ハイデガー『存在と時間』入門 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062884372

作品紹介・あらすじ

二〇世紀最高の哲学者といわれるマルティン・ハイデガー。その出世作にして代表作、『存在と時間』は、哲学史上、最も難解な書として知られています。
プラトン、アリストテレスによって完成されたギリシア哲学に始まり、以後、2500年の歴史を持つ西洋哲学の通念をすべてひっくり返すという、前代未聞の企ての大胆さ、ハイデガー自身の言い回しの必要以上の難解さ、加えて日本語で読む場合には、ドイツ語を日本語という全く文法システムの異なる言語へと翻訳しなければならないという、もう1つ余分なハードルまでもが加わって、専門家以外には、なかなかその真意が伝わらないのが現状です。
そこで本書では、巷でよく見られるハイデガー的な「業界用語」を排し、可能な限り日常の日本語で『存在と時間』を理解することを目指しています。そのために著者はこの本の執筆に10年の歳月をかけました。
『存在と時間』の章立てに従って、それぞれの章ではハイデガーが何を問題にし、何を言いたかったのかが、原文を忠実に読み解いた上で平易な日本語で読み解かれて行きますので、この1冊で、翻訳書で『存在と時間』を読むよりははるかに容易にその内容を理解することができます。また、なぜハイデガーはこの書を完成させることができず、未完のままに終わったのか。その「限界」についても、本書を読み進めていけば、おのずと理解できるでしょう。
その難解さゆえに謎めいた魅力を放つ『存在と時間』という書を理解するのに最適です。

感想・レビュー・書評

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  • ハイデガーが『存在と時間』という書物の中で考察しようとしていた内容を解き明かしている本です。

    同じ講談社現代新書から、すでに仲正昌樹の『ハイデガー哲学入門─『存在と時間』を読む』が刊行されていますが、仲正の本が『存在と時間』の既刊部分で論じられている実存思想に焦点を絞って、比較的わかりやすいことばでその内容を解説しているのに対し、本書ではハイデガーその人の思索の道行にしたがいつつ、彼がめざしたものが何であったのかを明らかにしています。

    本書では、キシールによって解明された『存在と時間』の成立過程について、非専門家にもわかりやすく説明がおこなわれているとともに、ハイデガーがカトリック神学などのキリスト教の思想から影響を受けていることに注目し、本来性と非本来性の区別や「良心の呼び声」など多くの入門書では正面からとりあげることが回避されてきた問題に、あくまでハイデガー自身の思索の内からその意義をたどることが試みられています。

    また最終章では、『存在と時間』が挫折に終わった理由についての考察がおこなわれています。そこでは構想力をめぐってカントが展開した時間論からの影響が指摘されるとともに、現存在の時間性を「地平の統一」として描き出そうとしたことが、地平を定立する主体を想定してしまうという問題を孕んでいたことが指摘されています。

    431ページという、新書にしてはかなりのヴォリュームになっており、内容面でも『存在と時間』にくわしく立ち入って議論が展開されています。ハイデガーの思想の根幹にあるものに触れることのできる、かなり本格的な入門書といえるのではないでしょうか。


  • ハイデガーの著作の研究に人生を捧げてきた研究者の大作。具体例が多く、また一度書いたことを何度も復習するためある程度は読みやすい。ドイツ語と日本語の差異もあるが、難しい概念を上手く意訳しているのである程度はわかる。ハイデガー初心者にも相当の配慮をしているが、それでもハイデガーが難解すぎて中々掴みどころが難しい。また、ハイデガーの理論を元になったキリスト教的価値観で理解しようとしているが、キリスト教に暗いのでこれも難しい。

    フューチャーウォーカーのテーマは存在と時間であるという主張を見かけたので、これを機にハイデガーでも勉強するかと購入。入門だけあって具体例は多いが難しいな!

