- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062919326
作品紹介・あらすじ
南/北の種族=文化が相交わる境としての東北。いまだ自らの歴史や文化の核たるものが語られていない東北。稲作中心史観に養われた南からのまなざしを斥けたとき、そこには縄文的なものと弥生的なものが重層的に織りなされ北方へとつながる深い相貌が見えてくる。柳田民俗学の限界を乗り越えて「いくつもの日本」を発見するための方法的出発の書。
感想・レビュー・書評
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読んでいて、苛々が止まりませんでした。
そしてその苛々は、読み終わるまで続きました。
いや、読み終わってからも止まりませんでした。
その苛々の原因はなんだろうか、と考えてみました。
柳田国男氏に対する執拗なまでの攻撃にあるのだろうか、と始めは思いました。
しかし、よくよく考えてみて、それはたぶん違うと思い直しました。
たぶん、この苛々の大元にあるのは、欲求不満です。物足りないのです。
東北は、これまでの歴史の中において、不当に貶められ、虐げられ続けてきました。
生まれ育った東北を離れて生活して、改めて故郷を振り返ると、それがしみじみと実感できます。
「南」によって形作られた価値観の枠へと、無理やりに押し込められ続けてきたのが東北なのです。
本書は、その事実を目の前に突きつけてくれる、そんな作品だと思います。
それなのに、なぜ物足りなさを感じるのか。
こんなものじゃないのです。
東北という地域が受けてきた仕打ちは、もっと残酷なものなのです。
本書を読んだ東北人なら、きっとその事実に気付くはずです。
だからこそ、なんで「そこ」で止めてしまうんだ、という苛々が、読んでいくうちにどんどん募っていくのだと思います。
東北は、あまりに蔑ろにされてきたのだなと本書を読んで改めて思いました。
きっと東北人は、「東北」という場所に対し、もっと自覚的になるべきなのです。
その歴史や慣習、ことばや成り立ちなど、「東北」という場所に眠っている多くの事象を、もう一度、きちんと捉え直すべきなのです。
「南」にそれを求めることは出来ません。なぜなら、彼らは「異者」だからです。
彼らには彼らの「論理」があります。それは、東北が持っていた「論理」とは根本から異なる「論理」です。
核となるものが違っている場合、その両者の間に「共感」が生まれることは有り得ません。
そこに構築するべきは、相互理解による「共存」なのです。
どちらかがどちらかの「論理」に屈して成立する「支配」であってはならないのです。
その為には、まず自分達が依って立つ地盤を、しっかりと認識する必要があるのです。
本書は、その認識へと導いてくれる良書だと思います。
エピローグは、まるごと引用したいくらいに素晴らしい内容でした。
しかしさすがにすべてを引用するわけにもいかないので、特に印象的な部分を引用します。<blockquote>東北はつねに、いくらかの負性を帯びた、たとえば「蝦夷の国」や「みちのく」といった他称とともに語られてきた。思えば東北は、みずからを等身大(あるがまま)に名指すべき呼称すら知らず、また、みずからの歴史や文化の核たるものを紡ぎ出すべき語りの技を、わずかしか持たなかった。眼前には、忘れられた東北があり、さらに忘れられようとしている東北がある。</blockquote>本当にその通りだと思います。
「南」からの侮蔑を素直に受け取り、自らの出自をコンプレックスとして抱え込んでしまうという悪癖。
ことば一つにしても、「東北弁」という呼称には、その根底に隠しきれない侮蔑が潜んでいることは間違いないと思います。
これは、東北人の被害者意識などではなく、「南」から長年に渡って刷り込まれ続けてきた結果に過ぎません。
東北は、そこに住む人たちによって、「再発見」される日を待ち望んでいるような、そんな気がします。
そしてそれは、延いては「日本」というものを捉え直す機会にもなるのではないかと思います。
三浦氏は解説でこう書いています。<blockquote>そこに光と陰はあるとしても、柳田は日本列島を俯瞰し、列島に生きたふつうの人々の生活や歴史について、丹念な整理を行い、壮大な仮説を展開し、コーディネーターとなって民俗学という学問を組織した。それは、柳田以外のだれもが成しえなかった大事業である。赤坂さんには、それを受け継ぎ、「瑞穂の国のではない民俗学」を構築して欲しいのだ。</blockquote>まったく同感です。
著者の切り口は、これまでになく斬新です。
そしてそれは、たぶん正しい方を向いていると直感的に感じました。
赤坂氏による他の著作も、読んでみようと思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
南から北へではなく、北から北へのまなざし。
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昔学会で取り上げられた学者さんの代表作.これも後でゆっくり読む.
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学術文庫かね、これ。というのが、読後の感想。
ただ、内容は決して劣っている訳ではなく、無意識的に刷り込まれていた「単一文化・民族」の日本という幻想を、幻想であると気づかせてくれる、良書。
他方、他の人のレビューにも書いているとおり、本書はどちらかといえば筆者の紀行文に近い。「東北学」を立ち上げるにあたって始めたフィールドワークの記憶と記録をやや感傷的に振り返り、その都度、日本民俗学を研究するにあたっては避けては通れない柳田國男氏の視点を対置し、いや、逆説的にはその視点を通して、東北を眺め、問題提起をむにゃむにゃとおこなうスタイルである。
「東北学」を理解するためには、この本だけでは絶対に足りない。あくまで、東北学に興味を持つきっかけを与えてくれる本として、本書を捉えるべきである。そういう意味で、「学術文庫」とするには少しお門違いな気がするのである。
さあ、柳田國男氏の著作から、もう一度読み直しである。 -
1103円購入2011-06-24
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遊佐の事が結構載って他ので
そうなんだよ
なまはげは鬼じゃない
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最初だけ読んで、長らく積ん読の山に入っていた本。もう一度読み始めたらけっこう面白かった。主に山形・岩手・秋田…あたりが登場します。
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「くまみこ」のアニメを見始めたので,なんとなく読み始めてみた一冊。
北海道のアイヌと東北の蝦夷は連続しているのでは,というあたり,「くまみこ」のマチの衣装がアイヌっぽいけどでも舞台は東北,というのとなんとなく繋がっているような感じがあり,あと結構熊の話題も多かったので,そのあたりが頭の中で結びついて(本当はぜんぜん関連がなくて結びつけてはいけないものだったのかもしれないけれども)するすると読めた気がする。
三部作(で合ってたかしら?)のようなので,続きも読んでみようかみるまいか。
本書の中で何度も引用され,批判されていた「雪国の春」は青空文庫版を読むべく,kindleにダウンロードしてみました。 -
エッセイ。東北紀行文。以下の項目についてわずかずつ言及有り。賽の河原。達谷の窟。田村麻呂伝説。鮭の大助。マタギ。オシラサマ。ネブタ。サンカ、など。
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150131 中央図書館
「東北学」というより、紀行エッセイに近い。
柳田國男により定着している「瑞穂の国」に溶け込んだ東北、芭蕉の『奥の細道』のように都視線の歌枕として価値を見出される東北。そういった像には違和感があることを認めるべし、と赤坂は言う。辺境でもない、まつろわないために屈服せしめられ編入されたというものでもない、ありのままの東北の描像を試みている。