老年について 友情について (講談社学術文庫)

  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065145074

作品紹介・あらすじ

マルクス・トゥッリウス・キケロー(前106-43年)は、共和政末期のローマに生きた哲学者・弁論家・政治家として知られる。本書は、その最も人気のある二つの対話篇を定評ある訳者による新訳で一冊にまとめた待望の文庫版。「無謀は華やぐ青年の、智慮は春秋を重ねる老年の特性」、「友情においては地位や身分での分け隔てがあってはならない」──「老い」と「友情」という大切な問題についての古代の知恵が、ここに甦る。


マルクス・トゥッリウス・キケロー(前106-43年)は、共和政末期のローマに生きた哲学者にして弁論家、そして政治家として知られる。本書は、その最も人気のある二つの対話篇を定評ある訳者による新訳で一冊にまとめた待望の文庫版である。
『老年について』は、84歳まで生きてローマ政界で重鎮の役割を果たしたマルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス、通称「大カトー」に二人の若者が話を聞く、という構成をとる。その二人とは、のちにカルタゴを殲滅する武人にして知識人である小スキピオ(小アフリカヌス)と、その親友で、のちに「賢者」の異名をとるガイウス・ラエリウスである。スキピオは冒頭、カトーに向かって言う。「老年があなたにとって厄介なものだという印象を一度も抱いたことがないことに、最大の、と言ってもよい驚きを覚えているのです」。ここから対話が始まり、「無謀は華やぐ青年の、智慮は春秋を重ねる老年の特性」、「青年は長生きしたいと願うが、老人はすでに長生きしている」といった名言とともに、老年をどう捉えればよいか、老いに対してどのように対処すべきか、といった実践的な知恵の数々が披露される。
『友情について』は、『老年について』に登場したラエリウスを主要な登場人物としている。そのラエリウスが、みずからの女婿にあたるスカエウォラとファンニウスの二人を相手に、社会の中で生きる人間にとっての普遍的なテーマである「友情」について語る。その中には、やはり「注意深く友人を選ばなければならない」、「友情においては地位や身分での分け隔てがあってはならない」といった役に立つ言葉の数々がちりばめられている。
これらの対話篇は、いずれも共和政を護持するための格闘に敗れ、カエサルの独裁が実現されたあとに書かれた。キケローの苦難多き人生の経験と、該博な知識に裏打ちされた珠玉の二篇を一冊で読める待望の新訳。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    人間、誰しも老いたくないものだ。
    老いが怖い理由はいくらでもある。体力が無くなる、見た目が悪くなる、記憶力が落ちる、いつ病気するか分からない……。若いころは「若い」というだけで何でもできた。内から湧き出てくる力があったし、どう転ぶか分からない未来を決める権利もあった。世界の全てが瑞々しく見えた。それが中年、壮年、老年となるにつれて、人生のゴールが見え始め、自分が何者でも無くなっていく感覚が増すばかり。そんな状態で、死に怯えながら余生を過ごさなければならないのは、誰しも辛く感じるだろう。

    では、そうした悩みは人生100歳時代の今だからこそなのかというと、そうではない。少なくとも古代ローマの時代から「老いることは辛い」という認識があった。本書『老年について』は、そうした「老い」についての憂心を、古代ローマの学者にして政治家・弁論家のキケロー(前106~前43)が対話形式で描いた一冊となっている。(講談社学術文庫ではほか『友情について』の対話篇もセットになっている。)執筆時、キケローは62歳。当時のローマ人基準ではかなり長生きなほうで、60歳時点での平均余命が9.6歳だったことを考えると、まさに老年時代に執筆した書と言える。

    さて、「老いが辛い」という悩みに対してカトー(物語中の対話の主)が述べたことを簡潔にまとめると、「善く生きた人間であるならば、老年ほど心地よいものはない」ということである。

    カトーはまず、一般に考えられている老いのマイナス要素を4つ挙げた。
    ①諸々の活動から身を引かせ、帰臥を余儀なくさせること
    ②肉体を衰えさせること
    ③およそすべての快楽を奪い去ること
    ④死が間近であること
    であり、これら4つをそれぞれ検証したうえで否定していく。

