- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065123843
作品紹介・あらすじ
文系対理系。いつまで経っても終わらない不毛な対立に今、歴史のメスが振り下ろされる。サントリー学芸賞受賞の俊英、待望の初新書。
「文系」と「理系」という学問上の区分けは、進路選択や就職など私たちの人生を大きく左右するのみならず、産業や国家のあり方とも密接に関わる枢要なものです。ところが現実には、印象論にすぎないレッテル貼りが横行し、議論の妨げになるばかり。そこで本書では、そもそも文系と理系というカテゴリーがいつどのようにして生まれたのか、西欧における近代諸学問の成立や、日本の近代化の過程にまで遡って確かめるところから始めます。その上で、受験や就活、ジェンダー、研究の学際化といったアクチュアルな問題に深く分け入っていくことを目論みます。さあ、本書から、文系・理系をめぐる議論を一段上へと進めましょう。
第1章 文系と理系はいつどのように分かれたか? --欧米諸国の場合
第2章 日本の近代化と文系・理系
第3章 産業界と文系・理系
第4章 ジェンダーと文系・理系
第5章 研究の「学際化」と文系・理系
感想・レビュー・書評
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わたしは自らを典型的な文系人間と思って生きてきたが、近年は生物学や量子力学などに関心を持つようになっている。正直それらの本を読んだところで本当に理解したともいえないし、そもそもなぜそうなったのかも自分でわかっていない。そんな中、文系と理系がなぜ分かれたのか、というタイトルに惹かれて一気に読んだ。
話しは中世の大学の成り立ちから始まる。宗教革命で、新たな学問の地平が生まれ、神から解放された自然科学が興隆する。人間を理解しようと人文科学も生まれる。
やがて産業革命を経て、近代以降の戦争もあり、産業界のニーズに応える形で学問も変容していく。いわゆる理系優位の潮流が訪れる。
ジェンダー論のくだりもいかに自分が偏見を持っていたかを思い知らされて新鮮だった。
大きな流れでみると、学際化や統合の動きもあるが、より分かれる逆のベクトルもある。歴史は一方向に行くわけではないのだ。何となく文系人間のわたしが今に至った理由がわかった。
最後にあった、諸学問の中には「人間」をバイアスの源と捉える傾向と、「人間」を価値の源泉と捉える傾向が併存しています。という表現は納得した。違いが活かせてこそ、補い合うことができる。集合知が発揮できる、そう思うことから一歩が踏み出せる、はまさにその通り。ネットの分断が指摘される現代こそ筆者のような姿勢の重要性は増すと感じた。 -
文系と理系。人文知と自然科学。
文理の区分けはいつどこで生まれたのか。歴史を遡り、西欧の近代諸学問の成立や日本近代化の特殊事情を視野に入れ、受験就活の制度からジェンダー、研究の学際化まで広い視点から文理の軋轢と分岐を整理した内容。
まずは著者は文理が生まれた西欧の学問の歴史を遡る。神や王権の権威から自律することで近代諸学問は成立したが、自律の方法が異なったゆえに文理の区分けが生じたという西欧の歴史を著者は参照する。人間を価値の源泉と捉えるか(人文社会科学)。バイアスとみなすか(自然科学)。権威からの自律という同根をもつが方向性が違うがゆえに文理は容易に統合できないという普遍性を確認する。
翻って日本では文理の伝統や論争に乏しく、明治以降において近代化のため西洋の学問を輸入することが急務だった。そのため、学問の純粋な論争より制度として文理の区分けが固定化されてしまった事例を挙げる。国家の政策として法と工学の人材育成に投資と資源を集中させたがために制度として分野ごとの分断とタコツボ化が起こりやすい構造が生まれてしまったという。
しかし、それは西欧においても変わらない。20世紀の欧米でも経済発展を見込んだ国家の政策的判断から、理工系や法律、経済の領域が重視されるようになり、その他の人文科学との間で分断や溝が生まれてしまった。
文系・理系の区分は文化の中にも深く根付き、ときに差別に利用されてきた。「あなたは理系に向いてない」という偏見や社会からの暗黙のメッセージをマイノリティーや女性が内面化する過程を著者は多角的に分析している。著者はここで文理の区分がジェンダー差別に使われた事例と歴史を考察し、偏見による男女の区分がそのまま文系と理系との深い溝を生み出す原因となっている実情を浮き彫りにする。
最後は文理の現状。現代は学問の内容が爆発的に増えている。文系・理系と問えない諸分野をまたがる学際的な分野も生まれている。かといって学生や研究者は全てを学ぶことはできず何らかの選択をせざるを得ない。文理一致は程遠いが試行錯誤が続く苦しい実情を紹介している。
