- Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062924351
作品紹介・あらすじ
無の深淵が口をあけ虚無の底に降り立った中世日本に日本浄土教を大成した二人の祖師がいた。定住型の親鸞と漂泊型の一遍という、全く対照的な生き方と思索を展開した両者の思想を、原典に現代語訳を付して緻密に読みこみ比較考量、日本文化の基層に潜む浄土教の精髄を浮き彫りにする。日本人の仏教観や霊性、宗教哲学の核心に鋭く迫った清新な論考。
感想・レビュー・書評
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年末年始の読書その1。
多動症としては一遍上人に身体的な親近感を(勝手に)抱くが、親鸞・一遍いずれの浄土の教えも興味深い。
親鸞といえば『最後の親鸞』吉本隆明が印象深かったが、一遍と比較されることで見えてくる「親鸞」も勉強になる。
著者は禅宗を自らの前提として踏まえつつ、日本宗教としての浄土教に深い関心を抱いている、という。
そこもまた興味深い。
親鸞は「信」を突き詰め、一遍は「称名」を突き詰めていったのだという。信じることの困難を「他力本願」において実現することにおいてはきょうつうしているのだろうが、その突き詰め方は生半可なことではない、のだ、ということが読んでいてひしひしと感じられる。
「悪人正機」は、我々がその「悪」から逃れるすべをもたないからこそ、如来を「信じること」しかないということであろうし、
「南無阿弥陀仏」という「称名」さえあれば良いというのは、信や不信を超えてそこにたどりつかねばならぬ一遍の困難があったのだろう。
「信」という心(親鸞)と「称名」という言葉(一遍)の対照的で、「易行」だからこそ難しい道を歩いた2人の姿勢が身近に感じられる一冊だった。浄土の教えを考える入門として好適かと。