    ①については、「大業は、肉体の力や速さ、敏捷さによってではなく、賢慮や権威、智略によって成し遂げられるものなのであり、老年は通例、それらを奪われるどころか、増しさえするものなのだ」と述べる。大きな物事を成すには、体力以上に精神力が重要だ。若いころから鍛錬を惜しまなければ、知能や記憶力の衰えとは無縁でいられ、老年になっても活動的でいられるというわけだ。

    ②については、「自然の道は一本道で、折り返しがない。生涯のそれぞれの時期に、その時期にかなったものが与えられている。例えば、少年期のひ弱さもそうだし、青年期の峻烈さも、すでに安定している中年期の重厚さも、老年期の円熟もそうだが、それぞれに、その時期に収穫しなければならない自然の恵みとも言うべきものがあるのだ」と述べる。例え肉体が衰える時期にいても、人は持てる身体の限りで活動をするわけだし、その体力の中で成せること・面白いと思えることはたくさんある。だから過ぎ去った力を悔やむ必要はない、ということだ。(ただし、老化による病気だけは深刻な問題なので、日々生活に気を付けて健康であるべし、とも述べている)

    ③については、むしろ喜ばしいことだと言う。快楽は徳とは無縁なものであり、多くの場合害である。ならばそれを事前に「得られないもの」と割り切らせてくれる老年は、むしろ私たちにとってプラスだ。「仮にもわれわれが理性や叡知で快楽を拒絶できないとして、すべきでないことを喜びとしないようにしてくれる老年には感謝しなければならないのだ。なぜなら、快楽は思索を妨げ、理性に敵対し、いわば心の目を閉ざすものであり、徳との交わりをいっさいもたないものだからである」

    ④についてはシンプルで、「死を恐れることなどない」と言う。「死は、もしそれが魂をすっかり消滅させてしまうものなら明らかに無視すべきものであるか、それとも魂を、それが永遠のものとなる、どこかに連れていってくれるものなら望むべきものであるか、いずれかだ」。人はいずれ死ぬし、何なら青年期→中年期→老年期という移り変わりの間にも、その年代が死を迎えている。ならば老年の営みもまた終焉するのだから、そこに至るまでに生の満足感を得られていれば、死もまた満足なものになる、というわけだ。

    以上のように論じるわけだが、4つ全てに通底しているのは「善く生きさえすれば」という前提である。老人は偏屈で気難しいが、それらは性格の欠陥であって、老年の欠陥ではない。つまり人間性が伴っていない老人は、相変わらず老年を心苦しく生きるしかない。また、老年を実り豊かにするための心の余裕、経済の余裕を手に入れるためには、若いころから仕事や勉学に励み、徳と正しい行為を積んでいかなければならない。
    そう考えると、現代における「老年の悩み」を解消するのはまだまだ難しそうだ。金、徳、いくばくかの労働、友人。退職後も充実した人生を送るために必要なものはあまりに多く、それを得るための時間はあまりに短い。そして老年時代そのものも30年近く続いていく。

    一生懸命生きないとなぁ、とあらためて痛感させられる一冊だった。

    ――とはいえ、忘れてもらっては困るよ、これまで語ったすべての話で私が賛辞を呈している老年は、若い頃の礎の上に築かれた老年だ、ということをね。このことからは、また、こういう見解も導き出される――言葉で繕い、弁解しなければならない老年は哀れな老年と。威信というものは、白髪になり、皺ができたからといって、いきなりつかみとれるものではない。それまで立派に送った生涯が最後の果実として受け取るもの、それが威信というものなのだ。挨拶されること、探し求められること、道を譲られること、立ち上がって迎えられること、行くにも帰るにも誰かに先導されること、相談されること、こうしたことは大したことではなく、ありきたりのことだと思われようが、まさにこれこそが名誉の証なのである。

    ――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 老年について
    類は友を呼ぶ。老いることへの愚痴の元凶は、年齢ではなく、性格にあるのだよ。実際、自制心があり、気難しくなく、人間性に富む老人は耐えやすい老年を送り、逆に、横柄さや人間性の欠如は、どの年齢であろうと疎んじられる。老年に対処する最適の武器は諸々の徳の理の習得とその実践である、ということだ。

