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本 ・本 (208ページ) / ISBN・EAN: 9784062920872
作品紹介・あらすじ
たのしい仕事もあればつらい遊びもある。仕事/遊び、労働/余暇という従来の二分法が意味を消失した現代社会にあって、わたしたちが生きることを支えているものはなにか、それは「働く」ことと「遊ぶ」こととどのようなかかわりがあるのか――。人間性の深みまで掘り下げて労働観・余暇観の歴史にせまり、人間活動の未来像をさぐる、清新な労働論。(講談社学術文庫)
「働く」ことと「遊ぶ」こと
われわれの日々の活動とその価値はどこへ向かい、どのように変化してゆくのか
たのしい仕事もあればつらい遊びもある。仕事/遊び、労働/余暇という従来の二分法が意味を消失した現代社会にあって、わたしたちが生きることを支えているものはなにか、それは「働く」ことと「遊ぶ」こととどのようなかかわりがあるのか――。人間性の深みまで掘り下げて労働観・余暇観の歴史にせまり、人間活動の未来像をさぐる、清新な労働論。
わたしたちが仕事のなかにもとめる移行の感覚とは、未来のために現在を犠牲にする<前のめり>のものではなく、むしろ同時的なものであろう。それは他者との関係のなかで<わたし>の変容を、そして<わたしたち>の変容を、期するものであるから。「希望はつねに帰郷であるとともに、何かある新鮮な新しいものである」。<希望>という、この美しいことばで、「途上にある」という移行の感覚を表現したのが、ガブリエル・マルセルであった。――<本書第四章より>
※本書の原本は、1996年、岩波書店より刊行されました。
感想・レビュー・書評
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1 前のめりの生活
・「時は金なり」という言葉で表現されるように、現代では時間を無駄にしないことが重要だとされる。ジョンロックは、生命と財産の保全のために所有権の理論を構築し、累進的増大を徳目とする思想を提唱した。また、労働は価値ないしは富の源泉とした。資本主義を支えるこの勤勉・勤労というエートスが、人間の活動はたえず価値を生産しなければならない、それもつねにより多く、より速やかに、つまりはより効率的に、という強迫観念を生み出してくる。結果として、現代人は、未来をよりよくするために、今を効率的に生きなくてはならないという思想に縛られるようになった。
2 インダストリアルな人間
・現代では、労働は人生を意味づけるもの、生きがいとして受け止められるようになっている。さらに労働のみならず、余暇や消費、さらにはじぶんの身体といったものにも勤勉・勤労のエートスが浸透するようになる。
・たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、惰性的に反復されてきたのが20世紀社会であった。
3.深い遊び
・仕事と遊びが、労働と余暇という関係へと二極化され、労苦とそれからの解放というふうに、両者が対立物として規定され、その差異が強調されることで、皮肉にもそれぞれが空疎なものになってしまった。
4.労働 VS 余暇 のかなたへ
・仕事の「内的な満足」は、未来の目的とではなく、現在の他者との関係と編みあわされている。すなわち自己のアイデンティティとの関連で与えられるものであり、「生きがい」とよばれるものである。
・なにかに向かっているという感触が充実感やときめきを与える。そしてそういう感覚のなかでは目標点ではなく、通り過ぎる風景のひとつひとつが、回り道や道草もが意味をもつこととなる。
・現在を不在の未来の犠牲にするのでなく、「いま」というこのときをこそ、他者たちとのあいだでときめかせたいものだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
鷲田清一著『だれのための仕事 : 労働vs余暇を超えて(講談社現代文庫)』(講談社)
2011.12.12発行
2017.10.3読了
1996年に刊行された本に補章を追加して2011年に文庫出版したもの。
人間の活動は絶えず価値を生産しなければならないという生産性の論理が私たちの自己理解の構造の中に組み込まれたことにより、現代人はインダストリアスな強迫観念に囚われ、仕事から遊びという間がなくなってしまった。そのため、仕事が労働(辛苦)となり、モチベーション維持のために目的の実現や自己の対象化という美徳が編み出され、労働が生きがいとなるような心性が形成されていき、一方で非労働=余暇が退行的活動へと縮減されていった。
