本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784062884068
作品紹介・あらすじ
幸福であることを願わない人はいないはずなのに、なぜ、ほとんどの人は幸福感を得ることができないのか? アドラー心理学と専門のギリシア哲学の知見を基に深く、深く考え抜いた上での著者の最終回答がここに。幸福になるための鍵は、ちょっとした気づき、視点の転換にある。人間が幸福になるための有益なヒントが満載。「本書を読めば、幸福はどこか遠くに探しに行かなくても、初めからここにあったことがわかるでしょう」。
本当の幸福とは何か? どうすれば、人は幸福になれるのか? 母親の突然の死、父との不和、自身の死の淵からの生還の体験など、生と死をめぐる様々な体験を契機に、著者の岸見一郎氏はこの問題について、永らく考えをめぐらせてきました。もともとギリシア哲学の研究者であった著者がアドラー心理学に出会ったのも、この問題の追求の途上のことでした。
本書は、そのような著者の個人的な体験と、ギリシア哲学、アドラー心理学など、人間の幸福に関する歴史上の深い考察を総合した結論としての本格的な幸福論です。
さまざまな哲学書を渉猟した結果、哲学者で幸福な生涯を送った者は、ほぼ皆無であることに著者は気づきます。そして思いました「よし、では自分が幸福な哲学者になろう」その結果については、ぜひ本書をお読み頂きたいと思います。
幸福であることを願わない人はいないはずなのに、なぜ、ほとんどの人は幸福感を得ることができないのでしょうか? この問題について長く、深く考え抜いた上で、あるとき、ふと著者は気づきました、幸福になるための鍵は、ちょっとした気づき、視点の転換にあるのではないか、と。著者の考えの道筋をたどりながら本書を読みすすんでいけば、あなたにも、幸福はどこか遠くに探しに行かなくても、初めからここにあったことがわかるでしょう。
みんなの感想まとめ
本書は、幸福とは何かを深く考察し、アドラー心理学と古代ギリシアの知恵を融合させた一冊です。著者の岸見一郎氏は、個人的な体験を通じて、幸福を得るための鍵は視点の転換にあると気づきます。アドラーの哲学が示...
感想・レビュー・書評
-
ベストセラー「嫌われる勇気」の作者の1人、岸見一郎氏による幸福についての評論。
副題に『アドラー×古代ギリシアの智恵』とあるけどほぼほぼメインはアドラー心理学。古代ギリシアもほぼプラトンだけだし、それも味付け程度にしか触れられていない。
内容は「嫌われる勇気」とほぼ同じ、アドラー心理学の紹介と説明。あっちの方が読み物であった分読みやすいしスッと入ってくる。評論、特に新書は小段ごとに話が切れるので全体を通してのつながりが見えにくい。
同じ内容を知りたいなら「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」を読んだ方がいいな。
でもその2冊を既に読んでたら、いいおさらいにはなると思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
アドラーの哲学は私にとって手厳しい。痛いところをついてくるから、読んでいて気持ちが萎えることもあるが、それだけ真実を突いている。岸見一郎さんの文章も時に厳しさがあるが、その厳しさは昔、小学校で出会った先生や看護師になって出会った師長をはじめとする先輩方に通じる懐かしさを感じる愛ある厳しさだ。ただ厳しいだけでなく、希望を感じさせる。希望を感じるから、もう少し頑張ろう、より良い人になろうと思える。
幸福は今、ここにある。
それを感じるために、ありのままの自分を認め、自分を愛し人を愛する。他者を敵ではなく、仲間ととらえることができる。私にとって、それは希望に通じる。まだまだ足りない所もたくさんある。だけど、その自分で生きていて、そんな自分に幸福はちゃんとある。そんなことを感じた。 -
岸見一郎さんの言葉はどれも突き刺さります。
あらゆる悩みは対人関係の悩みだというアドラーの哲学は嫌われる勇気で有名になりました。
幸福や生きる喜びは対人関係の中でしか得ることはできない。著者のこのお考えは一貫してどの本にも書かれていて強い信念を感じます。
わたし自身もこの言葉を自分に言い聞かせています。 -
思っていたより良い内容だった。インターネットを通して誰かの幸福が以前より見える化している現代で、幸福難民になっている人の気持ちが楽になる一冊かもしれない。幸福はあるもので、幸福を持つとは言わない、言えないという考え方を覚えておくだけでも、誰かと自分を比べて幸せかどうかを考えてしまうような夜は少なくなるのではないかな。
-
●アドラーとプラトンは何が善なのかを知ることが、幸福になるためには必要であると考えた。しかし、プラトンには具体性が欠けていると思われた。それでアドラーがこの知の内実を対人関係に求め、目的論を教育や臨床の場面で実践的に応用している点に興味を覚えたのだった。
