社会学史 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 605
レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (640ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062884495

作品紹介・あらすじ

本物の教養が頭にどんどん染み込んで、ものの見方がすっかり変わる経験をあなたに。

「社会学はもちろん、その周辺の学問を理解するためには、
どうしても、社会学史全体を知っておく必要があります。
それなのに、なぜか、社会学史の本がほとんどないのが現状です。
だから、この仕事に私は、強い社会的な使命感を持っています」――大澤真幸

マルクスもフロイトもフーコーも、実は社会学者なんです。
アリストテレスからカンタン・メイヤスーまで、知の巨人が産み出した思想を、
網羅的に、平易な講義文体で学びましょう!

<本書の目次および登場する主な人物>

序 社会学に固有の主題

第1部 社会学の誕生――近代の自己意識として
1.古代の社会理論 アリストテレス
2.社会契約の思想 社会学前夜
グロティウス/パスカル/ホッブズ/ロック/ルソー/スミス
3.社会科学の誕生
コント/スペンサー
4.マルクス――宗教としての資本主義
エンゲルス/カント/フォイエルバッハ/ヘーゲル/フィヒテ

第2部 社会の発見
1.フロイト――無意識の発見
2.デュルケーム――社会の発見
3.ジンメル――相互行為としての社会
4.ヴェーバー――合理化の逆説

第3部 システムと意味
1.パーソンズ――機能主義の定式化
トマス/パーク/マートン
2.〈意味〉の社会学
   ミード/シュッツ/ブルーマー/ガーフィンケル/ゴフマン/ベッカー
3.意味構成的なシステムの理論――ルーマンとフーコー
レヴィ=ストロース/デリダ/ブルデュー/ハーバーマス
4.社会学の未来に向けて
  ボードリヤール/リオタール/ギデンズ/バウマン/トッド/メイヤスー

感想・レビュー・書評

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  • 『社会学史』。素っ気ないタイトルだけれど、この本、面白い。何とかこの面白さを伝えたいと思う。おかげでずいぶんと長い書評になった。

    「社会学はもちろん、その周辺の学問を理解するためには、どうしても、社会学史全体を知っておく必要があります。それなのに、なぜか、社会学史の本がほとんどないのが現状です。だから、この仕事に私は、強い社会的な使命感をもっています」と書く著者のまさにその使命感が伝わってくる本である。

    著者は、社会学は「近代社会の自己意識の一つの表現」だという。これはおそらく、近代社会においては、神などの絶対者の存在を前提とせずに、社会を成立させるための仕組みを自ら説明することが必要となってきたということなのだと理解している。なぜ「社会」というものが成立するのかは、神なき時代において、それほど自明ではないからだ。

    ある領域が「学問」となるためにはその学問固有の主題を持つ必要があるのだとして、社会学の固有の主題は「社会秩序はいかにして可能か?」だと著者は言う。さらにニコラス・ルーマンを引いて次のように語る。「ひとつの学問が普遍性を統一性をもつためには、この学問固有の主題自体を主題化するような反省の様式を組みこまなくてはならない」ー 著者がこの本で説明を試みようとしたことが、まさにこのことである。

    その社会学を存立させる主題を考える上で、著者は「偶有性(contingency)」を重要なキーワードとして措定する。

    「「必然的ではない」という、必然性の否定であるのと同時に、可能であること、つまり不可能性の否定です。偶有性とは、必然ではないが、不可能ではないこと、です...「他でもあり得たのに」という感覚があるのが、偶有性のポイントです」

    つまり偶有性とは、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということである。そして、社会学固有の主題である「社会秩序」がまさにそうなのである。

    「現実にいろいろな社会制度や、政治形態があったり、コミュニケーションのさまざまな形があったりする。そういうことは現に起きているわけです。しかし、「現に起きていることが、現に起きているのに、どこかありそうもない」という感覚がないといけない。「なぜこんなことが起きてしまったのか」と。現に起きているわけだから、そのこと自体は否定しようもないのですが、その起きているものについて、何かありそうもないという不確実性の感覚をもたないと、社会学にはならないのです」

