白鳥随筆 (講談社文芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062902694

作品紹介・あらすじ

「すべて是路傍の人であると思いながら、すべて無縁の人であると思いながら、私はその感じに終始していないで、路傍の人々と一しょに闘技場に出ているのであろう」
究極のニヒリストにして、八十三歳で没するまで文学、芸術、世相に旺盛な好奇心を失わず、明治・大正・昭和の三時代にわたって現役で執筆を続けた正宗白鳥。
その闊達な随筆群から、単行本未収録の秀作を厳選。

感想・レビュー・書評

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  •  随筆を通して、正宗白鳥の好きなもの、嫌いなもの、価値観、思考、そんなものを追える。だいたいニヒル、時々ぐっさり、結構流されやすいというのか、ごりごり頑固ではない印象。やっぱり変わり者とは確信する。
     自分の作品や生き方に自信や誇りはなく、でもそれを卑下しながらもすーっと書いてるから、驚きながらも読みやすい。
     特に、白鳥の目に映る文壇事情、懐関係や出版業の変遷などは知らない世界を覗けるという意味で興味深い。
     現代では、出版業の意味に『文学を育てる』というところを意識しにくいが、本来は出版社の利益追求(存続のために勿論必要だが)の他に文学の育成や保護という機能や理念があるんだろうなと認識できる。
     ただ、文壇関係の内容も多く、そのあたりについて馴染みのない作家と出版者などの単語が多くなってくると、退屈を感じることも。

  •  小林秀雄の講演によって、「座談会出席の記」が有名だし、読んでみたら、小林の声で再生されてさらに面白かったのだが、どうして小林秀雄は白鳥にこだわったかといえば、たぶん、このバトルで完敗したからだ。小林だって、MCバトルで惜敗したり、ぎりぎり勝ったりはあっただろう。だが、R指定VSエローンの伝説のバトルのように、100VS0のパーフェクトで負ける経験は、小林秀雄はほとんどなかったのではないか。そして、この「座談会出席の記」は小林秀雄がぐうの音もでないくらい「負けた」話である。そして、小林の白鳥講演は「どうして俺は負けたのか」を論じたものであろうと、思う。
    【小林君曰く、「藤村などが人生の悩みをどうとか云ったって、何千万の人間は人生を楽しんで生きているじゃないか。それでいいではないか。」と、それはその通りである。しかし、酔いもせず、酔おうともせず、毒気ぷんぷんたる鰻屋の楼上に退屈の歯を嚙み緊めて、果てしなき時間を耐え忍んでいる人生の人生苦も、また真実の現れではあるまいか。】
    【ようやく会を終って、二人に自転車で送られ、小林君は鎌倉に帰るべく東京駅まで来たのだが、氏は車から下りないで、私に向かって何かを論じている。運転手は困っていた。何かについて私を説得し、問題の解決を見なければ気がすまないのであろうかと察されたが、それは下戸の私の思い過しで、ただ悪癖たるに過ぎなかったのであろうか。全体酔漢の心理は私には神秘不可思議であると云っていい】
     もうこれで、小林秀雄は「その通りなんです」としか返せないし、まったくかなわないと降参してしまった。小林秀雄に酒の席で論駁されて泣かされるというエピソードがいろいろとあるくらい、酒を飲んだ小林は、別に飲んだくれじゃなくて、「戦闘態勢」である。だから、白鳥はめっちゃ強かったということである。
     だが、正宗白鳥のエッセイにおいて面白いのは、文壇の思い出話ではない。ある巨大な敵に対する批評だ。正宗白鳥は、「読書について」で芥川を絶賛していた。芥川も、ある巨大なものの隙をスキルでひっくりかえす人間であったが、正宗白鳥も芥川と実は同じスタイルである。性格や気質が違うだけで、二人は近いものがあったのだと思う。爬羅剔抉スタイルである。
     芥川の震災の花束エッセイも大変美しいが、この白鳥の最高の名文であり、白鳥の哲学のあらわれでもあり、最重要と思われる随筆が「蝋燭の光にて」である。これは本当に素晴らしい文章で、教科書に絶対載せなければならないものだと思う。


