ヘーゲル「精神現象学」入門 (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062921091

作品紹介・あらすじ

感覚、知覚、悟性、自己意識、理性、精神。意識は経験をとおして高次に向かい、「絶対知」へと到達する-。近代西洋哲学史上、最も重要にして最も難解とされる大著の核心を、精緻な読解と丁寧な解説で解き明かす。「絶対的な真理」を秘めた神話的な書物という虚妄のベールを剥いで立ち上がる、野心的な哲学像の実現に挑んだヘーゲルの苦闘の跡とは。

感想・レビュー・書評

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  • ヘーゲル『精神現象学』全体の解説。ざっくりとした論点が理解できる。ただし、ヘーゲルの論が腑に落ちないからなのか、解説がわかりにくいからなのか判然としないが、全体としてぼんやりとした印象しか得られなかった。ある程度何が論じられているかを把握した上で、原書を読むしかなさそうだ。感覚、知覚、悟性、理性、精神、宗教、絶対知と進化論的に進む議論はどうしても胡散臭く感じてしまう。そのせいかかなり眠たくなる本だった。しかしながら、アーレント『人間の条件』のギリシア共同体モデルや、ハイデガー『存在と時間』の現存在(自己意識)と時間(歴史)空間(自然)などはかなりどっぷりとヘーゲルの影響があることがわかった。また、ヘーゲルがカントの影響をもろに受けているのは言うまでもない。ヘーゲルの絶対精神の単一性全体性は、ドゥルーズやフーコーらのポストモダンにおける解体すべきものとしても映る。また、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で、ナンセンスと断じた言葉が起こす抽象論もヘーゲルを意識したものと取れる。
    全体としては、カントが経験的科学と観念的哲学の調停を行い、人間の知について開いた猶予・可能性を、逆にヘーゲルは単一性に回収してしまったように思える。ナチスドイツの危険性に直結するような主体化の絶対性は、すんなり頷けるようなものではなく、言い回しが難しいだけで、主だった発想はむしろ厨二病的なものに感じられてしまう。だが、だからこそ神格化されてわかりやすく伝わってしまうのかもしれない。
    ・序にかえて
    『精神現象学』は、第一に自身の成長を観察する意識の経験の過程、第二に個人が反復する人類文化の精神史、第三にカテゴリー論(一覧表作成の形而上学的演繹と、カテゴリーなしに経験対象が成立しないという証明の超越論的演繹の解決)である。
    A意識は、Ⅰ感覚的確信でいまこここれ、Ⅱ知覚で食塩、Ⅲ悟性で感覚世界と叡智的世界の二世界論。主客関係の意識、伝統的認識論と重なる領域。
    B自己意識は、A主人と奴隷、Bローマ時代のストア、懐疑、原始キリスト教における自己意識の絶対的なものとの同化。人間精神史。
    C理性は、AA-A観察する理性の自然に関する論文をねじ込んでいる、B精神の文化史における悲劇、法社会、宗教批判、フランス革命、道徳哲学、ロマン派、CC宗教は東洋ギリシャギリシャ教。
    叙述の混乱は、制作過程の混乱や、印税欲しさに頁数を増やそうとしたことによる。
    混乱は、①完結した体系の予備的説明という矛盾、②論理学構想の未確定による論理的カテゴリーの基本的特徴への動揺、③過去の形態の総括にすぎない絶対知のキリスト教良心への批判(良心は絶対知のはずなのに宗教批判的態度を維持)、④青年期ギリシャ崇拝からすれば歴史はキリスト教近代に後退することになるが、感覚から絶対知への意識の経験は上昇しなくてはならないという矛盾。ヘーゲル絶対知は、内政的に確実ではなく、歴史的意識形態を総括する知だから絶対ということにすぎない。自我中心主義ではなく、絶対的なものの困難というドキュメントが『精神現象学』である。
    ・序章
    『精神現象学』は、印刷を進めながら原稿が書かれた本であり、構想のなし崩し的な変化があったのではという疑いがある。確実な証拠はなく、結論は未だ出ていない。
    ・第一章 基本概念「序文」と「諸論」
    序文は後から、諸論は先立って書かれている。『精神現象学』は、元々「学の体系 第一部」として書かれたもの。ヘーゲルは、哲学が根本前提から始めて、必然的自動的に絶対者の認識に到達するという考えがあった。であれば体系の外は真理ではない。ただし体系の外の初心者ための梯子が必要となるが、それは外であるから哲学体系に序文は不要である。したがって『精神現象学』も。幾何学公理に前提があってはならないのと同様である。
    →ウィトゲンシュタイン『論考』梯子を捨てる。
    『エンチクロペディー』のうちの小現象学として体系に組み込まれ、体系の第一部ではなくなる。建築物ができたので梯子を外したといわんばかり。最後の絶対知の観点から『精神現象学』の学問性が可能になる(帰結が前提を明かす)から、前提を述べることができず、序文はむしろ、書けない。
    実体=主体論、真理は実体substanzではなく主体subjekt。真理は実体かつ主体である。という二重性。不変のものが実体。スピノザは神こそが実体とした。ヘーゲルはこれを主客の統一と解して、真なるものと呼んだ。地球や宇宙の自然物だけでなく、物理学論理学精神哲学を含めて実体。
    ヘーゲルは、実体を、伝統的な静的なものとしてではなく、自ら展開する動的な直接性、単純性、普遍性と言い換える。生きた実体=主体。環境への発散と、自己への取り込みの新陳代謝。それは自立的な対自存在から、他律的な対他存在に成り下がるものではなく、天上のものが地に塗れても己を失わないように、自ら他者となりつつ、他者となることを自身に媒介する働き。絶対者は本性的に自己を啓示するもの。
    スピノザ的に神を唯一の実体というと自己意識がなくなるように思われるが、実体が本質的に主体であるといえば、絶対者を精神として語りうる。
    →ものは主体的に世界と関わっており、その統一の実体として絶対的な精神がある。
    スピノザは、キリスト教の超越的神ではなく、自然世界に内在する神の立場をとった。啓蒙主義の批判に耐えうる神概念に思われたが、「永遠の相のもとに」ある不動の実体であることから、ヘーゲルには主体として捉え直される。神が内在する世界は、社会共同体としての人倫。実体としての理念が生命となる共同体を、献身的に支える個人が、国家のうちに自分の本当のあり方を見出すとき、実体は主体と化す。
    真なるものは、体系、全体、絶対的結果、自己生成。実体=主体論の具体相は、神、国家、哲学体系。私的日常的な自然的意識が、普遍者へと高まり、絶対的なものが自己を現す、実体の自己啓示。共同意識である普遍的意識が国家意識として具体化され、自然的意識が理性的哲学知、最高の知である絶対知へと高まる。
    自己を普遍化し、個人が理性の立場に立つこと。この自覚を確証するのが哲学。
    国家、宗教、哲学の意識が、精神の真なる自己意識に総合され、さらに自然認識の要素が入る。これここいまの感覚を出発点として、多様な性質を一つのものに認識する知覚、内外の過程を統合する悟性に至り、対象意識は自己意識となる。人間精神の根本には、他者(社会)と宗教の経験がある。東洋専制主義には自然宗教、ギリシャ共和制には演劇の芸術宗教。キリスト教は、絶対的なものが地上に現れ消える経験、現れと否定の真理が一つになるところに絶対知の成立基盤がある。世界支配のロゴスに向かって、精神が自己を自覚するとき、ロゴスの自己展開による学の体系が始まる。
    カントにおける、現象は知ることはできるが物自体は認識できないとする見解を、ヘーゲルは第三者が見る反省の視点は錯覚だとした。自分にとっての対象のあり方と、自分に抵抗する対象のあり方を区別する。主客ではなく、意識内在的な区別。意識の内在領域の自立的な自己否定。しかし、これも内在的に主客を作ること。