    『ハイデガーの「存在」は、存在者がそのものとして現象することに含まれた、こうした構造全体を捉えようとする』
    『『存在と時間』が「存在の意味は時間である」という根本命題を掲げていることを指摘したが、これは一般に「存在」が時間に基づいて理解されていることを意味している』
    『一般化して言うと、存在の意味は存在者が現前することに尽きるのではなく、「過去」と「将来」も含んでいるということだ』
    これは非常に重要だ。鳥をイメージするとき、飛んでいる姿、食べ物をついばむ姿、木に止まる姿まで含む。そして、卵、雛、成長、死まで思い浮かぶかもしれない。そういったものをすべて含めて鳥の「存在」なのだ。

    『存在と時間』成立の歴史は、学者には重要なのだろうが個人的にはどうでも良かった。ポストを得るためにややいきあたりばったり的に論文を書くのは時代が変わっても同じだな。

    『現存在の世界‐内‐存在には、本質的に他者と「ともに存在する」ことが含まれている。そして現存在の自己のあり方は他者との関係のもち方に規定されるため、その章では他者との「共‐存在」が主題化されることになり、ハイデガーの他者論が展開されることになる』なるほど、共存在や時間まで含めて、現存在か。私は単数ではない。

    不安を感じている人への励ましに使えるかも。「ハイデガーは、不安を、おのれの存在の本来性の可能性と言った。選び取るかどうかは自分で決めねばならないとね」『現存在の生きることの意味をもっとも先鋭化された形で示す情態が、不安である』

    「気遣い」は正直良くわからない。「気遣い」には、献身と世界への没入(頽落)が含まれるらしい。はえー。
    「現存在」とは人間に、個別性、独自性、時間性、位置情報(場所性)などを加えた人間よりも広い意義を持つ。「現」が『ある一定の分節化された構造をもつ「世界」』である。「不安」状態では、自分の本来的な可能性が示されている反面、普段は不安からは逃避する。前者が「気遣い」の「献身」、「気遣い」からの逃避としての後者が「世界への気遣い」「世界への没入」「頽落」である。

  • 「八本脚の蝶」読後、哲学的なテーマの本への興味が尽きない。たまたま手に取ったのだが、本書を読んでよかった。
    ハイデガーの主著「存在と時間」についての入門書。入門書をいくら読んでも、原典を読んで自分自身のものとして吸収しないとそれは真の読書経験(理解)ではない。野矢先生もそのように書いていたが、本書でもそのことに触れられていた。しかも、「入門書だけ読んで理解したつもりになる」は本書ではハイデガーの本来性・非本来性の議論の卑近的な例として挙げられていたのが面白かった。
    本書はハイデガーが本書で示した思想的内容のみならず、それがなぜ当初の刊行予定の中途で途絶しているのかといった成立過程も含めて論じている。最初は刊行をめぐるドタバタ劇に面白みは感じていたが早く本論に向かってほしいな、と思っていたけれど、最後まで読むと、「なぜ未完なのか」を丁寧に追うことが内容の理解に寄与することがわかった。
    「存在と時間」の思想的内容は、本書の「結語」に簡潔かつ分かりやすい形でまとめられている。後で思い出したい時には、この章を読めば最低限のことはわかるのではないかと感じた。
    ハイデガーが存在と時間性の議論で、「脱自態の地平の統一」の箇所の理解が少し難しかった。簡単にいうと存在は単に現前しているだけではなくその将来の可能態としての在り方やこれまでに可能であったあり方を含意し、それが現存在(人間)から了解される形で存在している。そして、自己である現存在もまた、その他の周囲の存在者のうちに同様のあり方で「ある」もの、ということだろうか。
    確かに、存在と時間についての議論をするといっておきながら、「不安」や「死への先駆」「良心の呼び声」などと術語が出てくれば、人間の良き存在の仕方=本来性なのだ、というような理解にしか到達できないかもしれない。しかしこの点、轟先生が未完の部分で書かれたはずの内容も補完していて、そうした内容は原著だけをがむしゃらに読んでいてもわからない内容ではないかと思った。
    また、ハイデガーはキリスト教教義学に大きく影響を受けていること、さらに(意図せずに)大乗仏教的な発想に似通ったものがあると指摘されていた。仮に本来性の議論を、人間としてあるべき姿だと誤解して理解したとしても、全く理解できないどころかむしろ得心できる内容だったと感じた。轟先生が言われるように、存在を突き詰めることで実は存在の確固性が揺らぐような、仏教的な考え方は日本人にも受け止められやすいと思う。
    本書の巻末に著者自身の執筆に至る経緯が書かれていた。学生時代から、それこそ一生をかけて「存在の問いとは何か」の答えを探り、専門の先生であってもようやくおぼろげにしか理解できないという内容に、千円少しのお金を払えば触れることができる。先生は科研費のおかげで研究ができたというが、もし人文系の学問が廃れてしまって、このような本を世に出す研究者がいなくなってしまったら、確かに誰も困らないかもしれないけど、何だかとてもつまらないことになるような気がする。

