本物の英語力 (講談社現代新書)

  • 講談社 (2016年2月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784062883535

作品紹介・あらすじ

発音はハチャメチャと完璧の間を狙う。語彙を増やすためには、とにかく「たくさん」読む。文法がまちがっていると「教養がない」と思われる。好きなこと、関心があることで英語を学ぶ。など、話すための基本、難関の試験克服法など日本人が「英語の壁」を乗り超えるための新常識10を伝授。英語が苦手な人でも、本書を読んで「英語なんて簡単さ」と自信を持とう!

感想・レビュー・書評

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  • 意外と鵜飼ファンなボブです。
    随所に鵜飼イズム的なものが散りばめられています。英語学習の大いなるヒントになるのではないでしょうか。英語が苦手なボブですが、大いに励まされ、目標を見失うことなく、語学を勉強し続けられそうな気がします(弱気)。
    実際に会ったことはないですが、人柄と情熱を感じる1冊でした(^o^)/

  • 過去から現在にかけてもなお英語学習で多数メディア出演されてる鳥飼さんの本。
    インフルエンサーのような派手なアプローチをせず、地道に信頼を勝ち取り英語教育の重要性を説いた方であり、この本からもそれが垣間見れた。
    ホームステイ制度のはじまりが、フランスとドイツの学生間で第二次世界大戦のねじれ解消を目的としていたことは驚きだった。

  • 映画を発生型で観る“ファン・サブ”(ファンによるサブタイトル)が目から鱗でした。
    関西弁にしておもしろく入りやすい訳つけたらすんなり入ってきそう。

    鳥飼先生の文章はいつも読みやすくておもしろくて勉強になるので大好きです。

  • 長崎通詞(江戸時代、オランダとの貿易で通訳を果たしていた人)の話がけっこう衝撃的だった。オランダ人から英語を教わり(とはいえオランダの人も英語を教える先生ではない)、しかしそれでもアメリカ人との会話は成り立たない。日本に密入国しようとしたアメリカ人が捕まえられ、頭を下げて英語を教わった姿勢には逆にこっちが頭下がる。ましてそれがあったからペリー来航に備えられたという…。凄まじい日本史である。小説、『海の祭礼』読んでみよう。

    ともあれ、どんな形で英語を使いたいかは明確にしとかないといけない。旅行で使う英語、ビジネスで使う(会社の取り引きやスポーツまで幅広い)英語なのかイメージしとこう。

    任侠映画見まくって日本語覚えたらとんでもない言葉遣いを覚えてしまった外国人がいるように(笑)、英語もまたしかりらしい。それはそれでちょっと面白いが、映画を見て(字幕なし)英語を覚えるのはやってみようと思った。好きなところから入る。やはりこれに尽きるな。

  • 上の情報だけで、具体的にどうしろこうしろみたいなことはない。説得力あるけど、読んで数日経った今中身全然覚えてない、、

  • 日本人が悩んでいることが我が子とのように書いてありひきこまれてさっと読み進んでいけた。なかでも英文法をしっかり身に付けたいと感じたこと。英語を学ぶことは人生の挑戦くらいに考えるんだと目からうろこでした。

  • NHKでしばらく見ていた先生。わかりやすいがなかなか。

  • 英語を学ぶ上の心構えを説いてくれる。語学にあまり触れてこなかった人にとっては面白いだろうが、自分には物足りなかった。

  • 「あとがき」で著者は、「どのように学ぶかは学習者が個々に考えて選択すべきことだと考えてきた私が、あえて学習方法に踏み込んだ」と述べており、本文中ではとくに、「英語を覚えようとするのではなく、知りたい内容、興味のある内容を英語で学ぶ」というアプローチが取り上げられています。

    ただしそれも、自分なりの英語学習の目的を設定し、自分にとって適切な学習法を自分自身で考える「メタ認知ストラテジー」の重要性から導かれる学習方法であり、著者の基本的なスタンスは少しも変わってはいないと言ってよいと思います。とくに、音読やシャドーイング「だけやっていればいい」といったような、目標もない盲目的な英語学習を反省して、自分と英語との関係について振り返って考えてみるには、よいきっかけになる本だと思います。

  • 発音はハチャメチャと完璧の間を狙う
    語彙を増やすには丸暗記よりもたくさん読むこと
    文法が間違っていると「教養がない」と思われる

    早期英語教育、英語ブームに警鐘を鳴らしつつ、
    ほんとうに英語を身につけたい人のために英語学習の新たな視点を提起

  • nhk英会話講師。
    なぜ英語を学ぶのかを説き起こし、
    英語の勉強法を指南する。

  • ●ネイティブ・スピーカーを目指すのではなく、自分が主体的に使える英語 ー 「私の英語」を目指す。
    ●英語を覚えようとするのではなく、知りたい内容、興味のある内容を英語で学ぶ。
    →英語が日常的に必要とされないにも関わらず英語コンプレックスを抱えた日本人学習者が英語を学んでいくためには、基本的な発音や文法、語彙を習得した上で(する過程で)、自分の興味関心に応じた学びをしていくことが必要不可欠。完璧な英語を目指そうと思ってもつまらないし、続かない。目的、目標、モチベーション。
    ●発音は、ハチャメチャと完璧の間を狙う
    →中学生に対してもっと音声学的指導を!
    ●語彙を増やすためには、たくさん読むこと
    →多読、精読、辞書学習、コンテクスト…とにかく大量にインプットして英文に触れる時間を多くする。
    ●文法が間違っていると「教養がない」と思われる
    →「伝わればいい」は恥をかく。センテンスが組み立てられないと、高度でまともな話ができなくなってしまう。
    ●好きなこと、関心があることで英語を学ぶ
    →授業における「内容」や多様な教材によるアプローチの重要性。
    ●デジタル英語学習では「感性」を養う
    →「記憶」という面ではアナログ学習の方が優れている?多様な媒体から得た情報を「理解」し、「吟味」する感性を養うために、デジタルも必要。
    ●動機づけとしての外国映画
    →映像で異文化に触れながら、日英、英日の言語間を行ったり来たりしながら学習することができる。
    ●「仕事で必要な英語」も千差万別
    →いずれの職にしても、やらないと仕方ない状況に身を置き、「慣れるまで習う」努力を怠らないことが重要。

    英語に限らず、語学は生涯学び続けるものである。辛く、苦しい面も多々あるが、学び続けた先に必ず新しい世界が待っているはずである。真の英語プロフェッショナルである鳥飼先生でさえ「言語は生涯かけ学ぶもの」「自律した学習者として常に新たな出会いを求め、自らの道を切り拓くことが、英語学習」と断言されるのだから、楽して身につくなどとは考えてはいけない。

  • 言語を学ぶのは一生の勉強。
    語彙を増やすこと。多読、精読。単語を覚えるだけではなく、使われているセンテンスごと吸収。
    文法は大事。スポーツで言えばルールと同じ。ルールを知らなければ試合に出れない。
    補語はイコールで繋げられるもの。目的語は繋げられない。例えばHe makes me happy.
    Heとmeは同じではないので目的語。