    老年が惨めなものと映る理由として思い当たるのは4つである。①諸々の活動から身を引かせ、帰臥を余儀なくさせること、②肉体を衰えさせること、③およそすべての快楽を奪い去ること、④死が間近であることだ。

    ①諸々の活動から身を引かせ、帰臥を余儀なくさせること
    老人が活動に携わっていないと難ずる人の主張にはなんの根拠もない。大業は、肉体の力や速さ、敏捷さによってではなく、賢慮や権威、智略によって成し遂げられるものなのであり、老年は通例、それらを奪われるどころか、増しさえするものなのだ。記憶力は衰えるが、それは鍛錬を怠れば、あるいは生来魯鈍であればの話だ。

    しかし、老人は偏屈で、心配性で、怒りっぽく、気難しい。さらにあら探しをすれば、欲深くもある。だが、それらは性格の欠陥であって、老年の欠陥ではない。しかも、容認できるように思われる多少の弁解の余地がある。老人は、自分たちが軽んじられ、見下され、馬鹿にされていると思っているのである。さらには身体が虚弱であるために、打撃を受けるものは何であれ厭わしいものなのだ。もっとも、こうした難点はどれも、よい習慣を身につけることによっても、学芸を教育されることによっても改善される。

    ②肉体を衰えさせること
    私は今でも若者の体力が――老年の難点に関わる、これがもう一つの論点だからだが――欲しいと思うことはない。それは若い頃に牡牛や象のような力が欲しいと思ったことがないのと同じである。今あるものを用い、何をするにしても自分のもてる力相応のことをするのが、ふさわしい行動というものだ。
    実際、若者の情熱に囲まれた老年ほど喜ばしいものが他に何かあるだろうか。それとも、若者を教育、指導し、彼らが務めとしての役割を果たせるように指南する力さえ、老年には認めてやらないとでもいうのかね。実際、これ以上誉れある仕事に何がありえよう。

    人生の走路は定まっており、自然の道は一本道で、折り返しがない。生涯のそれぞれの時期に、その時期にかなったものが与えられている。例えば、少年期のひ弱さもそうだし、青年期の峻烈さも、すでに安定している中年期の重厚さも、老年期の円熟もそうだが、それぞれに、その時期に収穫しなければならない自然の恵みとも言うべきものがあるのだ。

    ただ、病弱を招く老化には抗わねばならず、絶えず注意して、その欠陥を補わねばならない。老化とは、いわば病気と戦うようにして戦わねばならない。健康に配慮し、適度な運動をし、身体を潰してしまうほどの量ではなく、体力を回復するのに足るだけの量の食事や飲み物をとるようにしなければならない。しかし、支えてやらなければならないのは、肉体だけではない。心や精神は、それにもまして、はるかに多くの支えを与えてやらねばならないのだ。なぜなら、心や精神は、いわばランプのように油を継ぎ足してやらなければ、老化とともに消滅してしまうものだからね。肉体は鍛えればその疲労で重くなるが、精神は鍛えることで軽やかになる。

    ③およそすべての快楽を奪い去ること
    快楽の欠如は、何と素晴らしい春秋の賜物であろう、老年が青年の不徳の最たるものをわれわれから取り去ってくれるというのならね。
    アルキュタスは、「自然が与えたもので、肉体の快楽ほど人間にとって致命的な害悪はない。これを得ようと、やみくもに、また、とめどなく、貪欲な欲望が煽られる。祖国への反逆はここから生まれ、ここから国家の転覆が、ここから敵との密談が生まれるのだ。」と言っている。
    仮にもわれわれが理性や叡知で快楽を拒絶できないとして、すべきでないことを喜びとしないようにしてくれる老年には感謝しなければならないのだ。なぜなら、快楽は思索を妨げ、理性に敵対し、いわば心の目を閉ざすものであり、徳との交わりをいっさいもたないものだからである。

