- Amazon.co.jp ・本 (642ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065133101
作品紹介・あらすじ
今から半世紀も前、優れた幾多の論文によって世界の経済学界を驚かせた日本人の経済学者がいた!彼の人生は、20世紀の経済学史そのものであり、彼の生涯は、人々が生き甲斐をもち、平和に暮らせる世界を創り出すために捧げられた。そしてそれは資本主義との闘いの人生でもあった――。2014年に逝去した経済学者 宇沢弘文の伝記です。伝記でありながら、難解とされる氏の経済学の理論を、時代と絡めながら解説していきます。
感想・レビュー・書評
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理論経済学者であった宇沢弘文さんの生涯の軌跡。
読んでみて、本当に感動した。
主に戦後だが、まさに20世紀の(理論)経済学を、宇沢弘文という1人物を中心に語ることで、ほぼその流れを理解することができる。それほど、経済学のメインストリームに位置していたということだ。
特にアメリカだが、20世紀を通して経済学の世界は、古典派 ⇒ ケインズ学派 ⇒ 新古典派 ⇒ ネオリベラリズム(ネオリベ)という流れがある。宇沢先生は新古典派の理論経済学者だが、彼の経歴を通して、ケインズ学派からいかにネオリベラリズムに移行して、現在2020年に至るかが理解できる。
特にネオリベの提唱者、ミルトン・フリードマンとの関係性はすごく興味深い。お互い敬意を持つ友人同士でありながら(まぁ、大嫌いだったみたいだから友人ではないか。。)、考え方は正反対。歴史の流れの中で、ミルトン・フリードマンがその後の経済学(世界の政治)を作っていく。80年代にレーガンやサッチャーに影響を与えることで。そして、アメリカの後にヨチヨチ歩きでくっ付いていく形で、日本はネオリベに染まっていく。2000年代の小泉政権にて。
しかし、このスケールで経済学者を眺めたときに、小泉政権の竹中平蔵がいかに小物かがわかる。ミルトン・フリードマンの劣化版。「学者」という肩書きで呼ぶのは、ちゃんと学問を進歩させようとしている真の学者に失礼だ。むろん、経済学者ではありえない。それほど差がある。
そして、彼は現在の菅政権でもゾンビのように復活して、ネオリベ政策をさらに進めようとしている。しかも、多くの日本人はこれを支持しているわけだ。
・・もう、どうしようもないな。
宇沢先生の恩師、同僚や教え子、ライバルなどは多くがノーベル経済学賞に輝いている。日本人でノーベル経済学賞に一番近い男、と巷間言われていたが、宇沢先生は結局受賞することはなかった。宇沢先生が亡くなった今、おそらく、今後日本人で受賞する人は現れないだろう。最後の章でも、残念ながら後継者がいないことが露呈した(本読む前に気になっていた。宇沢先生の後継者のような人はいるだろうか・・と)。今の日本の経済学者で、新しい「ユートピア」を語れるような人がいるとは到底思えない。
私は社会学に興味があり、「社会的共通資本(Social Common Capital)」の概念は前から知っていた。この概念を、この本を読むことでより補完することができた。宇沢先生が主に「農業コモンズ」と「大気コモンズ(地球環境保護)」の2軸で活動されていたことも知ることができた。
経済学や社会学のような「社会科学」では「自然科学」のように方程式で世界を表すには限界がある。これは難しい数学理論を理解してなくても、実生活で「世界」を体験していればわかることだ。しかし、多くの経済学者は、それを理論に押し込ようとする。私は経済学は一番信用できない学問と長い間思っていたが、色々と学ぶ中で、「結構経済学も役に立つな」と思うようになっていた。事実、計量経済学の手法などは仕事でも使える。しかし、この本を読むうちに、また「経済学って意味あるのか?」と逆に振れた。経済学は社会科学の中では一番数学の適用に成功して様々な理論を構築した学問ではあるが、宇沢先生の「社会的共通資本」のような地に足が着いたアイデアの実践に寄与できないようであれば、学問として存在価値がないし社会的に悪い影響しか与えないのではないか?ネオリベの思想などは多くの国で格差を広げただけだし。
現在のコロナ禍の世界(特にアメリカ)を眺めているうちに、また、この本を読むことでさらにその想いを強くするようになった。