    →意識の中の現象だから結局カントと同じ
    意識自身のうちに対象と概念があり、尺度と吟味は不要で眺めるだけで良いとするこの意識中心主義は、のちに撤回される。
    ・第二章 知と対象の関係構造 意識
    感覚、知覚、悟性における認識論的構造の変転。感覚は直接的なものではなく、言語を介する知。近くは物を同一として認識するのではなく、単一性と多様性の矛盾を孕む。悟性の超感覚的世界には、感覚的現象世界がある。
    →感覚、知覚、悟性=感性、悟性、理性。
    経験を通して意識は、観念と実在の世界の統合として生命世界に歩み入り、意識と対象の二元論認識を超えた、自己意識の領域を示す。
    感覚的な確信は、錯覚が混入しており、内容を取り去って抽象化すれば、「ある」ということしか残らない。「これ」は確実と思われるが、無内容にすぎず、何も指し示さない。いかに豊富であっても感覚は個別の内容であり、「これ」は誰もがいつどこでも使える普遍的なものであることから、ズレが生じる。
    書き留められた個別の「いま」は、発話時点を過ぎればすでにいまではない。同様に「ここ」も発話者の地点を指す。同じく「わたし」の持続も「私」という記号による普遍性。これらはフレーゲに引き継がれる。
    →ウィトゲンシュタインいまこここれ
    個別の「このもの」が否定され、止揚された結果として普遍的なものとして再び捉え返される。感覚的確信が、空無のものに転ずる弁証法を経験し、絶望を味わう。古代エレウシスの秘儀、沈黙のままパンを食いブドウ酒を飲む、感覚的事物の空しさ。意識は普遍にかかわる知覚へと進む。
    →感覚に単一性の真理はない。
    知覚は多様の単一への総合。塩の辛さ白さ形重さを、単一のここへ。諸性質は、相互に没交渉であり、自身に関係している。しかし、知覚にとってはその物性は、排他的な統一である。物は、諸性質の媒体として数多性へと放射しつつ存立する単一性の点となる。物の単一性としての存在は、純粋本質。
    しかし、物は多様であるから、知覚と矛盾する。矛盾を回避するために、単一性を物に、多様性を知覚に割り振る。媒体は物にではなく、我々に感覚の多様性があり知覚で統一されるから、我々自身が普遍的な媒体となる。知覚の真理は、物ではなく意識。このことによって、物の真理としての単一性がなくなる。
    →物に単一性があると思いきや、知覚で統合されているにすぎない。
    物は真なるもの、諸性質、同一性。ある物の同一性・規定性は、区別としての他の物の否定がある。独自存在としての他在の否定、自分自身の止揚、すなわち自身の本質を他者のうちにもつ。物は本来矛盾したものであり、動的で自身に力をもつ。力を見る悟性へと進む。
    物の多様性と一者性は、悟性の対象において統一をなす。統一の運動を力と呼び、ライプニッツのモナド論、ニュートンカントの力学的自然観を背景とする。区別と統一の自立的な質料をその存在において繰り広げる力の契機は、外化である、と同時に内に押し戻された力である。見えている物質の姿形は、力の表出、外化の結果である。本質(実体)と質料(現象)との間を往来する力は、内外の往復運動である。
    →力と質料、相対性理論
    力はそれ自体独立して存続しており、排除する一者であると同時に、区別された多様な物として現象する。力は物質に誘発されるのか、誘発するのか、反対へ転換する力の運動を両力の遊戯という。双方向の力の悟性概念弁証法によって打ち消され、力は実在性のない観念になる。超感覚的世界に「このもの」をみることになる。感覚的此岸ではなく、超感覚的彼岸。プラトンカント的な永続する真なる世界。しかし、ヘーゲルは、超感覚的彼岸は、現象に由来し、想定された感覚的世界にすぎないとする。現象は絶えず変化し、非同一であるから、超感覚的世界は全てが反対のものになる転倒した世界である。ここにあるのは、同一性が対立を含み、統合されているという、自分自身の中の矛盾である。個体、類、いずれも内部に矛盾を抱え、統一し、自己を保持している。ヘーゲルは、矛盾こそ生命の源泉と考える。★
    ヘーゲルの矛盾は、生命をモデルにしている。生命の統一は、同一ではなく、対立を内包している。悟性は、他なる物ではなく、生命という対象の中に自分自身だけを経験している。対象意識から自己意識への変容。自己意識は生命から生起する。
    →感覚のこれ、知覚の概念、悟性の超感覚的世界、全ては自己の内部で起こり、他と関係している。主客未分。
    ・第三章 他者との関係のなかで思索し、生きる自覚的な存在 自己意識
    デカルトコギト、初期ドイツ観念論の意識が、他者関係における自己意識と捉えられる。ここでの他者関係とは、主奴関係の支配関係であり、労働を通して逆転する。しかし、神に近づくと矛盾に陥り、自己否定が準備される。
    外部意識から自己意識、真理の故郷の国に達する。近世主観主義の根拠なき原理の陥穽(かんせい)から、絶対性を回復する。真なるものは全体。ヘーゲルの自己意識は、他者あるところに自己形成し続けるものとしてある。
    →ポストモダン、ニーチェ的な生成変化と他者
    自己意識は、感性界からの反省であって、他の存在からの還帰である。
    サルトル『嘔吐』、存在は隠れている。私たちの周囲に、また私たちの内部にある。それは私たちである。
    『精神現象学』では、自己発展し全体性を回復する境地が生命に求められるが、より具体的には流動性である。
    →ドゥルーズ流動
    流動性とは、区別が止揚されていることとしての無限性。スピノザ的に個体を矮小化するのではなく、ヘーゲルは他者あっての自己として生命を捉え、全体性を強調した。共同性の中で自己保存を図るべく消費する営みは欲望として現れる。自己意識は、その充足を他の自己意識においてのみ達成する。すなわち、承認を必要とする。自己意識は、承認されたものとしてのみ存在する。外的関係を考慮しない自己中心的な相手の否定は、生命を賭した意識の戦いであり、廃棄して保存し生き延びる。主人と奴隷。主人は奴隷の加工を介して物から享受を得る。奴隷は、主人を恐れ、自身の存在に不安を抱く。
    →ハイデガー恐れ、不安
    奴隷は自己の存在を否定するが、労働、すなわち物を加工することで、対象に自己意識を見出し、自立的な自己を直観する。
    →対象に関わって自覚する対自存在、他者に規定される対他存在、自身それ自体で規定する即自存在。
    ストア派的な思考にすぎない内面の自由にとどまらず、また逆に「全てが不確実だ」と(いう確実性を主張する)外的否定を徹底する懐疑主義でもなく、絶対的な主人との対立に移行する。
    自身の中の対立、ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』、地上の異邦人アブラハムの裁き。国民か本性のイエス。
    →デリダ、イサク
    父は不動の本質、子は不動な個別性、精霊は精神のうちに自己を見出す。ユダヤ教、原始キリスト教、キリスト教団への歴史を三段階の論理に重ね合わせる。個別性の普遍への宥和。しかし、キリスト教の対立の中にある不幸な純粋意識では彼岸性にすぎないので足りず、哲学が個別性と思惟を宥和する。到達しえない彼岸ではなく、現実の労働を通して、個別性主観性の自己否定が必要になる。自身の決意、所有と享受を断念することによって、私を外化して、自己意識を物にして、対象的な存在にしたという確信を得る。個別的な意識によって普遍的な意志が実現される。
    ・第四章 世界を自己とみなす自己意識 観察する理性