    しかし、老人には、快楽の、それほど大きな、いわば快感がない。確かにそうなのかもしれない。だが、また快感を得たいという欲念もないのだ。欲しいと思わないものは、ないからといって悩みの種になることはない。
    性欲や野心、争いや確執、またあらゆる欲望の、いわば苦役を果たし終えて、旧神がみずからに立ち返り、よく言われる言葉を借りれば、みずからとともに生きるのは、どれほど大きな価値のあることであろう。まことに、仕事や学問のいささかの糧とも言うべきものがあれば、閑暇のある老年ほど心地よいものはないのだよ。

    ●農事の快楽
    農事というものは、私が信じがたいほどの喜びを覚えているものなのだ。大地から生み出されるすべてのものの持つ力や、葡萄の芽生えや栽培、成長、撞木挿しや接ぎ木といった技術、大地の自然的な性質を目の当たりにすれば、誰にも喜びを覚えると同時に驚嘆させられるのではないか。

    ④死が間近であること
    死は、もしそれが魂をすっかり消滅させてしまうものなら明らかに無視すべきものであるか、それとも魂を、それが永遠のものとなる、どこかに連れていってくれるものなら望むべきものであるか、いずれかだ。
    私には何であれ、何か終の時とも言うべきものをともなっているものが長いものとは、とうてい思えない。なぜなら、終の時がやって来た時には、過ぎ去ったものは、すでに流れ去り、消え去ってしまっているからである。徳と正しい行為によって達成したものだけが残るのだ。まことに、時も日も月も年も去りゆくもの。過ぎ去ったものは決して戻らず、未来のことは知るべくもない。各人に与えられている生の時間に満足しなければならないのである。
    短い人生のときも、善く生き、立派に生きるには十分に長いのだから。しかし、また、他人より長く齢を重ねたからといって、嘆き悲しむ必要はない。それは、ちょうど農夫が春の季節の快適さが去って、夏や秋になったからといって嘆き悲しまないのと同じである。いかにも、春はいわば青年期の象徴であり、やがて訪れる稔りを表す。一方、残りの季節は稔りを収穫し、収納するのにふさわしい季節なのである。

    間違いなく言えるのは、熱意をもって取り組むすべての営みの満足感が生の満足感を生む、ということだ。少年期には少年期特有の一定の営みがある。だからといって、青年がそれに憧れるだろうか。青年期の初期には青年期の初期だけに見られる一定の営みがある。しかし、中年期と呼ばれる安定した年代が、それを再び得ようとするだろうか。中年期にも中年期特有の一定の営みがある。それすら老年期になって求められることはない。老年期にも、ある種の最後の営みがある。それゆえ、以前の、それぞれの年代の営みが終わりを迎えるように、老年の営みもまた終焉を迎える。この終焉が訪れたとき、生の満足感が機の熟した最期の時を運んでくるのだ。


    2 友情について
    ラエリウスは、無二の親友のアフリカヌスの死を前にしても、節度をもって耐えており、動揺せずにいるように見えた。

    ラエリウス:将来、二度と現れることはないであろうし、過去にも誰もいなかったあれほどの親友を奪われて、私は動揺を覚えずにはいられないのだ。しかし、私には、その喪失感を癒してくれる治療薬がないわけではない。スキピオーには何の不幸も生じなかった、私はそう思っているのだよ。何かが生じたとすれば、それは私に生じたのだ。しかるに、自分に生じた不都合で苦しむのは、友を愛する者のすることではなく、己を愛する者のすることだ。
    あの人の生涯は、幸運であれ、栄光であれ、これ以上何一つ付け加えることができないような見事なものだったのだ。あの人との友情の思い出は私には楽しいもので、そのおかげで私の人生はつくづく幸せだったと思える。

    第一に感ずるところを言えば、友情は善き人々のあいだで以外ありえない、ということだ。善き人々とは、その信義、実直さ、公正さ、篤志が世に認められ、物欲や情欲や横暴さがなく、揺るぎない強固な恒心があるとされるような身の処し方をし、生き方をする人たちだ。