●人は何かの出来事を経験するから、不幸になるのでも幸福になる男でもない。目的論を採ることで、不幸に、そして幸福の原因になるのではないかと考える。人は幸福になるのではなく、もともと幸福であるのだ。
●「人生の意味はない」「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」
●木の枝に五羽の雀が止まっている。そのうちの1羽を撃ち落とした場合、後に雀が何羽残るかと言う問いに対して、算数は5 − 1で四羽。実際は音に驚いて一羽も残らない。このように具体的に考えるのが哲学。一面だけを切り取って抽象的に考えるのが数学。
●「人生は限りのあるものだが、生きるに値するものであるには十分長い」
●三木清によれば、幸福は質的なものであり、成功は量的なものである。お金を得ることや出世をすると言うことであれば、イメージするのはたやすい。ところが幸福は質的なものであり、しかもその幸福は「各自においてオリジナルのもの」なので、他者には理解されないことがある。成功が一般的であるとすれば、幸福は個別的である。
●一時的に親子の間に軋轢が生じることになったとしても、最終的にあなたが幸福になれば、それが究極の親孝行だと。子供が親を喜ばせるために犠牲になる必要は無い。親は子供の選択によって心が折れるような思いをすることがあっても、その事は親が自分で解決するしかない。
-
アドラーで有名な岸見一郎氏の本。基本路線はアドラーの今までの本と同じ。いい意味でブレがない。
-
今の自分が欲しい言葉、自分の価値観とは違う言葉がたくさん書いてあって、心が楽になった。
とはいえ現代社会、今ここを生きているだけではどうしようもないことの方が多いので、全て鵜呑みにしてしまうのは厳しいのかも、と思ったが
戒めのような言葉がたくさんあるので、人生の本棚にいれたい。
著者の経験があっての主張というのもあると思うので、難しい〜。 -
嫌われる勇気とか幸せになる勇気が良くって、岸見さんに興味があり読んだ。全体は良かったが、ギリシャ等の古い言葉は意味が取りづらく、読み流しがちになる。
-
-
幸福とは何か、その定義について深掘りしていく哲学。アドラー心理学だけでなく、その他の領域についても触れた本書はリベラルアーツそのものなのかも…と思いながら読んだ。分かりやすすぎない感じが、却って頭の体操になり、心地よかった。
-
- 『幸せになる勇気』を読了後、もう少し深くアドラーのことを知りたくなって手に取った。
- アドラーの解説というよりは、岸見先生の考えを横で聞かせてもらっているような本。
- 岸見先生が過去の経験も踏まえて、アドラー心理学への理解を深めた経緯も知ることができる。
- 人生の生き方として、僕はアドラー心理学が一番しっくりくるな、と心を固めることができた本。
▼読書中メモ
人は何かを経験するから幸せになるのでもなく、不幸になるのでもない
生きることは苦しみであるので、いつか楽になると思うのではなく、苦しみに幸せの糧を見出す生き方をする
ギリシアでは早く死ぬことを神に愛されることとみなす流れがあった。
後々苦しむよりは死んだほうがマシという考え方
幸福にも、不幸にも原因や条件はない(〇〇を満たせば幸福になる、というような)
幸福と幸運は違う
運命的な出会い、邂逅というものはなく、出会う側の準備により、運命的だという意味付けを自分でしている
幸福は量的でなく、質的である
幸福と幸福感(快感)も違う
自分の幸福より共同体の幸福の優先を強制するのは間違っている
個人の幸福vs.良心の義務
幸福と道徳のどちらを優先順位の上とするか フランクルは道徳を上にした
アドラーは幸福を上
怒りは他者を支配するために生まれるので、それが有効かどうかを考えること←経営学ですな、、
人生の課題から逃げることを目的として、トラウマによる不安を訴える
どのような辛い出来事も、それそのものが幸福及び不幸の原因とはなり得ない
アドラーがトラウマを否定した理由→どのような辛い経験をしても、生きていかなければならないから。
課題に直面しろという話
アドラーは目的しか扱わなかったのではなく、真の原因を目的とした、、、すっごいしっくり来た
宗教とめちゃくちゃ対立する考えだよなー
タンニショウと言っとることが全然違う。
そして僕はアドラーのがしっくりくる。
しかったり、褒めたりしている時点で対等ではない。単に、知識や経験や取れる責任の量が違うのみ。
人間としては誰もが対等。
自分に価値があると思う➕他者を仲間と思うことで、対人関係の中に踏み出せる
日本人である前に、まず人間である
人は、共同体に所属するが、その中心にはいない
相手を対象化している この世界に自分しか生きていないと考えてしまう