    自己意識は世界を否定することで自立と自由を確認しようとしたが、世界を受け止め世界に自己を見出す理性は、自己の成熟である。理性があらゆる実在であるという意識の確信は、観念論によって可能となる。自我同一のフィヒテ、主客無差別のシェリングの同一哲学。
    →ウィトゲンシュタイン独我論と実在論の一致
    デカルトライプニッツの感性理性の対立を、カントは理性を悟性と理性に分け、理性を理念統一とした。理念は経験的ではない仮象の目安であり、悟性の経験に基づく領域を超越してはならないとするカントの認識批判、形而上学批判。ドイツ観念論はこの批判に対する形而上学再建の運動。ヘーゲルは『論理学』で、カント批判哲学は、悟性の経験重視によって思弁的思惟を断念させ、常識を手助けし、「形而上学を欠いた教養ある民族」を作り出したとする。フィヒテ、シェリングは制限を踏み越え、思弁的思惟を試みたが、ヘーゲルには原理の根拠不足にみえた。ヘーゲルは批判哲学を引き継ぎつつ、同一哲学の観念論を、絶対知まで高めた。
    『意識の経験の学』という最初の書名の構想では、理性の章で絶対値に到達し、終了するはずだったが、構想が膨らんで精神と宗教の章が加えられたため、テキスト本文ではローマ数字のⅤ理性の確信と真理Ⅵ精神Ⅶ宗教Ⅷ絶対知、目次ではアルファベットでA意識B自己意識に続くC理性にこの四つの章が収められている。シェリング同一哲学のように理性が前提されるのではなく、感覚から絶対知への知の生成である。
    ヘーゲルは、外的多様を必要とせず、自己意識と存在は同じものとみなす。カントのカテゴリーを自己意識と存在の単純な統一として理性へ昇格させる。シェリング的な断言にとどまらず、カテゴリーの数多性を概念的把握として自らのうちにもつ。
    理性と最長の精神の章で、『精神現象学』の半分以上になる。観察する理性、自己実現、自己の実在の3部。自然哲学と精神哲学の二大柱。ウォルフ学派形而上学の魂、世界、最高実在と、フィヒテの理論的自我(意識)、実践的自我、絶対精神を体系に織り込む。世界と理論・自然、魂と実践(道徳)。自然哲学は、体系的叙述では太陽系、時空、運動だが、現象学では自然観察から始まる。ハンソン、クーン同様ヘーゲルも観察理性のカント観念論に由来する。理性の章は、自然哲学のみならず、社会哲学(市民社会論)をも含む。
    博物学は観察と経験にのみ頼る意味で無思想であるが、カント『純粋理性批判』第二版序文で強調されたように、博物学は、自分で立てた法則に従った観察しかできないという点で、本質的に矛盾する。外的偶然的な観察を、事前に立てられた内的必然的な性質の法則に回収しようとする。自己・概念の生成。観察理性においては、個別記述→一般標識→無限法則。意識における概念の歩み、個別感覚→一般知覚→無限悟性。『精神現象学』の面白さは、抽象概念の背後の具体的事柄の読み取りだけでなく、同一構造の重層化にもある。記述と標識においてはリンネ博物学18c、法則はガリレオ力学17cが念頭に置かれている。
    →フーコー博物学
    世界のうちに自己を見出すことは、世界の法則を発見すること、すなわち基準としての不変の自己同一性を見つけ出すこと。内と外、物と性質、力と発現、有機体と環境。有機体が法則的であるのは、目的論的関係として捉えられたときであり、それは自己目的、自己還帰の運動である。カント『判断力批判』第二部の神の目的論ではなく、ヘーゲルは有機体そのものに目的論的関係を認める。
    シェリング有機体説に批判を加え、自然の偶然性という独自概念を提示する「有機体の観察」節は、のちの「自然の無力」などにつながるヘーゲル自然哲学の重要箇所。ヘーゲルは感受性再生などの機能が内、組織器官が外。シェリングは生命が内、各形態が外。キールマイヤーは、生物は下等であれば感受性が下がり再生繁殖は増加するとした。シェリングはこれを組み込み、感受性反応性再生の比率、形態の力動的な比例を主張した。ヘーゲルは固定的分離化と量化を批判した。ヘーゲルは流動性を強調した。量的規定、数的把握をヘーゲルは批判する。数とは運動と関係を消す死んだ無関心な規定。
    →フーコー人口統計学、群れとしての判断
    シェリングが外的表現としての類と個体の二項だったのを批判し、ヘーゲルは類、種、個体の三項とする。一般、特殊、個別。自然はむしろ類、個体、環境であり、環境という元素の内部でその暴力によって中断され裂け目ができる。のちの「自然の無力」の問題。
    →ドゥルーズ裂け目
    自然に歴史はなく、一般生命の類から個別実在へ偶然的に直接転落する。種には個別形成能力はないとする自然の無力。
    →環境要因に左右されて偶然的に種になるから、種に形成能力はない。
    理性は自然から人間自己意識の個体性の観察に移り、思惟の運動という純粋態である論理法則、現実態である心理法則(経験的心理学)を得ようとし、それには個体性の法則こそが必要とされる。骨の形が精神作用を規定するというガルの頭蓋論のように、自己は物である。物が自己→自己は物という叙述。頭蓋論は、観念論→唯物論→絶対的観念論と移行する。それは、感性→知覚→悟性→理性と辿るように、理性→精神→宗教→絶対知と同様の過程が理性の中で起きている。弁証法は、包摂判断(バラは花)でも内属判断(バラは赤い)でもない、無限判断(物は精神、精神は物)。トートロジーの逆。
    →ウィトゲンシュタイントートロジー
    否定判断(悪無限)の究極(真無限「物は非物=自己と精神)としての否定的肯定判断。
    知覚が啓蒙、悟性が良心、自己意識が啓示宗教と、感覚から自己意識を辿りなおし、絶対知に向かう。
    ・第五章 世界を自己とみなす自己意識 行為する理性
    行為において、快楽、徳は現実の合理性には敵わない。
    理論的な傍観の観察から、現実に自己を見出す理性の自己産出行為へ。
    →アーレント注視者に対する活動
    行為の結果によって人は現実(普遍的な場面)に身を置き、自分を立てる。
    →ハイデガー現れ、被投性、企投
    行為は観想も含めて、普遍的な場面での営みという社会的共同的な意味をもつ。自分の個別性を犠牲にして、普遍的な実体(国民)をもって魂、本質とする。ヘーゲルは古代ギリシアのポリスを人間精神の故郷、目標としていた。人倫的共同体。
    →ハイデガー故郷
    人倫の国を意識し再構築することが近代人の使命であり、そのためには本質を知る意識、すなわち道徳性が必要であるとした。
    自己意識の経験の第一段階は、快楽を幸福とする享楽主義である。しかし、快楽は他者を何より必要とし、関係性を強固にする。ヘーゲルは、『精神現象学』執筆中の下宿先のブルクハルト婦人と子ルードヴィッヒを作り、のちに引き取っている。親としての責任が、家族や社会という共同的なものとの強固な絶対的な連関を強いる。
    しがらみから離れようと快楽に浸れば、世間はそれを許さないということに気づく。このときの葛藤の意識は、自身の内に直接的に無媒介に個別の法則をもっている、これは心情の法則(主観的な世間の必然性)なので、独りよがりの自負に陥る。自惚れにすぎなければ、福祉のようにいかに真摯な法則でも、世間を説得することは不可能。
    仮に世間に受け入れられた場合は、個人の心情の法則は、普遍性をもち、個別性ではなくなる。すなわち、心情の法則は、他人には妥当しないもの。福祉の気持ちは焦燥になり、狂信や暴君は弾圧する。
    心情の法則から主観的な思い込みを反省し、普遍的善法則を徳として、自身の全人格を犠牲にするが、世間への要求と実現の確信は妄想にすぎない。現実の善は、単色の善ではなく、個体性によって成り立つものだから。すなわち、意識が外的なものとしていた世界は、むしろ意識のよって立つ基盤であり、実体である。人は他者のために働き、他者の労働によって欲求を充たす。一つの国民の習俗と法則。世界に理性は存在しないという心情主義は、克服されねばならない。