しかし、インダストリーの精神は労働だけにとどまらず、余暇にまで浸透していき、余暇さえも真空恐怖に支配されるようになった。ここにきてインダストリーの精神がいわば一種の飽和状態となり、生活そのものの目が詰まり、人々は脱出口を見つけようとやっきになっているようにみえる。つまり、目的連鎖の労働過程の中で意味を失った人々は、自分が持っている能力や資質や財を使うことによって、じぶんがじぶんであることを自己自身の内部に見出そうとやっきになっている。
しかし、筆者は、自己の同一性は、わたしの自己理解の中にあるのではなく、特定のだれかとして他者と関わる中にしかわたしは存在しないと考えている。具体的には、わたしはだれかという問いは、わたしの自己理解の中にあるのではなく、他者がじぶんを理解するそのしかたの中にあるものでもなく、その二つが交錯し、せめぎあう現場にこそある。言い換えれば、他者との関係の中で編まれていくじぶんのストーリーこそがアイデンティティーであり、それこそが楽しさや生きがいを与えてくれる。目的地ではなく、その道の途中、つまり、他者との関係の中で編まれていくストーリーあるいは新しいじぶんの発見が、未来ではない今を時めかせる。働くことの意味は絶えず語りなおされ、掴みなおされるものである。労働/余暇の対立項で考えるのではなく、個としてのじぶんの「務め」を探る感覚が、その語りなおしをきっと後押ししてくれるだろう。
以上が、私の本書のとらえ方である。大企業や組織の中で、匿名の誰かとしてではなく、特定の誰かとして他者とかかわるというのは、とても難しいような気がする。勤め人時代をさらに超えた長い人生を俯瞰して物事をなす、個としてのじぶんの「務め」を探るということだが、システムそのものの存続のために、人が求められたり、棄てられたりする社会で、一体どうすれば、他者との関係の中にわたしのストーリーを編むことができるのか。最終的な答えは示されていなかった。おそらく私自身で見つけるしかないのだろう。
URL:https://id.ndl.go.jp/bib/023180119 -
子供のころ、「大きくなったら何になりたいか」という定番質問に、「子供のままでいたい」と答えたいた。
大学卒業を前に、就職が決まると、「子供時代が終わる。ああ、次のお楽しみは、リタイア後だな」と肩を落としていた。
あれから、四半世紀。定年が延長になり、1/3ともいわれる給料ダウンをのんで再雇用を選択する人々の姿を見てショックを受け、「私は、自分に投資して、エンプロイアビリティを高めることで、長く労働市場をサバイブしよう」と、順応しようとしている自分がいる。
そんな自分に、もう一度喝を入れてくれた本。子供時代の「強迫的な労働は、いたしません」というあの感性を、今の働く現場に持ち込むためには、どうしたらいいのか。
「『生産するための仕事』ではなく『他者との関係を通じて自分の存在を確かめてゆく仕事』に、ひとは価値を置くべきである」という氏の主張を頼りに、自分がかかわっている労働集約的な業界の仕事の在り方を、問い直してみたい。
↓下記の要約は理解の補助線としてGood!
https://ho-jo.net/2018/06/17/%E3%80%90%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E3%80%91%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80%E3%80%8E%E3%81%A0%E3%82%8C%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%80%8F%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6/ -
労働、勤勉が、資本主義の中で神聖化されていく。マルクス主義の観点でも、実は「労働者の提供する資源」という形で神聖化される。余暇や快楽までが消費の対象になる。
ついには「たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、(逆説的にも)惰性的に反復されてきたのが、二十世紀社会なのであった」(P86)と喝破する。
さすが鷲田清一氏の論考でこの辺りまでぐいぐい読ませるが、では、それに対置されるべき「遊び」とは何か、というあたりからやや論旨が迷走している感あり。
氏が肯定的にとらえようとしている「深い遊び」という概念が、前段で批判的に検討していた「レクリエーション(再生産の準備としての余暇)」とどう違うのか、結局よくわからない。
「労働VS余暇のかなたへ」という問い建て自体には強く興味を惹かれるだけに類書も並行して読み進めたい。 -
近代において成立した労働と余暇の二項対立を乗り越え、他者とのつながりのなかで生きる自己のあり方に注目しながら、「働くこと」の意義について考察している本です。