相手を汝と捉えられるようになることで、この世界に生きているのは私だけではないとかんがえられるようになる
他者が自分を完成させる
自分でできることは自分でする
自分で決められることを他者の判断に委ねない、それは責任の転嫁をしたいから
自分の課題は価値ある自分になるよう努めることのみでる。他者の評価は自分の価値に本質的には全く関係ない
良いコミュニケーションとは、上手なコミュニケーションではなく、この人といて楽しいと思えれば十分
愛とは「愛する」という人間の活動を抽象化したものだが、人を離れて実体化されてしまったbyフロム
フロムは「持つ」と「ある」を区別する
持つものは使えば減るもの 幸福はあるもの 実践により成長する
一般的に幸福の要件とされているものは「持つ」ものである
自分ができることはできるだけ自分でする
援助を求められれば出来るだけ援助する
自分でできないことは援助を求める
建設的な努力をしないで自分の価値を上げようとする行為は笑止。そのような人間は他者の価値を貶めることで自分の価値を相対的に上げようとする
他者に価値を認めてもらえないと自信が持てない人は自立していないのだ
仕事の評価と人間の評価を切り分けて考えよ
不完全な勇気、、新しいことを手掛けたら不完全であるのは当然である。まずはそれを受け入れること
理想からの減点法ではなく、現実からの加点法で自分の価値を考える
その上で他者と競争する必要はないのだから、現実が少しでも良くなればそこに幸福を感じることができる
勇気は二種類
課題に取り組む勇気
対人関係に入っていく勇気
自分に価値があると思う方法
短所を長所に置き換える、、広く言えば自己受容
共同体に貢献している貢献感
生産性で価値を見ない
その考え方は人をモノと見ている
人を人の状態をもって人かものか判断するのか、繋がりの中で判断するのか
自分の価値を生産性で見ずに、存在そのままで価値があると見ることは勇気がいる。だがそのように見ることができる人間が、他者の価値を生産性で見ないようになれる
過去と未来を捨て、今を本気で生きることでしか幸福になれない
可能性の中に生きない
課題に取り組まない理由を探さない
←大迫さんやな。やらない理由を排除すれば、人生はシンプル
目的に向かって一直線に進む→キーネーシス
ダンスしている今が楽しい→エネルゲイア
究極に効率よく生きようとすることは、一刻も早く死のうとすることに等しい
サンクコストの否定でもあるわけだ
過去も未来も見えないほどに、今に強烈なスポットライトを当てる
明日を今日の延長と見ない
鳥は真空で飛ぶことができない
幸福の条件もなければ、不幸の条件もない -
781
岸見 一郎
1956年、京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。京都教育大学教育学部、奈良女子大学文学部(哲学・古代ギリシア語)、近大姫路大学看護学部、教育学部(生命倫理)非常勤講師、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)非常勤講師を歴任。専門の哲学に並行してアドラー心理学を研究、精力的に執筆・講演活動を行っている。
幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)
by 岸見一郎
アドラーは、「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっている。人と関われば、何かしらの摩擦が起きないことはなく、対人関係で 躓かない人はいない。その意味で対人関係は悩みと不幸の源泉である。対人関係で悩む人は、苦しみでしかない人生は生きるに値するのか、この人生には意味はあるのか、とまで思う。だが反対に、人との関係において幸福を感じることができれば、この人生は生きるに値すると思えるだろう。幸福、不幸について考える時には、この人生をどう見るかをまず考えなければならない。
しばしば、おそらくはよく考えもせずに、哲学は抽象的だといわれることがある。実際には、哲学は具体的に考える。木の枝に五羽の 雀 が止まっているとして、そのうちの一羽を鉄砲で撃ち落としたら後に雀は何羽残るかという問いに対して、算数や数学であれば四羽が正解となるが、実際には、鉄砲の音に驚いて雀は一羽も残らない。算数では数だけを問題にし、音に驚くというような事情は考慮に入れない。抽象というのは、ものの一面を取り出して他の面を切り捨てることである。算数はその意味で抽象的である。このような抽象性は、数学だけにとどまらず、経済学や政治学にも認められる。それゆえ、それらの学問が実際には実務においてはまったく役に立たないことはよくある。