    われわれ人間は、あらゆる人のあいだに、それぞれの関係性が近しいものであればあるほど、それだけ強い、ある種の共同体的結びつきが存在するように生まれついているのだ。親近性からは善意を取り去ることができるが、友情からはそれができない。実際、善意を取り去れば友情の名は奪われるが、親近性は善意を取り去っても依然として残る。友情とは、すべての神的・人間的事柄に関わる、善意と愛情をともなった一体性以外の何ものでもない。人間にとって、不死なる神々から与えられたもので、叡知を除けば、これ以上に価値あるものはおそらくないのではないか。

    友情というものはある種の愛の感情をともないつつ、相手に心を通わせ、寄り添うことから生まれた、と私には思われる。徳ほど愛されるものはなく、徳ほど愛へと誘うものはない。恵み深く、寛仁大度であろうとするわれわれの行為が相手からの報恩を期待してのことではないように――なぜなら、われわれが他人に恩恵を与えるのは、利得を得ようとしてのことではなく、自然の本性からして、われわれが寛仁大度に向かう性向を有するからなのだ――、それと同じで、われわれが友情を求むべきものと考えるのは、
    利得の期待に惹かれた結果ではなく、友情の果実がすべて愛そのものの中に内在するからなのである。

    では、友情においては、愛情はどの程度まで深く踏み込まなければならないのか。例えば不正に加担するよう求められ応じた場合でも、友情は存続するのか。
    これは、罪を犯したのは友人のためだった、と言ったところで、何の弁開にもなりはしない。実際、友情を仲立ちしたものは徳に対する評価だったのだから、徳から逸脱してしまえば、友情が存続するのは無理だ。

    そういうわけだから、友情においては、このような法規が定められねばならないのだ、すなわち、恥ずべきことは求めてはならず、求められてもしてはならない、と。というのも、誰であれ、国家に反逆する行動をとったのは友人のためだった、などと告白しても、他の罪でもそうだが、恥ずべき言い訳であり、決して容認されてはならない弁解だからである。

    したがって、友情の第一の法規は、こう定めねばならない、すなわち、われわれが友人に求めるものは立派なものでなければならない、また、友人のためには立派なことをしなければならない、また、求められるまで手をこまねいているようなことをしてはならず、常に熱意をもち、逡巡は忌避しなければならない、また、忌憚なく自由に真実の忠告を与え、善きことを勧めてくれる友人の権威には、友情においては、最大の力をもたせなければならず、その権威は率直な、かつまた事情が求めるなら厳しい忠告を与えることに行使されなければならない、また、その権威が行使されれば従わなければならない、と。

    このような限定が用いられねばならないと思うのだ、すなわち、友人の倫理観や性格に非の打ちどころがない場合、友人同士のあいだには、あらゆる事柄での考え方や意志の例外のない共有がなければならず、たとえ何らかの事情で正義に悖る友人の意志を援助しなければならない機会が訪れたとしても、その生命や名声がかかっている重大事であれば、この上なく恥ずべき不名誉がみずからにともなわないかぎり、正道から逸脱することが求められる、と。

    エンニウスはこう言っている。
    確かな友は不確かな境遇の中で確かめられる。
    とはいえ、やはり、たいていの人に軽々しさや節操のなさの烙印を捺すのは、この2つの場合なのだ、つまり、〔自分が〕順境にある時に友人を蔑ろにするか、あるいは〔友人が〕逆境にある時に友人を見捨てるか、である。だから、友情関係の中で、順境と逆境、いずれの境遇でも、重厚で、恒心をもち、恒常的な態度を保ち続ける人こそ、きわめて稀であり、ほとんど神的とも言える類に属する人だと判断しなければならないのである。

    友情で肝心要なのは、より優れた者がより劣った者と対等になることである。というのも、友人のあいだには、われわれの、いわば群の一人スキピオーのそれのような、何らかの優越性が存在するものだからである。その彼は自分がピルスやルピリウスやムンミウスより上の存在であるかのようにふるまったことなど一度もなかったし、自分より地位の低い友人たちに対しても同様であった。

