西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史 (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062921039

作品紹介・あらすじ

エッダ、サガに登場する粗野でたくましい死者のイメージは、中世後期の『黄金伝説』『奇跡をめぐる対話』では、生者に助けを求める哀れな姿となる。その背景には何があったのか?キリスト教と「贖罪規定書」そして告解の浸透…。「真実の告白が、権力による個人形成の核心となる」(M・フーコー)過程を探り、西欧的精神構造の根源を解き明かす。

感想・レビュー・書評

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  • 西洋中世の罪と罰

    キリスト教以前の亡霊とキリスト教以後の亡霊のありかたについて書かれている。前半は筆者の専門分野でもあるアイスランドサガに見られる亡霊観からキリスト教以前の世界を読み解く。サガでは死者は生者と戦争したりするなど、死者はとても生き生きとしていることがアイスランドサガの様々な物語から説明される。当時の人々にとって死後の世界について考えることがあまりなく、生を全うすることが主題であったようだ。だからこそ、生前に共同体に認められなかったものの恨みは大きく、彼らが死後に生者を襲うようになる。このような死者観は、キリスト教導入後に、生者に救いを求める哀れなものに変わる。キリスト教徒は、自らの布教活動の為に、民衆に死のイメージをすり込んだ。中世民衆説話である「黄金物語」などでは、既に民衆教化の影響もあり、死者のイメージは死後の世界で苦しみ、生者に救いを求めるものに変わっている。キリスト教の布教におけるもっとも大きなインパクトをもたらしたのはカール大帝の王国である。カール大帝はゲルマンのキリスト教化において、教区制というハード的なシステム設計とカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化興隆-ソフト面の教化―を成し遂げたのであった。歴史家のウルマンはカロリング・ルネサンスについて、単なる文化興隆ではなく政治的な解釈をしている。カール大帝は従来の慣習に生きる人々を、文化を介在し教義(規範)を浸透させることで、慣習や歴史、伝統とは全く特徴を共有しない神の教えに服する社会への変革を目指したのであった。それがカロリング・ルネサンスのからくりであるという。このようなカロリング・ルネサンスの政治的解釈については筆者も一部を除いて同意している。さて、前置きが長くなったが、キリスト教化後の人々の生き方を決定的に規定したのは『贖罪規定書』である。カール大帝の社会変革は、教区の司祭によって実行に移され、その際司祭は、罪という強力な武器を用いて天国と地獄、そして煉獄の概念を人々に植え付け、日常生活のキリスト教的再編を行ったのであった。『贖罪規定書』はいわばそのハンドブックであり、告解を通じて人々はキリスト教的罪の概念を媒介に、個人について自覚するようになる。ここに、従来の血縁・氏族的共同体(ゲマインシャフト的)からの個人の解放が起こり、新たな社会的結合体(ゲゼルシャフト的)の成員として生まれ変わるプロセスがある。観念的なレベルで「個人」という概念を誕生させた『贖罪規定書』が歴史的に大きな意味を持つことは言うまでもない。以上、本の要約であるが、少し自己の解釈を述べる。『贖罪規定書』と告解の項を読んでいるとき、これが社会の成員になるための通過儀礼的な意味合いを持っていることを感じ、同時に今自分が直面している就職活動との関連性について考えた。ここでは、『贖罪規定書』の宗教的な意味合いというよりも、個人への影響に限定して書く。就職活動を社会人への通過儀礼と位置づけた時、そこに多くの類似性を見出せる。就活生は自己分析という名のもとにそれまでの20年余りの人生を振り返り、それを面接という場で告白し、自己をアウトプットすることを通じて自己認識を高めていく。自己アピールは「チームで成し遂げた経験」など社会の成員として一定の評価に値するものが述べられ、自己分析と面接も、そのような経験にフォーカスされる。このような構造は、『贖罪規定書』が社会成員としてのネガティブリストであるのに対し、面接の自己アピールの評価がポジティブリスト的であることを除いては贖罪規定書の構造ととても似ているように思える。『贖罪規定書』が当時の民衆にとって血縁的結合体に埋没した自己の再認識作業の指南書であったならば、就活における社会人として評価される学生時代の経験を数え上げるプロセスというものもまた、学生として埋没していた自己の再認識作業であることに他ならないのではないか。自分自身、就活や自己分析を曲がりなりにもやってみて、自己というものを再認識する良い機会であったことは認めざるを得ぬ事実であり、新卒一括採用・就活というシステムに問題があるかは別にして、自己にとって意味のある期間であったと思う(まだ就活終わってないけど)。時代は違うが、告解を通じて社会の物差しで自己を図りなおす作業は、中世の人々のその後の人生をより豊かにしたのではないかと私は思う。以上。