これからの世界は、宇沢先生の「社会的共通資本」がさらに重要になる。SDGsなどはその一例だ。環境を意識せずに生きていくことはできない。しかし、経済学はそれでも環境を無視し続けるのだろうか?日本の(御用)学者や政治に1ミリも期待はしていないから日本はこのまま没落していけば良いが、せめて他国では、宇沢先生のこのアイデアに再び光を当てて少しでも実現する国が現れてほしい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
数理経済学という学問分野において、間違いなく日本を代表する存在として、多数の論文により学問の進展に多大なる影響を与えつつ、突然の沈黙により学会から距離を置き、半ば”仙人”のような風貌で晩年を送った経済学者、宇沢弘文。本書は彼の半生と数理経済学という学問の発展とその限界を炙り出す超一級の評伝である。
経済的合理性に基づいて一切の行動を取るという仮定の存在たるホモ・エコノミクスの存在を前提とし、近代の経済学では人間行動を数学を用いたモデルにより表現することで学問としての精緻さを明晰にすることに成功した。一方、そうしたホモ・エコノミクスという存在の仮想性に目を付け、新たな理論を立ち上げたのが20世紀後半から21世紀に勢力を伸ばす行動経済学の学派である。非合理とわかっていながらも、錯覚や一時の快楽に身を任せて行動を取る人間の実質的な愚かしさを、行動経済学では心理実験等のアプローチに基づき理論化しようとしている。
そうした学問の流れにおいて、宇沢弘文が生涯の後半で成し遂げようとしたのは、資本主義という思想の中で零れ落ちてしまう人間存在を、いかに経済学という理論の中に位置づけるかという苦闘であったと言える。
理論と実践という旧来からの二項対立において、21世紀は理論の持つ力が徐々に喪失されつつあるという印象を持つのは私だけだろうか。本書は、その生涯において理論の持つ力を信じた一人の人間の思想が痛いくらいに伝わってくる。それは経済学という理論に興味があるかどうかは別として、我々がどう考え、どう生きるべきかという根源的な問いを突き詰めるきっかけを与えてくれるものである。 -
佐々木実(2019)『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』講談社を読了。
佐々木実氏の丹念な取材と、文献渉猟の努力には頭が上がらない思いである。
宇沢弘文は、経済学の世界では言わずとしれた、巨人である。
ノーベル経済学賞受賞者は、口を揃えて、「ヒロは受賞に値する」と評した。
「社会的共通資本」の理論化の道半ばで他界した孤高の経済学者のあまりにも充実し、奮闘した生涯を本書は約600頁を割いて記述している。
とはいえ、本書は単なる評伝ではない。
「宇沢弘文という人物を通して、経済学の歴史を語るもの」だと私は考えている。
数理経済学の大家として、シカゴ大学や、東京大学で教鞭をとった、まさに世界をまたにかけて活躍した、世界的な経済学者Hirohumi Uzawa の、生い立ちや、人物像、思想はもちろん、
これまでの「経済学」の世の中との関わりまでも鮮やかに描き出す。
言うなれば、宇沢弘文は、経済学界のイチローである。
経済学が「人間のための学問」であるために、奮闘した日本人は、後にも先にも宇沢弘文しかいないのではないか。
主流派経済学(例えばミクロ経済学)は、合理的経済人(ホモ・エコノミクス)をその理論の前提に据えて、価格が付けられあらゆる財やサービスが「市場で取引される」世界を目指してきた。
しかし、その主流派経済学に、誰よりも秀でて、その分野で卓越した業績を残してきた男が、「内在的な批判」を展開したのである。
この世の中は、市場が中心となっているかもしれないが、「市場=市場経済」ではない。
つまり、「市場=社会」では決してないということである。
世の中は、「市場の外にある多くの部分に支えられている」。
農山村を含めた、自然環境や、地域コミュニティ、家族のつながり等、あらゆる「金銭的評価ができないもの」を前提として、市場経済が存在する。そういう、倫理的にも、理論的にも極めて正しいことを、本書を通じて学ぶことができる。
経済学をお金絡みの安い学問だと言う者は、本書を読むべし。真の経済学は、机上の空論ではないのである。
本書は、この世の中に生きるすべての「人間のため」に書かれた、宇沢弘文からの最後のメッセージであると思う。
最後に、宇沢弘文がその生涯をかけて世に投げ掛け続けた、「社会的共通資本」の定義を本書556~557頁から紹介する。