「私」を問題にしない一般的な、あるいは普遍的な考察は科学になる。そのような考察によって導き出された結論は、たしかに普遍的なものではあるけれど、 この 自分には当てはまらない、そんな思いを 拭えない。アドラーを知る前の私が心理学に関心を持てなかったのは、心理学は「この私」の死について答えることができない、そう考えていたからだった。
ギリシア人にとっては、生まれてこないことが何にもまさる幸福であり、次に幸福なのは、生まれてきたからには、できるだけ早く死ぬことだった。これはソポクレスの『コロノスのオイディプス』など多くのギリシアの文献に見ることができる考えである。
だが、その一方では、政治が自分を不幸にしていると思う人は、政治さえよくなれば幸福になれると思い、政治に過剰な期待をする。悪政であればあるほど、政治に期待する人が現れる。 しかし、悪政が生活を圧迫しているとしても、そのことがただちにわれわれの人生を不幸にするとは限らない。政治家によって不幸にさせられたくないとは誰しもが思うだろうが、政治家が個人の人生を不幸にするわけではないし、ましてや、政治家がわれわれを幸福にしてくれるわけではない。
そのような知識を教える人は、幸福と成功を取り違えている。お金を得るというような成功も、たしかに幸福を構成する要件ではあるのかもしれない。だが、そういった人は、はたして成功することが幸福なのかという疑問はいささかも持たない。成功しさえすれば幸福になれると、固く信じて疑わない。 しかし、成功すれば幸福になれるのか、逆にいえば、成功しなければ幸福になれないのかといえば、どちらも決して自明のことではないだろう。社会的な地位があって、収入が多い人と結婚すれば幸福になれると思っている人も同じである。
三木は、成功は「過程」に関わるが、それに対して、幸福には、本来、進歩というものはなく、「幸福は存在に関わる」といっている。何も達成していなくても、何も所有していなくても、成功しなくても、人は幸福になることができるのだ。 より正確にいえば、成功しなくても幸福に「なる」のではない。幸福で「ある」のである。それが「幸福は存在に関わる」ということである。
成功/不成功と幸福/不幸を同一視している人は、成功しなければ幸福になれないと思っている。しかし、今日では、成功したからといって、そのことがかえって人を不幸にするケースが 頻りに報道されている。それでも、成功を目指すことを完全に断念する人は少ない。高学歴で一流といわれる企業に就職しても、過労死しかねない労働を強いられるようなことがあることを聞かされていても、そして、たとえそのような生活が幸福には結びつかないことを知っていても、自分に限ってそんなことにはならないと思う。実際、多くの人は昇進し、経済的に報われる生活をしているのだから、自分もそのような生活を送れるに違いない、そう思いたいのだ。
成功することが幸福であると考える人とは違って、生活の中でのささやかな満足にこそ幸福は見出せると考える人がいる。仕事から疲れて帰ってきた時、子どもの寝顔を見ること。家族が一堂に会して食事すること。そんなことは昇進することに比べたら取るに足らないことのように見えるが、日常の 些細 な瞬間に幸福を感じられる人は、職場での昇進には執着しない。 子どもの頃、私は父の生き方が少しも理解できなかった。だが、今になって振り返ると、父が夕食時に必ず帰ってきていたのは…
三木清によれば、幸福は質的なものであり、成功は量的なものである。 お金を得ることや出世するというようなことであれば、イメージするのはたやすい。ところが、幸福は質的なものであり、しかもその幸福は「各人においてオリジナルなもの」なので、他者には理解されないことがある。成功が一般的であるとすれば、幸福は個別的である。
量的なもの、一般的なものと考えられる成功は誰にでも手に入れられるように思われるので、嫉妬の対象となりうる。他方、幸福は質的であり、個別的、各人のものなので、他者からの嫉妬の対象にはなりにくい。
アドラーは、次のようにいっている。 「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」(『人はなぜ神経症になるのか』) 成功もお金も与えられたものである。より重要なことは、その与えられたものをどう使うかであって、使い方によって人は幸福であることもあれば、不幸であることもある。 与えられたものが通常であれば不幸の原因と見えるようなことであっても、必ずしもその人がそれによって不幸になるとは限らない。反対に、与えられたものが他者が嫉妬するようなものであっても、それが幸福であることを保証するわけではない。