    蠟燭の光にて

     震災後間もなく、私は町の鳥屋へ鶟肉を買いに行った。混雑の場合で、商売は一時中止されていたのであったが鶏は二三羽飼われていたので、私の望みによって、主人はそのうちの一羽をつぶして呉れることになった。撰ばれた一羽は主人に摑ると、自己の運命を予知したように、何とも云えない悲しげな声を出して身悶えをした。主人は鶏を逆さまにして両足を藁で縛って、かねて備えられている杙(クイ)の鉤に引掛けるが早いか、鋭利な小刀(ナイフ)でその鳥の喉を突き差した。鮮血はタラ/\としたたった。主人は巧みに羽をむしって毛焼きをしながら平然としていたが隣人が店頭へ寄って震災の話をしかけると、恐怖を顔に現して、家々の破壊や圧死者について噂をした。
     私は慈悲の心に富んだ者が、肉食を禁じようとするのは自然であると思った。平気で鶏を殺している主人の顔を見ていると、好感を寄せられなかった。しかし、私は、暫らく食料の欠乏を感じていた際だったので、滋味に富んだその肉片を、昼餐の副食物(オカズ)としてうまく食べた。時候が涼しくなった時に鳥の肉や牛の肉が香のいい松茸などと一しょに、ジリジリと鍋に煮えるのを見ていると、夏のうちに衰えていた食慾が一時に回復するように、以酌よく感じたことがあったが、我々は一日長く生きるためには、一日だけ多く他の生物を犠牲にしなければならないのである。美食は人生の幸福の重なる一つに違いないが、美食したいためには、他の生物に対する残虐を敢えてしなければならない。
     我々人類は一方では、他の生物に対して強者として我威を揮っているかわりに、一方では地震だの火事だのと、さまざまな不慮の災厄によって苦しまなければならない。苦労の多い世の中に子を生み孫を生みつけるのは、残酷なことのように思われるが、しかし、人類の無思慮な繁殖慾は暴烈なものである。もっと激しい地震などの大災厄が湧いて来ればとに角、当分は人は殖えるばかりらしい。災厄に面した際には、これが世が末だと思っても、少し日数が立つと、太平楽を唱えて元気のいい所を見せるのは、文学者ばかりではないのである。我々は鳥屋の鶏のようにやがて雑作なく絞殺されるか圧し潰されるか知らない運を持っていながら、不断はそれを忘れて強そうな口を利いているのである。

     私は、関東には四五人の肉身縁者が住んでいるのだから、今度はそのうちの誰れかが死んだであろうと気に掛けていたが、あとで一人の怪我人もなかったことを知ると、人間の容易に死なないのを不思議に思った。東京の大破滅を聞いた時には、出版業も当分は中止となって我々文筆の士は路頭に迷うだろうと私は想像していたが、その想像も外れたらしい。小さんや左団次がこの機会に隠退すると、新聞で読んだ時には、この二氏に対して、従来感じなかった懐しさを覚えたのであったが、あとで左団次が他に先んじて京都で興行するという記事を読んで、私の懐しい空想は破れてしまった。そういう私も、雑誌が滅亡しないとするとまた何かコツ/\書きつづけるであろう。方丈記の心読されるのもその当座だけである。

     震災の話は聞き飽いた。遭難者の感想も聞き飽いた。ある博士が、俗謡に予め今度の災厄が唄われていたと生真面目で説いたり、二三の文士が、資本主義跋扈(バッコ)のために地震が起ったような口吻を弄したりしているのを読むと文章家の頭脳の働きもいい加減なもののように感ぜられる。

     私は破壊された家の中で、退屈凌ぎに、土埃で汚れた書冊を手あたり次第に引き出して読んだ。裸蠟燭の光で古書新書を読むと、今の境涯に相応しい、以前読んだ時の気持とはちがった気持で読まれた。『老子』を久し振りで読んだが、非常に空疎な感じがした。宇宙に一つの道がある、大道が存するということを彼れは本当に信じていたのであろうか。天といい神といい仏といいこの老子の謂うところの道と畢竟(ヒッキョウ)同じ者なのであろうが、そういう、人間が依って以って安んじられるような者が何処にあるのだろう?
    「奢る者久しからず。」と壁に落書したものがあったら信長か秀吉かが「奢らざるも久しからず。」と、添削したと、私は聞いているが、大道に従うも亡ぶべく、従わざるも亡ぶように思われる。古の聖人や予言者等の説法は、意味深遠らしいが、その実世を治めるための方便じゃないかと私には疑われる。老子の教えにしたところで、孔子などと同じく、治者のために説かれたものらしい。近代の道徳が資本主義の基礎に立てられたものならば、古聖人の道徳はみんな王侯のために案出されているのであろう。
     これに反して、人生の憂苦を歎じた支那人の詩や、老若男女の生存の悲喜哀歓を描いた欧洲近代の文学は、直ちに我々の胸裡に響くのである「蝸牛角上争何事、石火光中寄此身、随富随貧且歓楽、不開口笑是痴人」瞬間の生存に、楽みがあるのなら、楽んだらよさそうに思われる。私は、崩壊した壁土に埋められた書冊の中から、ふと縮刷本の『八笑人』を見出したので老眼を凝らして蠟燭の光でその細字を読みだしたが、ひどく面白くなって、ついに全部読み終った。老子をはじめわが貧しき書架の真面目くさった書籍は低級なる戯作者滝亭鯉丈によって嘲られているような気がした。「不開口笑是痴人」と、左次郎やアバ公が云っていそうな気がした。

     先日(コナイダ)二度目の暴風雨に虐められた翌日、老いたる郵便配達が、「こんな時節には今日は今日で送るんですよ/\。」と、窓の側で私に向って、しみじみした調子で云った。私は聖人の訓戒の如くに耳に留めたが、しかし、それはこんな時節に限ったことではない。私は八笑人中の諸子の如き態度を持して、この破壊した家に起臥し、東都の焼跡を見、石火光中の短生涯を過ごすことは出来ないのであろうか。

     鶏の絞められるのを見て肉食を恐れたり、災厄に会って今更らしく無常を感じて、道徳によって世の無常が消え失せるように思ったりするのは、左次郎や出目助には滑稽に見えるに違いない。

    (「週刊朝日」大正十一年一〇月)

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