フランクリンに代表される近代人は、勤勉・勤労に何よりも大きな価値を認めました。一方、1960年代以降に青年たちを中心に広がったカウンター・カルチャーのムーヴメントでは、「モーレツからビューティフルへ」ということばに象徴されるように、「労働」よりも「余暇」に大きな価値を見ようとしました。しかし著者は、こうした「労働」と「余暇」の二項対立そのものが問題だと考えます。
勤勉・勤労に価値を置く近代においては、つねに前方を見つづける「前のめり」の時間意識が支配的だと著者は主張します。そして、仕事中毒からの離脱願望としてのレジャー志向のなかにも、同様のエートスが息づいていると著者は指摘しています。たとえばジラールが分析した欲望の模倣のメカニズムは、われわれの欲望が同一の物語に回収され、一定の方向へと回送されていくことを白日にさらしました。しかし、有用性と有意味性の連関のこわばりに対しては、レッシングが功利主義者たちに問いただしたように「ところで効用の効用とは何か」といったような冷や水を浴びせてやることが、ときには必要なのではないかと著者は問いかけています。そのうえで、阪神大震災以降に日本の社会においても定着することになったボランティア活動に注目しながら、労働と余暇の二項対立から逃れ出る道をさぐっています。
著者の結論をわたくしなりにまとめてみると、「顔」という概念を軸にして、広い意味での「社会的包摂」のなかで個々人のアイデンティティが充実されていくことに「働くこと」の新たな意味を見いだそうとしているといえるのではないかと思います。 -
最近、読んでも聴いてもアタマに入ってこないので、リハビリのつもりで読んだ。
"境界線をぼかす"がここにも。
何故、わたしは仕事と休みを対立で考えていたのか、来ないかもしれない"いつか"のために今は後回しでいいと思っていたのか。
仕事用のペルソナで働くことには限界があるのかもな。そんな場にいる限りダメってことか。自分は自分の内じゃなくて外との関係の中にあるのだろうから。 -
いま興味のあるテーマが2つある。「幸せ」と「仕事」である。両者はつながっている部分も多い。定年退職まであと半年を過ぎたいま、自分にとっての仕事とはいったい何だったのか、今後どのように生きていけばよいのかを考えている。そして、何が自分にとっての幸せなのかも。と同時に、実は長男のこともある。1人暮らしをしていた長男が会社を辞めて実家にもどって来て3ヶ月になる。何をするでもなく、一度も社会人経験がないという学生時代の友人とずっとオンラインでゲームをしている。いろいろと考えていることはあるようだが、行動には出ていない。自分の興味もあって、放課後児童支援員の研修をいっしょに受けることになったが、何か動き出すきっかけになってくれればいいと思う。ただ、ここに来てそもそも人は働くべきなのか、という疑問がわいてくる。10年ほど前に、「働くことの意味」を勤務校の通信に連載したことがあったが、そのときは「誰かの役に立つこと」、そのことによって、誰かに認めてもらえる、あるいは感謝してもらえる、そういうようなことが働くことの意味である、と書いた。それはそうなのだが、食うために働くというのも何も悪いことではない。ある程度食べていけるだけのものを稼いだら、あとは遊んで暮らす。そしてまた、必要に応じて働く。そうやって幸せそうに暮らしている人もいる。そう、各人にとっての働くことの意味と、それぞれの幸福感は密接につながっているのだ。本書を読んでいろいろと考えた。多くの過去の哲学者のことばについては理解することをほぼあきらめている。(そうか、算数の授業でいつも子どもたちに言っていた。理解することをあきらめたら(シャッターを下ろしたら)それでおしまいだと。自分は子どもたちと同じことをしているのかもしれない。)鷲田先生自身のことばは、引用はしないが納得できるものがいくつもあった。ただ、「なるほど、そう考えればよいのか」というような新たな発見はなかった。自分がいままでいろいろと読んで考えてきたことが、哲学者の考えと大きくはことならないということが分かったという感じだ。本書は、今年誕生した最近流行の独立系書店である「鴨葱書店」で偶然見つけたものだ。仕事関連の本が集まっていた棚にあった。先日読んだ今村仁司著「仕事」と並ぶようにして。ところで本書は1996年に単行本として刊行しているようだが、まったく古びていない。この30年で状況が変わっている点はたくさんあるが、本質的なところは何も変わっていないのだと思った。
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2024年1月読了。
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含蓄深い、仕事をめぐる論考。
始終、自分はこのままで良いのかの反省が出来た。
身体論、ファッション、また、家事とボランティア、クレーマーの話題が面白い。
労働と余暇をめぐる歴史的変遷も頭の整理になった。
著者プロフィール
鷲田清一の作品