    こういう目線の設定を準備をした上で、著者は社会学という学問成立の歴史をなぞっていくのである。

    まずは、アリストテレス。古代のアリストテレスには自分の属する共同体を自明のものとしてみている時点でいまだ社会学の定義を満たしていない。

    そして、グロティウスやパスカルも紹介されるが、彼らもまた著者の定義においてはまだ社会学ではない。なぜなら彼らにおいては、神の絶大な権力が仮定されているからである。有名なパスカルの賭けが、パスカルにおける神のポジションがいまだ近代化されたものではない証拠として引かれる。
    次にいわゆる「社会契約の思想」として、ホッブズの『リヴァイアサン』ー 自然法を前提としない、という態度が生まれる。ここで初めて神なる自然法を前提にしないで社会を考えることができるようになったのである。また、人間の階層を前提にせず、平等を起点において考えている点についてもアリストテレス以来の考え方から大きな進化が見られる。この辺り、著者が組み立てるホッブズの考えと囚人のジレンマをつなげて、ベンヤミンの法とは暴力であるとする辺りの議論などは、非常に知的刺激に満ちて面白い。
    ホッブズを批判するときに、「万人の万人に対する闘争」の正当性が議論されることが多いが、これはホッブズの理論の中心であるが、着目するべきはそこではないというのが、著者の主張である。そのためにこそ社会学史という形で歴史的な視座から社会学の進歩を見る必要があるのである。この観点から、ホッブズと並んで社会契約論の始祖の一人とされるロックの思想は、社会学の文脈ではより徹底したホッブズよりも重要度が低い、となるのである。なぜなら、ロックの思想は、政治的にはホッブズよりも大きな影響を与えたかもしれないが、抵抗権などのロックの理論は暗黙的に神を前提としているため、社会学的な価値は少ないと考えるからである。この辺りの論理の進め方は切れ味よく、独特であるが読んでいてすっきりとするところであり、著者の手腕であるところ間違いない。

    次にルソー、アダム・スミスが紹介される。ルソーの一般意志の議論は、東浩紀の『一般意志2.0』の議論を意識したものになっている。一般意志は必ずあり、それが何であるかについて個人の意見を述べ、それが正答率が二分の一を超えていれば一般意志は正しく見つけられるというのがルソーのいう一般意志であるというくだりは不思議であるとともに、解釈として面白い。自分も含めてのことだが、ルソーの思想について拒否感がある人も多いと思うが、そうであってもどこか魅力を感じさせる理由をこの辺りの議論は教えてくれる。「透明性」の議論は、ルソーの両義性 - 非常にリベラルに見えて、イデオロギー的には全体主義的でもある - がわかったような気になるのである。

    さらに歴史を進めると、フランス革命が起き、その後、ようやく現代的な意味での「社会学」が誕生する。この時代の代表的な社会学者としてオーギュスト・コント、サン=シモン、スペンサーが紹介される。著者は、歴史的観点から、社会学者とフランス革命との年代関係を重要視する。フランス革命の実体験の有無やその後の革命が与えた影響への実感が、社会学者としての視点に強い影響を与えたとする。フランス革命は、社会が目に見えて進化するということと、主権が人民にあるという概念を誕生させ、結果として社会科学の誕生の契機となったというのである。また、王権や神の概念に大きな変化が民衆レベルで起きたことも社会学が受け入れられることにもつながったといえるのである。

