェクトはウェーバーの早すぎた死によって途絶えたが、今もって宗教社会学が重要で有益な課題であることは間違いない。いまだ宗教による紛争が絶えないことを考えると、その重要性とスコープは増しているとさえ言えるのかもしれない。

    ■ 第二章 『職業としての政治』

    1919年のウェーバーの講演をもとにしている。近代国家において、職業政治家という新しい階層が生まれている状況と、また第一次世界大戦後の国際および国内の政治の混乱状況を反映していて、それが含む危うさとも併せて興味深く読むことができる。

    ウェーバーはまず、国家を「正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間の共同体」と定義する。ここでは何をもって「正当」とするかを定めないと前に進まない。
    ウェーバーは支配の正当性について三つの類型を想定している。第一は伝統的な習俗に基づく「伝統的支配」であり、二つ目は個人の資質に結びつけられる「カリスマ的支配」、最後が法に基づく「合法的支配」である。ウェーバーは、この中でもカリスマ的支配の検討に多くを割いている。

    また、非常に実際的な議論として、政治の遂行において、行政スタッフと物的財の関係を分析し、近代化の過程で、行政、戦争遂行、財政運営の手段が「指導者」の下に集約されてきたと指摘している。その中で本書のテーマのひとつでもある「政治によって生きている」職業政治家が生まれることになったのである。また、官僚制へも言及し、いわゆる官吏は非政治的な「行政」に集中し、党派性を持つべき「政治」とは距離を置くべきだとするのである。そして、官僚による政治を無責任な政治体制であると批判するのである。

    「官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である」(『職業としての政治』)

    ウェーバーは、大統領制による指導者の選択を進むべき道であるように述べている。そして、実際にワイマール憲法では大統領制が採られることになったのである。
    「ところでぎりぎりのところ道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制(フューラーデモクラティー)を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。〔…〕そうなれば、大統領――議会によってではなく人民投票によって選ばれた――だけが、指導者に対する期待を満たす唯一の安全弁となるであろう」(『職業としての政治』)

    こうしたカリスマ指導者を希求するウェーバーの思想は、後にカール・シュミットによるナチス政権を法理論的に正当化に使われることになったのである。歴史は、ウェーバーの想定を越えて進んだのである。それは不幸なことではあったが、ウェーバーが後のナチズムの隆盛を目の当たりにしたとすれば、どのようにその論を進めることになったのかは一考の価値がある。

    『職業としての政治』は、政治における目的のための手段の正当化をめぐって、「心情倫理」と全面的に結果に責任を負う「責任倫理」の対比について論じたことでも有名である。そこには、どちらか一方で足りるということではなく、現実に即した判断力と実行力が伴っていなくてはならないのである。それを思うとウェーバーがナチズムに傾倒することになったとは考えにくい。しかしながら、シュミットやハイデガーのふるまいと見るとそれは危うさとともにあるように思われる。それは、つまりこの講演からも見て取れる通り思想的にも何かを選択してきたということなのであるし、ある種の責任倫理を取ろうとしていることが見てとれるからである。

    「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけではなく、――はなはだ素朴な意味での――英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(Beruf)」を持つ」(『職業としての政治』)

    近年、野口訳で『仕事としての政治』として新訳が出された。「仕事」と「職業」の訳仕分けなど、こちらの議論も興味深い。

    ■ 第三章 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

    著者は、ここで1904年に書かれた論文『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を取り上げる。ここでウェーバーは、科学的主張に対する「価値判断」に基づく批判なのか、「事実認識」に基づく批判なのかを明確にするということを科学における社会学における方法論として主張する。そのためにはその批判の執筆者は「価値規準」を明確化することが必要となるという。

    ウェーバーは、どんな場合においても無条件に妥当する「客観性」はありえないと主張し、そのために自らがとった方法論の「一面性」、つまりどのような観点からそれを切り取ったのかについて意識的であることの必要性を述べた。その姿勢が、ウェーバーの著作を難解なものに見せていることもあるが、その禁欲的姿勢は現代の科学的探究の姿勢につながるものであり、ウェーバーをいまだ読まれるべきものにしているゆえんである。