    守りに入るな。
    どんなに大変だと思う仕事も、しばらくすれば慣れてくる。慣れて定常状態に入ると成長は鈍化する。そんな時はあえて環境を変えて変化させる、不均衡状態をわざと作ることで緊張感を維持し、自らが進歩していける。

    英語学習の成否を決めるのは、自ら意欲的未知と出会い、緊張感持って努力を継続できるかということ。

  • 655

    この本ほんと素晴らしかった。高校の時の英語の先生が本質的な英語の授業をしてくれた先生で、その先生の日本文化の尊敬と英語への情熱が似てて、その先生思い出す。高瀬先生元気かな。

    鳥飼 玖美子
    東京都に生まれる。上智大学外国語学部卒業。コロンビア大学大学院修士課程修了。サウサンプトン大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。NHK「ニュースで英会話」監修およびテレビ/ラジオ講師。著書に『歴史をかえた誤訳』(新潮文庫)、『危うし! 小学校英語』(文春新書)、『通訳者と戦後日米外交』『戦後史の中の英語と私』『英語教育論争から考える』(以上、みすず書房)、『国際共通語としての英語』(講談社現代新書)などがある。


    本物の英語力 (講談社現代新書)
    by 鳥飼玖美子
    つまり日本に暮らしていて英語を学ぶことは、「外国語」として英語を学ぶわけで、英語が主要言語である社会で日常的に使わざるを得ない「第二言語」として英語を学ぶわけではないので、必要度は低く、接触する機会も極めて少ないのです。ふだん使わないのですから、上達しないのは当たり前です。

    まず、よく「ボキャビル(ボキャブラリー・ビルディング)」の必要性が言われますが、「語彙」は、どの程度あったら良いのでしょう。話したり書いたり使いこなすことのできる発表語彙は、読んだり聞いたりした時に理解できる受容語彙より少ないとされているので、たくさん知っていればいるほど良いに決まっていますが、頭の中に詰め込める単語の数には限りがあるような気もします。これを見極めるには、「何のために英語を学ぶのか?」という、そもそもの目的を確認する必要があります。ちょっと海外旅行に行くから、というのなら中学レベルの語彙で何とか間に合うでしょう。けれど、仕事で英語を使おうという場合は、 8000 語は必要です。何かの問題について議論するとなれば、 1 万語は欲しいところです。北米の大学や大学院に留学して本格的に学ぶとなれば、やはり同程度の語彙力は必要で、アメリカの一流大学が入学の条件としているTOEFLスコアを見ると、およそ 8000 から 1 万語レベルであるのが分かります。ちなみに英語母語話者の語彙サイズは 2 万語くらいと言われています。

    国際会議の同時通訳者がどうやって専門用語を覚えるかというと、専門分野に関する書籍や資料を日本語と外国語の両方で読み、用語をひとつずつ二ヵ国語で書き出し、自分なりの用語集を作ります。今は手書きではなくパソコンでデータベースを作ってしまうようですが、自分の手で書くと記憶に残りやすい気がします。この用語集作成で忘れてならないのは、内容を理解するために読むことが先行する点です。専門分野の用語集は市販されているのですが、それを買ってきて眺めているだけでは、さっぱり覚えられません。内容が分かって用語集を作ることで、ようやく専門用語が頭に入り通訳できるようになるのです。

    同時通訳の大先輩であった國弘正雄さんは、洋書を読んでは英語らしい表現、洒落た言い回しなどをカードに書き出していました。それも、覚えておきたい単語や語句だけでなく、それが登場するセンテンスを丸ごと写すのです。時にはパラグラフまで。ひどく手間ひまのかかる作業ですが、それだけやると単語や表現が確実に頭に入ります。そして、その表現がどのような文脈で使われているのかを書きとめるので、自分で使えるようになります。それがいかに大切なことかというのは、次の「コンテクスト」に関する講で詳述します。

    そういえば、辞書の使い方にも一工夫が要ります。速読や多読では基本的に辞書は引きませんが、精読となったら良い辞書を脇において、「引く」のではなく、「読む」のが効果的です。どういう意味があるかを概観し、例文をチェックする、動詞を調べたら名詞や形容詞も調べる、同義語や反対語も調べる、熟語や慣用句も見てみるなど、たまに時間をかけて辞書を読んでみると驚く程の情報量です。辞書によっては、類語をまとめてニュアンスの違いを説明していたり、図が入っていたり、学習者が間違いやすい使い方の注意書…

    とはいえ、インターネットで検索すれば、新語を含めて意味や使い方はいくらでも出てくるので、便利な時代になったものです。それでも私は紙の辞書にこだわりますが、説明が豊富なこと、さらには用例が多いことが条件です。逆にいえば、用例が少なく説明が素っ気ない辞書は価値半減ということにもなります。三浦しをんさんの『舟を編む』は好きな小説のひとつですが、日本語の辞書を作るのでもあれだけの苦労です。ましてや英和辞書となれば、まさに二つの言語のせめぎ合いです。

    私は、翻訳をしている時や、NHK「ニュースで英会話」の日本語訳を監修している時、いくつもの辞書──インターネットも電子辞書も紙媒体の英和辞書も英英辞書も──を読みあさって、納得のいく日本語訳を探し回ります。すると、小さな単語であっても、いや、ほんのちょっとした単語こそ、辞書によって微妙に定義が異なることが分かり、いつも言葉の奥深さに打たれます。

     そのような奥深い言語文化を包み込んだ単語ひとつひとつを機械的に覚えても、英語を理解したことにはならないのは当然かもしれません。語彙を増やすには、だから、読むことです。読むことは、英語を聞く力、話す力、書く力など、すべての土台となります。  本や記事の内容や難易度、読書に使える時間的余裕、どれだけ丁寧に読みたいかという目的や、その時の気分などを勘案しながら、「多読」「精読」を組み合わせて、ともかく英文を大量に読んでみましょう。

    英語の単語や語句は、日本語のそれと等価ではない。だから単語カードで機械的に覚えても使いこなせるようにはなりません。日本語で言い表すことができない外国語の意味をどうやって把握するのかといえば、その言葉がコンテクストの中でどういう意味で、どう使われているかを考えるしかありません。逆にいえば、コンテクストがあるから単語や語句の意味が分かる、ともいえます。

    英語力をつけるには、会話パターンを暗記しているだけでは効果が薄く、ともかく「読む」ことです。なぜなら、コンテクストの中で生き生きと使われている言葉を学ぶことを可能にしてくれるのは、何と言っても読むことだからです。IMFのラガルド専務理事はフランスの弁護士であり政治家で、高校時代に私と同じAFS(American Field Service)でアメリカに一年間留学していますが、高校留学で習得しただけの英語ではない印象です。記者会見での英語を聞くと、その語彙や文章の格調高さから、相当量の英文を読んでいるのが明白で、教養のある英語です。