  • アリストテレス、キリスト教神学、現象学、カントからのインスピレーションを軸として『存在と時間』を読み解く。また、『存在と時間』の用語や意図を、続編の出版を諦めた頃や、逆に『存在と時間』以前の講義や著作を根拠に、深く理解できるよう解説している。さらに、続編が書かれなかった理由、書かれるはずだった内容の方針を『ヒューマニズム書簡』などから分析している。
    ハイデガーの独自性は、アリストテレス、キリスト教神学、フッサール現象学、カント図式論の思想的モチーフを存在の問いとしてまとめ上げられている点だ。
    アリストテレスの伝統的存在論は、他の事物と同じように自らを捉えるため、実存、つまり現実に存在する固有の自己を捉え損なう。これが存在を普遍な前提として軽視する、ハイデガー以前の存在論だ。実存により、他者との関係性の中で自らの存在の意味を問うことに『存在と時間』の意義がある。存在の意味を解釈するための地平が時間である。しかし「現」を時間で捉えることは、存在者一般の意味を時間で捉えることでもある。
    大学教授昇進のための実績作りとして、書き直しや遅延をしながら慌てて刊行した『存在と時間』は、この存在の意味をまとめ上げる困難さと、ハイデガー自体の思考の変化から下巻の出版を断念した。
    フッサール現象学の志向性=意識は常に何かに向けられており、その世界の現れの記述するということを、存在論に結びつけ、深化させることで世界内存在としての現存在を捉えることができる。
    現存在は意図せずとも常に既に世界に投げ込まれている被投性を持つ。気分や調子によって世界に開示する。
    ・自己の開示は気分=感情・感覚として現れる(情態)
    ・目を背けようが引き受けようが、開示は何らかの了解≒認識として直面させられている(了解)
    ・言語的な分節化として起こっている(語り)
    "現代の高度に合理化された社会は、まさに自己への意識的反省以前の根源的な自己開示を徹底して隠蔽する"
    "自分自身の体調や気分の変調が見過ごされ、過労死やうつ病、その他さまざまな「ストレス疾患」が引き起こされる。 "
    "娯楽こそが、皮相な「笑い」や「涙」、ときには「怒り」を生みだし、また「夢」や「希望」、「勇気」や「感動」を惹起することによって、気分の根源的な自己開示からむしろわれわれを遠ざける。"
    ハイデガーは、現象学を含めた西洋伝統哲学の理性偏重に異を唱え、情態を基礎に据えた。
    不安、恐れは、直面するものを恐れることの現象学的志向性からさらに、現存在としての自己を気にかけていることを指摘した意味でハイデガーの新しさがある。
    情態は、アリストテレスとキリスト教神学を現象学的に記述し直したもの。
    存在者の存在の了解は、存在者の活動空間を了解すること。活動空間が世界。例:飛んでいることを含む鳥の存在など。
    ハンマーが釘、屋根、防風雨、居住の安定につながるように、究極目的としての「気に懸けているもの」に「有意義性連関」として世界を了解している。
    了解は、世界のうちで現存在が何ができるかという可能性に関わる。デュナミス、可能態。それを把握しているのが企投。可能性を思い描くこと。言葉により様々な状況を分節化して理解する。「分かる」。
    語りは、了解の表明としての開示。
    ・語りの主題…命題で言えば、主語。「SはPである」のS。
    ・語られた事柄そのもの…命題で言えば、述語。
    ・伝達…情態、了解を他者と分かち合うこと。
    ・表現…語りにおいては、自己が表出される。
