- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062903424
作品紹介・あらすじ
明治四四年、夏目漱石の推挙で「東京朝日新聞」に連載し、自身の結婚生活や師・尾崎紅葉との関係等を徹底した現実主義で描き、自然主義文学を確立、同時に第一級の私小説としても傑作と謳われる「黴」。翌々年発表の「爛」では、元遊女の愛と運命を純粋客観の目で辿り、文名を確立する。川端康成に「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と言わしめた秋声の、真骨頂二篇。
感想・レビュー・書評
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艷気のある文体とストーリーながら、冷静な視線で状況を描いており、この先は、と読ませる小説。
文章も美しく、のめり込めばのめり込むほど小説の世界に溺れることができます。
近世日本のきれいな小説が読みたいという方は、ぜひ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自然主義作家と言われる徳田秋声の作品を初めて読みましたが、なんとも評価をしづらい作品です。『黴(かび)』の主人公の笹村も、『爛(ただれ)』の主人公お増(ます)の良人(浅井)も女性の扱いが悪くて、なんだか途中途中で気の毒でならなかった。
2作品とも、深い心情が描かれる事なく、いたって淡白な語り口で進んでいきます。そして、話しの内容に盛り上がりも少なく、いきなり話しが飛んで行間を読まされる文章などは、もう少し前後の関係を書き込んであればと思いました。
このようなことを書くとダメなのかというと、
不思議と読み返してみたい気持ちもあります。おそらく、難解な漢字を多様していることと、特徴的な言葉の繰り返しが、一見グダグダになりそうな雰囲気を適度に引き締めたり和らげたりで、それらが最後まで読み進める牽引力になっているからかもしれない。他の作品も読んでみようと思います。
あと、作品に関係ないですが、出版社にはもう少しルビに気を使って欲しかったですね。 -
『黴』は1911(明治44)年、『爛』は1913(大正2)年に新聞連載されたもの。
日本自然主義文学の最高峰とも言われる徳田秋声の小説を、こんにちの観点からどのように評価し、位置づけるかということは、そう容易なことではない。ただ、これが「いかにも日本的な美感を代表するものの一つ」だということは想像できた。この場合の「日本的美感」は、もちろん、長所も短所もある。
この小説の構成原理には、近代西洋が追究してきた「論理性」が存在しない。状況Aがすべからくして状況Bを結実した、というような強固な原因-結果の結びつきが、「日本的美感」の核心部分には見られないようなのだ。秋声の小説では、「物語」は論理的発展や観念的構成のもとに結実するのではなく、風が吹き花が散るような自然のなりゆきであるかのように、巡りゆく四季であるかのように、状況Aに次いで状況Bがたまたま、しかし抗いがたく生起するというだけだ。そのため、作品の結末は常に尻切れトンボであり、急に電源が落ちたかのようなあっけなさ、唐突さを示す。それは人間の生が急な病気や事故で突然終焉を遂げるのと等しいだろう。
さらに、それぞれの状況における人間の「気持ち」はかすかに分かる程度に打ち出されるのであり、フランスの心理小説やヘンリー・ジェイムズの作品のような、論理的追究を主眼とした「心理描写」とは、どこか根本的に異なっている、人間の心の移りゆきもまた、瞬間に風が吹くような偶然性と不可避さの様相を呈する。
淡々とした文体は、どことなく「妙な言い方」が見られるのだけれども、それが不思議な味わいとなって余韻を残す。
明治終わり頃から大正期にかけて、ずいぶんと評価が高かったらしい秋声の作品は、確かに「現実らしさ」を備えているような感覚をもたらし、それが「自然主義文学」のディスクールの中で至高の価値として評価されたのだろうと思う。
このリアルさの感じは、どことなく味わいのある文章と共に発現するのであるが、後の大衆化・商業化された戦後文学、こんにちの文学風景とはまるで違っており、我々にとって徳田秋声の文学とは何か、という問いが、思いもかけない、気分に馴染まないような異質さとして、心にぶつかってくるように感じる。 -
『黴』
一文の中、文と文の間、にもっと説明があってもいいが、それが隠され、そんなことまで言わないよ、というように進んでいくので、捉えにくいのだが、それ故に文を丁寧にゆっくり読み、前の文をまた読み返す。
笹村が、お銀に抱く好悪感情のゆらぎ。
私も実際に人と長年関わり、その人に対する感情のゆらぎを経験する。
ゆらぐとき以外は、長い大きな変化のない生活がそこにはある。
だから、途中で何度も後どれくらいページが残っているだろうかと確認させる退屈な日々も描かなければならなかったのだろうか。
自然主義と言われている、〜主義というのは個人の性質だろう。
笹村という男の感覚を知ることができるが、言葉の表現に魅力や独特で惹かれるということは無かった。
懈い(だる)
莨(たばこ)
然う(そ)
迚も(とて)
左に右(とにかく)
些と(ちょっ)
為方ない(せんかた)
お鳥目(あし、ちょうもく):銭
拵える(こしら)
侑める(すす)
嫣然(えんぜん、にっこり):美女が笑うさま
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-084_023.pdf
『爛』
「風が一戦(そよ)ぎもしなかった。」
わぉ、風を数えてる! そんな驚きから、風って始まりも終わりもわからないものだよな、そう思うと魅力的なものだな。
後朝、男が湯屋に出ている間に、女が鏡の前で自分を見つめたとき、まだ残っている美しさと、所々に見える衰えの兆し、男を惹きつけるものが無くなっていくことを感じている。
わたしも鏡の前で、顔を洗い、髪をとかし、内から滲むようなピンク色、まだ美しい肌、紅をささずとも赤い唇、食べたものがこの身を構成するのだから美しい肌など内から滲むピンクなどあり得ないはずなのに、食べたものが身に現れるのはいつなんだ、すぐに現れないのが逆にこの先ボロボロになるのではないかという恐れを抱かせる。
言葉の連なりの中に興味惹かれる躓きがあって、それをゆっくりまた読み返して味わいたいという事は無かった。
女の描写も、まぁいいが、既に聞いたことのある言葉の連なりだった、新しい着目点、捉え方、描写では無かった。
そういうものではなくて、言葉の連なりの、合間、言葉にされないところ、で暗に何かが起こっていて、予感させたり、疑わせる、そういう特徴があった。
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自然主義文学に位置づけられる徳田秋声の小説2編。全般的に登場人物の心の動きや内面的告白が少なく、読後に陰鬱な印象が残る。