    「文法なんてやるから英語がしゃべれない」という主張をよく聞きます。その声に押されて、近年の英語教育では文法の扱いが一昔前とは違い、まるで 敵 のように脇へおいやられています。英語教育でオーラル・コミュニケーションが重視されるようになった一九九〇年代から、文法は百害あって一利なしのように非難され、少なくとも建て前としては、公教育における英語の授業で文法の影は薄くなっています。  そのせいか、最近、多くの大学で囁かれているのが、入学者の基礎力不足です。今の学生は語彙力がないので読み書きが苦手な上に、英語の文法を知らないようで、主語や動詞がない英語を書く、現在と過去が判然としない、単数と複数の区別がつかない、いったいどうなっているのだろう、と英語教員は頭を抱えます。これではレポートを英語で書くなど無理だし、発表や討論も難しい、と補習に踏み切る大学も出てきています。国立大学の英文科でさえ、学生が英文を読めないことに愕然とし、慌てて補習を始めたところがあると聞きました。

     しかし、中にはしっかりした基礎力のある学生もいます。調べてみると、浪人して予備校でがっちり学んだ学生か、いわゆる進学校で「文法、やりました」という学生です。「学習指導要領」では、オーラル・コミュニケーションをやることになっていても、実際には文法を教え読解をやらせている高校が少なからずあるようで、どうも「文法は教えるな」という建て前と、「そうはいっても」という現場の本音があって、学校では相変わらず文法の説明をしている、というのが実態なのでしょう。正面切って文法説明を入れた検定教科書の販売数が予想外に多く、関係者を驚かせたくらいです。

    つまり、ふつう私たちが「英文法」と言っているものは、例えてみれば、スポーツのルールみたいなものです。テニスであれ野球であれ、スポーツには必ずルールがあり、選手はそのルールに従って試合をします。スポーツをやりたいと思ったら、ルールを学んで技能を磨くしかありません。英語も同じです。英語を使いたいと思ったら、ルール(文法という規則) を学び、スキル(聞くこと、読むこと、書くこと、話すことの 4 技能) を磨くしかありません。

    この靴、欲しい」くらいのコミュニケーションなら単語と身ぶりで何とかなるでしょうが、相手の話を理解し、それに対して自分の意見を言う、交渉で双方の言い分を調整して落としどころを見つける、などという複雑なコミュニケーションの場合は、単語をどう並べてセンテンスにするかというルールを知らないでは、まともな話ができません。

    これが発音だと、少し変でも相手は「あ、この人はネイティブ・スピーカーじゃないな、ゆっくり喋ろう」と外国人でも分かるような話し方にしてくれたりする利点があります。そのような配慮ができない英米人も多くいますが、少なくとも少々間違った発音だからといって不快がることはなく、外国人なんだからしょうがない、と許してくれます。ところが、文法が間違っていると、単純に「教養がない」と思われてしまいます。メールで書いた英語が文法的な間違いだらけだと、「うーん、この人、教育程度が低そう」と誤解されてしまいます。

    それでも、やはり文法規則は知っている必要があるのです。なぜって、知らないとセンテンスを組み立てられないし、センテンスを作れないとまともな会話ができないからです。

    まず基本的なこととして、英語には「主語」が必要です。主語がなくても成立する日本語とは決定的に違います。そして主語の次には「述語となる動詞」が来ます。「何をするのか」「何をしたのか」などの動詞を使うには、現在の話なのか、過去の話なのかを区別するために、現在形や過去形を知る必要があります。それだけで済む場合もありますが、時には「何を」という目的語が次に来たりします。ここで日本人はまた、うんざりします。語順がまるで違うからです。

    「私は犬が好き」と日本語で言うところを英語では「私ハ好キ、犬ガ」となってしまいます。おまけに、好きなのが特定の犬ではなく犬全般の場合は、I like dogs.(私は犬たちが好きです) と複数形にする作業も出て来ます。犬を好きなのが妹の場合は、likeではダメで三人称単数現在の"s"を付けて、My sister likes dogs.としなければなりません。なんと面倒な。中学生が英語嫌いになるのが分かる気がします。

    ことほどさように英文法は苦労の種ですが、文法規則の骨子を知ると、英語の仕組みの概要を摑むことができます。言い方を変えると、文法というルールを勉強しておかないと、コミュニケーションという試合には出られません。そのためになすべきこと。  まず、最低限のルールを知る、というつもりで基本的な文法規則だけは勉強しましょう。

    でも、ともかくこういう順番に単語を並べないと、英語コミュニケーションという試合に出られないのですから、腹をくくります。試合となれば、ルール違反はできません。主語を入れ忘れたら反則です。動詞がなくても反則です。過去形を忘れたらいつのことなのか分からないので、イエローカードです。ルールなのだから仕方ない。何とか工夫して、ルールを理解し体得しなければなりません。

    文法が苦手だった私は、目的語と補語の違いが分からなくて困ったのですが、「イコールでつなげられるのが補語」と教えてくれた人がいて、なるほどと思いました。 5 文型の最後に出した例文"He makes me happy."で見ると、He(彼) とme(私) は二人の違った人間でイコールではないので、meは補語ではなく目的語です。その次のhappyは、「私」が「幸せ」なのですから、me=happyとなり、補語だと分かります。

    文法知識は英語の理解に不可欠だということを説明しましたが、実際に英語を話す際に、この動詞は目的語を付けるのかな? ここは過去形にするのかな? などといちいち考えていたら話せなくなる、というのも事実です。理屈で考えていないで、熟語などは丸ごと頭に叩き込んでおかないと使えない、ということも確かにあります。この辺のさじ加減は大事で、文法にかまわな過ぎるとハチャメチャ英語になってしまうし、文法的な正確さにこだわり過ぎると完璧主義に陥り怖くて話せません。文法的に説明がつかないと落ち着かない人もいますが、それほど神経質にならずに英語を使っても良いのではないかと思うこともあります。

    文法的な正確性に過度にこだわらず、無理せず確実に文法力をつけるには、どうしたら良いのでしょうか。万能薬はありませんが、ひとつ言えるのは、語彙と同じで、回り道のようでも、たくさんの英文に接していると効果があるということです。英語を読むという練習をしっかりしていると、だんだん英文の構造に慣れてきて、複雑なセンテンスも霧が晴れるように分かってきます。  内容のある話を英語でするには、基本文型をおさえた上で、もう少し高度なルールも要りますが、これも基本は同じで、読むことでルールを体得します。

    「アメリカに行けば赤ん坊でも英語を喋ってる。だから小さいうちから英語をやればいいんだ」という意見がありますが、母語だから勉強しなくても話せるようになるとはいえ、それは英語に囲まれた環境で日々を過ごした結果で、それでも、関係代名詞を使えるまでに一〇年はかかると知れば、なーんだ、やっぱりこれは難しいんだ、と気が楽になります。外国人である私たちが学校で短時間学んだだけで、何とかthatやwhichを使って二つのセンテンスをつなげているのはたいしたものです。もちろん会話では、ひとつのセンテンスごと単文で話しても通じますが、関係代名詞を使うと大人の英語になります。

    関係代名詞と同じくらい学習者に不人気なのは仮定法で、日常会話に必要ないのにこんなことまで勉強させられたから会話ができない、と恨みを抱いている人、文句を言う人が大勢います。でも、仮定法とは、「もし何々だったら」と、現実とは違うことを仮定として言う時に必要で、これを知らなかったら、「もし私が海外に行ったら」「将来、医師になったら」などと夢を語れません。「もし一〇パーセント引きにしてくれたら、これを買う」という交渉もできません。

