善の根拠 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
3.32
  • (3)
  • (9)
  • (8)
  • (3)
  • (2)
本棚登録 : 165
感想 : 12
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882934

作品紹介・あらすじ

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」──従来は当たり前だと思われていたことにまで、その理由を説明しなければならない時代。「常識」の底が抜け、すべてのものごとに、根拠がなくなってしまった時代。「善きこと」に対する信頼が、すっかり失われてしまった時代──そんな現代だからこそ、今一度、「よいこと」すなわち「善」とは何なのか、その根拠は何なのかを考えてみることが必要とされているのではないでしょうか? 人間という、限界あるか弱い存在の内に、善を求める態度、すなわち本当の意味での「倫理」が立ち上がるために必要な条件は何か? 本書は、恐山を主な舞台にして積極的な活動を展開する気鋭の禅僧が、仏教者としての立場から、現代における難問中の難問に果敢に挑む問題作です。根拠なき不毛の時代にこそ必読!

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  2冊ほど読んだ南師の本が面白かったので読んでみた。
     善悪というのが一体どういう構造で起こるのかというのを実験的に解説されているけれど、すごい。
     冒頭の序とⅠがすごい。
     その後、戒律(十重禁戒)を例にして解説をされていくのだが、自分はわが身に引き当てたことをいろいろ想像してしまって重い。さーっと読める人もいるかもしれないが、自分の生活の現状と合わせて見たら考えさせられる。
     そこが終わって後半が対談(っていうか相手誰?)になるのだけど、これがさらに面白い。前半での解説の意味が生きて届いてくる感じ。善悪の根拠について死刑制度にまで発展する。不貪淫についおおおそこにくるのかというところ。面白い。自殺についてのところもこういう整理された文章をみると自分も考えやすいなと思った。
     あとがきでこの不可解な構成の本の成立について明かされている。まさに本という体裁にされるための苦心がうかがわれた。
     自分はこの本を読んで、「自灯明法灯明」について再考させられた。自己がどうして自己たり得ているのか。自分はだれかに「課せられている」。ひとつひとつ自分に当てはめて考える。自分はひとりで自分でいられないのだなとつくづく思い、また縁起によってなりたついまこのひとときも変わりゆくものなのだと思ってこれを書いている。
     自分が南師の著作が好きなのは、本質のところをきちんとおっしゃっているところ。温かく優しい世界でない仏教をダイレクトに伝えている。背筋が伸びる。禅やってないけど。

  • 『人間においてのみ、善悪が問題になるのは、この「自己」が「他者」に由来するという矛盾と困難があるからだ。すなわち、そういう存在の仕方を「自己」がしているからなのだ。この矛盾を矛盾として、困難を困難として認識できるということ(すなわち、それが「ある」こと)は、「自己」と「他者」の関係性それ自体を認識できるということである。(略)「自己」という存在が「他者から課された」という構造によって無根拠に開始されてしまうということである。善悪はこの構造に対する態度のとり方の問題なのだ』
    あと、3回はこの本を読まないと!

  • 面白いんだけど解説がノッてきたところで次のセンテンスに移っちゃうから物足りなさが少々。

  • 縁起説とすべての物は空だという仏教の教義を公理として、加えてこれらの教義を受け入れて仏門に入る事が善(の源泉)であるという確信に基づいて、善について整理しようとしたもの。 
    結果的にあまり上手く行ってない。というのは著者が言うとおり、あらゆる物が空だとした瞬間に善悪が成立しなくなるから。
    仏教の戒律についてこの考え方に基づいて解釈を試みてもいるが、常識に合致するように論理を設計している印象があり、結構つらい。

    この本で学んだことは、下記のようなこと。
    1.哲学的思索は思索する個人にとって腹落ちした公理に基づいて展開されるので、その公理に共感できないとその思索に全然同意できない。
    2.諸行無常、一切皆苦、解脱といった考えは、生を肯定しないので、現代において仏教が幅広い共感を得て、社会の規範となることはかなり難しそう。
    3.アートマン(不変の自己の本質)の否定を、自己は存在しない(無我)へと繋げたことも仏教が普遍性を獲得しにくくしている。変わってしまう自分であっても、今の自分は確かに存在するんだという、生き物としての確信と合致しないため。