「社会的共通資本は、土地を始めとする、大気、土壌、水、深林、河川、海洋などの自然資本だけではなく、道路、上・下水道、公共的な交通機関、電力、通信施設、司法、教育、医療などの文化的制度、さらに金融・財政制度をも含む。社会的共通資本のネットワークは、広い意味での環境を意味し、このネットワークの中で、各経済主体が自由に行動し、生産を営むことになるわけである。市場経済制度のパフォーマンスも、どのような社会的共通資本のネットワークのなかで機能しているかということによって、規定される。さまざまな社会的資本の組織運営に年々、どれだけの資源が経常的に投下されるかということによって、政府の経常支出の大きさが決まってくる。他方、社会的共通資本の建設に対して、どれだけの希少資源の投下がなされたかということによって、政府の固定資本形成の大きさが決まってくる。このような意味で、社会的共通資本の性格、その建設、運営、維持は、広い意味での政府、公共部門の果たしている機能を経済学的にとらえたものとなる。社会的共通資本の管理について、一つ重要な点にふれておく必要があろう。社会的共通資本は、国ないし政府によって規定された基準ないしはルールにしたがっておこなわれるものではないということである。各種の社会的共通資本について、それぞれ独立の機構によって管理されるものであって、各機構はそれぞれ該当する社会的共通資本の管理を社会から信託されているのであって、その基本的原則は、フィディシュアリー(fiduciary)の概念にもとづくものでなければならない。社会的共通資本は、そこから生み出されるサービスが市民の基本的権利の充足に際して、重要な役割を果たすものであって、社会にとって「大切な」ものである。【以下略】」
ぜひ、関心のある方は手にとって頂きたい。
「物語として経済学を学ぶ」にも、最適な一冊である。
読書の秋もそろそろ本番。大作に挑みたい方は、迷わず本書を読んで頂きたい。
そう強く思う一冊である。 -
宇沢氏については断片的な知識しかなかったが、本書でその業績、転向の歴史を知った。
アメリカで計量経済学の最先端で仰ぎ見るような実績を上げ、突如帰国してからは社会や経済のありようを信念をもって主張し行動されてきた。このような方がいらしたことをありがたく思う。青い鳥を追うような晩年の寂しさも、また心を打つものがある。
本書は宇沢氏の評伝でありながら、氏の業績を追うことで戦後のアメリカ経済学の進展を伝えるものになっている。二重に素晴らしい好著だった。 -
もっと早く出会いたかった。
凄い本。宇沢弘文という学者の生涯を通じて、経済史の変遷を学ぶ事ができる。一般均衡理論から、ケインズ、リカード。市場原理に任せるか、政策介入すべきか、そして更にはベトナム戦争から外部不経済という考えに基づき、公共経済学の分野へ。延長戦で、公害、自動車、カーボンニュートラルまで行き着く。こうした本を学生時代に読んでいたなら、あるいは、公共経済学に興味を持っただろうか。
圧倒的な取材、文献、考察。宇沢弘文と共に生きた数々の学者たち。師弟、ライバル、仲間、犬猿の仲。その一人ひとりまで掘り下げて説明される事で、経済史の転換点が温度感を持ち、深く、ストーリーとして頭に入ってくる。経済学という学問の功罪。可能性、今の等身大の経済学。
スティグリッツは宇沢弘文の教え子だったらしい。フリードマンは友人とも言えるが、論敵だった。宇沢弘文は、感情的な学者であったが、しかし、経済学の犯した罪と向き合う正義だった。合理的、効率的という概念が、所謂、経済的と同義に語られ、その範囲によっては利己的になりかねない、この資本主義の愚かさに対して。戦争と公害、環境破壊に対して、経済学がこれから為すべき課題とは、何か。 -
経済学という学問にこれまでどうしても興味を持てなかった。
世の中の実に多様な側面を、「経済」という一つの視点だけで切り取り、それだけで「良い悪い」を判断している学問だという偏見を持っていたからだ。
でも本当に優れた経済学者は、決して経済が世の中の良しあしを決定する因子ではなく、
あくまで人間の幸せを考えたうえで、そのアプローチの一つとして経済学を認識していることを知り、そういった優れた学者たちに畏敬の念を覚えた。
本書の主役である宇沢弘文さんは、その優れた経済学者の最たる人物であろう。
経済学の世界の最先端であるアメリカ・シカゴ大学のスター教授の一人として、輝かしい経歴を持ちながら、人類、日本の将来を真剣に考えたうえでアメリカを離れ、さらには一度経済学を離れた。