    「後にウェーバーは、研究者が、自らが対象に対して抱いている、望ましい/望ましくないといった「価値判断」を明らかにし、それを、(分析対象となる当事者たちの振る舞いの根底にある「価値関係」の解釈を含む)事実認識に可能な限り持ち込まないようにすることによって、社会科学が経験科学としての性格を保つことの重要性を強調するようになる。彼は、そうした基本姿勢を「価値自由」という言葉で表現する」

    また、この論文のなかでウェーバーは「理念型」に言及している。
    「研究にとって、こうした理念型概念は、帰属にかんする判断力を錬磨する効用をそなえている。理念型概念は、「仮説」そのものではないが、仮説の構成に方向を示してくれる。それは、実在の叙述そのものではないが、叙述に一義的な表現手段を与えてくれる」(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』)

    著者も指摘するように、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においては、プロテスタントの勤労のエートスの理念型が想定されて、その理念型に対して史料分析や論理展開が行われているのである。

    著者が、あえてこの論文を取り上げた理由がわかるような気がする。この論文は、あえて言うとウェーバーにとって、フーコーにとって『知の考古学』が持っているのと同じ位置づけにあるものと言えるかもしれない。

    ■ 第四章 『職業としての学問』

    これもまた『職業としての政治』と同じくウェーバーの講演をもとにしたものである。講演録の方がストレートにウェーバーの考えが出ていて理解しやすいということもあり、これもまたよく読まれた本である。

    この本で、学者として糧を得ることの社会的現実についてのウェーバーの視点からの分析を加えている。特に学者として成功が偶然に支配されることと、それを受け入れる覚悟が必要であることを強調する。この講演が学生を前にして行われたこともポイントである。

    「学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。〔…〕われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない」(『職業としての学問』)

    また、ウェーバーが教師に対して求めた高い倫理性にも注意が必要である。教師-生徒といった非対称な関係におけるその立場を利用した活動・言動について常に抑制的であることを求めるのである。特に教壇の上で自らの政治的党派性を押し付けることには強く反対する。預言者や扇動家は教壇に立つべきではないのである。これもまた将来を担う学生を前にした発言であることは忘れてはいけないのである。

    これもまた、野口訳で『仕事としての学問』として新訳が出されている。『仕事としての学問 仕事としての政治』と一体化されているので、お得感があり、お勧めである。


    著者の仲正さんは、アーレント、ハイデガー、カール・シュミット、ドゥルーズ、デリダなど多くの思想家の入門書を書かれており、解説は手慣れた感じがありわかりやすい。『仕事としての学問 仕事としての政治』の新訳を担当した野口さんが最近出した『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家』と比較すると、よりウェーバーのテクストに即した解説になっていて、こちらもまたウェーバー入門書として有用性が非常に高い新書である。

    ----
    『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4003420934
    『仕事としての学問 仕事としての政治』(マックス・ウェーバー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065122198
    『社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス』(大塚久雄)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004110629
    『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家』(野口雅弘)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4121025946

  • 桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPACへ↓
    https://indus.andrew.ac.jp/opac/volume/1110809

  • 面白いポイントがありすぎて、メモしすぎた(思考の整理学を読んだのにも関わらず)。

    合理化と非合理化の二項対立で考えるのではなく、その狭間を見ていきたいところ。

    プロテスタンティズムによる非呪術化の影響はかなり大きい。

    禁欲+公共の福祉の最大化+それによる富裕+天職感

    こう生きるべきだよねっていくシステムの前では個人の生き方を変えるのはなかなか難しい。これは資本主義というシステムに限らないと思う。以前読んだフーコーの話も同じように解釈することができるんじゃないか?

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685817

  • メモ:
    p142
    私たちは日々様々な場面、テーマについて「価値判断」をしているが、それがどのような「価値規準」に基づいているのかはっきり意識していないことの方が多い。事実についての認識と「価値判断」が漠然と一体になっていて、いつのまにか”判断”している・そのため、他者との意見との食い違いが、事実認識のズレによるのか、拠って立つ価値の違いが判然としない。

    p206
    合理化の帰結として生み出された巨大な「鉄の檻」(=国家資本主義の下での研究体制)が、「合理性」の尺度を見失ったまま運動し続けているうちに、自らの足場を掘り損じているわけである。

    p216
    多分野にわたって大きな業績を残し。政治評論家、政治家として活動したウェーバーは。、当時のドイツで最も偉大なカリスマ学者であった。彼のようになりたいと思う学者の卵は、少なくなかったはずである。そういう彼だからこそ、「個性」や「体験」を崇める傾向を厳に戒め。マルチタレント性を発揮するよりも、専門領域を見つけ、その領域に固有の「物」に打ち込むことの重要性を説く必要性があったのだろう。