    頽落とは、自己の存在に直面する不安からの逃避。不安とは、自分の生き方はこれでよいのかと自問するあり方。通常、不安を意識しないが、それは日常的に不安を遮蔽しているだけだ。「良心の呼び声」が常に現存在を不安として脅かす可能性がある。その意味で、日常性とは、現存在の本質的可能性からの逃避である。神に対する敬虔な恐れと、罰に対する奴隷的な恐れのキリスト教神学の議論を、自己に基づいた恐れ=不安と、世界=物に対する恐れとして実存論的に捉え直したものである。
    不安により開示された、自己の本来的な存在能力を気にかける。自己への気遣いを行なっている。世界への気遣いは、本来的な自己のあり方を忘れた頽落である。
    配慮besorgen…道具との関わり
    顧慮fürsorge…共存在としての他者との関わり
    日常的に他者の間に埋没する存在様式を「ひと」と呼ぶ。物を媒介とした交換可能な存在。
    "自分の「配慮の対象」が、他者の役に立つとか立たないとか、その出来が他者よりもすぐれているかどうかという観点から評価されるようになる"
    差異・距離の気遣いに巻き込まれた状態を疎隔状態Abständigkeitという。「ひと」は標準性を気遣い、その中で均等化され、なされるべきことを規定し、相互監視する。それが世間öffentlichkeitを構成する。あらかじめ決められたことを決められたまま行うことにより、責任を免除されようとする。それが迎合だ。「ひと」の開示性のあり方として、おしゃべり(受け売り)、好奇心(新しいものの気晴し)、曖昧さ(真偽がわからなくなる)がある。これが頽落であり、それは世間に囚われている。「ひと」は、充実した生を営んでいると思い込んでおり、それが気休めをもたらしている。例えば、多文化についていくら理解しても、自己の了解とは全く関係がない。この意味で、比較して了解する時には、現存在はむしろ疎外に向かっている。
    現存在は、本来的な自己了解のために、世界への執着、すなわち獲得と所有を放棄できる可能性に立っていなければならない。ここでの可能性というのは、物との関係がなくなるわけではなく、それらを優先せず「あたかもないかのように」生きられること。キリスト教コリント書パウロの影響がある。
    ひとは、死ぬということの可能性を、他の日常的な出来事への恐れにすり替え、自分に自信があれば認めない弱さと決めつける。
    ひとは、死への無関心を現存在に推奨し、自分自身の存在能力からの「疎外」をもたらす。
    いつでも起こりうる固有の死を不安がらず、外から襲ってくる恐れとして、「自分はさしあたりまだ死なない」と言い聞かせ、外在化する。
    "現存在は自分が死ぬまでにはまだいろいろなことができるだろうと思うことによって、死を自分から遠ざけて、その未規定性を隠蔽しようとする。 "
    本来的なあり方とは、「ひと」から離れ、自己の特別な可能性を選択すること。
    キリスト教の「将来の生」や「不死の生」のモチーフを、実存の内在的視点から解釈したものだ。
    死への先駆においてこそ、デカルトのコギトのような意識・経験・私よりも絶対確実な自己開示がなされ、真の「われあり」が示される。
    「良心の呼び声」の命ずるところに従い、死を先駆する。つまり、良心のためなら死ぬことができる。
    世界内存在を選べない被投、他の可能性を選択できない企投、逃避する頽落の3つの負い目を呼び声により了解する。
    現存在の内側にある、良心の呼び声を聞き入れる意志=覚悟entschlossenheit。「ひと」の声に従うことはできなくなり、孤独、単独化の不安を引き受ける。さらに、他者の手本となり、他者の実存的な気遣いを促す。これは、対置されるレヴィナス他者論やアーレント複数性とも矛盾しない。
