善の根拠 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 104
レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882934

作品紹介・あらすじ

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」──従来は当たり前だと思われていたことにまで、その理由を説明しなければならない時代。「常識」の底が抜け、すべてのものごとに、根拠がなくなってしまった時代。「善きこと」に対する信頼が、すっかり失われてしまった時代──そんな現代だからこそ、今一度、「よいこと」すなわち「善」とは何なのか、その根拠は何なのかを考えてみることが必要とされているのではないでしょうか? 人間という、限界あるか弱い存在の内に、善を求める態度、すなわち本当の意味での「倫理」が立ち上がるために必要な条件は何か? 本書は、恐山を主な舞台にして積極的な活動を展開する気鋭の禅僧が、仏教者としての立場から、現代における難問中の難問に果敢に挑む問題作です。根拠なき不毛の時代にこそ必読!

感想・レビュー・書評

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  • 再読。初回は素直に受けとめましたが、さすがに今回は二部構成で後半は対話編という希釈された内容にガッカリ。普通の禅僧ではない南直哉師には、論を走らせることより只管打坐に徹して考えてほしいと思います。

  • 「善の根拠」とは言うけれど、これをもって善とするというような明確な回答が得られるような内容ではありません。僧侶が善悪について考えた内容が書かれているのみです。ただし、繰り返し注意されているように、仏教における善悪を示したものではなく、また経典を通しての筆者の解釈を示したものでもありません。本書は、僧である筆者が善悪についてこのように考えている、という個人的見解を述べたものに過ぎず、宗教的主張は濃くありません。とはいえ、表紙からは筆者の背景を読み取るのは難しく、また筆者の主張と照らしあわされる戒律も仏教思想書からのものであるため、宗教アレルギーの方や廃仏毀釈過激派の方は合わぬ内容と思われます。

    読みながら気づいたのですが、キリスト教、イスラム教、仏教のうち、善悪について語れる宗教は仏教のみで。キリスト教は聖書を、イスラム教はコーランを善悪の基準とするため、聖典に定められたものこそが善悪です。その点、仏教の開祖である釈迦は経典を残していません。仏教の目的は悟りを開くこと、つまり考えることの先に真理を見つけることのため、例えば禁戒である不殺生(殺すなかれ)についても、なぜ殺してはいけないのかと考えることが許されるのです。破戒僧でなくとも、善悪について考えて良いのです。

    「宗教的主張は濃くない」と書きましたが、それは「仏教はいいぞ」とか「いますぐ出家せよ」とかいう内容ではないということで、仏教的内容はたんと盛り込んであります。僧侶が書いてるしね。ただし、それらは善悪の基準のための引用ではなく、筆者が考える善悪の基準とと照らし合わせたときにどのような解釈となるか、に過ぎません。そのため宗教モノの出版物にありがちな、押し付けがましさを感じることはありませんでした。

    構成としては2部構成です。1部は筆者の考える善悪論の説明。1部前半で筆者の考える善悪の概要が説明されます。自己の定義とその矛盾からの善悪論。決して長くはないのだけれど、ココが一番難しいとこです。1部後半では仏教の戒律(正確には仏祖正伝菩薩戒)との照らし合わせが書かれます。善悪についての筆者の考えがなんとなく分かってきます。仏教の戒律は大いに分かります。後半は急に対談が始まり、一気に読みやすく、そして分かりやすくなります。全体を通すとチグハクな構成で、執筆の苦労がしのばれるのですが(あとがきによると「過酷な引き伸ばし作業」)、そもそもの思想が難解であるため、最初にその難解な内容を記し、それを順次説明してだんだん易しくなっていく、というのは、理解するのに適した構成にも思います。

    善悪を主題とした本は珍しくありませんが、宗教的教養のある信者が中立的立場を意識して個人的意見を書いた本は多くありません。これをもって善悪について理解できたかと言われれば、そこまでは言い切れぬ程度の範読ぶりですが、本書にしかないであろうその独自な視点と考察は、それを踏まえても実に興味深く読むことができたのでした。

  • 著者は曹洞宗の僧侶。
    しかし,僧侶としてではなく,「仏教の立場から」(仏教思想を道具として)善悪の根拠を明らかにしようと試みる。

    本書は,まず,「自己」とは何かを論じる。
    「自己」には,それ単独で存立する実体はない(「諸行無常」「諸法無我」「空」)。
    「自己」は,「他者」との関係(縁起)によって存在する。
    「自己」と「他者」との関係(縁起)が各々の存在に先立つ。
    「自己」は,「他者」によって自己の在り方が決定されてしまうという矛盾を抱えてしか存在できない。

    その上で,「自己」を受容する態度を「善」,拒絶する態度を「悪」と捉える。
    よって,善(悪)の根拠は,他者依存の「自己の在り方」を受容(拒絶)する「決断」ということになる。

    本書の最も難解なところは冒頭の部分。
    『なぜ,「自己」の受容を「善」とするのか。』という部分である。

    この点は,簡明には述べられていない。
    おそらく「仏教の立場から」考えるので,「自己」の受容が「善」になるのだと思われる。
    ゴーダマ・ブッダは,「一切皆苦」であるとしながらも,あえて生きることを選択した(「死んだら楽になるかも」とは考えなかった。)。
    つまり,「仏教の立場」とは,苦しくとも悟りを得るまでは生き抜くということである。
    そして,生き抜くということは,「自己」を引き受けることである。
    よって,自己を受容することが,「仏教の立場」からは「善」となる。

    本書は,この考えを前提にして仏教の「戒」を思考実験の材料として,この考え方の応用方法を見せていく。
    ただし,著者は,演習問題として「戒」を持ち出してみただけで,「戒」に関する解説を意図していないことを繰り返し断っている。
    あくまで,思考実験である,と。

    著者は,ナーガールジュナ(龍樹)の空・縁起の思想を土台に道元を理解し,それを応用する。
    そして,おおよその問題は「自己」の捉え方(「自己」が存在するとはどういう意味か)に帰着するという考えを基礎に置いている。
    こうした考え方は従前の著作から一貫している。

    なお,仏教の立場から倫理問題に言及した著作として,中村元『原始仏教 その思想と生活』(NHK出版)がある。

  • 2015年3月新着

  • 読了。

  • 禅僧が書いた本。大乗仏教とはこのように考えているのかが解った。

  • 悪は常に罰する者が、善には常に課するものがいる。
    人は何なのかわからないものを愛することができない。
    死ぬ気になれば何でもできる。

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著者プロフィール

禅僧。福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代(住職代理)。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て1984年に曹洞宗で出家得度。約20年の修行生活ののち、2005年より現職。著書『語る禅僧』(ちくま文庫)、『自分をみつめる禅問答』(角川ソフィア文庫)、『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ)、『なぜこんなに生きにくいのか』(新潮文庫)『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)『善の根拠』(講談社現代新書)、『禅と福音』(春秋社)、『「悟り」は開けない』(ベスト新書)他多数。

「2017年 『死と生 恐山至高対談』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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