    そしていよいよ、思想史上の巨人マルクスが登場する。マルクスもフランス革命後の数十年の間に生まれたが、そのことが彼の思想にも他の社会学者と同じく大きな影響を与えている、と著者は考える。ただ、そんなこととは関係なく、マルクスの価値形態論や疎外論、労働価値説はいまだに重要な社会学のツールとなっている。特に商品形態と貨幣についての「彼らはそれを意識しているわけではない。しかし、彼らはそれをやるのだ」という『資本論』の下りは、マルクスの業績がまさしく本書がいう社会学の目的とするそのものの分析であることがわかる。柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』といったような本の存在を引くまでもなく、社会主義、共産主義国家の失敗によっては棄損されない資本主義の根源への思索と批判に価値をマルクスにはいまだ見出すべきなのである。
    また、この時代に生まれたダーウィンの進化論もマルクスの思想や社会科学に大きなインパクト与えた。先に挙げたフランス革命によってもたらされた社会進化、自由主義といった概念と、同時期に生まれた進化論は理論的な親和性を持っていた。特に当時一般にも名を知られた社会学者であるスペンサーは進化論を一般に広める役割を果たしたといわれている。また、マルクスも『資本論』の第一巻をダーウィンに献本しており、当時の進化論が与えた影響の広さを窺い知ることができる。エンゲルスがマルクスの葬式の弔辞で、生物学の領域においてダーウィンが為したと等しいことを、マルクスは人間の歴史に関して為したと言ったという逸話も残っている。
    またこの時代、カント、フォイエルバッハ、ヘーゲル、フィヒテなどが哲学界で活躍するが、彼らの社会学への貢献についても見るべきものがある。特にカントは柄谷行人も長く注目する哲学者であり、ひとつの極点まで思考を推し進めた偉人である。

    そしてフロイト。彼を社会学者の列に加えるのは違和感があるが、それだけ無意識の発見は社会に与える影響も大きかった。むしろ彼の『トーテムとタブー』や『モーセという男と一神教』といった著作も、心理学というよりも、社会学の主題にまつわる著作として意味付けられるといってもよいくらいである。ここで、フロイトを通して、社会学と宗教とのつながりの強さに着目しておくべきなのである。

    その後は、社会学史上のビッグスリーと呼ぶべき、デュルケーム、ジンメル、そしてマックス・ヴエーバーと続く。彼らの時代になって、ようやく社会学という独立した学問をやっているという意識を持つようになったと言われている。中でも有名なヴェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』いわゆる「プロ倫」は、宗教改革を経てカルヴァン派で説かれた「予定説」が資本主義の発展に逆説的に与えた影響を論じたものである。プロテスタンティズムは、「結果的に、意図とは無関係に、むしろ意図に反して、資本主義なるものを実現」したと論じる。この本こそが本書のテーマでもある偶有性によって社会が導かれる様を社会学的に分析した本ともいえる。
    著者は彼らを含む重要な社会学者が第一次世界大戦ぐらいのところで亡くなっていることをもって、ヨーロッパの精神史は第一次世界大戦で一度ピリオドを打たれているという印象を持つという。なかなか大胆な言明だが、魅力的な解釈でもある。

    その後の社会学の発展として、パーソンズの機能主義とシュッツの<意味>の社会学という対比が説明される。パーソンズによってはじめて「社会システム」という言葉が一般化されて、分析の対象とされるようになった。パーソンズの系譜からは後にニクラス・ルーマンが出てきて、独自の社会システム論を生み出すことになる。

    そして、時代の要請として、『親族の基本構造』や『野生の思考』のレヴィ=ストロースから始まる系譜から構造主義が生まれた。構造主義の原点には「無意識」というものがある。意識よりもそれを拘束する「構造」からくる無意識の思考を分析によって明らかにする。ここでもフロイトが果たした社会学への影響を重視するのが面白い観点である。
    その後にも、、ピエール・ブリュデューの『ディスタンクシオン』や「ハビトゥス」の概念、フランクフルト学派を代表する『啓蒙の弁証法を』書いたホルクハイマーとアドルノ、ルーマンの論争相手としての「コミュニケーション論」のハーバーマスに触れられる。