    それに対して「訳す」という作業は、母語話者ならしないと考えられていますので(実際には、母語でも「訳す」ことはあります。難しいことを易しく言い換えたり、幼児の言うことを親が「通訳する」など)、通訳者や翻訳者ならともかく、ふつうの学習者にとっては不要だ、という考えはあり得るでしょう。読んだ英語をいちいち日本語に訳していたら、時間ばかりかかるし、話せるようにならない、という不満も理解できます。中国から漢籍を学び、オランダ語を通して西洋文明を受容した時代なら読んで訳すことは大切だったろうけれど、グローバル時代の現在は、学んだ英語を使えなければ意味がない、訳しているよりは会話を練習すべきだ、という意見も一理あります。

    海外でも、文法訳読は昔から行われていながら評判は悪く、もっと実践的に使えるようにとさまざまな教授法や学習法が考案されてきました。第二次大戦後に流行した「オーディオリンガル・メソッド」は、パターン練習を繰り返すだけでは実際に使えないことが判明して衰退し、次に主流となった「コミュニカティブ・アプローチ」は、コミュニケーションに使えるよう「正確性より流暢性」を重視したところ、文法や発音に難ありの結果となり、文法規則や音声など言語の形式に焦点を合わせて指導する方法(Focus on Form)で是正しようという研究が始まって、もう二〇年以上になります。

    忘れてならないのは、この二つは二律背反ではなく、車の両輪のように、どちらも必要だという点です。ざっと読んで大筋を理解することも、じっくり分析しながら丹念に理解することも、どちらも大切なのです。  目の前にある英文を毎回すべて日本語に訳して読んでいたら、時間がいくらあっても足りず、一年間かけてペーパーバックを一冊読み上げることすらおぼつかなくなります。むしろ多様な英文を、どんどん読みとばしていく多読が効果的であることは研究結果に表れています。

    一方で、時と場合によっては、腰を据えて英文をじっくり読むことも、語彙力や読解力を高め、書く力と話す力にもつながります。その際に、訳してみると、英語と日本語との違い、外国語と母語の差異、超え難いほどの言語文化の溝を明確に意識することになり、母語を相対化することが可能になります。そうすると、言語についての感性が鋭敏になり、結果として外国語学習の力が強化されることになるのです。

    このように、ぴったりした訳語を思いつくのが難しいので、通訳者や翻訳者は苦労するわけです。異なる言語を橋渡しすることの宿命ともいえます。しかし、そういう苦労を経て、通訳者/翻訳者は二つの言語についての理解を深めていくのです。プロの訳者を目指さない学習者も、「訳すこと」で英語と日本語の距離を実感し、英語で自分の考えや意見を分かりやすく述べる術を手に入れられます。

    むろん、訳してばかりではなく、時には英語を読んで大意を摑んだり、日本語を介さず英語で話したりの練習も欠かせません。総合的な英語コミュニケーション能力を養うには、英語学習の方法は多様である方が良いのです。ひとつの方法に固執するのではなく、異なる学習方法を積極的に取り入れることで、豊かな言語力が育つように思います。個性の異なる人びとが共に切磋琢磨した方が活気のある社会になるのと同じです。

    となると、音読は、どちらかといえば内容よりはスキルに傾注した学習法なのでしょう。音読の効果は科学的に証明されているわけではありません。何回も音読するほど努力する学習者は、音読だけでなく、書かれている内容を精読したり、次には多読したりと、さまざまな学習法を実践していることが多いので、「ひたすら音読」という方法だけでどの程度の効果があるかを調べるのは至難です。  日本で音読がこれほど学習者に人気なのは、英語と日本語の音声がかけ離れているため、音読することで英語音声を習得するという目的があるようにも思います。

     好きなことを英語でやる、というのがひとつの案です。自分に興味があることなら、どのような内容でも構いません。  陸上が好きなら、英字新聞で陸上競技についての記事を音読し、衛星中継を英語で聞く。これだけでも立派な「内容と言語を統合した学習」です。二〇二〇年東京オリンピックに向けて、さまざまなスポーツの実況中継を英語で楽しむことは、そのまま英語学習に繫がります。

    料理が得意なら、インターネットで検索して英語で書かれたレシピを読んで作ってみる。友人に食べてもらって感想を英語で聞けばリスニング練習にもなります。作り方を英語で説明してみれば、読む、聞く、の受容スキルに加えて、話すという発信スキルの練習にもなります。

    つまり、英語のスキルを習得することに主眼を置かないで、自分が関心のある内容を英語で読んだり書いたり話したりに集中することで、結果的に英語の力がつくことになります。日本人がグローバル市民としての英語を学ぶのは、自分の意見や考えを主張する、日本について説明するなどの発信型コミュニケーションの習得が目的とならざるをえません。そのような英語力を獲得するには、「何かを英語で」という、内容重視の学習法が適していると考えています。

    ミシガン・メソッドという英語教授法で著名だったミシガン大学ラド教授(Robert Lado)にだいぶ前にインタビューしたことがあり、その時に氏が強調していたのは、「自分の手で外国語を書くと、定着するのだ」ということでした。「専門的にどういう説明になるのか分からないけれど、脳と手足はつながっているからだろう、手を動かすことで単語や語句やセンテンスが頭の中に記憶されやすくなるのは確かだ」という主張は、経験的に私も同感です。英語を実際に手で書いていると記憶に定着するという実感は確実にあります。それと反対に感じているのは、パソコンで原稿を書くようになってから、漢字が書けなくなったことです。読めるのだけれど、さて書いてみようとすると、書けない。小中学生の頃の自分なら難なく書けた漢字が書けず、はたと考えてしまうというのは何とも情けない。インターネットで調べながらパソコン画面で原稿を書くというのは、書くこと自体が楽ですし、書き直しも簡単です。一字ずつマス目を埋めていく原稿用紙に比べてパソコンソフトは何と便利なことかと思いますが、失うものもあるわけです。

    洋画を観る、というのは英語学習の定番のようです。昔も今も、英語好きは決まって洋画を観ている印象があります。異論を唱えているのは私の知っている限りでは、元日本マイクロソフト社長だった 成 毛 眞 さんくらいでしょうか。映画は難易度が高いので、ふつうの学習者が観ても英語力がつくほどにはならない、という主張でした。

    ディズニー映画の『アナと雪の女王』が爆発的な人気でしたが、『アナ雪』を日本語の吹き替えで観ているだけでは、英語で観たのと同じと言えるのかどうか。  私は最初、日本語吹き替えを上映している映画館にたまたま入ってしまい、「日本語で流行っているのだから、これで良いか」と考えていたのですが、英語通の友人に「英語で観ると、日本語と全然違う映画なんだから、英語で観なくっちゃ」と言われました。そんなに違うのかな? と思いながら海外出張の機内で英語版を観て、「なるほど、違うって、このことか」と思いました。そもそも「アナ」は、Annaで、音が違います。英語タイトルは"Frozen"(凍った) であって「雪」ではありません。人気の主題歌も、"Let It Go"の意味は「ありのまま」とはニュアンスが違い、いつまでも腹を立てていても「しょうがない」「放っておけ」、そんな悩み「忘れちゃえ」ほどの意味です。ところが、日本語訳を「ありのまま」にしたのは理由があったとのことです。アニメの主題歌ですから、歌っているエルサの口の動きと合わせる必要がある。「レリゴー」(let it go)を「ありのままの」という日本語にすれば、口の動きが同じようになるというのです。英語版のオリジナルと同じ意味ではないけれど、歌と物語のメッセージを表現していることから大ヒット曲になったようです。この思いきった日本語訳をしたのは、高橋 知 伽 江 さんという翻訳者であり訳詞家とのことです。