    共同体において個別性を現すことは、即時的かつ対自的な目的である。個人自体が現実そのもの。行為は、見られない状態から見られる状態への移行という単なる形式。
    →ハイデガー非隠蔽性、現れ
    人間は動物の一つとして根源的自然の中にある意識はあるが、目的が現実に結びつけられる行為の必然性があるのは、目的手段実行結果が自動的な円環運動として信頼されているからだ。精神的な動物の国の段階。
    即時的に何であるのかは、行動=精神の生成しなければならない。行為の後でないと自分が何かを知ることはできない。仕事Werkを介して精神の内在的潜在的本質が現実化する。
    →アーレント制作work
    仕事・作品は芸術家や学者の内的本質の表現。作品は、芸術・学術文化という事柄そのもののためではなく、自分のためにある。援助、批評もまた自分のためにすぎず、事そのものという普遍の自負は、欺き欺かれる仕事の世界にすぎない、精神的な動物の国と欺瞞の実態。これは、公のための誠実さを称し、私的利益を追求する、資本主義的市民社会の論理でもある。ただし、個人の利己的活動の総体として市民社会システムは成り立っている。個別と普遍は不可分。行為の偶然性を包含し、即自対自に持続する現実的基盤として、人倫的な実体があり、事そのものとして自立する。これが自覚された意識が、人倫的意識、すなわち道徳。
    →カント道徳
    精神的な動物の国は、精神的な実在となる。公共性の無自覚な戯れを保持したまま、普遍的な観点に立っていると思い込んでいるのは、立法し審査する理性にすぎない。無条件な真実、一義的な隣人愛など存在しない。当為命令にすぎず、人倫の法則ではない。〜べきという道徳法則は、善いことは善いことだという、自己矛盾しないだけの同語反復。立法する理性、尺度、審査吟味する理性は、単なる形式主義。
    →カント定言命法批判。
    道徳法則は、誠実さを欠けば、暴君の傲慢になる。誠実さは、自分が誠実ではないと心を痛めることにある。良心。人倫は、理性を超えており、理性的な法則を詮索するのではなく、永遠の法則を内在する社会的諸関係である習俗に従って生きることこそ、人倫のあり方だ。永遠の法則は、万人の絶対的な純粋意志であり、現に存在し妥当している。
    →ルソー一般意志
    個別と普遍の統一としての人倫的実体は、自己意識に知られるようになり、それが精神の生成である。かくして意識の経験の学は、人倫の共同精神としての精神の現象学となる。★
    ・第六章 和解に至る精神の歴史
    精神は世界の歴史的現実。国家と家族、公と私それぞれの神を背にして対立する『アンティゴネー』は精神の原風景。
    →東浩紀、観光客
    ローマ法の人格承認は近代に通ずる。法状態は、自己を疎外し、独特な仕方で世界と結びつけ、世界に自己の刻印を記す。啓蒙は、信仰批判し、個別普遍の統一を現実化する(フランス革命)。古代ギリシア、ローマ、フランス、ドイツの精神の歴史。
    →ローティ刻印、アーレント革命、フーコー歴史
    精神とは、ある国民の人倫的生活であり、一つの世界をなす個体である。自身が何か、意識に進まねばならないし、美しい人倫的生活を止揚して、自分自身の知に到達せねばならない。これは実在する精神であり、世界の諸形態である。
    精神の最初の形態は、人倫、すなわち習俗や慣習に根付く現実的精神。国民精神。普遍と個は、市民参加による公共的世界を規定する人間の掟と、自然的血縁的家族による私的な領域を規定する神々の掟によって統治される。
    →アーレント公共性、マルクス家族、ハイデガー精神
    このモデルはヘーゲルが憧れた古代ギリシアで、人と神による、アイスキュロスとソフォクレスの悲劇。男=人間の掟、女=神々の掟の対立から、アンティゴネーの悲劇を読み解き、ギリシャ的な直接的人倫の真理の没落理由を提起する。ニーチェのアポロ的・ディオニュソス的、ツルゲーネフのハムレット的・ドンキホーテ的の区別と同様。
    アンティゴネーは、反逆した兄の亡骸を葬ったということは個性に目覚めた女の行為に見えるが、家族の守り神への忠誠である。自然の法フュシス、国法ノモス、普遍同士の対立が悲劇を生み、没落する。
    人間の掟は、公共の妥当性として普遍的な法であり習俗であるが、この人倫的国家権力は個人への暴力でもあるから、個人として承認される神々の掟という威力があり、普遍と個別の対立が人倫の構造をなしている。
    アンティゴネーの埋葬行為は、家族の側からは個人の純粋な普遍、つまり大地的な個体であり、共同体の側からは市民ではない弱々しい非現実的な影にすぎない。女性は家族の幸福を第一義にし、男性は市民の義務を優先する。共同体の存亡においても、女性は男性を私的領域に連れ戻し家族の平安を保とうとするから、女性は共同体の危機になりうるという意味で、女性は共同体の永遠のイロニー。かくしてギリシア人倫は解体する。人倫が自然性に多くを依存していたがゆえに、個人の自覚的な行為を包摂できなかった。
    →男女の端的すぎる区別、共同体と家族の単純対立、現代からすると疑問の論理。ハイデガー大地
    ギリシア人倫世界のあとには、個人の公共的承認があるローマ法の世界が誕生する。夜の掟、個性の亡霊的な弱々しい影が、ローマ法により昼の法則になり、平等が形式的に可能になるが、他方で普遍的人倫の精神は形骸化する。絶対的多数のアトムへ分散し、かかる死滅した精神=亡霊こそ、万人の人格としての平等。
    →マルクスアトム、ドゥルーズ分子、人権、デリダ亡霊
    法の前での平等な人格に個性はない。なぜなら法状態では抽象的な普遍性としての冷ややかな自己であるから。純粋に空虚な一としての点、絶対的な自我性=私性。空間的に具体的な表れが所有権。
    →マルクス所有権、疎外
    形式だけの人格所有権は、実際の不平等には無関心であり、侮蔑。自己意識の人格としての普遍的妥当は、疎外された実在性。ギリシア人倫世界には共同本質としてしかなかった人格は、ローマ法で現実化されるが人格という形式によって獲得され、同時に共同体の形骸化と個人の抽象化が生じ、自己が疎外される。教養の世界の近代社会。
    世界は、バラバラの群衆と、抽象的普遍(法-権利)に分かれる。自己意識の放棄=疎外、存在剥離を通して法人格に成り下がる。世界は存在と個体性との浸透であり、世界の定在は自己意識の振る舞いの帰結である。
    →ハイデガー世界、存在、個体、ふるまい
    否定的本質のある自己は主体、行為、生成である。
    →ニーチェ、ドゥルーズ生成
    自己の実体が現実になるには、法的な人格からの疎外=離反がなされねばならない。これは、伝統的絆や価値観に縛られない、自己の労働による意識。自己と存在、対自と即自の分裂によって、自己は対象に自由に働きかける。法人格からの疎外=離反は、固定的な秩序を流動化し、形成し、反転させる。
    →ドゥルーズ流動、柄谷行人自己差異化
    価値の転倒、無意味化、自明性の崩落によって自己は自由に振る舞える。近代が生じる。
    二重の世界が生じ、現実意識と純粋意識、国家と経済、現実世界と純粋世界(信仰)が闘争を繰り広げる。現実の感覚が信仰にも紛れ込むからこの逃避は疎外から自由ではない。教養をつんだ啓蒙的理性、すなわち第二の自己は、普遍的自己・概念を把握する。対象性を消し去り、即自を対自に変え、現実が実体性を失い、信仰の国も実在的世界の国も崩壊する、絶対自由がもたらす革命。
    社会性がなければ変わり者。疎外は、社会と個人を結びつける。自己意識が疎外されることで、実在性を持ち、普遍的なもの、現実的なものとなる。教養。ディドロ、フランス語のエスペースは、種という意味であり、凡庸、最高度の侮蔑を表す。