    その後に現れる二クラス・ルーマンとミシェル・フーコーの二人を、それぞれが社会学の領域において現時点での独自の到達点と考える。両者の理論を超えるものはまだ出てきていないとして、著者は尊敬の念を込めて「ツインピークス」と呼ぶのである。
    ルーマンの社会システムを①オートポイエーシス的であり、②意味を構成し、③コミュニケーションを要素とするシステム、として定義する社会システム論はまだ読んだこともないけれども、著者の説明ではとても魅力的に映る。ここで援用される「複雑性」やそのベースとなるオートポイエーシスは、現代で最も重要な概念のひとつでもある。
    また、フーコーのエピステーメー、生権力論の議論、パレーシアに関する本書の内容は、フーコーの思想入門の読み物としてもよくできているし、読んでいて面白い。フーコーを社会学の到達点のひとつと位置付けてくれるのは、実際に彼の著作を若かりし頃に読んだ自分にとって、社会学というものに具体的な感触を与えるのであり、彼が社会学に大いに影響を与えたという点についても賛同するところである。彼のエピステーメーの議論や、アルシーブの議論、さらに生権力の議論は、現代においてもさらにデジタルなツールを用いた上で先に進めることができる主題のようにも思える。また二大到達点とした二人、フーコーの「人間主義の消滅」と、ルーマンの社会システム論に同時代的シンクロニシティを見る視点も知的好奇心を刺激するものである。

    その後に出る消費社会を分析したボードリヤールなどもそのときのフランス思想界のあまり好ましくない影響を受けすぎているきらいもあるが、重要な社会学者として捉えることも可能だろう。リオタールやハート&ネグリも興味があるところである。リキッド・モダニティのバウマンや相関主義のメイヤスーなどに至っては、その評価含めてよくわからないところがあるが、それがようやく追いついた現在性ということなのかもしれない。
    なお現代の社会学者の中でも著者は、ウォーラーステインのことを「存命の社会学者の中で一番偉いと言っていい」と評価する。ウォーラーステインも、ある意味では社会学史のようなものを整理した人なので、いつかきちんと読んでみたいと改めて思う。

    こうやって社会学の歴史を見ていくと、社会学の勃興時には、神の概念とそこからの離接が非常に重要なものであることもよくわかった。様々なレベルにおいて、帰依すべき絶対者の存在を暗黙でも明示的にでも前提とできるのかどうかで社会の成立が異なってくる。グロティウス、パスカル、デカルト、ロック、ホッブズの時代は神の存在は真剣に議論されるべき主題であった。神なき時代となった後、無意識のレベルでの行動の集合が社会秩序をなすことを解明することが社会学への要請になった。これはベンヤミンがいう「宗教としての資本主義」というものかもしれない。ヴェーバーが『プロ倫』で論じたように、資本主義と宗教自体の関係も奇妙で深いものがある。
    そして、およそ社会学が神を前提としなくなってからも、数多くの哲学者が世界宗教について思索を巡らせてきた理由もわかる。社会と宗教は密接に関係するものであり、その関係は議論されるべき主題なのである。そういえば、柄谷行人も世界宗教について彼の主著『探求II』で大いに語っている。一方で、他の日本の思想家が世界宗教について系統的に考えていないのはそこに何か原因があるように思う。柄谷は、フロイトを多数引用しているが、本書でも著者はフロイトの存在は社会学としても大きな意味を持っているという。その他、マルクス、カントが柄谷のお気に入りだが、彼らも社会学の歴史の中で大きな位置を占めている。本書の主題から外れるが、柄谷が歴史的に思想を考えた人であることが、この辺りからも読み取れるのである。

    なお著者は最初に「偶有性」を社会学のポイントとして挙げた。「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ものがいかにして可能となったのかを探求するのが社会学だという。しかし、それは社会学に限らず、すべての科学的探求に通じるものだ。宇宙の誕生しかり、生命の誕生しかり、意識の存在しかり、ホモ・サピエンスへの進化しかり、言語の成立しかり...。偶有性の探求は、すべての知的探求に共通する源泉ともいえるのである。社会学もその力によって導かれ、マルクス、ヴェーバー、フーコーなどここに挙げられた多くの思想を産んだのである。

    長編であるが、どのページも読み飛ばすことなく、知的好奇心を刺激し続けてくれた。どこも手を抜いていない力作であり、素直に著者に感謝したい。タイトルも硬派で素敵で、素っ気ないと評したが、何よりこれ以外のタイトルを付けられないのではないかと思う。賛否がどうもわかれるようだが、今年一番のお勧めである。