このような人が幸福な人と呼ばれるに値するとソロンはいうが、ソロン自身もいうように、人間は死ぬ前は幸運な人と呼ぶことができても、必ずしもその人が幸福な人とは限らない。子どもに恵まれることや容姿が美しいことは、求めて得られるものではないからだ。 このような幸運とは関係なく、どんなに苦しい状況にあっても人は幸福であることができ、反対に、これらの条件が揃っていても、また、どんなによい環境の中で生きていても幸福ではないこともある。 先にも見たように、何かの原因があって、それによって不幸になったわけではないように、幸運なことがあって、そのことが原因になって幸福になることはないのである。 幸運に依存した幸福はすぐに失われる。そして、失われるような幸福は、そもそも最初から幸福ではない。
他者に煽られたり、流されたりすることなく、自分がしようとしていることの目的を見極めようとする人は、主体的に幸福を選択することができる。そのような人は、皆が進むのと同じ方へと向かって歩いていこうとはしないことがある。皆が酔っているのに、その人一人だけが醒めている。皆が成功を目指していても、日常のささやかな幸福があることを知っている。そのような人が為政者にとって好ましくない人であることは間違いない。
しかし、本章で見てきたように、幸福を阻むように見えることがすぐに思い浮かぶとしても、そのこと自体がすぐさまその人を不幸にするわけではない。反対に、成功したり、幸運に恵まれたからといって幸福になれるというわけでもない。それどころか、これまで見てきたように、何かを経験するから幸福になるわけでも、反対に不幸になるわけでもない。これまでに何度もいってきたことだが、人は幸福に「なる」のではなく、すでに幸福で「ある」。そのことを知った人は、幸福になるために何かの実現を待たなくても、日常の瞬間に幸福を感じることができるだろう。
この道徳が、先の三木の言葉でいえば良心の義務である。幸福主義に異を唱える人は、個人の幸福(善) よりも大切なものがあって、それが良心の義務であり、道徳であるとする。とすれば、道徳は人に犠牲を要求するので、自分自身の幸福など持ち出してはいけないと思う人がいても不思議ではない。それどころか、そのような人は、幸福でないことに一種屈折した幸福を見出すことになる。
そのような人には、アドラーが「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」と言い切っていることは、たしかにそうだと思えだろう。また第一章で見たように、プラトンが「どの生きものにとっても、生まれてくるということは、初めからつらいことなのだ」(『エピノミス』) といっていることにも、対人関係で苦しんだ人であれば共感するだろう。 たしかに、対人関係の中に入っていかなければ誰からも傷つけられることはない。しかし他方、幸福や生きる喜びも、対人関係の中でしか得ることはできない。誰とも関わらなければ悩みはないが、その代わりに喜びもない。 結婚する決心をしたのは、この人となら幸福になれると考えたからではなかったか。たとえ、後になって、そのことが大きな誤解だったことに思い至ることがあるとしても。
初めて子どもと対面した親も、子どもと共に生きることで、きっとこれからの人生はそれまでとは大きく違ったものになるだろうと思ったはずである。夫婦二人の生活がいつの間にか行き詰まっていても、子どもがいれば難局を打開できると考えた人もいるだろう。無論、話はそんなに簡単ではないが、そのような二人は子どもの誕生を切望し、子どもが家族の幸福を再建すると信じたはずである。今は子どもに嫌われ、暴言を吐かれるというようなことが、仮にあったとしてもである。
子どもの頃に親から叱られなかった人は少ないだろう。叱る親はそうすることが親の仕事であり、しつけのために必要だと考えているかもしれない。だが、叱られた子どもはそのことで自分を好きにはなれなくなってしまう。そのような人は、叱られることで自分を好きになれなかったことを、対人関係を避けるために理由にする。人から傷つけられるようなことをいわれたり、されたりすれば、そんなことをいったり、したりする人の方にこそ問題があるはずなのに、自分の性格のせいにして、自分のことを悪くいう人は責めないで、自分はこんな人間だから、悪くいわれるのだと考えてしまう。そのように考えて、いよいよ対人関係の中に入っていこうとしなくなる。
対人関係の中に入らなければ、いよいよ不幸になるだろうが、人から傷つけられることを恐れる人は、不幸であることを嘆いているように見えて、実は、不幸であること、少なくとも幸福ではないことを自ら選んでいるのである。対人関係に入って傷つくというリスクを犯したくないのである。 この場合、不幸であることを選んでいるように見えても、実は傷つくことを怖れて対人関係の中に入らないことを選んでいるのであり、先のソクラテスのパラドクスに 倣えば、対人関係に入らないことが自分にとっては善である、そう考えているのである。
何か問題を抱え、そのため自分は不幸であると思っている人が、幸福であろうとはせず不幸であり続けるのは、不幸であれば他者の注目を引くことができるからだ。幸福になれば、もはや誰からも…