なにより重要なことは文系・理系の区分があることが問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそ問われるべきだという。これには深く頷く。AIとバイオとテクノロジーのこれからにおいて、おそらく両者は融合できずとも嫌でも関わらざるを得ないだろう。 -
文系/理系論に留まらず、古代/中世からの学術や社会の歴史、昨今の高等教育や学際研究における課題についても幅広く論じている。
トピックはこのように幅広いが、大胆に(≒放談的に)論じるということはなく、ある種の慎重さを伴って著されており、これは著者の知性がそうさせていると感じる。
イノベーション論や科学技術史を扱った類書は他にもあり、昨今でも同様のテーマを扱った初学者向け書籍は出版されている(例えば、著者の隣接分野の研究者である標葉氏の本など)。
そのような中でこの本のユニークであり素晴らしいのは、マイノリティとされる人々と学術活動のあり方について、随所に考察を加えている点だろう。
例えば、「ジェンダーと文系・理系」という章があり、ここでは性差と学術活動との関連についてさまざまなデータに基づいた議論を展開している。また、章の最後には、性というものが多様であって、そもそも男女の2つのみに分けられるようなものでないことにも触れている。欧米の科学論ではフェミニズムの影響を受けた研究が多数あると認識しているが、国内ではそのような研究や論稿の数はまだまだ多いとは言えず、知らないデータや議論ばかりだったので、これまでの自分の認識の甘さ・浅さを反省した。
また、第5章からは一気に記述の鋭さが増すように感じる。学術活動の今後に対する期待と危機感の表れなのだろうと感じる。
最後に、特に以下の記述について、個人的にとても感銘を覚え、深く同意した。
「マジョリティの価値観に浸っているために自らの政治性が自覚できていない状態のことを『中立』という名で呼び変えていないかどうかを、改めて問い直す必要があるでしょう。」 -
あの人は文系だから。私は理系だから。日常的に使われる、文理の二項。
しかし時代を遡った書籍をあたると、文理が分かたれていないとしか思えない記述や思想に出会う。
なぜ、いつ、文理は分かれていったのか。
新書にも関わらず丁寧に参考文献まで明示された本書は、文理の分かれ目の探求にとどまらず
それが構造的に分化していくものであること、
社会通念、特にジェンダーや政治と不可分に絡みあっているがゆえに複雑さを増していることなどが語られる。
学際的な活動が増えてきているにも関わらず分断は依然としてよこたわっているという事実を突きつけられ、いろいろと考えさせられる一冊。
新書でこのヘビー級の読後感はなかなか得難い。 -
日本では大学の専攻を「文系」「理系」に分けるのが一般的である。理系を目指すか文系を目指すかで、受験勉強の内容も変わる。
だが実は、この二元的な分類は日本特有のものである。アメリカでは主専攻のほかに副専攻を選ぶことができ、文・理を超えた自由な選択が可能な場合もある。フランスの大学入試バカロレアは、人文系、経済・社会系、科学系の3つに分かれている。
日本では、いつ、どのように、この「文系」「理系」の区分が生まれていったのか。
本書は、西欧における諸学問の成立や日本の近代化の過程をたどることで、その歴史的背景を探り、また、受験や就職活動、研究の学際化等の問題も考察する。
西欧の大学の起源は中世に遡る。教養課程に当たる下級学部では、文法、修辞学、論理学および弁証学、算術、幾何学、音楽、天文学を学ぶ。より専門性の高い上級学部は、神学部、法学部、医学部に分かれており、卒業すれば聖職者・弁護士・医者になることができた。数学も教えられてはいたが、古代ギリシャの知識が元になっていて、さほど重要視されてはいなかった。
ルネサンス以降、徐々に、「数学を共通言語とする理工系」が発展していく。それとともに、ギリシャ・ローマやイスラム文化圏の書物や遺産を解読し研究する、私的な同好会が数多く生まれる。アカデミーと言われるこうした同好会は、学問談義に加えて、音楽を楽しみ、晩餐会なども行った。特定の学問のみを究めるというよりも、なるべく多くの分野を知り、数学も音楽も詩もオールマイティに学ぶことがよしとされていた。
その後、次第に、自然科学のみを扱うアカデミーが生まれ、18世紀以降、発展を遂げる。ニュートンが所属したイギリスのロイヤル・ソサエティや科学の近代化を進めたフランスのパリ王立科学アカデミーがこれらの旗手である。
産業革命がおこると、工学分野が発展していく。
文系の学問は古くから理系の学問より古くからありはしたが、「近代化」はむしろ理系学問よりも遅れていた。教会や王権が学問を牛耳っており、そこから抜け出して自由に発展を遂げるのは難しかったことが一因だとはいえるだろう。
もちろん、理工系の学問にしても、宗教の影響から抜け出ることは困難であったわけだが。