  • この本についてあまり芳しくない意見をネットでは目にしますけれど、なんでそんな目くじらたてるんだろうと思いました。専門家としては許せない内容があるのかもしれませんが純粋に面白楽しく読める内容ですしいろいろな人の思想を解説しつつ歴史をたどりながらそれらの関係性を明らかにしていくという内容で、よいと思います。フロイトやマルクスも社会学と考えるとまた面白いですし、読みやすかったですし。

  • どうやら社会学がブームのようだ。著者をはじめ古市憲寿氏や小熊英二氏等、若くてしかもテレビ映えのする学者が多く台頭してきている。書店の新書の棚を眺めても、「社会学」の文字は以外に目につく。政治学や 経済学に比べイデオロギー論にすり替わりにくく、哲学よりはとっつきやすい。手軽さ・気楽さと程よいアカデミックさが求められる新書のようなメディアにとってはうってつけの題材なのだろう。本書のボリュームは600ページ、価格は1,500円を超え、その意味では新書の枠を踏み越えてはいるが既に4版を重ねている。売れているのだ。なお本書は3年ほど前に出たちくま新書「社会学講義」中、著者が担当した第2章「理論社会学」の内容をほぼそのまま引き伸ばした内容となっているようだ。他社で出版したものとほぼ同じものを同一メディアで出すというのはこの世界ではノーマルなことなのだろうか、よくわからない。

    おそらくレビューは多いと思われるため要約的な内容についてはそちらに譲るが、僕がこの本に興味を持った理由は「序」にあった次の一文に尽きる。

    「社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になる」

    これは何だろう?「ある対象に関するメタ的な論説がその対象と同一である」という物言いは、例の「全てのクレタ人は…」という古き良き自己言及パラドクスを否応なく想起させる。このようなパラドクスめいた命題を前提に持ってくるのは、論理学的には「私の議論は信用できない」と宣言するのと等価ではないか?私の素朴な脳細胞が素朴すぎるアラームを発する。しかし著者は「それこそが社会学という学問の特徴だ」とこともなげ。無論そんな素人レベルの議論が想定されているのではもちろんないだろうが、新書という形態を考えればこの議論の始め方はちょっと異様だ。何か危ない感じがする。しかし逆に考えれば、著者はそのようなリスキーなやり方を取らねばならぬほど、このことを強調したいはずなのだ。ではこの一文は何を意味するのだろう?社会学とはいったいどのようなものなのか?

    と、大きな疑問を抱えながら読み進め、自分なりにこれが答えか?というものが得られたのは本当に最後の最後、ラスト数十ページというところ。ちなみにそこに至るまでにヴェーバーという大きなヤマがありそれなりのページが割かれているのだが、僕には正直ここの記述がダラダラと長すぎるように感じられた。確かに美しい。予定説と資本主義精神の論理的な繋がりについて、ここまで分かりやすく正面から突き詰めた議論は見たことがない。でも、僕には「序」のあのノリからして本書の最大の山場はここではないとしか感じられなかった。いやそれともやはり僕の読みがおかしかったのであり、社会学といえばなんとなくヴェーバーとか「プロ倫」だし、やっぱり彼の社会学的「神経症」が本書の議論の中心だったのだろうか?この本のラスト1/3は現代社会学の群雄割拠状態を俯瞰して終わるのだろうか?そんな不安が頭を離れなかった。そう、ルーマンが出てくるまでは。

    ニクラス・ルーマン。20世紀後半に活躍したドイツ人社会学者であり、ユルゲン・ハーバーマスとの論争で名を上げた人物とのことだが、本当に恥ずかしながら全くの初見(ちなみにハーバーマスもタルコット・パーソンズも知っていたのは名前だけ)。しかし当該部分を一読して、なるほど著者の社会学は少なくとも現在はヴェーバーではなくルーマンにインスパイアされた部分が大きいと即座に感じられた。

