技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)

制作 : 森 一郎 
  • 講談社
3.59
  • (4)
  • (6)
  • (11)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 194
感想 : 10
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065150108

作品紹介・あらすじ

本書は、20世紀最大の哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976年)が、第二次大戦後の1950年代に行った「技術」をめぐる代表的な三つの講演を新訳で収録するものである。
 1950年6月にミュンヘンで行われた「物(Das Ding)」と1951年8月にダルムシュタットで行われた「建てること、住むこと、考えること(Bauen Wohnen Denken)」は、一対をなす講演になっている。ここでは人間によって作られ、いたわられる物のあり方が取り上げられるが、「物」では瓶(かめ)という身近な道具に即して、「建てること、住むこと、考えること」では橋や家屋といった建物に即して論じられているのが印象的である。そうした身近で具体的な存在者から出発点して、徐々に話を展開し、最終的には世界に達する、という『存在と時間』(1927年)にもすでに見られる、ハイデガーの面目躍如と言うべきスリリングな展開を存分に味わうことができる。そうして、具体的な物に凝縮して浮かび上がる「世界」が、天・地・神・人から成る「四方界」として描き出される。
 そして、1953年11月にミュンヘンで行われた「技術とは何だろうか(Die Frage nach der Technik)」は、そのような物と世界の応答関係と対照される形で、モノとヒトのいっさいをひとしなみに物的および人的資源として徴用しながら地球規模での膨張を続ける現代技術のシステムが論じられる。そのシステムは「総かり立て体制」と名づけられ、その歴史的運命からの「救い」が遠望されるに至る。
 大小さまざまな技術の産物に囲まれて生きる現代人にとって、これらの講演で扱われる問題は無関係でないどころか、ますますその切実さを増している。第一級の研究者が作品を選定し、情熱をもって作り上げた新訳の講演は、本書の順序で読み進むことで初めて、ハイデガー技術論の全貌があらわにすることだろう。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「技術とは何だろうか」のみ読了。スティグレールやユク・ホイの本を理解したいがために、いつか読まなければと思っていた。難解そうなため先延ばししていたが、読んでみたら思っていたより分かった(気がする)。その良いガイドになってくれたのは、石田英敬先生や養老孟司さんの本や話だった。
    独特な言葉を使ってはいるが、著者が批評しているのは、自然などを「利用したい」「役立たせたい」というヒトの意識や都合が(順序が逆転して)先立っている在り方だと理解した。それが進行すると、コントロールをコントロールするようになり、ヒト自身が他者にとって「利用できる」「役立たないといけない」存在になってしまう。さらに、そうしたあり方が世界を覆った結果、総かり立て体制(ゲシュテル)、つまりヒトが何かに「利用できる」「役立たないといけない」存在として、大きな全体=システムに組み込まれた状態が完成する。1950年代に本に収められた講演でありながら、違和感なく読める。思っていたより分かった気にさせてくれた一番のガイドは、著者の言葉どおりとも見える、今目の前にある現実と言った方が良いかもしれない。
    平凡社ライブラリー版も読んだが、こちらの方が訳は読みやすかった。ただ、「顕現」(平凡社ライブラリー版では「開蔵」)が索引に載っていないようなので留意が必要。