  • 言葉が難しくてなかなか理解できなかったが、マックスウェーバーという人の雰囲気を掴むことができた。
    もう一度読み返したい

  • 「自衛隊は暴力装置」という政府答弁に対して、野党自民党が抗議するという不思議な光景があった事を記憶している人も多いだろう。前書きはこのエピソードから始まるのだが、昨今の学生はウェーバーなんて全く読まないらしく、大学教員は嘆いているらしい。政治家だって読まないんだから仕方ないとも言えるが。とは言え、日本はドイツ以上にウェーバー研究が盛んであるとも言われてきたし、昨年は没後100年が少々話題になったので、今でも多少の人気というか影響力はあるのだろう。
    本書はウェーバーの主要文献を解説したもので、題名に相応しい内容となっており、入門書としては最適である。ただし、著者も「あとがき」で言い訳しているが、専門家でもない著者による独特の解釈は当然入り込んではいるので、その辺は留意して鵜呑みにせずに読む必要はある。

  • 昨年はウェーバー没後100年という節目で色々とウェーバーに関する本が上梓されたが、こちらは2014年刊行の新書。講談社新書50周年のでかい帯がついていて、「彼の思考を知るということは私たちの社会と歴史について深く学ぶことである」との惹句が掲げられている。

    本書はそんなウェーバーの思想を主要な著作を読み解いていくという形で辿るウェーバー入門書である。

    第1章は彼の宗教社会学を『プロ倫』が取り上げられる。著者は「ウェーバーの「資本主義の精神」論の魅力は、「禁欲」「労働」「営利」という一見すると、互いに異質な三つの要素が、歴史の特定の局面で連動し、資本主義発展の契機となったことを、「天職」概念を軸にしてピンポイントで追跡したこと、そして、それによって経済史の中で(倫理的な)「観念」が担っている役割を探求する方法論を示したことにある」と述べ、「それは間接的に、特定の倫理的規範に従おうとする人間の主体性に対する期待に繋がる」(p.74)と述べる。

    このことは、続く第2章で取り上げられているウェーバーの政治観でより深く追求されている。それが「官僚制」の問題である。西欧近代を特徴付ける「合理性」は資本主義を生み出したのだが、同時に個人の活動になるべく干渉しないことを原則とする一方で、大企業の活動を支えるために官僚制を整備しなくてはならないという矛盾にぶつかる。ウェーバーはこの矛盾を指摘し、民主制の二律背反的な性格を冷静に分析するのである。

    第3章は、ウェーバーの方法論を「理念型」「理解社会学」などの諸概念を取り上げつつ、クリアにしている。ウェーバーはこれら基礎概念を相互に関連付けながら、社会学の主要な分析対象である「支配」「権力」「法」「団体」「経営」などの定義付けをした上で『経済と社会』の各論を展開するという方法を取っており、こうした方法は、タルコット・パーソンズなどにも引き継がれていった。

    最後の第4章で、著者は現代日本の状況を具体的な事例として取り上げながら、ウェーバーが問い質した学者の姿勢について、『職業としての学問』を通じて明らかにしている。

    どの著作をとっても読むのに骨が折れるウェーバーの代表作をコンパクトに解説しながら諸著作の関連が見通せるようになっている本書は、ウェーバー社会学の現代的意義を考える上で有益である。

  • たびたび出てくる訳文の傍点が不快で、ずっとウェーバーには挫折してきた。この本を読んで、初めて、ウェーバーの思想が少しわかった気がする。そりゃ有名なわけだ、と、ウェーバーの洞察力に感服。

  • ウェーバーの「脱魔術化」にはいろいろな解釈があるものだと思った。

全36件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

仲正昌樹の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
田中正人
トマ・ピケティ
三浦 しをん
リチャード・ドー...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×