比較制度分析序説 経済システムの進化と多元性 (講談社学術文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062919302

作品紹介・あらすじ

アングロ・アメリカン型の経済システムは本当に普遍的なのか?多様なシステムの共存が経済利益を生むような「進化」とは?そして日本はどう変革すべきか?企業組織から国際関係まで、ゲーム理論、情報理論等を駆使して「多様性の経済利益」を追究する新しい経済学=「比較制度分析」の考え方を第一人者がわかりやすく解説する、最適の入門書。

感想・レビュー・書評

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  • 経済がグローバルなつながりを持っている現代においても、各国の経済においてそれぞれ異なる多元的な組織やシステムが存在している理由は何か?このことを解明するために筆者の青木昌彦氏らが中心になって開拓した比較制度分析について、概要を説明した本。


    比較制度分析が着目する「制度」とは、主に企業組織において、それを構成する各個人が収集し保有する情報が組織的にどのように交換され、使用されるかというコーディネーションの仕組みである。

    比較制度分析では、このコーディネーションのあり方に応じて、企業組織を概ね5つの基本形に分けて分析を行う。

    まず分類のための観点として、企業組織で扱われる情報を「個別環境」に関するものと「システム環境」に関するものの2つに分け、それぞれの情報がマネジメント層と各職場の間でどのように扱われるかに着目する。

    情報の収集と活動方針の決定がマネジメントによって集中的に行われるのが、最も古典的な組織である「古典的ヒエラルキー」である。これに対して、事業環境に関する事前の情報をもとにある程度のルールはマネジメントが決定するが、その後個別環境に関する情報収集と具体的な活動の決定は各職場が分散的に行うのが「分権的ヒエラルキー」である。

    さらに情報化の進展や組織の進化により各職場単位での情報収集能力が発達すると、個別環境に関する情報だけでなくシステム環境に関する情報をも各職場単位で収集して活動の決定を行う、「情報異化型」の組織が登場する。

    ここまでの類型は、情報収集の分権化という流れに沿った進化である。一方で、各職場での業務に同質性が高く、個別環境に関する情報よりシステム環境に関する情報の方が重要度が高いという企業も存在する。そのような組織においては、そのようなシステム環境に関する情報を共同で収集しそれのみに基づいて各職場が活動の決定を行う「情報同化型」、そして、各職場が共同してシステム環境に関する情報を収集しつつ、独自に個別環境に関する情報収集も行う「水平ヒエラルキー型」という2つのタイプが生まれる。


    それぞれの企業が直面する市場環境や、産業の発達過程に関する経路依存性などにより、これらの5つのタイプから異なったものが選ばれ、定着していく。本書ではそのメカニズムを、ゲーム理論の枠組みを使いながら説明している。

    産業のタイプとして、情報共有型組織が優位と考えられるM産業(製造業など)と、機能分化型が優位と考えられるI産業(IT産業など)の2種類を想定し、また労働者もM産業により適合する可塑的技能形成の戦略を持つ労働者とI産業により適合する機能的技能形成の戦略を持つ労働者の2種類を想定する。

    この場合、各国の経済における産業構成に従って最適な均衡が生まれるように思われるが、これら二つの産業の生産物の間に補完性(それぞれの職場の生産性が他の職場の活動によって改善されるという性質)があると想定すると、労働者が機能的技能形成の戦略に偏っている経済では、M産業でもI産業でも機能分化型が優位となり、逆の経済では情報共有型が優位であるという均衡も生じ得るということが明らかにされている。

    この検証結果は、各国経済において、産業の特性だけではなくその他の要因によっても、様々な制度が多元的に存在しうることを示しており、リカードの比較生産費説よりも複雑な経済の仕組みを描写し得る理論になっている。


    本書ではこの後、この理論的な枠組みをもとに、日本のコーポレート・ガバナンスのあり方に関する議論、その中でも日本のメインバンク制がどのような意味を持っているのか、共産主義諸国の市場経済化のような移行経済において制度の問題はどのような影響を与えるのか、さらに経済における多様な制度の存在はどのような意義があるのかといった具体的な課題について、議論を進めている。