    同じように、より劣った者も、自分が近しい人たちに才知や地位や威信でひけをとっているのを嘆くようなことをしてはならない。そうした人たちの多くは、常に何か不満を口にしたり、非難さえ口にしたりする。自分が義務に忠実に、愛をもって、さらに、いささか労苦をともなってなしたと言える何かの行為があると思っていれば、その不満や非難はなおさら募る。友情の務めを持ち出して難じるとは、誠に厭うべき類の人たちだ。友情の務めなどというものは、それを果たしてもらった者は覚えているべきものだが、それを果たした者が喋々すべきものではないのだからね。
    そういうわけで、友情においては、より優れた者は謙譲を旨としなければならず、より劣った者を何とか引き立ててやるようにしなければならない。

    第一には友人との亀裂が生じないよう努めねばならないのだが、何かそのようなものが生じた場合には、友情を潰したと見られてはならず、友情が徐々に消滅したという印象を与えるようにしなければならない。また、友情が口論や誹謗、侮辱を生む激しい敵意にまで変わらないよう注意が必要だ。そのような危機に瀕した友情でも、我慢できるものなら我慢しなければならず、古くからの友情は尊重されねばならない。ただし、不当な行為を行った者に答があり、それを受けた者に咎はない、という大前提のもとでね。

    真の友人とは、いわばもう一人の自分である。
    空を飛ぶ動物でも、水中に棲息する動物でも、野を駆けまわる動物でも、また飼い馴らされた動物でも、野生の動物でも、次の事実、すなわち、まず、皆、自己を愛すという事実―――なぜなら、それはすべての動物に共通する生得的な感情だからである――、次に、寄り添うことのできる同類の動物を探し求める、という事実――ある種、人間の愛に類似した思慕の心をもってそうするのだ――、この2つの事実が明白だとすれば、まして人間なら、自然の本性からして、それと同じ現象が起きる蓋然性は、いかばかり大であろう。みずからを愛し、かつ他者を求め、その他者の魂をみずからの魂と和合させて、二者から一心同体同然の存在を生み出すもの、それこそが人間というものなのだ。
    だがたいていの人は心得違いをして、自分自身がその部類の人間にはなれないような友人をもちたいと願い、自分自身が友人に与えられないものを友人から得たいと願う。しかし、まずみずからが善き人間となり、次に自分に似た人を探す、それが正しい行動というものだ。

    友情は、自然によって、悪徳の伴侶としてではなく、徳を介助するものとして創造されたのだ。徳が孤立したままでは最高の高みにまで到達することができないために、他のものと結合し、連帯して、そこに到達できるように、という意図からである。その友情が誰かのあいだに現在あるのなら、あるいは過去あったのなら、あるいは将来あるのなら、その人たちは自然の与える至高の善へと至る最良にして最も幸福な連れ合いとみなされねばならない。
    これこそ、いいかね、人々が求むべきものと思っているすべてのもの、名誉や栄光、魂の平静や愉悦をその内に含む至高の交わりなのだ。したがって、それがあれば生は幸福なものとなり、それがなければ幸福なものとはなりえないものなのである。この幸福な生こそが至善、至高の理想なのだから、まずは徳を修めることに努力しなければならない。徳なくしては、友情も、その他の求むべきいかなるものも、われわれは手に入れることができないのだ。

