- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065150306
作品紹介・あらすじ
長崎と天草に残る関連遺産が世界遺産に認定され、文化・観光の両面から注目を浴びている「潜伏キリシタン」の実像を探る。
幕藩体制下の禁教政策により、厳しく弾圧されてきたキリスト教徒=キリシタンは、江戸幕府が倒れ、明治新政府下では信仰の自由が認められ、解放された――。こうした一般的な理解は、歴史の真実といえるだろうか。そもそも、「キリシタン」とは何なのか。従来のような「ひとつの村が、近世初期から明治まで、ひたすら信仰を守り続けた隠れキリシタン」といった平板な理解に再考を促す。
例えば、非キリシタンであったにもかかわらず、領主の苛政への反発から一揆を起こした民衆を「切支丹」として弾圧した事例や、一方で、藩内のキリシタンの存在を隠すために、問題行動を起こさないキリシタン百姓を藩が黙認していた事例、また、キリスト教とはかけ離れた民間信仰でありながら「切支丹」とされた事例などを取り上げる。これらの事例を見ていくと、西欧語の訳語である「宗教」の名で人々の信仰が管理・統制されるようになった近代が、近世よりも解放されているとはいいきれないという。
「キリシタン」をめぐる宗教政策の変化と実態を丹念に探り、近世における宗教観、歴史と宗教のかかわりに新しい視野を提供する。〔原本:2014年、講談社選書メチエ刊〕
感想・レビュー・書評
-
本書を読もうと思ったきっかけは、遠藤周作の『沈黙』を読んだときに、宗教に命をかける人々の気持ちがわからなかったこと。そして、磯田先生の『日本史の内幕』に「日本には宗教戦争はなかった」というような内容があり、天草島原一揆はどうだったのだろう?と疑問に思ったこと。
まずはキリシタンについて学ぼうと本書を手に取った。
「切支丹」というと、一日中祈りを捧げていているイメージがあったのだが、実際は、生業や村民などといった属性のうちのひとつだったということで、読めば読むほどイメージとは全く違うものであることがわかった。
そもそも、「宗教=熱心にただ一つの神を信仰する」といったイメージは明治政府によって作られたものだったと知り、衝撃を受けた。
近代化・文明化を進めるにあたり、文明の象徴であるキリスト教をモデルとして神道を国教化するために、寺院に関わる日常活動や民間信仰などが切り捨てられた結果だということだ。
しかし、神道の国教化は失敗し、神道非宗教論というものが誕生。私たちの多くがイメージする宗教・無宗教という言葉は、イデオロギー性が強いものであったとされている。
終章では、近世の多様・曖昧さが否定され、一律・統制されていくなかで変化する切支丹から、私たち現代人にとっての問題性も提示されており、それこそが前近代の歴史を学ぶ理由のひとつだと締めくくられている。
学術書を評する言葉ではないと思うが、最高にしびれるラストであった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/742021 -
江戸時代を通じて、潜伏キリシタンが存続しえた背景を多面的に検証している。画一的に捉えがちだった潜伏キリシタンのイメージが変わる。
著者プロフィール
大橋幸泰の作品