    日本の企業統治のあり方は、欧米のような市場によるモニタリングではなく、メインバンクによる間接金融とモニタリングが組み合わさったシステムであると言われてきた。筆者はこの背景には、戦間・戦時において国際市場から隔離されたことにより、市場志向的な金融制度の運営に必要な専門化した金融モニタリングの機能が蓄積されてこなかったことと、戦後の企業基盤が脆弱であり、株式市場を通じた資金調達に見合う剰余創出能力がなく、ある程度低い収益性のもとでコミットしうる銀行が、コーポレート・ガバナンスの仕組みも提供せざるをえなかったこととがあると指摘している。

    そして、既存のノウハウの吸収と改善が企業の組織的な能力として求められていた高度成長期においては、事業の投資における事前モニタリング、実施中の中間的モニタリング、そして事業の成果を判定し継続/解散の判断をする事後モニタリングをメインバンクが一貫して行うということが、合理的であったという。

    メインバンクは投資家と比べれば低いレントではあるが、融資団の他の銀行よりは高いレント(メインバンク・レント)を得る代わり、有志企業が財務的な困難に陥った場合にはその措置を行う責任を負う。また、インサイダー(従業員)との関係においても、生産性がある一定値を下回るときにメインバンクが事後的モニターとして介入するメカニズムがあることで、生産性改善に対する一定のインセンティブが生じることになる。

    このようなメカニズムは、戦後日本に特有の経済、人的資本の環境において発展してきたものであるが、合理性を持った均衡点を形成していたと言えるであろう。


    それでは、このようなシステムは、移行経済においても同様に生じ得るものなのだろうか。筆者は、旧ソ連諸国と中国がそれぞれ共産主義経済から市場経済を取り入れた経済システムへ転換するプロセスを取り上げ、この問題について考察している。

    その際に鍵となるのは、インサイダー・コントロール(内部者支配)に対してどのように対処するかである。ロシアにおいては多くの国有企業が民営化後には経営者と従業員による所有へと移行した。このことが急速な国の管理の退行に伴って、インサイダーによる統治という状況を作りだしている。株式市場による外部からのモニタリングが働かず、かといって銀行によるモニタリングといった制度も生まれることがなかった。

    そして共産主義体制では、競争的な労働市場が存在しなかったため、国家と企業と労働者がいわば運命共同体という状態の下、撤退水準の生産性にある企業に対しても国営銀行が融資を行い生産活動を持続させるという、ソフト・バジェッティングと呼ばれる状態が発生していた。ソフト・バジェッティングは、「市場経済化」以降のロシア企業についてもインサイダー・コントロールの状態にあることから、容易に発生しうる状態であるという。つまり、市場経済への移行が、その当初の目的を発揮することができるかは疑わしい状態であると考えられる。

    中国においては、この本が最初に出版された1994年の時点ではまだ民営化に向けた道筋は明確になっていなかった。中国では国有企業の民営化は旧ソ連や東欧諸国と比べると緩やかなペースで進められていたが、一方で郷鎮企業と言われる地方行政レベルでの企業など、様々な形態の企業が生まれ、それらが今後どのようなガバナンスを取り入れていくのかということが、中国企業の生産性や安定性を左右する大きな要因になると指摘されている。

    また、ソフト・バジェッティングの問題については、その後、人民銀行による企業への直接貸し出しが禁止されることにより、一定の歯止めがかけられることになったことが付記されている。

    比較制度分析は、このような経済システムの移行プロセスについても、そのあるべきガバナンスの姿や課題を検討することができるということは、印象深かった。


    比較経済分析によることで、産業の特性によって多様な組織型が併存する状態が、最大の経済利益を生む状態である可能性が見えてくる。一方で、この分析は「仕切られた多元主義」ともいうべき、経済の分断や経済システムの硬直化を擁護する考え方につながる可能性もある。

    本書では、このような「仕切られた多元主義」を「開かれた多元主義」にするために、比較制度分析がどのような貢献をしうるかということについても述べている。日本の経済を例にとると、日本においては情報共有型の組織型が優位であるが、近年の情報産業の発展等、世界の経済の潮流においては、様々な企業の合従連衡が行われ、それにともない労働力も機能的技能形成をベースとした考え方が増えてきている。