    私はもともと映画が好きで、英語を学ぶ目的で観るわけではないのですが、時には映画館の暗闇でメモ帳を取り出して面白い表現を書きとめることもあります。アメリカ大統領が主人公の映画"The American President"(一九九五) では、大統領補佐官が、マイケル・ダグラス(Michael Douglas)演じる米国大統領の高校時代の友人でありながら、"Mr. President"と敬称を使い続ける様子に、敬語がないとよく言われるアメリカ社会でも役職による上下関係はあるのだと、社会言語的な実態に関心がわきました。英国王ジョージ六世(エリザベス女王の父) が主人公の"The King's Speech"(二〇一〇) では、「国王としての任務や仕事」を"kinging"と言っていたので、king(国王) という名詞を動詞に使うという発見がありました。国王の吃音を直すための発音訓練も興味深いものでした。発音訓練といえば、何と言っても"My Fair Lady"です。ロンドン下町育ちのイライザが訛りを矯正して上流階級の品の良い発音で英語を話せるようになるまでの物語は、外国語としての英語を学ぶ身にも参考になるところが大でした。

    私の好きな日本映画に『おくりびと』(二〇〇八) がありますが、この映画の英語版はアメリカでも大ヒットしました。カリフォルニア大学の応用言語学教授が観て感激したと話しはじめ、あの場面が最高だね、あの映画は日本的だと思ったけれど意外に普遍性があるんだ、などと大いに盛り上がりました。日本語のタイトル「おくりびと」が英語でどうなっているのかと思ったら、"Departures"というのだそうです。「ふーん、departureかあ」とつぶやいたら、その先生に"Departures!"と複数の"s"を強く発音して注意されてしまいました。"departure"は数えられる(可算) 名詞で使うこともあり数えられない(不可算) 名詞の時もあり、「旅立ち」という意味で使われる時は通常なら数えられない名詞として扱うのですが、そうか、いろいろな人びとが世を去る様子を描いた映画だからdeparturesなのか、と妙に納得し、departureがどういう時に複数として使われるかを調べたりしました。日本語タイトルでは「おくりびと」と呼ばれる納棺師に焦点を合わせ、英語タイトルでは、この世から死者を送り出す人間と、あの世に送られる人間とが共有する「旅立ち」(departure)に焦点を当てているわけで、この視点の違いも興味が尽きません。

    最近は日本映画のリメイク作品も出てきて、新たな楽しみが増えました。『Shall we ダンス?』(一九九六) という抱腹絶倒の日本映画が、"Shall We Dance?"(二〇〇四) というハリウッド映画になり、『ハチ公物語』(一九八七) が"Hachi: A Dog's Tale"(二〇〇九) となり、両方とも話題になりました。"Hachi"の時も私は上映館を間違えて、日本語吹き替えの映画を観るはめになりました。もともとは日本の犬の物語がハリウッド映画にアレンジされ、リチャード・ギア(Richard Gere)のせりふを日本語で聞くという、文化と言語が逆転したような奇妙な体験でした。

    英語の映画についてあれこれ思い出しているうちに、受け身で観る英語の映画が必ずしも無駄だというわけではないような気がしてきました。日本語字幕の助けを借りて観た映画に感激して、原作を英語で読む気になることは、結構あります。映画史上屈指の名作とされる『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind、一九三九) は、日本でも初公開の一九五二年以来ロングランの大ヒットとなり、その後、何度もリバイバル上映されています。その名画を何かの折に観て原作を読みたくなり、最初は日本語訳で、やがて英語でMargaret Mitchellの原作を読みました。最近になって、友人が新訳を刊行したので久しぶりに『風と共に去りぬ』(荒このみ訳) を楽しみ、またもや英語でも読み始めたくらいです。ジェーン・オースティン(Jane Austen)の名前は知っていても本…

    そう、外国映画というのは、映像の力で異文化を目の当たりにすることを可能にしてくれると同時に、もっと理解したい、もっと知りたいという欲求を喚起する力があるようです。その意味で、外国映画は外国語学習の強い動機付けになるのかもしれません。昔も今も、…

    「長崎通詞」について知っている方は少ないかもしれません。今の言葉で言えば「通訳者」のことです。ただし、大きな違いがあって、現代の通訳者は、企業内通訳者を除けば、ふつうはフリーランスの通訳業です。ところが「長崎通詞」は、江戸幕府の直轄地である長崎で通訳の仕事に従事する地役人です。いってみれば、通訳専門の地方公務員なのだけれど給与は中央政府から支払われているわけです。しかも現代の通訳者と決定的に違うのは、世襲制で、男子が跡継ぎとなります。男の子がいない場合、もしくはいても通訳には向かない場合は、他の通詞の家から養子をもらい跡継ぎとします。ちょうど歌舞伎の世界のように幼い頃から技能を伝授し、力をつけていくと格が上がり、最高位は「大通詞」です。

    作家で翻訳家のフレデリック・ショット(Frederik L. Schodt)は、マクドナルドに関しての研究書で、日本でマクドナルドが語られる際、常に「初の英語教師」と呼ばれるが、これは正確ではない、としています。長崎で英語を通詞に教えたのは、オランダ人が先だったからです。「日本で初のネイティブ・スピーカー英語教師」という説明もよくなされますが、これも不正確です。イギリス人から学んだ日本人がいた可能性を否定できないからです。ショットによれば、ラナルド・マクドナルドが果たした役割の意義は「長崎通詞に英語を教えたこと」にあります。マクドナルドから直接に英語を学んだ通詞の存在がなければ、「日本が独立を守ることは難しかったであろう。政治的、社会的、技術的な革新に成功し世界の大国となった代わりに、他のアジア諸国のように西欧列強の餌食となり植民地となっていたかもしれない」* というのです。  英語学習が、日本と世界の趨勢を左右する、というのは現代も同じ、というか、グローバル時代は、もっとそうなる可能性が高い、と言えそうです。

    小学校国語の学習指導要領(平成二〇年告示) を見てみると、書くことについて、五・六年生の段階では次のように指導することが説明されています(傍点は著者による)。  書くことの能力を育てるため、次の事項について指導する。    考えたことなどから書くことを決め、目的や意図に応じて、書く事柄を収集し、全体を見通して事柄を整理すること。    自分の考えを明確に表現するため、 文章全体の構成 の効果を考えること。    事実と感想、意見などとを区別するとともに、目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること。    引用したり、図表やグラフなどを用いたりして、自分の考えが伝わるように書くこと。    表現の効果などについて確かめたり工夫したりすること。    書いたものを発表し合い、表現の仕方に着目して助言し合うこと。

