- 講談社 (2016年3月15日発売)
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感想 : 8件
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Amazon.co.jp ・本 (160ページ) / ISBN・EAN: 9784062932066
作品紹介・あらすじ
いいとこなんて特にない。平凡きわまるぼんやり猫の「フランシス子」。けれど、著者とは相思相愛だった。忘れがたき存在を亡くし、自らに訪れる死を予感しながらも、訥々と、詩うように語られた優しく輝く言葉たち。「戦後思想界の巨人」吉本隆明が、人生の最後に遺した、あまりにも愛おしい肉声の記録。
みんなの感想まとめ
心に静かな余韻を残す作品で、平凡な猫「フランシス子」と著者の深い絆が描かれています。著者の言葉は、人生の終わりを見つめながらも優しく、読者の心を穏やかにします。感想からは、何度も読み返したくなる魅力が...
感想・レビュー・書評
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たぶんばななさんの本経由(もしかしたら別の作家さんの書評かも?松田青子さんとか?)で『隆明だもの』に行って、そのなかで担当ライター&編集さんがよき雰囲気で描写されていた流れから手にとれた1冊。
ばななさん宵子さんの影響をおおいに受けつつ、隆明さんがますます素敵なお父さん像に。それだけの人ではないとはもちろん承知しているが。「子ども扱いせずに、ちゃんと長尺で真摯に正直に話してくれる」というのは、子から見て、親の素敵像になるらしい。たしかにそうかも。私が両親をいまいち尊敬できないのは、ちゃんと話していないからだ。知のレベルでは隆明さんなんて遠く及ばないけれど、それでも私の知の範囲内にはなるけれども息子たちと今後もちゃんと話そうと思ったり。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヨシモト先生の次の言葉を目にして、胸にジーンと来た。
<フランシス子はもうお骨にしてもらいました。
いなくなっても、なんとなく気配を感じるというようなことを言う人もいますが、僕は別段そういうことはないですね。
イメージはまだ歴然と残っているけど、それ以上のことはとくにない。
いないもんはいない。
亡くなったんだから亡くなったんだってことはわきまえていますから。
フランシス子は死んだんです。>
ヨシモト先生は、フランシス子亡き後の心境を夢遊しているようにしかも健気に語っているが、その寂しさが痛く伝わってくるようだ。ヨシモト先生の長女・ハルノ宵子さんほ、『開店休業』(プレジデント社、2013)の中で、最晩年のお父さんの様子を次のように語っている。
<フランシス子は、2011年6月に急性腎不全で死んだ。その時父の中で何かが終った。”守り守られる”対の関係を喪失したのだ。妻も娘たちも最早その対象ではない。父にとってフランシス子が唯一、愛せば同等の愛を返してくれる対象だったのだ。
その頃の父は眠りがちになり、半ば夢の中で思考するようになった。父が亡くなったのは、フランシス子の死から9ヵ月後だった。>
ヨシモト先生の娘さんの言葉から、『最後の親鸞』の一節を思い出す。まだお元気な頃(60歳前後)のヨシモト先生はこう述べている。
<どんな自力の計いをもすてよ、《知》よりも《愚》の方が、《善》よりも《悪》の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく《愚》に近づくことは願いであった。愚者にとって《愚》はそれ自体であるが、知者にとって《愚》は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。>(『最後の親鸞』)
<《知識》にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そこから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに《非知》に向って着地することができるというのが、おおよそ、どんな種類の《知》にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能に近いので、いわば自覚的に《非知》に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。>(同上)
転記していると頭がクラクラしてくる。「知者にとって《愚》は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題」は、《愚》それ自体である愚者の私にとっては、いとも簡単なことなのにと嘆息が出る。
詳しいことはわからないが、親鸞さんは「愚者でいいではないか」と仰っていると思うが、一方、ヨシモト先生は「愚者になりたい」と語っている。愚者の私から見るとものすごく贅沢なことを、ヨシモト先生は語っている。
ヨシモト先生は最期に「眠りがちになり、半ば夢の中で思考するようになった」ということは、最後のヨシモト先生は、「頂きを極め、そのまま寂かに《非知》に向って着地すること」をやってのけているのかもしれない。
現実は、知者であっても、その意志に関わりなく認知症になることがある。
最後に、こういう話もある。
栗本慎一郎氏の『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』(カッパ・サイエンス、1985)に収録されたマンガ「そして彼もいなくなった」(高橋春男 作)の中で、ヨシモト先生は「古本」という名で登場し、「古本もテレビを見ながら、ねむるようにあの世にいったのである(寿命だったとゆう説アリ)」。
お終い -
昔、吉本隆明という詩人がおりまして、ネコのわたしと、女房と娘と一緒に暮らしておりました。やたら、こだわる人でした。なにせ、ほととぎすは、とか、親鸞は、とか。いい年をして気になったら止められない、しようがない性分で、ネコのわたしは、あほらしいので取り合わないようにしておりましたが、それはそれで気にかかるらしく、どうもこっちを見る目が変だと思っていたら、ネタにして本など出されてしまって、これで、もう、三冊目ですかね?