    このような状況を踏まえ、日本においても従来の情報共有型の組織型が非効率な産業においては、新しい組織型の実験が可能となるような制度改革が必要であるということが述べられている。

    中でも、純粋持株会社の導入は、その企業の従来の事業領域と競合し得るビジネスモデルやマーケットへの参入を通じて、情報異化型の制度の効果を実験しうるという観点で、効果があると筆者は述べている。また、投資の観点からも、純粋持株会社がベンチャー金融機能を果たすことにより、これまで日本では成熟してこなかった事業に対する事前的モニタリングの機能を発展させていく契機にもなりうると、考えている。

    この本が出版されて以降、日本でも旧財閥の枠を超えた合従連衡やM&Aが行われるようになり、多様な組織型による実験はある程度実現をしているように思われる。その成果が新しい産業の隆盛という形で具体化するのには時間がかかるが、比較制度分析の観点からその意義を捉えておくことが、今後この日本の産業組織の実験の結果を検証する上でも重要になってくるであろう。


    比較制度分析の基本的な内容と、それをもとにした政策への応用例をコンパクトにまとめてあるという意味で、この分野を理解する上でとても良い入門書になっていると感じた。

  • 青木昌彦が先月(7月15日)亡くなったと知った。青木もそうだが、廣松渉、西部邁、柄谷行人など1950年代に「ブント(共産主義者同盟)」に関わった人々には結構有名人が多い。廣松、柄谷は終生(柄谷は存命だが) 「左翼」を貫いたが、西部、青木は早々と「転向」した。西部は今や保守論壇の重鎮となり、青木はアカデミズムのメインストリームで国際的にも高い評価を得た。昔の左翼は随分頭が良かったものだとつくづく思う。

    本書で青木が論じてることは現象としては実はありふれた常識的なことだ。 前近代的な共同体の残滓に見えた日本企業の組織原理が、決して「遅れた」ものでも非合理的なものでもなく、情報処理システムとして極めて効率的で理にかなったものであること、と同時に一定の限界をも有することを、安易な文化論に逃げ込まず、経済学のタームで鮮やかに説明してみせた。

    新古典派経済学は完全情報を前提に取引費用がゼロの世界を想定する。実際には情報は不完全(非対称)で取引費用は無視できない。そこで経済主体は一定の生産手段を市場から調達するのではなく内製化する。これが企業発生のメカニズムであるが、同じように長期的なコミットメントを通じたコーディネーションコストの節約は、経済活動の様々な局面で見出すことができる。日本的な雇用慣行や、メインバンクの継続的なモニタリングによるコーポレートガバナンスもそのヴァリエーションとして理解できる。

    企業は競争環境に最適な組織原理を選択するし、個人は支配的な組織原理に適合的な自己投資をする。組織や個人に化体した投資価値は市場での売却(調達)が困難なため、一旦そこに補完関係が成立すれば粘着性を持ち、歴史的初期条件に依存した固有の進化プロセスをたどる。これが経済システムの多元性の基礎となり、同時に環境変化への構造的な不適応を生む要因ともなる。ここに政策介入の余地が生じるのだが、青木は経済産業省のシンクタンク(RIETI)の所長を務めるとともに、多くの国際金融機関に関与し、産業政策に理論的拠り所を与える仕事にも力を注いだ。ノーベル経済学賞の期待もあっただけに残念だ。心よりご冥福を祈る。

  • 1103円購入2010-07-08

  • 「金融・人的資源の組織内配分を別にすれば、業務のコーディネーションはネットワークのうえで行われるので、法的な会社の枠を越えた情報空間の上での「事実上の企業(virtual corporation)」といわれるような現象さえ生じてくる」という部分に希望を見いだした。

  • 制度概念の検討をと思って読み始めたけれど、やや専門的過ぎて、他分野の人間には読みにくいところも多かったかな、という印象。

  • 面白かった!特に8章がいい。

    めも
    ダグラス・ノース「公式・非公式のゲームのルール」

    制度とは、人々の間に共通に了解されているような、社会ゲームが継続的にプレイされる仕方である。(ナッシュ均衡の反映)

    それは可能か?