著者は、宗教からの「自律」には2つの方向性があり、1つは「神の似姿である人間を世界の中心とする自然観」から距離を取るもの、もう1つは神を中心とする世界の秩序でなく、人間中心の秩序を追い求めるものとしている。前者を追及すれば理工系の学問となり、後者は文系の学問となる。
このあたり、もう少し議論が必要な印象も受けるが、大まかな捉え方としてはおもしろいかもしれない。
いずれにしろ、現在の形の諸学問が興ってきたのはそう古いものでもなく、学問自体の枠組みも今後形を変えていく可能性は大いにあるわけだろう。
日本で文系・理系が生じていくのは、明治維新以後のこととなる。
初めの頃は、「科学」という用語すら定着していない。朱子学で用いられていた「窮理(理を窮める)」(物事の本質や仕組みを調べることを指す用語)を使っていた者もいる。
哲学が「実学」に分類されることもあった。仏教や儒学等に比べれば現実対象を経験的に扱うということらしいがちょっとわかりにくい。
諸学問は細分化した形でバラバラに入ってきて文と理の分け目も明確ではなく、揺らぎがある。
文系・理系を分ける大きなきっかけとなったのは、官僚制度と中等教育であったらしい。殖産興業や土木工業にあたる技官と、行政で法務に携わる文官は明治の早い時期に分けられていた。1910年代の第二次高等学校令では、「高等学校高等科ヲ分カチテ文化及理科トス」という文言が記される。
著者の主張では、日本の大学が、当初、法学と工学の実務家を養成する機関としての役割を求められていたことが大きいようだ。
その他、理系は「儲かる」のか、理工系に女性が少ないのはなぜかといったトピックも挙げられる。
学際化が叫ばれる昨今、旧来の文系・理系の枠組みはどれほど妥当なのかは疑問だ。もう少し大きな視点から考えていく必要があるように思う。官僚制度が成立に関わっているとなると、そう簡単にも変わらないのだろうが。
この1冊でクリアカットに答えが得られるわけではないのだが、文系・理系に関して考えるきっかけとしては手頃かもしれない。 -
隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かたれたのか』読了。いわゆる文系、理系の区分についてその成立の過程から多面的な視点で解きほぐしていく良書。先進国における男性の言語リテラシーの問題は初見で驚いた。不毛な論争に陥りがちな文理の話題もこの本を読んだ後では捉え方も変わってくるなと
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著者のことはテレビ(ジレンマ)で見て知った。Twitterをフォローしている。本書刊行はだれかがブクログで購入予定に載せていたのを見てずいぶん前から知っていた。発売日にあわせて書店に行ったが見つからない。残念ながら中規模書店には置かれていない新書なのだ。注文をして手に入れた。通勤途中の電車の中で読んでいると失礼ながら睡魔に襲われた。もともと科学思想史には興味があり、知っていることも多かった。が、それ以上にひき込まれなかった理由は、著者が多くの書籍(先行研究)をもとに執筆しているからなのだろうと、あとで思った。昆虫学者や人類学者の実体験のおもしろさにはかなわない。それでも、4,5章は休みの日に一気に読んでひき込まれた。印象に残った部分を引用しておく。「ある学問が人間社会に関わる切実な対象を扱うほどに、その学術的な論争と、政治的論争との間の境目が不明確になっていくのはやむを得ないし、だからこそ論争が必要だと思っています。それは、人間の認識能力の不完全さと、対象の複雑さとが合わさったとき、何らかの政治性が生まれてしまうことは避けがたいと考えているからでもあります。」(なお、政治的とはどの価値を優先するか、党派的とは誰の味方かということで、そこは区別しているとのこと。)理系・文系について、もっと日常に引き戻して考えてみる。いまは、だいたい高校1年で決めることが多いようだが、私は単純に数学ができるかどうかでの判断だと思っている。私は数学がわりと得意だったし、物理に興味を持っていたから「理系」でした。でも、本を読むのは好きだし、こうして文章を書くのも好きです。長男は数学はできないけれど、地学と地理だけで地球科学に進学した一応理系。長女は、英語・国語よりかは数学の方がましだからとの理由で理系に進学。数Ⅲは選択しなかったから工学部への道はなく、生活科学系の建築科を目指している。つまり我が家の子どもたちは「なんちゃって理系」なんです。こんなことばがあるかどうかは知りませんが。なんか、というくらいの気軽さで、文系・理系と言っていればいいような気がしています。どころで、232ページにある地球温暖化についての件で、「今世紀半ば」とあるのはあきらかに「前世紀半ば」の間違いですよね。
https://www.jomo-news.co.jp/artic...
https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/130488