    覚悟の選択は、「ひと」が与えるような指針の中にはない。
    ・将来…死の可能性
    ・既在…被投性として過去から既にあること。
    ・現在…現前として手元にあること。
    テンポラリテート…存在が時間に規定されているということを了解していること。=存在のテンポラールな規定性
    伝統的西洋哲学では、存在を現前性と捉えておりそれは誤りだ。
    現存在の本来的な様態である先駆的な覚悟は、存在を時間から了解することを準備するもの。
    脱自態Ekstase…自己の外に現れる状態。現在におけるものの現れなど、現在・将来・既在性の時間性の性格。
    時間性の3つの地平図式=存在の脱自態の時間的な向かう先
    →未来の可能性が、現在を通過し過去になり選択肢が限定される観点から語られている
    ・するためにUm-zu、プレゼンツpräsenz…現前するものの時間的な行き先、向かう先。道具であれば、それが使用される目的。
    ・自分のためにUmwillen seiner…将来の地平図式。現存在の可能性の到るところ。自己を気遣い、企投されるところ。
    ・企投の面しているところ、委ねられているところ…既在の地平図式。現存在の可能性の制約の総体。身体、道具、他者、自然環境などの世界。
    「ところ」「地平」にイメージされるように、時間の問題は、空間的拡がりの生起でもある。
    後年、存在という出来事を「時‐空(Zeit-Raum)」と言っている。
    カント図式論の時間性から存在の時間性を着想しており、その点を評価している『論理学』の講義がある。企投や地平と言った用語もカント『純粋理性批判』のものだ。
    アリストテレス-キリスト教神学に端を発する現存在の実存論と、カント哲学に着想した存在一般の意味への問いの接合を試みた『存在と時間』は、いまだカント形而上学の用語に引きずられており、現存在の主観的な見方と存在者全体の地平の矛盾を抱えたために、中断せざるを得なかった。
    『ヒューマニズム書簡』に主に『存在と時間』下巻について述べられているが、形而上学的用語でなければそれまでの哲学との接続を理解されず、しかし限界を越えられない。他方、新しい用語を使えば「神秘主義」「秘教」とレッテルを貼られる矛盾があった。
    死を辞さない、自分の生における死の可能性を許容すること(先駆的覚悟)は、逆に、おのれの生の可能性を広げることを意味する。それを可能にするのが自分の関わっている物事(存在者)の有用性ではなく固有性を了解すること(良心の呼び声)を受け入れること。自己保存に固執するのは非本来的なあり方。つまり、死の可能性を取り込むことは存在者の固有性を認めること。
    現存在と存在者は不可分であり、相互にあらしめている。(現、明るみ、脱自態の地平の統一)
    「存在の意味は時間である」というのは、どのような状況に置かれ(過去)、どのような可能性があるか(将来)により、現前しているか(現在)ということ。それを後年は性起と呼ぶ。
    後年は、存在者を計算可能な物として扱う技術への問いがあるが、これも有用性から存在を捉える非本来的なあり方の延長にある。(放下)
    現存在と存在者の実体化の否定は、キリスト教や大乗仏教の思想に接近する。普遍的な宗教性に到達したとも言える。
    "『存在と時間』はわれわれに生の根拠を問うことを促し、またそれに対する答えを示そうと試みた作品だ"