    考えてみると、私は毎日のように日本語で文章を書いていますが、「論理的な一貫性」については、さほど意識して書いていない気がします。そういえば一回だけ、意識して書いたことがありました。新聞社に「英語式論理構成で書いてみて欲しい」と頼まれたからです。鳩山由紀夫さんが総理大臣に就任する直前に、ご本人の論文が英語で要約されてニューヨークタイムズ紙に掲載された* のですが、これを鳩山事務所による英訳と比較して、論理的構成の大切さを解説した論考* だったので、「その文章自体を英語的ロジックで書いてみて」と依頼されたわけです。試してみて、日本語では読者にとって分かりやすいように構成することは心がけるけれど、英語的な「論理の一貫性」(logical coherence)を保つには、相当に意識しないと書けないことを実感しました。

    その体験から、これからの国語教育では英語教育と連携して、英語式論理構成を導入した指導ができないだろうかと考えるようになりました。国語は母語教育で、英語は外国語教育ですから、この二つを連携させようという試みは無謀かもしれませんが、言語教育という共通点があることも事実です。そのような視点から、小さな研究会で英語と国語の専門家が集まり検討を始めています*。

     私がかつて大学生を引率したことのあるカナダの大学の語学研修では、トイレットペーパーを使ってのウエディングドレス作りに一時間以上を費やし、「授業ではもう少し大学生らしい英語を教えて欲しい」と講師に注文をつけたことがあります。午後は「異文化体験」となっているので何をするのかと同行したら、「ピザのトッピングを体験する」というプログラムで、これなら日本でもできると思いましたが、学生たちは海外にやってきたことが楽しそうで文句は出ませんでした。  海外語学研修の最大の問題は、現地の学生との接触がほとんどないことです。肝心の学生達は夏休みですから、キャンパスは各国からの研修生ばかり。大学主催の語学研修の場合は、何十人もの学生がまとまって行くので、授業は同じ大学の学生と一緒になります。何のことはない、場所が変わっただけで、授業はいつもの仲間と一緒、ということになりかねません。

    高校生留学は、現地でホームステイしながら学校に通うので、貴重な異文化体験となります。柔軟性に富み英語の基礎もある程度できているので、言語と文化の吸収度の高さは抜群です。私自身の体験から言っても、高校時代に一年間の海外留学を経験した人間は、その後の人生を左右するほどの得難い体験をし、自律性を身につけて帰国します。

    一九六三~六四年にAFS高校留学プログラムでアメリカに一年間ホームステイし高校に通った六〇名に、高校時代の留学がその後の自分の人生にどのような影響を与えたか聞いてみたところ、次のような回答を得ました*。  ( 1)異文化理解に役立った 四七名  ( 2)人格形成に役立った 二五名  ( 3)英語力がついた 一六名  ( 4)キャリアに役立った 一二名  回答者の多くは複数の意義を挙げ、職業も外交官、通訳者、翻訳者、学者、ジャーナリスト、英語教員、日本語教員、商社勤務、銀行員、公務員、IT起業家など多岐にわたっており、感想もさまざまです。その一端を知っていただくためにいくつか例を挙げてみます。(コメントは短く編集しています)

    高校時代にアメリカに留学した意義は 「解放感と自由を享受し、同時に自己責任の大事さを身をもって知った」 「自分自身を見つめる機会を持ち、自分の可能性、限界などを認識できた」 「国籍や文化の違いを超えて人間として理解し合えることを実感した」 「日本とは何かを考えさせられ、世界とは何かを考える視座をもたせてくれた」 「異文化に触れたことによって世界がさらに広がった。自分の国(日本) について知らないことが多かったと自覚した」 「異文化体験をしたことにより、日本文化を見直すことにもなり、また、アメリカだけでなく、アジア、ヨーロッパの文化も受容できるようになった」 「グローバル的視点から物事を見られるようになった。私のその後のprofessional life の全て」 「異文化の中で生活することにより、個人としてまた日本人としての自分をより強く意識するようになった」 「より広い価値観を受け入れられるようになった」 「多様な価値観に触れたこと。習慣、世間体などに左右されずに本質をよく見て考え、表現、行動、発言をしていくことが大切なことであると学び、社会人になってからの自分自身の価値観の形成に影響を与えている」 「言語、文化、社会環境が異なる相手を理解する能力が身についた。自分に自信を持つことができた」 「人を見る時に固定観念で見ないことは貴重な経験で、今日の私を作ってくれた」 「既成概念で社会を見ないで、自分で考えることの尊さが身についた」 「人の価値観は多種多様であること、そして各人のその核となっているものを互いに認め合うことの大切さを実感したこと」 「共通の言語と、相手を知ろうとする気持ちがあれば、他国の人たちとも理解しあえるという体験」 「相手が誰であろうが臆することなく、しかし敬意を持って対することを学んだ」 「はっきりものが言…

    避けたいのは、さしたる目標もないのに、ともかく海外に行ってみたい、と英会話学校やESLコースに入ることです。日本ではダメだった英語も海外で過ごせば何とかなると思いがちですが、大学へ入ることが目的の場合には、思うように英語力は伸びないまま資金が底をつき、入学できないままアルバイトで日々を過ごすことになったり、帰国を余儀なくされたりします。英語の準備をしっかりしてからの渡航が、効果をあげる近道です。

    大学や大学院で特定の専門分野を学ぶために留学する場合は別として、留学の大きな魅力は異文化理解にあります。日本政府も留学による異文化体験を強く勧めています。  ところが海外では最近、留学が本当に異文化理解に繫がるのかどうか、改めて議論されています。高校生留学は異文化理解に有効とされますが、ただ留学しただけでは効果が薄いという研究も出てきており、ならば、どうしたら留学を異文化理解に結びつけられるか、と研究者や異文化理解教育の現場が協力して検討しています。

    日本人で初めて国際宇宙ステーションの船長になった若田さんはどのように英語を学んだのでしょう。仕事で英語を自在に使っている様子から判断すると、おそらくは学校で学んだ英語の土台をもとに努力を積み重ね、NASAへ行ってからは職場で使われている英語をどんどん取り入れて自分でも使ってみたのだろうと推察し、念のためにインターネットで調べてみたら、なんとその通りでした。若田さんは埼玉県大宮市(現・さいたま市北区) で育ち、埼玉県立浦和高校から九州大学に進み大学院を卒業してから日本航空に就職しています。浦和高校は有数の進学校ですから、しっかり英語を勉強したはずです。二九歳の時にNASA宇宙飛行士養成クラスで訓練を受けたのが初の海外赴任だったそうです。

    ハンマー投げ選手の室伏広治さんとパーティーで会った際には、流暢な英語でユーモアたっぷりのスピーチを事前の準備なく披露していましたが、歓談の際に英語について質問したところ、英語は使わないわけにいかないのだとのことでした。