「社会的共通資本」という経済学のど真ん中から見ると色物ともとられるような概念を提唱した。経済学の枠にとらわれない、本当に人間に役に立つ経済学の用い方を示したのだと思う。
また、本書は経済学の歴史入門としても非常に優れている。
宇沢弘文という日本が誇る優れた経済学者を軸にして、世界の経済学の移り変わりを語ってくれている。 -
世界的な数理経済学者でありながら、従来の新古典派経済学を徹底して批判し、「社会的共通資本論」を提唱した、宇沢弘文の本格的評伝。
本人をはじめとする数多の関係者への充実した取材や文献の渉猟に基づいて、宇沢弘文という人間を様々な角度から浮彫りにする優れた伝記だと感じた。大部だが、物語として面白く、スイスイと読み進めることができた。
宇沢弘文の生涯を振り返ることは、まさに20世紀の経済学史を振り返ることであり、その意味でもとても勉強になった。
昭和天皇から「君!君は、経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」と声をかけられたというエピソードが紹介されているが、まさに昭和天皇の言葉は、宇沢弘文の経済学の本質を言い当てていると思った。 -
宇沢弘文を通じて見える経済学とリベラリズム。
大著だが読みやすい。
宇沢弘文のルポだが、人物を通じて見える経済学を超えて人の生活とは何か?まで広がる内容。
コモンズや社の考えのようの公共としての場の在り方を考えさせられる。
その規模は地球という場まで広がって経済を考える地点にまでたどり着いたのが今であり、
経済学は人間を救うのかが問われていると感じた。 -
よりよい社会を実現するために研究を続けた経済学者の骨太人生を見事に描き切る。
戦後の経済学の流れも俯瞰していてとても勉強になる。
コロナ禍の今なら、どんな発言をしただろうかなど
考えながら読んだ。
宮沢喜一や後藤田正晴など、宇沢の見識を理解し
議論できる政治家がかつてはいたのに
今は・・・と軽くショックを受けた -
社会科学を学ぶ大学生は必ず読んで欲しい一冊。特に経済学部と社会学部、環境やサステナビリティを学ぶの人は必読。
アメリカ経済学全盛期にその最先端を走った日本人。今現在、後にも先にも日本の経済学者として世界と渡り合えたのはこの人だけ。
宇沢弘文さんの教え子のスティグリッツといえば、日本の大学のミクロ、マクロの教科書にも使われているノーベル経済学者。そのスティグリッツや、同じくノーベル経済学者のアマルティア・センが今挑んでいるGDPに代わる幸福度の研究テーマ。
その先行研究ともいえる環境や社会の価値を経済学で扱えるようにする社会的共通資本を打ち出した人。机上の論理でなく、現実に経済学を適応させようとして、まさに資本主義と戦い続けた人。
1970年以降の新自由主義によって、人は物質的に裕福になったが、それでも幸せになれない人がたくさんいる。貧富の差は開いている。
気候変動、リーマンショック、東日本大震災、コロナショックなど、20世紀のしわ寄せが表面化する中、よーやく経済学も宇沢弘文さんの見ていた世界に足を踏み出しつつあるか?
まさに、近代日本史の教科書にして欲しいくらいな中身。
経済学の教科書、研究論文の全体から腑に落ちず、博士課程の学生を見て、企業にて続きをやろうと思った自分。後悔はないが、もっとこの方の著作には触れておきたかった。
恥ずかしながら、未来世代というステークホルダーを明確に出してきたのも宇沢さんというのを知らなかった。
後を継ぐものが出なかったことが宇沢弘文さんの凄さと悲しさを表しているように思う。
天才とは、生きているうちに世間に凄さがわからない人と私は思っている。そういう意味でこの人は本当に天才であり、努力家であり、誠実な方だったんだと思った。
今からでもこの方の著作をもっと読みたいと思う。そして、こういう本を書いてくれる、出版してくれることが、ジャーナリズムだと思う。素晴らしい一冊。
でも、大きな意味で言うとスティグリッツさんが、宇沢弘文さんの遺志を継いでいるのかもしれない。21世期に経済学が無用のものとなるか、SDGsを果たす有効な学問となるか。
子孫に幅広い選択肢と豊かな地球を残せるかは私たちにかかってる。
日本人が誇るべき人、宇沢弘文。ノーベル経済学賞に最も近かった日本人、宇沢弘文。
著者プロフィール
佐々木実の作品






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