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/689715

  • 哲学素人でもこの本のおかげで『存在と時間』をちゃんと読めた。
    筆者もウン十年と悩まされていると吐露しているので親身に感じた。

  • ハイデガー自身の書いた本は難しそうなので、とりあえず入門書の類を何冊かよんでみようという感じで読んでみた。

    なるほど、仲正さんらしい感じの本だな〜と。

    どこが「らしい」かというと、テキストや言葉を大切にしているということ。訳のわからないハイデガー用語をドイツ語的にどういう意味なのか、語源としてどういう言葉の組み合わせでできているのか、それは普通の会話でどう使われるのか、というところから丁寧に解説してくるところ。

    通常だったら、そういう話しって、面倒な感じがして、結局なんなんだ、とか思いがちなのだけど、仲正さんのやり方は、言葉を丁寧に解きほぐしていくことで、そこから文章の意味が通じ始める感じがあって、いいな〜。

    いわゆるテキストを内在的に読むということなのかな?

    ハイデガーがやろうとしたことって、形而上学とか、演繹的、論理的な原理原則ではなくて、日常の生活のなかでの気分の現象学的なところから、スタートするということ。

    かならずしも、そうした探求は、ロジカルにはならないわけだけど、それを現象学的な主観性や日常の言葉づかいというところの注目するというところが、哲学的な意義なのかな?

    だとすれば、仲正さんがここでやっていることって、とてもハイデガー的なものかもしれない。

    昔、ハイデガーは、サルトル経由の実存主義という文脈で読まれていたのだが、最近では、そうした読みは排除されつつあるみたいだけど、仲正さんは、かならずしも実存主義的な読みを否定はしていないかな?

    むしろ、テキストのもつそういう実存的な側面をテキスト内在的にしっかり捉えているようにも見える。

    戦後、サルトルの「実存主義はヒューマニズムである」みたいな話しに対して、ハイデガー自身は、そういう解釈とは違うという発言をしていたようだが、その時点では、ハイデガー自身が「実存的」なところから転回をして「存在論」的になっていたわけで、かならずしも「私は実存主義ではない」発言を100%受け止める必要もないのかもしれない。

    わたしは、どっちかとうと「サルトルはもう古い。これからは、構造主義、ポスト構造主義だ」というムードのなかで哲学的な本を読み始めたので、サルトルはあんまり読まずに、なんとなくの印象で批判していた気がする。

    ちょっと、サルトルも読んでみようかな?とか思ってしまった。

  • 「どう存在しているか」と捉えると意味がわからなかったが、「我々はどう他者の存在を理解しているか」と捉えるとふんわり理解できた。

    人々の理解は認知のバグも含んだものだと思っていて、それを前提にした存在論だとすれば正直なところ同意しづらい点はある。
    しかしそうしたバグも許容した上で、「どう合理的に生きるか」を考えると、わからなくもない。

    ともあれ、この本としては、「存在と時間」ができるまでの背景からその後の講義の内容まで丁寧に解説した良い本であった。
    あえて言えば導入が長くて「早く本題に入って欲しい」と感じたのは否定できない。
    ハイデガーの思想としては完全に同意できない点はあったものの、非常に興味深く読むことができた。

  • ハイデガーの専門家である著者による、代表的著書『存在と時間』の解説。いろんな方面からこの書に照点を当てて書かれています。どのような成立過程を辿って書かれたのかから始まるのですが、幾度となくの書き直し、追加、そして未完成に終わったこと。この書の経緯がすでにドラマチックなものになっています。それが何故なのかについて、ハイデガーが目指したことを読み解くことで解説されています。「存在」とは何なのかというということではなく、「存在」を知覚するのはどういったことなのかでしょうか。それを言い表すことのできる言葉の無い中、ハイデガーが書きたかったことを、著者の轟さんが、様々な言い方で挑戦するように書かれています。テーマにされていることは、わりとありふれたことなのですが、それゆえに難解なのだなと思わされました。

  • 哲学

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著者プロフィール

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。
現在、防衛大学校人間文化学科教授。博士(文学)。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同―ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)などがある。

「2020年 『ハイデガーの超-政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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