    スポーツで外国語を使う環境の最たるものは、相撲でしょう。外国人力士にとって日本語は外国語ですが、どの力士も日本語を使いこなします。考えてみれば相撲部屋に住み込んで暮らすわけですから、究極のホームステイです。二四時間、日本語漬けの生活。ちゃんこを食べて暮らし、相撲の練習をしながら、日本語を体得する。遊びや趣味ではなく、仕事がかかっていますから、学ぶ動機付けが強くあり、真剣味が違うのでしょう。エストニア出身で元大関の 把 瑠 都 さんを「ニュースで英会話」のスタジオに招いたことがあります。語学番組ですから、外国語としての日本語をどう学んだか詳しく聞いてみました。初めて来日し、相撲部屋に住み込み、何を言っているのだか分からない日本語を必死で勉強した体験談を聞き、相撲通のデーモン閣下をはじめ出演者一同、その努力に打たれました。

    iPS細胞でノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学教授の山中伸弥さんも、科学者は国際的に活動することを余儀なくされるので英語は必須だとの主張です。医学関係では、皮膚科学会や脳外科医の研究会に招かれて英語学習について講演したことがありますが、医学界でも他の理系分野と同じく、英語で論文を書き、学会では英語で発表するだけでなく、英語で質疑応答に対応し、懇親会では英語を使って親しくなりネットワークを広げるので、英語力は不可欠だとのことでした。医学会議の書籍販売会場で、専門書と並んで英語関連図書のコーナーが充実しているのは当然かもしれません。

    ノーベル物理学賞受賞者で英語教育について卓見を述べているのが、京都大学名誉教授の益川敏英さんです。英語の論文を読むことは日常的に行っているけれど、「英語は、できるに越したことはない。でも、できなくたって生きていく道はある。つまり、英語『も』大事なんです」と冷静です。では何が重要かといえば、「まずは学問に本質的な興味を抱くこと。得意分野を磨くこと。その先に、やっぱり英語もできたほうがいいね、という程度の話なのではありませんか」というのが結論です。 「僕は語学が大嫌いです。学生時代もまったく勉強しませんでした。物理の本を読んでいるほうが、はるかに楽しかった」という益川さんは、「母語で学ぶ強み」について重要な指摘をしています。 ノーベル物理学賞をもらった後、招かれて旅した中国と韓国で発見がありました。彼らは「どうやったらノーベル賞が取れるか」を真剣に考えていた。国力にそう違いはないはずの日本が次々に取るのはなぜか、と。その答えが、日本語で最先端のところまで勉強できるからではないか、というのです。自国語で深く考えることができるのはすごいことだ、と。(二〇一四年一一月二六日付朝刊「朝日新聞」)

    ただし、忘れてはならないのが、英語というのは外国語であり、未知との出会いの連続だということです。自分に合った方法で勉強しつつも、常に果敢に未知へ挑戦する勇気が必要です。それは、これまで使ったことのない教材かもしれません。読んだことのない本かもしれません。試みたことのない講座や学習法かもしれません。留学という根こそぎ環境を変える異文化学習もあり得るでしょう。

    宇宙飛行のリーダーである若田光一さんは、「自分が経験していない新しい環境に身を置くこと、新たな目標を設定をすることを好む」、と前出のインタビュー記事にありました(「東洋経済オンライン」、二〇一三)。キーワードは「守りに入るな」だそうです。「どんなに大変だと思う仕事も、しばらくすれば慣れてきます。慣れて〝定常状態〟に入ると成長は鈍化する。そんなときはあえて、環境を変えて変化させるんです。不均衡状態をわざと作ることで緊張感を維持し、自らが進歩していけるのだと思います」という若田さんの言葉は、どのような仕事にも言えることですし、英語学習についても同じです。

    英語という外国語を学ぶことは、「未知と向き合い異質性と格闘すること」です。英語に限らず、どのような外国語を学習するにしても、言語に潜む文化を無視しては、外国語を学ぶことにはなりません。異文化理解というと、外国へ行って珍しい体験を楽しむような印象がありますが、実はそんなに単純なことではありません。目に見える文化は、たとえば食べ物やお祭りや衣服など、違っていても平気というか、物珍しさが面白い。問題は、そういうことではなく、目に見えない深い部分に根ざしている価値観や信条など、本人も気づかないまま身についている文化です。意識の外にあるから、自分の行動が自文化に根ざしているのだと相手に説明することができず、相手は「いったい、なんでこんなことをするんだ?」と困惑したり、「こんな態度って、あり得ない」と不快になったり、果ては「ひどいじゃないか、非常識だぞ」と憤慨したりします。そのような厄介な文化の違いは、同じ社会の中でも地域によって、ジェンダーや年代の違いなどによっても存在しますが、外国となれば溝が大きく摩擦も深刻になります。

    しかも文化は言語にも深く関わっていて、切り離すことができません。人間は誰もが母語を持っていて、母語が持つ世界観に支配されています。すると、自分が意識せずに持っている価値観とは異なる価値観を持った言語を学習する際に、衝突や葛藤を起こすことがあります。異文化の葛藤だとは気づいていない場合が多いのですが、何となく違和感があって、素直に呑み込めない感じです。自己アイデンティティが脅かされるという表現が使われることもあります。

    そのような異文化との葛藤を秘めているから外国語を学ぶことは易しいことではないのですが、英語を学ぶことを「格闘」だと考えている人はあまりいません。だから、ちょっとつらくなると嫌になってしまい、もっと楽な方法はないかと探し、こんなに大変なのは教え方が悪いからだと学校英語教育を恨むことになります。シャワーのように英語を浴びれば上達するという宣伝文句に飛びついて試したものの、さっぱり上達しないのは、英語を浴びただけでは流れ落ちてしまい、異質な言語と格闘するまでに至らないからのような気がしてなりません。

    同じ目的を持った仲間と切磋琢磨しながら共に学ぶことは大切ですし、それは外国語教育でも有効です。ただ、それだけで良いのか、というと、そうとも言いきれないのが難しいところです。なぜなら、外国語学習が「異質性との格闘」だとすると、慣れ親しんだ仲間と居心地よく楽しく学ぶことで「異質性への対応」という部分が可能になるのか、という疑問が出てもおかしくないからです。  英会話サークルを作って仲間と勉強しても、期待したほどの成果が出ない、という場合が多いのは、その辺に原因があるのではないかと、最近になって考え始めました。いつもの仲間と英語で会話してみても、それほど変わった話は出ないので、「未知との遭遇」にならない。いつも一緒に英会話をしているうちに、互いに相手の英語に慣れてしまい、たとえ訥々とした英語であっても、妙な発音であっても、論理が支離滅裂でも、以心伝心で言いたいことはだいたい分かってしまう。これでは異質性との格闘にはなりません。

    外国語は、自らが学ぶ意欲を持って主体的に取り組まなければ成果が出ない、というのは、外国語が基本的に「未知」であり「異質」であることが大きく関わっているからです。英語という未知と遭遇した時に本人が逃げ出してしまえば、それまでです。英語という異質な言葉と文化を学ぶ機会があっても、本人がそれを避けてしまえば、それまでです。英語に「馬を水飲み場に連れて行くことはできるけれど、水を無理に飲ませることはできない」という格言があります*。英語学習者を馬に例えては失礼かもしれませんが、英語教師は生徒や学生を英語という「水」のある場に連れて行くことはできますが、その水を飲むのは学習者自身です。教師は「この英語という水は、美味しいですよ。試してご覧なさい」と飲み方を教えることはできても、学習者の口をこじ開けて無理矢理その水を飲ませることはできません。学習者は、日本語という水なら知っていますが、飲んだことのない水を飲むのは勇気が要ります。ちょっと味わってみても「いやだ、この味は今まで飲んだ水とは違う」と吐き出してしまったり、いったん呑み込んでみても「この味、不味い」と次からは敬遠するかもしれません。でも、違う味だけれど、体に良いらしい、と自ら決心して挑戦すれば、やがて好きになります。