    疎外された対象が威力として向かってくるという理解は、ヘーゲル左派のもの。ヘーゲルの疎外は、自己の自然性から離反して、観念的イデアールなものに適合させ、形成されるもの。
    →ヘーゲルにおいて、疎外はポジティブなものとして語られる。第一に、自然的人格から疎外され(普遍的法人格)、第二に、法人格から疎外される(教養)。
    自己疎外化によって普遍性が現実性に変わる。実体の魂。自然的自己を捨て、大義や正義に身を投じることが、自己疎外。
    →ハイデガー企投、ナチス全体主義感
    国家と家族の調和の人倫的世界から、バラバラの塊Massseと化し、個別的なものは、善悪の普遍即自と、国家権力と富の個別対自の本質・実在wesenがある。国家権力(国権)は、個人の個別性が端的に普遍性の意識になる、絶対的な事そのものであり、個人の作品(仕事)である。
    →アーレント制作
    国権は、個人に依存する対他存在であるから、当事者の富としての私物化の対象になる。しかし、享受(消費)も労働も万人のためにあるから、即自(普遍)であるとともに、対自(個別)である。
    正義に自己犠牲するような高貴な意識は、善であり、奉公のヒロイズムをとおして俗世から離反=疎外し、ふさわしい人足らんとする教養形成がなされる。国権の思想的普遍は、担い手に受肉され、イデアールな本質が現実化する。しかし、決断する主体に欠けており、自分のための特殊利益などの私心の対自は、三部会民会諸身分の本心である。国権が個別者のものとして現実化すると、それは高貴な意識ではなく、富である。奢り高ぶる富める者と、自己を失う寄食する者が現れる。現実の精神は、国権と富の現実と、善と悪の思想の転倒であり疎外である。これに反抗する意識は、最も教養ある自由の高貴さへと転換する。
    →富と悪の現実に反抗することで、教養ある自由の自己を回復し、国権と善を取り戻す。
    自立的なのは純粋な自己以外にはなく、世界にこだわるに値するものはない。事物が空なのは、自身が空だから。
    自己と普遍的本質=実在の合一を果たそうとするも、その信仰の境地はいまだ現実の範囲内におり、逃避にすぎない。すなわち信仰は純粋意識の一側面にすぎない。純粋自己意識は、対象に自己の刻印を記す。純粋な明察。①全ての対象は自己意識という意義を持つ。②自己意識は普遍的で、純粋な明察が全ての自己意識に共有されるべきである。純粋な明察は、理性的であれと呼びかける。啓蒙。
    啓蒙には理性にそぐわないものの否定、すなわち理性の現実化しかない。したがって神は、外在的に与えられた作りごとだという。しかし、信仰は、信頼を通して対象と自分を一つにする。そのうちに自己を見出す。このとき啓蒙は、感覚的なものに固執している。しかしそのことによって、感覚が個別性そのものの即自として存する。自己と、彼岸、他者、共同体全てを包み込む「有用性」のあり方になる。全てが即自かつ対他の有用性。人間はそのままの姿で善、個別的、絶対的。私益の有用性が公益に転じる。人間の使命は公益に役立つ成員になること。
    →他者との関係のうちに見出す即自が有用性。自己にとってという功利主義的な意味ではなく、他者にとっても有用性である双方向なもの。
    信仰は現実と彼岸を揺れ動く二重化にある。啓蒙は現実の一面的である。啓蒙が信仰の意味を失わせたあとは、啓蒙の絶対実在は、純粋な思惟・絶対者の理神論と、純粋物質の唯物論に内部分裂する。いずれも他方を否定するが、純粋な抽象物という意味では違いはない。このことから、天上の即自は、地上の対他に転じた。即自、対他、自己をつなぐ有用性は、世界に対する自己の刻印の証である。これが純粋な明察。
    対象性を捨象して、世界を自己と見る普遍的な意志が共同体全体の意志となる。自己の意志が主権となる。ルソー一般意志、フランス革命。普遍意志の現実化は、ロベスピエールの独裁だが、一者の個別性は排除されねばならない。自己の普遍意志への無媒介な結合(絶対自由)は、テロの死の恐怖である。個人はそれぞれの職分を受け入れねばならない。他方、普遍意志の否定性は、実体を欠いた抽象的な点としての自己を消失し、純粋な知として、普遍意志として自己を知る。道徳的世界観へ。
    権力、富、天国、真理という外部への疎外から、自己の内面へ向かい、自身が真理だと知る。人倫的世界の内面化。自由な知る主体が、普遍的実体として自覚される。知が実体そのもの。知ることを通して存在根拠をもち、知る働きとして現実に生きる。世界と彼岸を自己の本質として経験し、知る。根本的に自由で、世界と一体である。対象性と世界は、自由な知の知る意志へ引き戻される。知こそが意識の実体、目的、内容である。
    →フーコー知への意志、ハイデガー存在への企投、ニーチェ喜ばしき知識
    自由とは知であるという主観性の観念論、すなわちカントフィヒテの道徳哲学、ドイツの精神の国。自由な主体は、自由法則、すなわち自ら立した義務のみに従う。自由は独りよがりであるから、義務と現実の法則が乖離する。道徳性の現実化には幸福が含まれるから、道徳性と自然は調和されねばならない。そしてそれは現実には要請にとどまる。幸福を一方で否定し、他方で最高善として一致させるカントを、すり替えの自己矛盾として批判。カントの自由、魂、神に対し、ヘーゲルは①道徳と幸福の一致すなわち最高善、②理性感性の統一すなわち無限の進歩、③神を要請する。
    →カントの自由は要請ではなく、道徳法則の根拠で、それによって法則の目的としての最高善、それを保証する魂の不死、神が要請される。なのでそこまで差はなく、カントへの疑義としてヘーゲルが批判しようとしている。カントの幸福は、原理ではなく、要請として現存の人生よりも後におかれる。
    意識の自由は、思惟の自由であり、自然が意識に生じている。存在の自由と存在が意識に包まれることは等しく、対象は、直観されて考えられた内容の表象にすぎない。
    →カント現象と同じ。ハイデガー存在
    ①最高善の現実化という考えを受け入れると、実現した時点で道徳的行動は不要になる。実現しないならそのための行動も無意味になる。したがって、要請は無意味。
    ②無限の進歩は、到達してはいけない課題として解決を延期する欺瞞。
    ③神が正す、道徳意識の不完全性があるとすると、自立した道徳法則がそれ自体聖なるものでなくなる。道徳法則が聖なるものなら神はいらない。
    →カントは最高善への保証として神を要請したから、道徳意識の修正ではない。
    ヘーゲルは、この3点から、道徳意識を当為sollenの思想として批判する。理念と現実を統一すべきと主張することは、分離が残ることを前提しており、統一されれば当為は主張できない。フィクションにすぎない。
    良心は、自己における自然と道徳性の調和である、第三の自己。実体のない第一の自己、絶対自由の第二の自己に続く。
    →①感性的動物的、②個別的普遍的、③道徳的と進む。カントの主観的道徳性が普遍化する道徳的存在とそれほど変わらない。
    良心は、信念として義務である。自己のために義務法則がある。良心は、義務法則の普遍性を窓=共通の境位=場にして、自己完結のモナド的道徳意識ではなく、対他存在として他者の承認の契機をもつ。
    →良心(自己)⇔義務法則の普遍性(窓)⇔他者として関係をもつ。カントの道徳理性理念と自然悟性概念規則の間の反省的判断力。
    →ポストモダン他者
    良心という純粋な知が、直接的に対他存在である。全ての人の自己性、すなわち承認された現実的な行動である。
    良心における純粋な義務、信念は内容を含まない。
    →カント形式