    共通の了解・・・他のプレイヤーがどういう行動をとるかについての予想というニュアンス

    仕切られた多元主義
    モジュール化

    一般市民にとっては多元主義は夢のまた夢なんだよな。。。

  • 現在、「経済学」といわれた時に指し示すものは、一般的にはワルラスが提唱した完全競争モデルである。このモデルに従うのならば、そこに経済の多様性は見出されない。すなわち、全てのプレイヤーが経済合理的であり、それぞれが各々の利益最大化を追求する行動を選択する。これを市場がコーディネーションすることで、利益が社会に還元され、経済は大きくなっていく。

    しかしながら、このように普遍的な経済モデルをもって、すべての経済的事象を説明することは可能であろうか。この疑問に対して懐疑的な立場から、経済の多様性を重視する見方が「比較制度分析」と呼ばれるものである。筆者によれば、比較制度分析とは、「多様性」の経済利益の源泉とその存立条件を、経済学の中で蓄積され、広く世界の経済学者によって共有されている「普遍的」な分析言語によって論理的に探ることを目的としている。

    「制度」とは何かという問いに対する答えは、未だ経済学者の中でコンセンサスが取れていない。それは制度の複雑さ故、またこの分析枠組みが比較的新しいことが理由として挙げられるだろう。例えばロナルド・コースによる「取引費用経済学」や、ダグラス・ノースが提唱した「新制度論経済学」が制度に関わる経済学の一派であるが、本書では銀行をはじめとするマクロな視点から分析を試みる。

    このように、比較制度分析はまだ論じられる余地は大きいとみえるが、経済学に対するインパクトの大きさは一目おかれるべきであろう。特に途上国の経済発展メカニズムを解明する開発経済学の立場では、国ごとに多様なモデルを想定するため、比較制度分析そのものの発展は、開発経済学に新たな分析枠組みを作り出すことができるだろう。

  • 制度分析というよりも「組織の経済学」というほうがわかりやすいのではないか。

  • 新古典派的な経済観で行けば、競争的な市場こそが単一で最適な経済制度であって、それにどう近づけるかが課題で、だから、日本もグローバルスタンダードにあわせるべきだという意見。一方で、そうした姿勢に反対する立場も、そうした経済観をある程度認めたうえで日本の市場は特殊だからという意見だったり、そもそも経済的な視点の外からの反対だったりする。
    どちらにせよ、経済制度という観点では最適な市場は一つしかないということは一致してる。

    それに対して、この比較制度分析では、日本は特殊だとは見なさないし、だからといって新古典派的な経済制度が唯一の最適解だとも考えない。そもそも経済制度はもっと多元的で、さまざまな形のものが併存可能だと見なしている。だから、日米欧のどの制度も絶対化されず相対的に検討される。

    そして、それぞれの制度は、個々の事象が相互に補完しあって全体として一貫した経済システムが出来上がる。だから、ほかの国ではうまくいってるからと言って単純にその部分だけを輸入して自国の制度に組み込もうとしても、それはうまく行かない可能性が高い。元々の制度自体が個々の事象同士の微妙なバランスの上に成り立っている以上、それを一部分でも壊せば全体として機能不全に陥ってしまうかもしれない。

    とはいえ、状況が変われば、制度自体もそれに対応できないことには経済はうまく回らなくなってしまう。そのためには、事象同士の相互作用を解明してする必要があると思う。”序説”だしし、10年以上前に出た本ということもあって、この本ではそこまで深くは踏み込めていない。

    それでも、日本の経済制度を考える上では気づきの多い本だと思う。普段新古典派的な単一の経済観になれてしまっている頭には相当に新鮮で面白い。青木先生の主催するVCASIもこの比較制度分析の延長上にあるわけだから、10年経った今ではかなりの成果が蓄積されてるはず。そういう成果をもっと知れる機会があればいいんだけど。

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著者プロフィール

スタンフォード大学名誉教授。経済産業研究所(RIETI)所長などを歴任。著書に『比較制度分析に向けて』(NTT出版)他多数。2015年7月15日に逝去。本書には単独としての最後の論文が掲載。



「2016年 『比較制度分析のフロンティア』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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