    うーん、生涯かけての格闘? 大変だなあ、と思われるでしょう。確かに大変です。ここで必要なのが「自律性」です。一人でも学びを継続できる力。英語学習の成否を決めるのは「自律した学習者になること」です。  これは、実は、英語だけでなく、他の外国語にも通用することですし、よく考えてみれば、人生すべて「自律性」でしょう。他人と協調しなければ社会で生きていくことはできませんが、同時に、自らを律し、主体的に生きることも不可欠です。仲間と協働することを決めるのは自分なのですから、まずは自律性が肝要だともいえます。  そういう視点から考えると、英語を学ぶことは、人生を学ぶことにつながるわけで、一生をかける価値があると分かります。

    たかが英語じゃないか、と言ってあげたい。日本国民全員が英語の達人になる必要もなく、それぞれが得意なことを生かすことが社会の活性化につながると思います。しかし、されど英語で、英語はやっぱり捨てない方が良い。たとえ日本で暮らしていたとしても、長い人生のどこかで、英語との思わぬ出会いがあるかもしれません。グローバリゼーションは海外だけのことではなく、日本国内もグローバル化している現実が既にあるわけですし、二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックを考えれば異文化・異言語との接触が増え、外国語でのコミュニケーションは避けられなくなりそうです。もっと根本的なことをいえば、外国語は、本来なら異文化への窓を提供し、視野を広げ、人生を豊かにしてくれるものなのに、外国語の中で英語だけが嫌悪感や敗北感の種となってしまうのは惜しいことです。  ならば、英語をこうやって勉強してみたら? というアドバイスが出来ないだろうか、と考えたのが本書を書こうと思った理由です。英語が好きでもっとやりたいと考えている方、好きなのだけれど学習方法に自信がない方はもちろんのこと、書きながら私の脳裏に常にあったのは、英語ができるようになりたいと内心は思いながら、あきらめかけている方たちです。あきらめないで、こうやってみたら? という私なりのアドバイスのすべてに納得できなくても、ひとつでも、そうだな、やってみようか、と思っていただけたらと願いながら書きました。

  • Eテレでの鳥飼先生の教え方や解説は大好きであるが、書籍となると言いたいことがぼやけて薄く広がって感じてしまう。ただ第一部第3講の「精読」と「多読」の大切さは身をもって実感している。

  • 基本原則
    ・自分が主体的に使える英語 私の英語を目指す
    ・英語を覚えようとするのではなく、知りたい内容、興味のある内容を英語で学ぶ
    母音:日本語はあいうえおの5音、英語は20音
    子音:日本語は16音、英語は24音
    リズムがすべての英語
    先立つ物は語彙、8000語
    ゆっくり着実に語彙を取り込む、英文を読む多読 知らない単語は無視、広範囲にさまざまなものを読む、精読では、丹念に読む、丁寧に辞書を引く。目についた単語や表現を書き留めておく。
    読むことは、英語を聞く力、話す力、書く力、すべての土台となる。
    本や記事の内容や難易度、読書に使える時間的余裕、どれだけ丁寧に読みたいかという目的、その時の気分などを勘案しながら、多読、精読を組み合わせて、大量に読む
    基本的な事として、英語は主語が必要
    文の構造と5文型
    1.s(主語)+v(動詞)
    2.s+v+c(補語)
    3.s+v+o(目的語)
    4.s+v+o+o
    5.s+v+o+c
    イコールでつなげられるのが補語

  • 英語学習は格闘だ!

    英語を何のために学ぶのか。そこから発展して、どのように英語を学ぶのか、つまり英語の学習法に注目した本。外国語教育をかじっていたものとしては、なるほどと思う話がたくさん。

    結局は自律性。自分で必要性と目標を持っていることが外国語学習には必要である。特に英語学習は日本において、普段使う言語でもないし、自ら学びにいかないとインプットもアウトプットも足りない。

    いわゆる4技能の何に重点を置くかさえ、それぞれの動機によって異なる。だからある意味中高生が受験のために丸暗記するのは理にかなっている。でも英語もとい外国語学習の醍醐味はそこではないと思う。著者も記しているが外国語が異文化との出会いであり、非ネイティブとのコミュニケーション手段であるとするなら、もっと気楽に考えてよいが目標を明確にして学ぶ。

    高校における海外語学研修の経験者のコメントが興味深かった。語学力というより価値観の形成や精神の深みにつながっている。高校生という時期に異文化を知ることの大きさ。そこから外国語だけに限らず学ぶ意味と目標を見つけられたなら。

  • この著者の本を続けて読みましたが、本は読むものだと改めて思いました。「メタ認知ストラテジー」という言葉を初めて知りました。「自分なりの学習目的を設定し、自分にとって適切な学習法を自分自身で見つけ出す。」勉強になりました。そして「慣れるまで習う」という言葉も。

  • 発音はハチャメチャと完璧の間を狙う。語彙を増やすためには、たくさん読むこと。好きなこと、関心があることで英語を学ぶ…。英語学習の新たな視点を紹介する。日本人が「英語の壁」を乗り越えるための必読書。【「TRC MARC」の商品解説】

    関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB40236691

  • 時代小説を読むと、長崎通詞の話が、出てくる。
    オランダ人やポルトガル人、南蛮の言葉を通訳出来る者が存在しないと貿易は、成り立たなかった。
    それでなくとも、外交交渉などの外国語能力を持つ人物が、必要とされていた。

    今、英語を学ぶ事に、日本も、力を入れだした。
    戦後日本、6年間は習うのに、実践出来る事は、少ない。
    作者のように、最初から、目的を持って進まないと、上達は出来ないのかも。 
    読んでいて、未だに、a,を付けるのか、the付けるのか、と、悩む。
    ある本では、what time is it now?も、今は、使われないと、掲載されているものもある。
    how do you do?も同様か?
    小さな国土の日本でさえ、北から南まで、訛りや方言がある。
    広い米国、英語も同様であろう。
    マイフェアレディもそれと似ているのだろう。
    そして米国と英語でさえ、同じ単語でも違う。
    私が、昔習ったには、pantsは、米国では、ズボン!
    でも、英国は、アンダーウエアの品物になる、と!
    英語格差をなくすには、やはり、語彙を日頃使わないと劣化する。
    今の私は、もう、劣化状態で、中学生の英語から、学ばないと、……と思っている。

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著者プロフィール

立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授(研究科委員長2002-2005、2008-2010)を経て立教大学特任教授、立教・異文化コミュニケーション学会(RICS)会長(2009-2011)。著書『通訳者と戦後日米外交』(みすず書房2007)(単著)Voices of the Invisible Presence: Diplomatic Interpreters in Post-World War II Japan(John Benjamins, 2009)(単著)『通訳者たちの見た戦後史――月面着陸から大学入試まで』(新潮社2021)(単著)。

「2021年 『異文化コミュニケーション学への招待【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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