親は子どもが入院すると、病院で寝ずの看病をする。中学生の時、交通事故で入院したことがあった。眠れなかったのか、夜中に目が覚めたのかは覚えていないが、深夜、母が近くにいたことを覚えている。はるか高い空を飛行機が飛ぶ音が聞こえた。今も…
うつ病を患っていたある高齢の女性は、最初の頃は診察の時はいつも、息子とその妻が脇を固めるようにしっかりと寄り添っていた。ところが、薬が効き症状がよくなると、まず息子がこなくなった。息子の妻も一緒に待合室で診察の番がくるのを待たなくなり、今のうちに買い物をしてくるといって出かけるようになった。やがて診察が終わっても帰ってこないことがあるようになり、診察後もしばしば一人で迎えを待たなければならないようになった。その後うつ病はよくなったが、この方は大腿骨骨折で寝たきりになってしまった。
人は不幸であれば、まわりの人から注目されるが、幸福になると注目されなくなることを知っている。幸福になりたいといっている人でも、その実、幸福になれば、注目されなくなることを知っているのである。 このような人は実のところ、不幸になりたいわけではなく、注目されることで特別な存在でありたいだけである。
本章では、まず、幸福を他の何かのために犠牲にする必要はないし、自分の幸福よりも優先しなければならないものはないことを述べた。そしてその上で、幸福になりたくない人がなぜそう思うのかを見た。他者と関わることで傷つくことを恐れ、そこでしか幸福を見出すことができない対人関係に入っていこうとしない人は、不幸であれば注目されるが幸福であれば注目されなくなることを知っているのである。
自分の人生を選び、決めることができるとはいっても、人はこの世界で一人で生きているわけではない。自分の行く手を遮る人も当然いる。そのような他者との関係の中で、はたして人は他者と結びついているのだろうか、それとも敵対しているのだろうか。他者をどう捉えるかによっても、幸福についての見方は違ってくる。この章では、他者を敵と見なすのは対人関係の中に入っていかないためであり、他者を自分と結びついている仲間と見ればこそ対人関係に入っていくことができるし、そのようにして自己中心性から脱却することが、幸福に 繫 がることを明らかにする。
むしろ家族の関係で難しいのは、実の親との関係である。実の親との関係は切ることができないからである。これは子どもは親を敬うべきであって、親の老後の面倒を見るべきだというような道徳の問題としていっているわけではない。近い関係で長く一緒に生きた親は、関係がよくても悪くても、無視することはできない。できるものなら、よい関係を築きたいが、親が変わることは難しく、子どもが親との関係の中で長くこだわってきた過去のあれやこれやの出来事を親が忘れることもある。
対人関係の距離の取り方は難しい。遠ければ人を援助することはできないし、近すぎても、かえって援助することができなくなる。 多くの場合、親子関係の距離は近すぎる。子どもが自分で解決しなければならないこと、あるいは、子どもにしか解決できないことにまで親が介入する。
しかし、生きる喜びや幸福もまた、対人関係の中でしか得られないのも本当である。生きる喜びや幸福は対人関係の中でしか得ることができないのであれば、対人関係の中に入るしかない。しかし、傷つくこともあることを思えば、対人関係に入るのには勇気がいる。この勇気のない人が、他者を敵と見なし、対人関係の中に入っていこうとしないのである。逆にいえば、他者を仲間と思えれば、対人関係の中に入っていく勇気を持つことができる。 それでは、この勇気はどうすれば得ることができるのだろうか。アドラーは次のようにいっている。 「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」( Adler Speaks) ここでいう「勇気」は対人関係の中に入っていく勇気である。どうすれば自分に価値があると思えるかは後に考えるが、生きる喜びや幸福は対人関係の中でしか得られない以上、対人関係の中に入るためには他者を敵ではなく、仲間だと見なければならない。
花を咲かせたいのであれば、水をやらなければならない。花に水をやることが、花を育てる時の責任である。ただ相手から愛されることを待っているだけでは愛は成立せず、あるいは、傷つくことを恐れて対人関係の中に入っていなければ、幸福になることはできない。相思相愛の恋愛に憧れる人は多いが、恋愛は育んでいくものである。相思相愛であればよい関係が築けるというのであれば恋愛は、始まった途端に終わるだろう。
他者の評価によって自分の本質が決まるわけではなく、自分の価値が上下するわけでもない。だから「いやな人ね」といわれても落ち込むことはないし、「いい人ね」といわれたからといって舞い上がるのもおかしい。それらはある人の評価でしかなく、その評価によって自分の価値が決まるわけではないからだ。 このようにしていれば、誰かに自分の価値を認めてもらわなくても平気でいられ、他者の評価に一喜一憂しないですむ。他者に自分の価値を認めてほしい人、価値を認めてもらえなければ自信を持てない人は自立できていないのである。