  • 再読。初回は素直に受けとめましたが、さすがに今回は二部構成で後半は対話編という希釈された内容にガッカリ。普通の禅僧ではない南直哉師には、論を走らせることより只管打坐に徹して考えてほしいと思います。

  • 善の定義としては、一般には大きく2つに分かれる様に思う。一つはある絶対的な、ないしアプリオリな規範があり、それに近づくほど善、それから離れるないし規範が欠乏するほど悪、とするもの。もう一つは2つの両極端の間を善、とするもの。
    前者は一神教や独裁がそれに当たり、後者はアリストテレスの倫理体系や古代中国の道教、中庸で説かれる思想等が近いか。いずれも、自分以外の何処かに善の参照点を置き、それを前提にしているように思われる。
    この本は、どちらの立場でも解釈出来ない論理を掲げているように思われる。著者の他の書に見えている思想と根本は同一ながら、かなりラディカルな思想ではないかと思う。この人の本が好きなので、らしいとも言えるが。
    著者は、そもそも外部的な論理や倫理に善の根拠を求めていない。先の後者の倫理体系ですら、社会や他人との関係の中で様々に変わる中間点を模索する事がキーだと思うが、この本では、善とは自己を引き受け、生きる事を選択する事と解釈している。
    この部分だけなら、汎用的な規範や他者の決めたルールは必要ない。ただ、著者の言う自己とは他者からの働きかけの集大成として形成されるものであって、自己それ自体は自然発生的には存在し得ない。自分なりに理解すれば、自我の境界線の外側にある他者が先に決まり、その線の内側を仮に自己とするしかない、と読める。そこで、自己を引き受ける事が善であるなら、その否定、つまり他者からの働きかけという構造の拒否や他者を顧みない自己の認識が悪、という事になる。
    それ自体では独立して存在し得ず、他者によってしか作られない自己をあえて引き受ける事から、善と呼ぶべき何かしらが生まれ得る(必ず生まれるわけではない)。だから自己の引き受けの放棄はすべからく悪だし、自己の必要条件である他者が自己を引き受ける事の妨害、すなわち殺人や障害は悪、となるのだろう。
    たしか、著者の「老師と少年」にあったと思うが、生きる事それ自体が良いことでも、生きれば必ず良いことが生まれるわけでもない。ただ、全ての良い事は生きる事からしか生まれ得ない。生きられた生が、良きことを生み出すことがある、というだけでしかない。そう言う意味では本書で述べられているのは善そのものでなく、前提条件という意味でのまさに善の根拠、なのかも知れない。
    禅僧の修行が、必ずしも悟りに至れるという確証がある訳でなく(涅槃が定義出来ない以上、やむを得ない)、ましてや確定したスキームがある訳でもない中でひたすら帰依を繰り返していくこと、それ自体が尊く善きことであるとするなら、これはある面において人生そのものでは無いか。
    自分としては、これを信じれば幸せ、あれをやれば人生安泰、という考えよりはよほどしっくりくるし、ある意味では自分の人生を自分で作っていくしかない、という点では安心できる考え方だった。

  • 「善の根拠」とは言うけれど、これをもって善とするというような明確な回答が得られるような内容ではありません。僧侶が善悪について考えた内容が書かれているのみです。ただし、繰り返し注意されているように、仏教における善悪を示したものではなく、また経典を通しての筆者の解釈を示したものでもありません。本書は、僧である筆者が善悪についてこのように考えている、という個人的見解を述べたものに過ぎず、宗教的主張は濃くありません。とはいえ、表紙からは筆者の背景を読み取るのは難しく、また筆者の主張と照らしあわされる戒律も仏教思想書からのものであるため、宗教アレルギーの方や廃仏毀釈過激派の方は合わぬ内容と思われます。

    読みながら気づいたのですが、キリスト教、イスラム教、仏教のうち、善悪について語れる宗教は仏教のみで。キリスト教は聖書を、イスラム教はコーランを善悪の基準とするため、聖典に定められたものこそが善悪です。その点、仏教の開祖である釈迦は経典を残していません。仏教の目的は悟りを開くこと、つまり考えることの先に真理を見つけることのため、例えば禁戒である不殺生(殺すなかれ)についても、なぜ殺してはいけないのかと考えることが許されるのです。破戒僧でなくとも、善悪について考えて良いのです。