    純粋意識の単一性に比して、現実は多様性。良心は行為によって現実化されるが誤解も生じる。言葉によって共感を得ることで、承認される必要がある。他方で、黙して語らぬ内面沈静の良心は、美しき魂である。美しき魂は、自己の良心の声が、神の声である道徳的天賦の才。しかし、美しき魂は、現実と自己の矛盾で錯乱し、自己を融解する。ゲーテ『ヴィルヘルムマイスターの修行時代』「美しき魂の告白」。カント的な彼岸による救いの解決は分離を残存させる。
    良心は現実的行為としてあるから、常に活動的である。
    →アーレント活動
    美しき魂は、内面で普遍的なものへの傾向が強く、外面へは評価と判断を下す。観想型の良心、評価する意識。
    →カント反省的判断力、アーレント注視者
    これに対して、信念を追求する行動型の良心、行動する意識がある。評価は、観想に耽るから純粋に見えるが、「判断を行為と受け取ってもらいたい」という偽善にすぎない。評価の依拠する法則は、行動の原理と変わらないから、判断は行為を正当化する。行為の特殊性は幸福への衝動と見えるが、これを告白することで、悪を許す。このことによって自己の頑なな心を破り、普遍性へと高まる。赦すことは、自己の本質の断念、和解の言葉。
    →アーレント和解、カント調停
    普遍性の純粋知を、個別性の純粋知のうちに直観することによって、和解の言葉、相互の承認、すなわち絶対精神が可能になる。
    →絶対精神、一人じゃない。個人内面よりも大きな心。
    赦しとは、自己の判断の否定。他者の道徳性を認める。自己否定かつ自己回復。
    精神の生は、死に耐え、死の中で自己を保持する生。分裂の中に真実を、自己を見出す。
    →ハイデガー死の先駆、ドゥルーズ分裂、ニーチェ永劫回帰瞬間
    和解の言葉「しかり」(ヤー)。
    →ハイデガー放下
    和解するヤーは、純粋知を自覚する二つの主体の中に現れる神。かくして宗教へと突き抜けることで、精神は完成を見る。
    ・第七章 精神の自己意識の完成 宗教
    意識の旅は、此岸の主体に実体を見出すことにあり、宗教において精神は完成する。宗教は、精神の自己意識であり、アイデンティティに似ている。個人が自己像を対象化してそれに同化することでアイデンティティを確立するように、国民も芸術、宗教、学という文化的営みにおいて自らを対象化する。根底にあるのが宗教であり、絶対的な威力を崇拝する民が自由を享受しないように、どのような神を信じるかで国民の生活がわかる。ユダヤ、インド、エジプトの自然宗教から、ギリシャの芸術宗教、キリストの啓示宗教へ神人一体の理念が完成される。ヘーゲルのいう「光の神」は、ユダヤ教神ヤハウェであり、形態をもたない絶対的主のメタファーとして光がある。その姿は自然に現れても目を眩ます光の中にあり、直観することはできない。再び自分の中へ戻った時には火流となり、事物を焼き尽くし、事物は神の崇高さの中に解消する。旧約聖書『詩編』が念頭に置かれている。
    →カント崇高、威力
    唯一者は、自己を欠く飾りで身を覆い、力や姿は威力によってのみ伝えられる。唯一絶対神が多様な形態に分散すると、植物と動物を崇める宗教になる。自然宗教の3形態は、感覚(ユダヤ光)、知覚(インド動物)、悟性(エジプト工作者)に対応する。知覚は多様な性質を一つの物にみる、植物と動物の宗教。多様な植物の諸形態を崇めるのが平和的な汎神論、花の宗教。多様を一つと自覚する動物宗教と戦闘生活に入り、個別性は擦り減り、精神は安定的肯定的なものを生み出す、工作者の宗教へ移行する。
    →アーレント工作者制作者。あるいは、動物的世界の資本主義化。
    植物と動物の宗教は、インド、エジプト。工作者Werkmeisterの宗教は、エジプト。ただし、芸術家には至らない。工作者は、蜂が巣を作るように本能的に労働する。ピラミッド、オベリスク。自然的動物性と人間的自己意識。ライオンと人間の混合であるスフィンクスの問いに、オイディプスは人間と答えた。人間が自己を知ることで、動物との混合を脱する。エジプト工作者からギリシアの芸術家へと移行する。ヘーゲルにとって、現にある和合を対象化して、自覚的に享受するのが祭祀や国民的祝祭。芸術作品は、抽象的な祝祭・神殿・供犠、生きたもののオリンピア、精神的な叙事詩・悲喜劇。これらを貫く理念は、神人一体。神像神殿の形態は、讃歌によって精神の流れとなり、万人の普遍的自己意識となる。これが祭祀の基礎となり、行為に変われば供犠となる。神に供え、皆と共に頂く、神人の一体を高める自覚的な再演。神の身体としての植物動物を人間が食し同化する。エレシウス「パンとブドウ酒の密儀」。労働の所産を天の恵みとみなし、神へ返上する。消費された自然が、供犠の中の死によって、神として崇拝される。供物は快として享受され、共同体の理念を内面化する。普遍と個の相互犠牲の運動が供犠を形作る。密儀の神秘なるものは、自己が実在(神)と一つであることを知り、実在が露わになっていること。
    →ハイデガー現れ、非隠蔽性アレテイア
    ギリシアのオリンピアの祭典は、生きた芸術作品として、身体に神と人間の一体性を見る。そしてその現実の行為が、イメージ表象の中での行為に移行し、精神的な芸術作品、叙事詩悲喜劇へと展開する。
    叙事詩にあるのは、神々(普遍)、英雄(特殊)、歌人(個別)。自己は神々の側にあり、実体が自己、自己が実体と逆転する。これが喜劇への移行。叙事詩の特殊な神々でも、どうすることもできない否定的な威力が、必然性(さだめ)。歌人、物語、必然性の分裂によって、叙事詩は悲劇となる。
    詩人は、役者となり、したがって主人公(英雄)自身が語り手となる。英雄は、実体の本質パトスによって動かされる。観客の感動は、合唱隊に詠われる。神、主人公、語り手(芸術家)、観客が一体となる。必然性は否定の威力であるが、しかし自己意識の単一的確信こそが否定的威力であり、精神的統一。
    →アーレント役者、観客
    喜劇では、仮面が落ちて役者の素顔がさらけ出される場面がある。劇中人物と役者の一体化。観客も自身のことが演じられていると知る、劇と生活の世界の一体化。
    悲劇では演技の仮面の外面的統一だったものが、喜劇では自己が現実的なものとして神々を支配する運命であることを示す。
    →演者そのものの個別性が表現する。
    アリストパネス『騎士』『雲』、作者自身のこと、制作裏話を話す。叙事詩は詩人が外、悲劇は劇の中、喜劇は作者自身の自己言及。主体化の構造。ヘーゲルは、喜劇の中に、実体性から主観性への世界史的転換点を見ている。悲劇から喜劇の転換期は、ペロポネソス戦争に対応し、ソフィストやソクラテスが登場する、人倫から道徳への時期。人倫は習俗。ソフィストは多様な視点から見れば、習俗が妥当しないことを教えた。プロタゴラス「人間は万物の尺度」客観から主観へ。道徳という主観的反省をもって近代が始まる。ソクラテスは人倫の揺らぎを察知し、洞察へと向かわせた。主観を決断する精神へ。理性的思考は、習俗の偶然的規定や表面的個体性に反対し、善美の単一理念へと高める。習俗=人倫は、ソフィストの主観的恣意性により解体し、ソクラテスは普遍的倫理を再建しようとしたが、意識の決定に重きを置く意味ではソフィストと変わらなかった。アリストパネス『雲』におけるソクラテスの道徳的努力の失敗という喜劇は不当ではない。個別性が公共の秩序を嘲笑う。
    →ポストモダン的権力批判と解体は、新しい秩序を構成できない。
    彫刻と芸術家が分離する芸術宗教は、祭祀において一つになる。喜劇による内外の統一は、自己の極に移行して、絶対実在が述語に成り下がる。祭祀の共同体から、喜劇の自己へ。
    掟、彫像、讃歌、祭壇、競技祝祭、叙事詩悲喜劇の作品すべて神人一体の感は失われ、世界を与えてはくれない。人倫の思い出を与えてくれるだけである。主観性の目覚めの喜劇の躁は、神の喪失の不幸な意識の鬱と表裏一体だった。神は死せり。