  • p18「善く生きたという自負心と数多くの善行の思い出は無上の喜びとなるものだ」
    p27「無謀は華やぐ青年の、知慮は春秋を重ねる老年の特性」
    p36「力を適切に用い、各人がもてるかぎりの力で努力しさえすればいいのだ」「君たちの、その善きものを、それがある間は使えば良いし、ない時は求めてはいけない」「人生の走路は定まっており、自然の道は一本道で折返しがない。生涯のそれぞれの時期に、その時期にかなったものが与えられている」「それぞれに、その時期に収穫しなければならない自然の恵みとも言うべきものがあるのだ」
    p40「常に孜々として携わって生きる者には、老年がいつ来たか分からない。そのような人生は、それほど緩慢に、それと感じることなく老いを重ねていのであって、突然、老年に打ち砕かれるのではなく、長い歳月を経た後に寂滅するのだ」
    p59「老人は偏屈で、心配性で、怒りっぽく、気難しい。さらにあら探しをすれば欲深くもある。だが、それらは性格の欠陥であって、老年の欠陥ではない」
    p60「老人の欲深さに至っては、私には理解不能だ。旅路がますます残り少なくなっていくというのに、なおさら路費を得ようとすることほど、理不尽なふるまいがあろうか」
    p61「老人の置かれている状況のほうが青年のそれよりはましなのだ。青年は長生きしたいと願うが、老人はすでに長生きしている」
    p66「熱意をもって取り組むすべての営みの満足感が、生の満足感を生む。青年期には青年期だけに見られる一定の営みがある。しかし中年期と呼ばれる安定した年代が、それを再び得ようとするだろうか。老年期にも、ある種の最後の営みがある。それゆえ、以前の、それぞれの年代の営みが終わりを迎えるように、老年の営みもまた終焉を迎える。この終焉が訪れたとき、生の満足感が機の熟した最期の時を運んでくるのだ」
    p72「生きたことを後悔することもない。なぜなら私は無駄に生まれてきたと思うことがないような生き方をしてきたし、それに、この世の生を去るにあたっては、いわば、我が家から去るのではなく、宿から去るという心づもりでいるからだ。というのも、自然がわれわれに与えた住まいは、住み続けるための家ではなく、仮寓するための宿にすぎないのだからね」
    p73「たとえ我々が不死の存在とはならないにしても、人間にとって各々に与えられた時にこの世を去るのは望むべきことなのだ。なぜなら、自然は他のすべてのものと同様、生にも限度というものを定めているからだ。生涯の終幕は、うんざりするのは避けなければならない。とりわけ満足感が伴っている場合にはね」


    ソポクレスの嫌老の詩
    「この世に生を享けないのが、
    すべてにまして、いちばんよいこと、
    生まれたからには、来たところ、
    そこへ速やかに赴くのが、次にいちばんよいことだ。
    青春が軽薄な愚行とともに過ぎ去れば、
    どんな苦の鞭をまぬがれえようぞ。
    どんな苦悩が襲わないでいようぞ。
    嫉妬、内紛、争い、合戦、
    殺人。かの憎むべき、力なき、無慈悲な、
    友なき老年がついに彼を
    自分のものとし、禍いの中のあるとしある
    禍いが彼に宿る。」高津春繁訳

    老いが惨めな理由→対する反論
    ①仕事や活動から身を引くのを余儀なくされるから
    →鍛錬と節制を怠らなければ精神は維持できる。老人の賢慮でしかなし得ない、国家、若者の育成という名誉な仕事がある。世代交代のために、農業をしたり木を植えたりする。若い人よりも分別、熟考があるのでむしろ偉大な事業を行える。
    ②肉体が衰えるから
    →体力は求めるものではなく馴染むもの。
    ③快楽が減るから
    →過度な快楽はむしろ毒。思索、理性、観相の時間が増える。老年の適度な快楽=「私は日々、多くのことを新たに学び知りながら老いていく」。よく手入れされた農園以上に、有用性において豊穣、景観において美麗なものはありえない。
    ④死が間近だから
    →そもそも死は若い人にも訪れる。けれど老人のほうが先が短いのは確実。長い生を求めてはいけない。人間の中に長く存在するものはむしろ不自然。過去は全て消え去り、豊かな善行だけが記憶に残る。その善行を積んだ者が迎える死は、火が自ずと消えるごとく、りんごが自然に落ちるごとく、成熟した実にうれしいもの。

  • 哲学者・政治家・詩人であったキケローの対話篇。「老年について」では老いることは徳のある人間にとっては悪いことではない、という話をし、「友情について」では徳に基づいた真の友情の素晴らしさ、友情の成り立ち、友情と政治の現実などを語る。
    前者では老いに関連して死についてもけっこう触れていて、プラトンを思わせる霊魂不滅論、肉体からの霊魂の解放論を展開し、もしくは死すれば魂は消滅し何の感覚もなくなるのであればそれでも恐れることはなにもない、という二段構えの死への備えを論じていて面白い。
    後者の友情は自分への愛から生まれたとか、友情は善き人々だけのものであるという話はあまりピンとこなかった。解説を読んで、当時の政情などを考慮するとなるほどと思うところはあった。
    「老年について」では老いてからの農作の面白さが語られていて意外だったのだが(どれほど高齢であろうと支障のない営みって書いてあるが、農作業辛くないのだろうか?)、確かに現代でも定年退職したおじいちゃんたちってこぞって家庭菜園やってる印象がある。キケローは人が生まれ、成長し死んでいくことを自然の摂理であると強調しているが、やはりそのように生命の循環、自然の摂理との一体感を感じられるのがいいのだろうか。私も年を取ったらやりたくなるだろうか。