    ルーマンのシステム論は、システムが秩序のみならずその要素も自ら作り出すという「オートポイエーシス」という性質を前提とする理論。これによると「社会システム」内では、その要素である「コミュニケーション」がコミュニケーション間のネットワークより(主体である人間の意識の介在なしに)自律的に生産されている。つまり自分が自分自身で構成されているのであり、ここでは「xがxを用いて定義される」という自己言及の形式が取られている。ルーマンの章では他にも本書で頻出の「偶有性」というキーワードが出てくるが、より大きな存在感を占めるのはこの「自己言及」ではないかと思われる。「メタ社会学も社会学の要素である」という序文のあの文章と全く同型だ。

    実はこれと似たタームがルーマンより前に出てくる。「論点先取」と「循環」だ。前者はパーソンズの「主意主義的行為理論」の批判の際に、後者は「状況の定義がその状況を現実化する」という「トマスの定理」を表現する際に用いられている。後者は「超越論的」という概念で乗り越えられることになっている(「原罪」とかいう、またぞろキリスト教上の概念が導入されておりやや辟易)が、僕には論理的な破綻を糊塗するレトリックに過ぎないように思える(だいたい定義からして思い切り循環論法だと思うのだが、著者はなぜかツッコまない)。だとすれば、序文のパラドクスめいた一文にも隠された否定的なニュアンスが込められているはずだとは考えられないだろうか。つまり、

    「結局のところ、社会学という学問は今のところ自らのシステム上の不完全性を超越するための拠点を外部に発見できていない」

    というのが、隠れた著者の主張なのではないか。

    無論、そのようなシニシズムが本書の結論なのではない。ルーマンの「偶有性」を絶対的実在とみなし、これを梃子に相関主義を乗り越えようというのが最終的な提言だ。社会学というのは「まだやることが沢山ある学問である」と。

    確かに「偶有性の保存」こそが社会学の本質であるとの宣言は力強く響く。しかし「偶有性」の手前にはもちろん「他者」という扱いづらい壁が立ちはだかっている。本書では割くべきスペースがなかったようだが、古き良き「他我問題」にも直結しかねないこの「他者」についての考察が著者の近著にあるようだ。機会があれば是非読んでみたい。

  • ふつうに面白い。たしかに(大学での彼の講義を思い出すような)おいおいほんとか? みたいな大澤真幸らしさも残るけど、いつどういう学者がいてどういうことを言ったということを死ぬほど易しく教えてくれるのでいいと思う。

  • 社会学の成り立ち、各学者の主張などについて詳述した書。600頁を超える大著で内容も難しいが、できる限り平易に書かれており学べる点が多い。


    序 社会学に固有の主題
    第1部 社会学の誕生――近代の自己意識として
     1.古代の社会理論 アリストテレス
     2.社会契約の思想 社会学前夜
     グロティウス/パスカル/ホッブズ/ロック/ルソー/スミス
     3.社会科学の誕生
     コント/スペンサー
     4.マルクス――宗教としての資本主義
     エンゲルス/カント/フォイエルバッハ/ヘーゲル/フィヒテ
    第2部 社会の発見
     1.フロイト――無意識の発見
     2.デュルケーム――社会の発見
     3.ジンメル――相互行為としての社会
     4.ヴェーバー――合理化の逆説
    第3部 システムと意味
     1.パーソンズ――機能主義の定式化 
     トマス/パーク/マートン
     2.〈意味〉の社会学
     ミード/シュッツ/ブルーマー/ガーフィンケル/ゴフマン/ベッカー
     3.意味構成的なシステムの理論――ルーマンとフーコー
     レヴィ=ストロース/デリダ/ブルデュー/ハーバーマス
     4.社会学の未来に向けて
     ボードリヤール/リオタール/ギデンズ/バウマン/トッド/メイヤスー