    →ニーチェ神は死んだ
    キリスト教において、神の子イエスは、実体が自身を外化した自己意識、主体化である。ギリシア供犠がキリスト聖餐に引き継がれる。キリストによる神人一体の直観。受肉は神的実在の自己犠牲。受難(神の死)によりかつて見聞きしたものとして教団の表象になる。精神=霊的共同体の中に復活する。二重の自己犠牲によって、精神的主体として再生(聖霊の降臨)する。人間の側も、教団という共同体を形成せねば、霊が精神として顕現しない。自己は神人から、共同体の精神となり、対象意識と自己意識の一致が実現する。神の肉としてのパンを掴み取ることは、表象を掴み取ることで、概念把握の橋渡しとなり、絶対知へ移行する。ギリシア供犠共餐の神人一体の完成。しかし、キリスト教においては、彼岸の対立形式がある。過去は彼方、和解も終末の未来の彼方にある。この対象性という形式を廃棄消滅し、克服せねばならない。
    ・第八章 精神の旅の終着駅 絶対知
    啓示宗教は、神を見たという対象性にとどまり、自己の心の存在は意識されない。自己意識を対象化し、かつそれを自分だと自覚すること。現象する意識の自我、すなわち自己意識が自己を対象化しているということ。
    →現象は自我であって、それを対象と認識するのも自我であるから、対象は現象として自我である。
    自分を外化・対象化することは、自己を否定すること。そのことによって、絶対的対象が消える時、その対象が自分自身であることを知りうる。人間の生きる目標は、他在のもとで自己自信のもとにいること。自己放棄だが自己を失わない、親切、献身、出家、殉教。
    意識の経験が宗教に到達する。哲学体系における知が絶対的真理なら、それは絶対的なものなので、啓示宗教の表象性の限界を越える。
    対象は直接的な感覚、対象の他者との関係における規定は知覚、本質・普遍的なものは悟性に対応する。全体としての推理は普遍→規定(特殊)→個別へと至るが、逆の運動でもある。感覚(個別性)→知覚(特殊)→悟性(普遍性)の意識の経験の歴史的展開。意識経験形態と、概念論理的契機は一つのもの。
    →カント規定的判断力、反省的判断力
    概念は生命の分身。最後の形態が全ての様々な形態を集約している。
    精神は骨である、というような別種を同一視する判断を無限判断という。自我の存在は一つの物である。無限判断は、内なるものを外なるものに還元する危険と、内なるものを外化・現実化する精神的営みが表裏一体。物に対して、物ではないものを読み取る逆転は、観察する理性の最高度の知、「私の自己は絶対的である」という絶対知の原型を示す。
    良心・罪の赦しの道徳的意識は、純粋な知・意志を含んでいる即自存在であり、それ以外は空っぽの殻である。
    自己意識にとって、現実は現存在であり、純粋な知である以外の意義をもたない。現実は関係でもあり、個別(生身)と普遍(道徳)の知である。
    →ハイデガー現存在、カント道徳の対立
    両者が和解するとき、普遍すなわち本質、自我は自我であるという知となる。個別的自己かつ純粋な知すなわち普遍的知。良心・美しい魂から、赦しへの発展が、現実的なものとして宗教の限界を超える。
    →ローティ残酷さを避けること。
    自己の実現によって、真実概念すなわち自分の外化との統一概念となる。義務ではなく、純粋な自己の対象、対自的に存在する自己。宗教では内容・他者だったものが、自己の行為となる。概念は、①自己の行為の知、②実体としての主体の知、すなわち実体の知。万物の核心、世界の本質としての現存在。内面的自己の実践的わきまえ。日常的常識人の生き方がそのまま論理的概念(本質性と現存在)を体現する。
    精神の最後の形態、自己を実現するとともに、自己の概念にとどまる精神、すなわち絶対知。精神の形態で自己を知ること、概念的に把握する知。絶対知は、①人間の精神の歴史を自己に集約、②概念、実在、本質性、現存在を統一、③一つの精神形態であり、④知性的性格。
    精神は、概念を獲得し、その内容は自由な外化された自己。外化の運動は、内容の必然性を形作る。絶対知による学問性一般の地盤が形成され、『精神現象学』を序説として、概念の自己展開が始まる。
    学は、自己の概念が現実的なものとして感覚的意識に移行するから、純粋な概念という形式を放棄せざるをえない。しかしそのことが自由と確実さを得る。
    自己だけを知るのではなく、自己の否定、限界、犠牲すなわち外化を知る。精神の生成は、自由で偶然的な出来事という形式で表現される。
    →ドゥルーズ、フーコー出来事
    出来事は、時間(歴史)と空間(自然)として直観される。自然は、外化された精神、すなわち精神が生み出したものである。自然の目的は、人間精神=主体を再び生み出すこと。自然と精神の対立、同一、自然による人間精神の産出。
    精神生成のもう一つの側面は、歴史。時間へと外化された精神。外化の外化。否定によって、否定すること。絶えず脱皮する精神史が、否定の自己関係性と呼ばれる。
    精神の完成は、精神とは何か、精神の実体を完全に知ること。精神の内面化。現存在を捨てて、形態を内面化=記憶に委ねる。精神史の終わりは、内面化の完成としての闇。思い出、過去の溶け合った保存。精神の国は続きものとして、交代し、受け継ぐ。目標地点は、精神の絶対的把握、深い淵が明らかになるところ。精神を広げること、内面に閉じこもる自我を否定すること、すなわち絶対知。
    絶対精神の思い出=内面化は、処刑場=髑髏の場所を形作る。精神の国の王権にとっての現実性、真実性、確実性、無限性。聖書のゴルゴダのように、受肉した神の自己否定と、本来回帰の自己内反省の象徴。精神史は絶対精神の分身。精神が本来の姿に戻って内面化される。
    →自己現存在に基づく精神の内面化≒ハイデガー現存在に基づく(共同体的な)存在への企投性
    精神の内面化は、キリスト伝における聖霊の降臨。
    ・あとがきに代えて 『精神現象学』のアクチュアリティ
    脳科学的な心脳同一説に取り組んだ最初の哲学者がヘーゲル。心の場所は、アリストテレス心臓説、医学者ガレノス脳説。17c脳説の優位において、ガル頭蓋論が評判になる。ヘーゲルは精神の離存説は取れなかった。精神は骨だという命題で同一性が成立するかという問題。「赤い点が見えます」という発言は日常的な了解があるが、科学は脳の画像上の観測と了解の異質な知識を同一とみなす。しかし、脳の画像と赤い点は同一ではないということをヘーゲルは精神は骨だという命題の分析で示した。正直、愛、自由、正義などの日常的了解の領域のことすべてを、心の科学に委ねることはできない。
    カントはニュートン力学の必然性と、人間の自由の両立を目論んだ。科学の根底認識が、感覚的経験知と因果律的経験に依存しない知の結合によるという説明で、物自体は認識できないとした。ヘーゲルは、真理について、個別的偶然的な運動の集合が全体としては必然性を形成すると考えた。バッカス祭の動的な均衡。真理はまた、共同の主観性である。
    ラインホルトは、哲学は単一の原理から全ての真理を導き出す体系でなくてはならないとした。ユークリッド幾何学の発想。ヘーゲルの哲学における前置きの不要は、幾何学を引き継いでいる。世界の文化は、ユークリッド幾何学の影響有無で合理性の概念が異なる。日本の建築法つぼかね術は、数値の厳密と近似値の区別はない。19c末〜20c初の数学基礎論によってヘーゲル的な動的均衡の真理を論証に持ち込むのは不可能とみなした。ヘーゲルは体系形成に失敗したが、ヘーゲル哲学の体系性ではなく、その真理イメージが、力学的真理のカントの視野を超えて、自然科学の領域に開けている点。現代の自然科学の原理は、