カウンセリングでは、対人関係に入っていけるように、自分に価値があると思えるための援助をする。性格については、短所を長所に置き換える。症状を訴える人にとって、その症状は、対人関係に入っていけないと思うために必要な症状である。例えば、 赤面 症 を治してほしいという人は、赤面症があるので対人関係に入っていけないというが、対人関係に入らなければ、無視されたり嫌われたりする経験をしなくてすむのだから、本当は赤面症はその人にとって必要な症状なのである。 そこで、症状を除去することをカウンセリングの目標にしても、本人は治ってはいけないと思っているのだから、いつまでも治るはずもなく、カウンセリングは行き詰まる。そこで、症状の除去ではなく、自分に価値があると思えることをカウンセリングの目標にする。カウンセリングを通じて、自分に価値があると思えることで対人関係に入っていく勇気を持てれば、それを回避するための症状も、もはや必要ではなくなるからだ。
さらに、自分に価値があると思えたら、対人関係の中に入っていく勇気を持つことができるし、その対人関係の中で幸福を感じることができる。対人関係の中でしか幸福を感じられないということの真意は、そのために必要な貢献感は対人関係の中で得ることができるということである。
人は生産的であろうとなかろうと、生きていることでそのまま他者に貢献している。子どもには思いもよらないことかもしれないが、親にしてみれば、子どもはありのままで貢献している。病気であろうと、親の理想から遠く隔たっていようと、子どもは子どもであるのだから。 もっとも、親が子どもに自分の理想を押しつけることはある。親は子どもをその理想からしか見ないので、子どもがどれほど適切な行動をしても子どもを批判する。しかし、生きていることがそのままでありがたいことなのだということを、いつも思い起こしていただきたい。
自分が生きていることで貢献できると思えるためには、先にも見たように勇気がいる。だが、他者が生きていることが喜びと感じられるのであれば、自分についても生きていることがそのままで他の人にとって喜びであり、貢献していると思っていい。 自分についてそのように思えた人は、他者にも寛容でいられる。
人間の価値を生産性で見るようになったのは、人をものと見るようになったからである。 「ものと見る」というのは、一つには、人を何かものを生産する機械のように見なすことだ。それ自体がものである機械はやがて故障し、ついには動かなくなる。そんなイメージを人間にも重ね合わせているのである。そのような考え方の同一線上に、子どもを産まない女性の軽視がある。女性が結婚しないこと自体が本来あってはいけないと考える 旧弊 な人さえもいる。
人の人生を最後の死に方だけから見ないことは大切である。自ら生命を絶った人の家族の相談を受けることがある。自殺という人生の終え方は家族にとってはつらい。たとえ、自分の問題で悩み、自殺に家族が関わったのでなくても、兆候に気づけなかったのか、止められたのではなかったかという思いにいつまでもとらわれる。 しかし、自殺も故人が自分の意志で選択したことなのだから、自殺という人生への終止符の打ち方が普通ではないという理由だけで、その人の人生のすべてを見るのはおかしい。たった一つのエピソードで人生のすべてを意味づけ、評価するのはいけないと私は思う。 自分の親が自殺したことを、自分の子ども(親からすれば孫) に話していいものか迷っている人がいた。私は、自分自身が親の死についてネガティブな見方をしなくなれば話していいと思うと答えた。 自殺というような特別な出来事でなくても、何か特別な出来事から人生を意味づけることがある。母は若くして脳梗塞で亡くなった。兆候は明らかにあったのに、適切な対応を取れなかったことを、私はいつまでも悔やむことになった。
今、生きづらいと感じている人が、そのことの原因を過去に経験したことに求めることがある。そして、安直にトラウマという言葉を使う。失恋したことがトラウマになって、恋愛が怖いというふうにである。 しかし、本来、トラウマは、失恋のような日常的な経験とは何の関係もないものだ。トラウマという言葉は生死に関わるようなことや、意志に反して強いられた経験についてだけ使える。トラウマについては第三章で問題にしたが、戦場で悲惨な現実を目の当たりにしたにもかかわらず、アドラーが、あえてトラウマを否定したのにはわけがあった。 何らかの体験をしたからといって、人は皆、必ず同じようになるわけではないからだ。経験したことで大きな影響を受けないわけにはいかないが、その時に受けたショックからの立ち直りの速さはかなりの程度、自分で決めることができるのだ。