  • キリスト教と「罪」という概念の浸透とともに人々の死者たちへの意識も変化していったが、民衆の間ではそれ以前の死生観、宇宙観といったものも残り続けた。一方で、告解という仕組みが旧来の共同体から「個人」というものを際立たせ、共同体中心の社会に大きな変化をもたらした。日本に生きる私たちが「世間に対して申し訳ない」と思う感覚は西洋の古い共同体社会と相通じるもので、そのことがキリスト教伝来以前のゲルマン的死生観や風習(そしてそれらを色濃く残す西洋の民話)への親しみやすさと深く関わっているのだろうか。贖罪規定書の中に、旧来の風習が「罪」として否定されていく様子とともに教えを説く側の苦心と巧さが垣間見えるのもおもしろい。

  • 3冊有。

  • ゲルマン社会における活力のある亡者が、いかに哀れな亡者に変わっていったか。
    学術文庫なので内容はやや難解ですが、簡潔な文章と整然とした論理、多数の具体的なエピソードにより、比較的分かりやすいと思いました。
    エッダ、サガに出てくる死者は、死してなお領地を得ようとしたりと生者を脅かします。たくましくて読んでいて怖かったです。

    支配者はキリスト教による国家安定を図ったが、民衆はまだゲルマン古来の信仰も持っていた。
    本書では、司祭のハンドブックとして中世に普及した「贖罪規定書」の内容を事細かに紹介してくれています。贖罪規定書では、異教の信仰は禁止事項として挙がっています。禁止事項を見ると、ゲルマン古来の信仰や習慣が見え、面白かったです。
    贖罪規定書に規定される内容は、魔女裁判の際に魔女として特定される理由と通ずるものがあり、興味深いです。

  • キリスト教が浸透する以前のヨーロッパ社会の亡霊とキリスト教が普及したヨーロッパ社会の亡霊を比較すると、前者の乱暴で粗野な亡霊と地獄を前におののく哀れな亡霊との際立った違いがある。その違いが、1215年以降、キリスト教徒年1回が必ず行うことになった告解の浸透が背景にあるとしている。個人が司祭の前で罪を告白し、司祭から贖罪を命じられる告解は、それ以前の共同体的な古代異教の世界にいた人々には大きなインパクトを与えたことは容易に想像できる。キリスト教会が戦った古代ヨーロッパの迷信的世界は、告解の手引きである「贖罪規定書」に記述されている数々の迷信、悪魔、魔女からうかがえる。共同体のキリスト教以前の亡霊をエッダ、サガから、以降の亡霊を民間伝承から描いており、具体的イメージでき、良く理解できた。また、悪魔、魔女がキリスト教に追いつめられた異教の神、巫女であるのが良くわかる。死者のイメージの変化から、ヨーロッパの異教的な世界からキリスト教による罪の意識を持った均質な世界への転換を読み取る視点は、興味深い。

  • キリスト教の伝播以前の古ゲルマン社会において、死後の世界は生前の世界の延長であり、現世とほとんど変わらない世界。キリスト教における天国や地獄のイメージとは程遠い。
    そこには、現世の罪に対する罰という概念はなく、「現世の罪」の意識自体が存在していなかった。

    カール大帝によるカロリング・ルネッサンスを始めとしたキリスト教化により、ゲルマン社会にキリスト教的死生観、罪観が浸透していくことになる。
    ラテン語で書かれた聖職者向けの教義・経典の他に、大衆に直接礼拝をおこなう司祭向けには、各地の言語で書かれた説教テキストが流布しており、その説教は古ゲルマン社会の因習、世界観に照らした分かりやすいテーマを設定しつつキリスト教的解釈を与える内容になっていた。
    そうした説教などを通し、来世における天国・地獄・煉獄の存在、現世における生き方、罪観が中世社会に浸透していくことになった。

    キリスト教においては、人類始祖の堕落以来、すべての人間が「原罪」を抱えていること、原罪ゆえに支配/被支配の関係(すなわち国家)が不可避なものとして存在せざるを得ないとされた。
    国家とは、名声と支配欲をもった人間が他の人間を虐げて築くものであり、罪のなせる業であった。
    (上記、テルトゥリアヌスの時代)
    やがてキリスト教が国教となり人々を治める側になるにつれ、神の国が成立しうるという発想が生まれた。
    国家は罪によって生まれたものであるが、共和制など人々に益をもたらすようになったローマは神の認めるものとなりうる。ただ神のみに仕える支配者が治め、人々が彼に服する国家は存在しうる。
    (上記、アウグスティヌスの時代)
    キリスト教を国教とする国家が増えるにつれ、国家による支配そのものが、罪によって生まれたものではなく妥当なものと考えられるようになった。
    (上記、グレゴリウスⅠ世の時代)
    キリスト教は個人の救済ではなく、社会的、国家的救済の宗教となった。人々の贖罪もまた、教会や国家が果たすべき責務となった。
    (カール大帝の「一般訓令」)

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著者プロフィール

1935年生まれ。共立女子大学学長。専攻は西洋中世史。著書に『阿部謹也著作集』(筑摩書房)、『学問と「世間」』『ヨーロッパを見る視角』(ともに岩波書店)、『「世間」とは何か』『「教養」とは何か』(講談社)。

「2002年 『世間学への招待』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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