  • 好きな本Top10のひとつ。
    キケロが細平たい木の板で脛を思いっきり叩きにきます。痛いってば。嫌じゃないけど。

    訳の分からない本や新聞、ネットニュースを読む時間と手間はこの本を繰り返し読む事にこそ費やすべき。そんな本のひとつ。

    【日常生活で使えるサーカズム】
    もし誰かが「若い時はこんなんじゃなかった。今では(筋肉が衰えて)死んだも同然だ」と嘆いたなら、「可哀想なクロトナのミローだね」と言う。(心の声 愚か者め。死んだも同然はお前の筋肉などではなくお前自身だ。お前が有名なのはお前のおかげでなく、若い頃の筋肉と体力のおかげだ。)美貌や知力でも使えそう。

    屁理屈、生まれつきの性格によるなど、反論はいくらでも出来そうなものの彼の主張は聞いといた方が得。

    老人にとっての不幸は4つあるとし(仕事が出来なくなる、体が弱くなる、快楽が失われる、死に近づく)それぞれを「老人は頭を使う仕事がある」「老人に若者の体力は要らない」「老いは快楽の欲望から解放してくれる」「死を恐れるな」と唱える。

    特に4つめは「最大の悩みですよね」としているが、「若いからって夕方生きてると思い込むなんて無邪気すぎ。若い方が事故とか病気とかある。」「老人は望みがない?若者が望むものを既に手に入れたのだ。長生きを。」「魂がなくなるなら怖くないしなくならないならベターじゃん」「終わりがあることに長さを求めるなんてナンセンス」「過去は戻らず未来は分からない、だから与えられた寿命に満足するしかない」「青年期と違って終わりがない」

    死を軽視しろ、忘れろ、ある程度の金は持て、賢くいろ、出来もしないことを嘆くな
    そしたら大丈夫。

    そのまんまは無理だとしても、読む前と読んだ後ではマインドセットがほんの少し変わるかも。
    最後の「魂が不滅だって信じてるし。これでいい。違ってもいいけど僕が生きてる間はそう信じさせてくれよ。」もいい。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/741965

  • 131-C
    文庫

  • セネカと同じく、一部の屍(老人)に鞭を打つようなフレーズにビビる本です

    キケローが友人に向けた、書簡
    「年取ることって悪くない」
    「友達っていいものだね」 という2つのテーマで語る空想対話本です。

    ギリシャ哲学と聞くとハードルが万里の長城クラスのようですが、対話篇になるとその高さはだいぶ下がります。
    ただ話の流れを掴むのであれば(注釈まで読み込まないのであれば)ソクラテスの弁明や、生の短さについて、のように楽しみながら読むことができるでしょう。

    40代で読んで良かった。そう言い切れる一冊です。
    特にすきなフレーズはここ

    「老化による愚痴?物忘れ、不健康?それのほとんどはその人の不摂生と、個人の習慣、生活の問題だ。老化のせいにしないでね」

    最近の若者、と十把一絡げで若年者をまとめられないように、老人も良い人、悪い人がいる。当たり前の事実が染み渡ります。

  • 訳もナチュラルな日本語で読みやすい。巻末の訳者解説も丁寧でわかりやすい。むしろ訳者解説を先に読んでから、本編を読むとさらに理解が増す。

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著者プロフィール

前106-43年。共和政ローマ末期の政治家・弁論家・哲学者。代表作は、本書所収の二篇のほか、『国家について』、『弁論家について』、『トゥスクルム荘対談集』など。

「2019年 『老年について 友情について』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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