にもかかわらず、明日という日がくることを疑わず、これからの人生が見通せると思い込んでいる人は多い。私は若い人が人生設計をしていることに驚く。そのような人は、人生の先まで見えているのだろうか。これは一つには、明日の自明性を少しも疑わないからだが、なぜ先まで見えるかといえば、今のこの人生にうすぼんやりとした光しか当てていないからである。もしも、強い光をスポットライトのように「今、ここ」に当てれば、先は少しも見えなくなる。
幸い、私は一月ほどで退院し、翌年バイパス手術を受けたものの、その後も再発することなく今に至っている。だが、仕事量をかなり制限しなければならない年が何年も続き、生き方を全面的に見直さなければならなくなった。息子の言葉は、早く仕事に復帰しなければならないという焦りから私を解放してくれた。
この時から私は、何かをすること、できること、すなわち生産性では自分の価値を見なくなった。一時期、常勤の仕事にも就いていた頃には仕事で成功したいという野心を持っていたが、過労で体調を崩したために退職し、のちに心筋梗塞で倒れて以来、私の野心は 潰えた。 今でも、時折、「こう見えても仕事はしている」といっている自分に気づいて苦笑することもあるが、何かを達成できなくても、今の自分はこのままでいいと思えるようになってからは、背負っていた荷を下ろして気持ちが楽になった。
中でも自分がずっと幸福に〈なる〉という言い方をしていたことに気づいた時には本当に驚いた。幸福になる、あるいは、なれるというのは、目下、幸福ではないということである。成功や名誉、富などは幸福の条件ではなく、幸福であるためには必要ではない。それらがあっても困るわけではないが、何かの実現を待たなくても、成功しなくても、すでに幸福で〈ある〉のであり、何かが人を幸福にするわけではない。反対に、何かの出来事が人を不幸にするのではない。不幸の条件もないのである。 -
結局のところ、幸福とは自らの歩んできた道の中にこそ「ある」ように感じる。著者自身の歴史、その語りが添えられていることで、ただの哲学書ではない生きた知が描き出されている。
我ら思う故に我らありを実践するには、やはり語りを相互に行う対話が必要なのではないか。
学び、気付き→パラダイムシフト
対話とはこのための触媒だろう。 -
■■評価■■
★★★✬☆
■■概要・感想■■
○アドラー心理学をもとに、学術的になりすぎずに実用性のある形で考え方を示した本。
○他の本とも同じ様に、幸福とは他人と比べてどうか、順位がどうか、比較的に恵まれているものを掴みに行くなどという話ではない。幸福は他と比べず、自分の中にすでにあるもので、外に見つけに行くことではない。幸福に”なる”という言葉がそもそも違くて、幸福”である”というだけである。
○成功することを目指さないで幸福であれ、と言っているわけではない。この2つは次元が違う話で、対立でも同一視でもするものではないのだといっていると感じる。
○未来のために我慢する今という価値観や、過去のせいで〇〇になってしまった。という今につながらない後悔はしない。今ここだけに意識を向けて日々を充実したものにしたい。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685761 -
こんなものは哲学ではない
-
幸福を新たな視点から考えることごできるようになった。今まで美味しいものを食べたり、とか寝たりとか、行為に目を置くばっかりに、疲れたときに普通の習慣を続けられなくなっていたが、それを幸福とは呼べないと考えるようになった。
しかしこの本はある程度成功している人にとってタメになる本だとは思った。 -
作者の考えというのがほぼない。
過去の人の文の引用と、たとえ話のオンパレード
これが哲学の本のあまり好きになれないところだろう。一般化しすぎていて結論がないようになる
「一見こうだけど、こういう場合ではこういう見方もある。古くではこういう考えがあった。なぜこう考えるのかを深掘りしよう。」ばかりである
「勉強の哲学」で言うアイロニーを進めるだけで無限につなげているだけ、書きたいために書いてる。 -
「嫌われる勇気」の岸見一郎先生の本。
タイトルの通り、古代ギリシア思想とアドラー心理学を拠り所に幸福とはなにか、どうすれば幸福なれるか、といったことを考察する。
アドラーはフランクルの師匠の一人なので当然なのかもしれないが、苦悩や葛藤を抱えながらでも生きていくことが幸福だという実存主義っぽい方向に向かう。
他者と比較せず、他者からの評価に縛られず、自分が美徳と感じられることをなす、それで良いのだと。
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
岸見一郎の作品
本棚登録 :
感想 :