  • 感想を一言。「難しい」
     150pていどであっさりと読めると思ったが、想像していたよりもずっと難しかった。ハイデガーの著作はこれまでいくつか読んできたが、その経験を踏まえずに軽はずみで読んでしまったのは少し後悔している。
     「物」「建てること、住むこと、考えること」「技術とは何だろうか」の3つの講演で構成されており、どれも後期ハイデガーを理解するには欠かせない内容となっている。
     講演のうち最初のふたつは有名な「四方界」という概念について言及されている。「物」講演のはじめにハイデガーは、現代社会でラジオやテレビの発達など、次々と時間的空間的「距離」が「除去」されていることについて語る。そしてこのような事態は、「近さ」が生じているわけではないのかもしれない。ハイデガーは、通信技術はむしろ「近さ」を生じさせるのではなく、「隔たり」を取り去っていることに注目する。では、「近さ」とは何だろうか。ここでハイデガーは、ふだんわれわれの近くにあるはずの「物」について語りはじめる。
     「物」とは何か。それは計測で大きさを測ったり、何がしかの原子によって構成されているものと見ることが可能かもしれない。しかしそれでは、むしろ「物」本来にある本質を見過ごし、「物」を虚無化させてしまうのではないか。
     ここで「四方界」という言葉が持ち出される。ハイデガーは古代の言語を引用しながら、またわれわれがふだん扱う「物」を綿密に分析しながら、この概念は「大地」「天空」「死すべき者たち」「神的な者たち」がお互い組み合わさることによって単一化される。例として持ち出される瓶という「物」は、注げられて捧げられるはたらきをするものとして、考えることができる。注がれるのは水であり、水は「天空」から降り、その雨を貯める「大地」の岩盤から汲み出される。そしてそれを瓶に注ぐのは「死すべき」人間。そして「神的な者たち」に捧げられるというのだ。
     そしてその4つが単一化したとき、世界がその本質を発揮する。「物」は、こうして四方界を宿らせるとハイデガーさ語っていく。我々が「物」の本質をこうして労ってこそ、「近さ」が生じてくるのだと。
     同様の説明は、以降の「建てること、住むこと、考えること」にも登場する。しかし、正直を言えば、まったく理解ができない。こう書いているときでさえ、ハイデガーの伝えたいことと合っているか不安になる程だ。後期ハイデガーは秘教的と言われるが、こう言われるのも仕方がないだろう。しかしその分析の手順、方法には学ぶところが大きいと思える。
     最後は「技術とは何だろうか」という講演だが、ここでは「総かりたて体制」という、またもやハイデガーを理解するのに不可欠な言葉が登場する。
     かいつまんで言えば、現代技術(発電所など)は地上からエネルギーを「挑発」し続けていくことで維持されている。つまり、大地から地層を暴き、地層から石炭を暴き、石炭から熱エネルギーを暴き、火力発電にしていくように。ここでは人間が技術のヘゲモニーを振るうことはない。むしろ人間もまたこの体制に組み込まれ、「人材」として搾取・挑発されていく。ここでは存在の真理は忘却されてしまう。
     ハイデガーはここで芸術を持ち出し、この体制からの救出を考える。現代技術が猛威を振るう時代で、真理を開示させる芸術にハイデガーはひとつの可能性を見出そうとする。
     本書ではこの講演が最も理解しやすいと思える。抽象的ではあるが、四方界よりかは首肯できるはずだ。しかしそれは前2講演がだめだ、と言いたいわけではない。ハイデガーが「物」講演で言ったことをここで引用しよう。

    「原子爆弾の爆発とは、物が虚無化されるという事態がとっくの昔から生起してしまっていることを確証するあらゆる粗暴な証拠のうちの、最も粗暴な証拠でしかありません。」

     理論物理学者のハイゼンベルクと会談したとき、ハイデガーは物理学について完璧に理解していて、同席した専門家を驚かせたという。
     「技術とは何だろうか」で、彼が総かりたて体制について語ったときも、念頭には常に現代技術による真理の忘却があった。最初の2公演では、こうした事態を物の虚無化とし、そこからの救い出しが目され、結果として四方界が扱われている。たしかにこの言葉はひどく神秘的で理解はほとんど追いつかない。しかし彼は、あらゆるものが物理学や技術によって虚無化・挑発された現代で、ふたたび物や世界との関係を問い但し調停させようとしたのだろう。
     「四方界」は、もっと詳しく見れば古代の人間社会を思いださざるを得ない。ハイデガーは別にそうであるべきと言うつもりはないと言明しているが、読者としてはついそう考えてしまう。「建てること、〜」の講演で、ハイデガーは建てることの本質を語るとき、田舎風の家屋を例に出す。長くてここでは引用できないが、そのとき読者が思い浮かべるのは、ハイデガーが育ったと言われる故郷のメスキルヒの村の風景だ。現代技術の理論が吹き荒れ、原爆投下や原発事故による災厄を目の当たりにした日本で、改めて技術と人間の関係を考えるとき、実はハイデガーの見出したこうした風景や、神秘的な言葉の裏に、問題の答えが隠れているのかもしれない。