  • ヘーゲルの『精神現象学』の解説書です。編集を担当している加藤尚武は、序章、第1章、第8章を担当しており、『精神現象学』全体の見通しを示しています。

    加藤は、『精神現象学』の特徴として、カントの『純粋理性批判』における形而上学的演繹と超越論的演繹を一石二鳥で解決するカテゴリー論であるという点をあげています。カントは、『純粋理性批判』の形而上学的演繹においてカテゴリーを判断表から導出し、超越論的演繹の議論においてカテゴリーがわれわれの経験の可能性の条件となっていることを明らかにしました。これに対してヘーゲルは、さまざまなカテゴリーが「存在」の自己限定として導出されると考えることで、カテゴリーの成立と具体的な知識との循環構造のなかで二つの演繹を同時に果たそうとしたと説明されています。

    『精神現象学』では、こうした循環は「意識」が自覚を深めていくプロセスとみなされており、しかもこのプロセスを支える「アルキメデスの点」は存在していません。この点でヘーゲルの立場は、絶対的に確実であることが内省的に知られる自我を原点とみなしたカントやフィヒテの思想とは異なります。「意識はあるものから自分を区別するが、同時にそれに関係する」という考えかたにもとづいて、「あるものが意識に対して存在する」という側面と「あるもののそれ自身として存在する」という側面を区別するとともに、両者を比較・吟味することで、意識がみずからの制限をしだいに克服していくとされています。加藤は、「ヘーゲル哲学は、近代の自我中心主義の完成態ではない。知のなかに絶対的なものを樹立することがどれほど困難であるかということの貴重なドキュメントが、『精神現象学」なのである」と述べています。

    『精神現象学』という著作の全体がもつ意義とともに、個々の議論のなかでもとくに大きな意義をもつと考えられるところがていねいに解説されており、読みごたえのある入門書だと感じました。

  • 自分とか、意識とか、他人とか、僕の中で漠然としつつも、読みながら色々考えるのはやっぱり楽しい。ひとつのところから、考えが広がっていく感覚もあるかも。「精神現象学」を好きな人たちが書いているテンションみたいなものも感じる。

  • 哲学における古典のなかでも、難解をもって知られる『精神現象学』のための入門書である。構成は『精神現象学』における叙述の順序の通りであるが、「意識の経験」の順序が各部で繰り返されているヘーゲルの論理をよく把握できるようになっている。また、『精神現象学』ないしヘーゲルの哲学そのものを、完結した閉じた体系として把握しようとする従来の評価を批判し、未完の体系として、ヘーゲル自身の思想的苦闘の記録として、『精神現象学』を解説する。この見方によってこそ、ヘーゲルの意図を尊重しつつ、ヘーゲルの叙述を現代でもなお精彩ある「哲学書」として把握する道が開かれるだろう。

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著者プロフィール

京都退学名誉教授

「2012年 『科学・文化と貢献心』 で使われていた紹介文から引用しています。」

加藤尚武の作品

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