残念ながら、どうも、どこかに行ってしまったようで、女房もいなくなって、今は娘さんと暮らしておる次第で。 -
猫下僕による、ご主人様の回顧録かと思いきや。えらい方向に脱線した。興味深くはあったけど。
ここで語られるような関係を、猫と結んでみたい。私はどうも猫に嫌われる。 -
とても静かで淡々としているけど、あっという間に読み終わってしまった。
フランシス子という吉本家の猫と吉本隆明さんとの何気ない日々と吉本さんの感じるままに記されている本でした。
本文の後に長女ハルノ宵子さんの「鍵のない玄関」という文章が添えられている。そこには「ああ…こんなきれいな家だったのか」と述べられている表紙の写真。
本当にきれいだ。 -
(2016.04.08読了)(2016.04.07拝借)
吉本隆明さんの最後の作品のようです。飼い猫の「フランシス子」との交流の様子をしゃべってくれたのを編集者が書き起こしたものです。
我が家にも猫はいるけど、吉本さんと「フランシス子へ」ほどの濃密さはないですね。
猫の話からいつの間にか、ホトトギスの実在性の疑問視する話になり、さらに親鸞の話へと移ってゆきます。
いろんなものに、疑問を持ち、解明しようとした吉本さんがこの本でも健在のようです。
【目次】
フランシス子へ
吉本さんへ あとがきにかえて 瀧晴巳
鍵のない玄関 ハルノ宵子
吉本隆明の中の「女性」と「動物」 中沢新一
●猫(21頁)
理屈通りいかないんですよ、猫は。
無理して手もとに引き寄せようとしても、うまくいかない。
黙って放っておけば、向こうで勝手に降りてきたりね。
●猫好き(40頁)
本当の猫好きになると、しまいには自分か、猫かってくらい境界線があいまいになって、お互いがさかさまになってしまうくらい一致して親しくなることができる。
●村上一郎(68頁)
その時の万歳には、村上さんに対する敬意とか、卑怯者って言われても生きてたほうがいいんだよ、死ぬっていうのは意味がないんだよって気持ちとか、とにかくいろんななんとも言えない思いが含まれていました。
●収穫(70頁)
自分の唯一の収穫は、マルクスの資本論から金融資本論まで死にものぐるいになって一生懸命勉強したということだったと思います。
それよりほかに時間を過ごす手だてがないんですよ。
●ホトトギスの会(76頁)
「卯の花にホトトギスなんて、本当に来たのかねえ」
●親鸞(93頁)
親鸞は「浄土はあるのか、ないのか」って問いを最初に立てて、最後の最後まで貫こうとしたんだと思います。
☆吉本隆明さんの本(既読)
「共同幻想論」吉本隆明著、河出書房、1968.12.05
「ダーウィンを超えて」今西錦司・吉本隆明著、朝日出版社、1978.12.10
「悪人正機」吉本隆明・糸井重里著、朝日出版社、2001.06.05
(2016年4月9日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
いいとこなんて特にない。平凡きわまるぼんやり猫の「フランシス子」。けれど、著者とは相思相愛だった。忘れがたき存在を亡くし、自らに訪れる死を予感しながらも、訥々と、詩うように語られた優しく輝く言葉たち。「戦後思想界の巨人」吉本隆明が、人生の最後に遺した、あまりにも愛おしい肉声の記録。 -
いいとこなんて特にない。平凡きわまるぼんやり猫の「フランシス子」。けれど、著者とは相思相愛だった。忘れがたき存在を亡くし、自らに訪れる死を予感しながらも、訥々と、詩うように語られた優しく輝く言葉たち。「戦後思想界の巨人」吉本隆明が、人生の最後に遺した、あまりにも愛おしい肉声の記録。
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