  • 1.物
    瓶の考察。瓶は、保管し注ぐためのもので、本質は空洞にある。ワインは葡萄を仲立ちとして「大地」の養分と「天空」の太陽を結びつける。瓶に納められたワインは「死すべき者(人間)」の飲み物となり、「神的な者」へ捧げられる。この四者、四方界を取り集め、出来事として本有化(エアアイグネン)したものが「物」である。この集約化を「物化」と呼ぶ。四者の領域の固有化が、物の一つの固有性へと脱固有化することを反照-遊戯(spiegel-spiel)と呼び、そうして構成されたものが世界である。世界が世界するweltenはたらきの本質は、四者の統一=四方化vierungであり、その運動は四者が組み合う競技の輪ringである。それが集められた全体が、柔和さの競技会das geringとなる。物に四方界を宿らせ続ける物化は、世界を近づける。
    『存在と時間』に残された「存在一般の意味への問い」につながる物の考察。死すべき者は現存在といえるし、世界に対する遠ざかりの奪取としての近さ、物は死すべき者に捉えられて初めて現れるなど、直結した記述がある。大きく異なる点は、実存論ではない四方界≒自然的な発想から物、世界が分析されている。科学・形而上学の物に対する虚無を批判し、語源学的・神学的な表現で思索しており、スピリチュアルな印象を与える。
    2.建てること、住むこと、考えること
    建てるbauenの古語ドイツ語住むbuanと、いるbinの語源解釈。bauenはさらに世話する、面倒を見る=気遣い。古語ゴート語wunian留まること、滞在すること以外に満ち足りていること、平和へと導かれ留まること。平和friedeは、囲いをしenfrieden、自由にする・労わるfreienこと。四方界を労わる。
    産み出すことhervorbringenは、こちらへとher前にvorもたらすbringen。四方界からこちらへ、橋という場所としての物を、前にもたらす。ギリシア語の産み出すtiktōは技術technēの語源で、ギリシア的には現れさせることが産み出すことだった。物の存在を暴露すること。建物は、場所としてあり、空間を許容する。
    "住むとは、むしろつねにすでに、物たちのもとでの滞在なのです。"
    世界への気遣いと物の存在について、人間の存在「住むこと」に、物化「建てること」が属している。
    3.技術への問い
    一般的に技術は道具だが、道具手段は原因である。質料(材料)、形相(形)、目的(必要性)、作用(作る)の四つの原因は、相互に連関する。原因とは作用結果ではなく、始動させる、こちらへと前にもたらして産み出すことポイエーシスpoiēsis。技術は自然から物を顕現させる、真理を暴露する。技術には、かつては「こちらへと前にもたらして産み出すこと」her-vor-bringenギリシア語poiēsisポイエーシスの意味があったが、現代では、挑発することherausfordemである。つまり、自然エネルギーを開発、変形、貯蔵、分配、変換させることとして顕現させる。徴用して立てられた物資、徴用物資bestandは対立的対象gegenstandとは異なる。人間もまた人材として徴用されている。人間が技術を稼働させ徴用しているが、研究している段で、顕現させる「隠れもなく真であるもの」へと導かれている。挑発する要求を、ゲシュテルGe-stell総駆り立て体制と呼ぶ。遣わすschickenから、取り集めて遣わすはたらきをゲシックgeschick「運命の巧みな遣わし」と呼ぶ。人間の歴史geschichteは遣わされたもの。明け開かれた真理としての自由は、その遣わしが作る領域である。
    "技術の本質に対してことさら身を開くとき、私たちは、思いがけなくも、自由に解き放つ要求へ呼び入れられていることに気づくのです。"
    ゲシュテルは、人間に対して徴用だけになれば危機として姿を現す。技術が救いになるためには、テクネーの技術以外の意味、真理を暴く、産み出すこと、すなわち芸術の領域にある。
    ゲシュテルは、『存在と時間』における被投された世界の世人の強制力に近く、また、資本主義のシステムのように思える。産み出して真理を暴く創作ポイエーシスのうち限定的に、利用可能なものとしてエネルギーを挑発するゲシュテルの概念がある。

  • 難しい…

  • ハイデガーの『講演と論文』から、三つの講演録が収められている。

    建てること、住むこと、考えること
    技術とは何だろうか

  • 著者の主張に反し技術は唯物論に組込まれつつある

  • ハイデガーの短篇は難解。四方界が云々って、言ってることはわかるけどそれを言うことによって何が言いたいのかはよくわからなかった。

  • フィニッシュは感動的な投げっぱなしジャーマン

  • これはちょっときつい本であった。

  • 2019年3月13日アマゾンから到着。
    薄い文庫本なのに、昔の岩波文庫なみの活字の小ささだった…
    価格を抑えるためだったのぽだろうか。これなら試し読みでまえがきだけ読んだKindle本にしておけばよかったと、かなり後悔。
    やはり本屋さんで現物を確かめたほうが良さそうだ。

全10件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

(Martin Heidegger)
1889年、ドイツ南西部、メスキルヒ生まれ。20世紀最大の哲学者の一人と呼ばれる。フライブルク大学で当初神学を専攻し、のち哲学専攻に転じ、リッカート、フッサールに学ぶ。1919年、フライブルク大学私講師となり、「事実性の解釈学」を講じる。マールブルク大学員外教授、教授を経て、1928年フライブルク大学教授。多くの優秀な弟子を育てる。1927年、普遍的存在論の書『存在と時間』を出版、爆発的反響を呼ぶ。1933年から翌年まで、ヒトラー政権のもとでフライブルク大学長。1976年、フライブルクで死去、メスキルヒに埋葬。他の主要な著書は『哲学への寄与論考』、『ニーチェ』、『道標』、『杣道』、『講演と論文』、『言語への途上』など。全集は100巻をこえる。

「2019年 『ハイデガー=レーヴィット往復書簡』 で使われていた紹介文から引用しています。」

マルティン・ハイデガーの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
劉 慈欣
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×