  • 19/09/19。

  • 分厚いのにめちゃくちゃ面白くて読み進められました。

    マルクス、フロイト、デュルケーム、ウェーバーまでは面白い。

    構造と意味あたりの子細な議論のあたりに入ると疲れますが 笑

  • ある領域が「学問」となるためにはその学問固有の主題を持つ必要がある。

    社会学の固有の主題は「社会秩序はいかにして可能か」。

  • 新書にして630ページの厚み。でも94册分(たぶん…巻末の索引で引用文献、数えてみました。)の社会学を巡る膨大な文献をエッセンスを詰め込みながら超コンパクトに社会学の歴史をツアーするガイドブックです。それは「社会学の歴史」こそが「社会学とは何か?」の答えになる、という学問だから。序文でも「社会学の歴史はそれ自体が社会学になる。そこに社会学という学問の特徴があるわけです。」と語っています。なるほど、ノーベル賞でも分野の確立している学問、例えば、物理学って何?とか経済学って何?とかは敢えて問わなくてもいいような気がしますが、社会学って何?についての答えは持っていないような気がして手にしました。出版社の編集者を生徒に講義形式でどんどん社会学の成立から今日までのタイムラインをたどっていくスタイルは気持ちよく「よくわかる!」感を作ってくれます。書き言葉だと反芻が必要な事例も、話し言葉と筆者の総括的視点をベースにした素材の整理によって、するする摂取できる気分になります。その総括性は、この学問の可能性として終章に向けて強調される〈偶有性〉というキーワードをゴールとして見据えているから、なのだと思います。少なくても、点としてでしか知らなかったホッブズとルソー、マルクスとフロイト、そして、社会学の歴史のビッグスリー、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、さらにルーマンとフーコーという人々の仕事がフレームとして見えたことは楽しかったです。星じゃなくて、星座を説明してもらった感じ、かな…でも、いくら教えてもらっても実際に夜空で星座わかんなくなっちゃうように、たぶんいろいろわかんなくなっちゃうと思いますが、夏の終わりの読書として満喫しました。

  • 分厚かった、、

    「社会秩序はいかにして可能か」「社会秩序はなぜ可能か」というのが社会学の主題。そのキー概念は「偶有性」ということが、とてもよくわかった。

    フーコーとルーマンの類似点、すなわち言説/コミュニケーションの偶有性という弱さを克服する権力/オートポイエーシス的分化社会システムを、ユダヤ教におけるユダヤ人の弱さと一神教に見たのは、すごい!と思った。

    「偶有性の弱さ」で私がイメージするのは、「今日何食べたい?」「なんでもいいよ」である。複雑な可能性を前にして、「なんでもあり得る」と我々は言われると、途方に暮れてしまう。そんな中で「これをせよ」と言ってくれるのが、生権力であり、社会システムなのではないか。

    フーコーにおける生権力とは、監視を通して内面化された権力である。私はこれは、主体に対しては、フロイトの超自我と同じだと思っている。そしてこの超自我の成立が、告白する者としての主体の条件であると。超自我は途方にくれる我々をべき論で方向づけてくれる。
    (ところでフーコー後期の「自己への配慮」に関して、そこで配慮される主体は結局生権力の結果としての主体と同じであり、生権力への反抗の拠点としては成り立たないのではという主張があったが、むしろ私は生権力の権力者の遷移こそが重要なのではないかと思った。すなわち、外部からの監視による主体の束縛から、自己の配慮による、自らによる自らの監視による束縛。「誰かに縛られるくらいなら俺が縛る」という、権力そのものではなく権力者への反抗。そこでは、自由を束縛する権威を行使するのも自分という意味の自由があるのではないか。)
    ルーマンにおける社会システムは自己生成的であり、その要素はコミュニケーションである。コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すという形で、そのコミュニケーションのネットワークとして社会システムが定義される。この社会システムは分化したサブシステム(経済システムとか科学システムとか)を持ち、複雑性(分化の度合い)が上がるほど各サブシステムの複雑性は縮小する(うちの担当はこれだけ!状態になる?)。これが、コミュニケーションの偶有性を縮小する。でもなぜシステムの複雑性がオートポイエーシスによって縮小するかについてはわからなかった。ひとまず、自らが属する社会システムのもつ主題(メディアとコード?)が、コミュニケーションの複雑性を縛ると理解している。