    「宗教的主張は濃くない」と書きましたが、それは「仏教はいいぞ」とか「いますぐ出家せよ」とかいう内容ではないということで、仏教的内容はたんと盛り込んであります。僧侶が書いてるしね。ただし、それらは善悪の基準のための引用ではなく、筆者が考える善悪の基準とと照らし合わせたときにどのような解釈となるか、に過ぎません。そのため宗教モノの出版物にありがちな、押し付けがましさを感じることはありませんでした。

    構成としては2部構成です。1部は筆者の考える善悪論の説明。1部前半で筆者の考える善悪の概要が説明されます。自己の定義とその矛盾からの善悪論。決して長くはないのだけれど、ココが一番難しいとこです。1部後半では仏教の戒律(正確には仏祖正伝菩薩戒)との照らし合わせが書かれます。善悪についての筆者の考えがなんとなく分かってきます。仏教の戒律は大いに分かります。後半は急に対談が始まり、一気に読みやすく、そして分かりやすくなります。全体を通すとチグハクな構成で、執筆の苦労がしのばれるのですが(あとがきによると「過酷な引き伸ばし作業」)、そもそもの思想が難解であるため、最初にその難解な内容を記し、それを順次説明してだんだん易しくなっていく、というのは、理解するのに適した構成にも思います。

    善悪を主題とした本は珍しくありませんが、宗教的教養のある信者が中立的立場を意識して個人的意見を書いた本は多くありません。これをもって善悪について理解できたかと言われれば、そこまでは言い切れぬ程度の範読ぶりですが、本書にしかないであろうその独自な視点と考察は、それを踏まえても実に興味深く読むことができたのでした。

  • 著者は曹洞宗の僧侶。
    しかし,僧侶としてではなく,「仏教の立場から」(仏教思想を道具として)善悪の根拠を明らかにしようと試みる。

    本書は,まず,「自己」とは何かを論じる。
    「自己」には,それ単独で存立する実体はない(「諸行無常」「諸法無我」「空」)。
    「自己」は,「他者」との関係(縁起)によって存在する。
    「自己」と「他者」との関係(縁起)が各々の存在に先立つ。
    「自己」は,「他者」によって自己の在り方が決定されてしまうという矛盾を抱えてしか存在できない。

    その上で,「自己」を受容する態度を「善」,拒絶する態度を「悪」と捉える。
    よって,善(悪)の根拠は,他者依存の「自己の在り方」を受容(拒絶)する「決断」ということになる。

    本書の最も難解なところは冒頭の部分。
    『なぜ,「自己」の受容を「善」とするのか。』という部分である。

    この点は,簡明には述べられていない。
    おそらく「仏教の立場から」考えるので,「自己」の受容が「善」になるのだと思われる。
    ゴーダマ・ブッダは,「一切皆苦」であるとしながらも,あえて生きることを選択した(「死んだら楽になるかも」とは考えなかった。)。
    つまり,「仏教の立場」とは,苦しくとも悟りを得るまでは生き抜くということである。
    そして,生き抜くということは,「自己」を引き受けることである。
    よって,自己を受容することが,「仏教の立場」からは「善」となる。

    本書は,この考えを前提にして仏教の「戒」を思考実験の材料として,この考え方の応用方法を見せていく。
    ただし,著者は,演習問題として「戒」を持ち出してみただけで,「戒」に関する解説を意図していないことを繰り返し断っている。
    あくまで,思考実験である,と。

    著者は,ナーガールジュナ(龍樹)の空・縁起の思想を土台に道元を理解し,それを応用する。
    そして,おおよその問題は「自己」の捉え方(「自己」が存在するとはどういう意味か)に帰着するという考えを基礎に置いている。
    こうした考え方は従前の著作から一貫している。

    なお,仏教の立場から倫理問題に言及した著作として,中村元『原始仏教 その思想と生活』(NHK出版)がある。

  • 2015年3月新着

  • 禅僧が書いた本。大乗仏教とはこのように考えているのかが解った。

全12件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

南直哉の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×