    さてここから考えたいのは以下
    1.神の受肉について
    2.二重の偶有性の克服について

    1.神の受肉について
    弱き人間の逆説的自己像(理想自我?)が神であり、受肉とは神=>人間、すなわち神もまた弱い存在である、ということ。これをルーマン/フーコー説に照らし合わせると、超自我や社会システムもまた弱いということ。ここでの弱さとは「可能性の複雑性」のこと、偶有性のこととするならば、超自我や社会システムでもこれを克服できないということ。
    これはリオタールの「大きな物語の終焉」を補助線とすると腑に落ちる。偶有性の根本には他者がいる。私の行動の可能性の複雑さと、それに対する他者の行動の可能性の複雑性の前に立ち止まってしまうことが主体の弱さであり、それを共通ルールとしての「超自我」や「社会システム」によって縛ることができたとしても、その超自我や社会システムもまたさらに大きな全体の中の部分であり、その部分間の関係においては別部分の「可能性の複雑さ」の前で立ち止まってしまうのではないか。各部分が他の部分の複雑性の前に立ち止まるのは、それらを包括する大きな物語がなくなったからではないか。すなわちこれは多様性にどう関わるかの話。我々と全く違う彼らとどう付き合う?という話。これを社会学はどう考える?という話、なのかなーと。

    2.二重の偶有性の克服について
    上記問題への解決の糸口が、メイヤスーの「思弁的実在論」による「二重の偶有性の克服」ではないか。彼の主張は、「偶有性こそが真の実在である」というものである。すなわちこれは、可能性の複雑さをより上位の目的のようなもので方向付ける、という形での偶有性に対する態度とは違う態度の提案である。それは「現実の偶有性を信じること、成功の条件は失敗であることを保証すること」として、本書は締めくくられる。これはなんか一時期流行った、他我認識とか、他者論とか、それこそ多様性の話につながるものだと思う。
    しかし私はどうもこの結論にピンとこない。あらゆる可能性に開かれている時、我々は身動きがとれなくなる。これが我々の弱さであった。そこには失敗の恐怖があった。この失敗を受け入れよ、他者との齟齬を受け入れよ、というのは、それに対する解決になるのか?社会秩序が一定の方向付けによって可能になる、しかし他者の偶有性は残り続ける、とするなら秩序は常に変わり続ける、ということなのだろうか。それは、「変わり続けろ」ということだろうか。『チーズはどこへ行った?』的な話か?
    他者を媒介にすることで相関主義を乗り越え、実在論を取り戻せるというのは、どういうことなんだろう。偶有性は絶対である。それはわかる。んーダメだよくわからん。

    他者が偶有性をもつとは、「他者は何をするかわからない」ということではあるが、もっと言えば人によって違うという話で、ある人はある方向に、別の人は別の方向に動く、ということである。ひとりの他者が毎回わけわからない方向に動くわけではない(それは病気である)。だから「他者」と言ってしまうと、各ベクトルの総和として複雑なものを想像してしまうが、ひとりひとりを見れば、ある程度偶有性が縮小された主体がそこにはいるはずである。
    これを「人間一般に対する私の偶有性の縮小」として、人間かくあるべき的なものを持つと、他者との齟齬は生じるだろう。すなわち大きな目的を持つと他者との齟齬が生じるということ。よって、大きな物語の代わりに小さき実存を見ることが、他者という偶有性に対する私の実践的な関わりの方針、ということになる。可能性の複雑さの縮小を、「私とあなた」の間で行うこと。

    しかしこれで「社会秩序は可能になるのか?」
    うーん、、。

    「相対主義的な他者との関わりの克服」という点で、もともと私が持つテーマに結びついたのはよかった。ここから先だなーどう考えるか。

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著者プロフィール

1958年、長野県松本市生まれ、社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。専門は理論社会学。2007年、『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を、2015年、『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』で河合隼雄学芸賞を受賞。主な著書に『〈自由〉の条件』『夢よりも深い覚醒へ』『日本史のなぞ』『可能なる革命』『〈世界史〉の哲学』『社会学史』、共著に『ふしぎなキリスト教』などがある。

「2019年 『支配の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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