生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 (星海社新書)

著者 :
  • 星海社
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感想 : 41
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065151624

作品紹介・あらすじ

ペシミズムとは「生きる知恵」である

「ペシミストたちの王」シオラン。この陰鬱な思想家の思索と執筆は、つねに厭世的なことがらに捧げられてきた。怠惰、死、自殺、憎悪、衰弱、病気、人生のむなしさ、生まれてきたことの苦悩……。ことほどさように、シオランは「暗い」。しかし、あるいはだからこそ、彼の清々しいほどに暗い言葉の数々は、生まれ生きることに苦しみを抱く私たちが人生を楽にし、生き延びるために役に立つ。本書は、気鋭のシオラン研究者が、彼の言葉と時に批判的に伴走しながらその思想をひもといた、待望のモノグラフである。いまこそ読まれるべき、魅惑的な思想家のすべて。

感想・レビュー・書評

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  • シオランの事は名前さえ知らなかったのだが、成る程これはペシミストが考えたなと思えるものだった。
    概ね同意、同時に捻くれているとも思う。

    基本的に人生はむなしいものとしており、本書もそれを前提にしている。著者もわざわざ当然の事を解説する気はあまりなかったようで、その章はさらっと終わっている。
    まあ確かに。
    人生はむなしい。それに問題があるとも思っていないので普通に読んだが、人生に強烈に意味を見出す人が読むと退屈な本かも知れない。

    そんな思想家なので、当然自殺についても触れている。シオラン自身は自殺していないそうだが、それも分かる気がする。

    「死んだほうがよいと思ったときいつでも死ねる力があるからこそ、わたしは生きている。」
    「俺は自殺するつもりだと考えるのは健康にとってよいことだ。この問題以上に疲れを癒してくれるものはない」

    その通りだ。(人に勧めはしないが)自殺したい人間が自殺について考えることは健康にいい。
    でなければ世間で『人間失格』があんなに読まれたりはしない。


    著者はシオランについて、「彼を誰も必要としなくなるときには、人類はなんらかの意味でおしまいになっているのではないか、と思うのだけれども。他方で、彼がベストセラー作家になる世界も、もうおしまいだという気がする。難儀な思想家である。」とあとがきで語っている。
    まあ確かに。
    そうだろうな。

  •  本著の核心部分ではこういうことが述べられている。

    《すべての悪は行為から生ずる以上、悪を避けたいと思うならば、行為の拒否である怠惰を推奨しなければいけない。何もしなければ悪は起きないのだ。そもそもこの世に生まれなければ、私が苦しむこともなく、私がこの世に私の子を生まなければ、私の子が苦しむこともなかったのと同じように。》

     昔、とにかく仕事をしない人A君がいた。あるイベントで、そのイベントのマガジンが発刊されていたのだが、そのA君がそのマガジン発行の責任者をやると言い始めた。A君はイベント内の人物として、まったく仕事をしないリーダーで有名だった。私や、他のスタッフのサポートでなんとかイベントは成立していた。しかしそのマガジンについては、まったくサポートはつかないのだ。A君の自力が試されるのだった。
     そして、一号も発行することなく、マガジンは休刊した。そうそうたるメンバーが歴代編集長になってきたのだが、A君のおかげでぶっつぶれた。そのぶっつぶれ方も、鮮やかなものだった。
     A君は何もしなかった。
     何もしなかったのだ。
     だから、イベント上、なんのトラブルも起きなかった。楽しみだったマガジンなのに~という愚痴も聞かれなかった。塵芥のように消え去った。どうしてこのような鮮やかな撤退が可能だったのか?
     そう、本著が述べるように、「何もしなかったから」だ。だから、イベントに対してアンチである人らも、このつぶれたことを話題に出すことはなかった。話題にできないほどの消え方だからだ。
     しかし、このマガジンは、実はイベント運営にとって少し負担になっていた。誰かやってくれる人はいないか。扱いに困り果てていた部門だった。
     A君はそれに対して、やる気満々で、俺がやると述べ、そして何もせずに終わらせた。ある意味、イベントの運営を救ったとも言えなくもない。
     何もしないこと。しかも、自分ではやる気満々なのに、ついついネトゲと酒で毎日過ごすことで、まったく何もしない。究極の堕落をしてしまうことで、イベントを、もしくは僕たちの負担を救ってくれたのだった。
     この本を読んで、ずっとA君のことを思い浮かべていた。真の堕落とは、もしくは怠惰とは、もしくは生き方とは、反出生とは何かと答えるのならば、「とにかく何もしない」というのではない。むしろ「やる気満々で手を挙げて、一切何もしないで酒飲んでネトゲする」という方が最強だと思える。布団の中でただ寝転がるのではなく、みんなを巻き込んでプロジェクト責任者になってから熟睡する、この気持ちの良い睡眠! しかも何もしないことによって、部門がつぶれ、それによってコストが削減され、組織がうまく動くようになったのである。

     彼はその後、落ち込んだであろうか?
     否、断じて否。
     楽しそうに笑っていた。
     酒を飲んで、落ち目のメジャーリーガーよりも自分は持ってる、と笑っていた。メジャーリーガーであったある日本人がケガなどで日本に帰る羽目になった。その映像を見ながら、A君はにやりと笑って、俺はモッてる。持ってる。そう、呟いたという。
     ああ、シオランも裸足で逃げ出す思想家だよ、A君!

     しかし、A君ほどの強さを持たない人間はどうすればいいのだろうか。怠惰の哲学を実行できるのだろうか。
     そもそも、怠惰人間には、「巻き込まれ」がない。
     怠惰人間は、行為の拒否によって社会からつまはじきにされるが、そのかわりに行為の錯乱から、完全にではないまでも、身を離すことができる。

     要するに、真の自由を求めるものが怠惰人間なのだ。

    《自由とは、他人に自らの流儀で生き、そして自らの流儀で死ぬのを容認することを意味する。ところで情熱的な確信者ほど、この自由を実現することから縁遠い存在もない。確信者はどう生き、どう死ぬのが最上なのか「知っている」。そして他者にそれを押し付けようとする。
     他者の生死を支配し、都合のいい方向に導こうとすることこそ、確信の特徴であり、それはまさに不寛容と呼ぶにふさわしい。他者が自分の真理の外側で生きることを容認しないのだから。》

    《本当に生きるとは、対立の中に身を置いて、錯乱した世界のなかで切り抜けていくことである。それには他者を拒絶することが必要だ。敵を設定することが必要だ。そして敵対感情を存分に利用して、行為することが不可欠だ。
     その反対に、まさに生きることをあきらめ、衰弱することによって、善良となり、他者を傷つけず、他者を拒絶しないことが可能になる。》

     そのためには、つまり怠惰のためには、それはそれは精根尽きるほどの努力が必要になるのだ。

     人生に意味も目的もない、と言うと、人は怒りだすだろう。しかし、目的がないからこそ楽しいのだ。目的があって遊ぶ奴がいるか? それは遊びじゃない。目的をもってマリオカートをする奴がいるか?

     明確な目的や確信を持っていたら、それを達成できるかどうかが苦しみになってしまう。いつも追われている。しかもその目的とはたいてい、イデオロギーであったり、わけのわからん時にわけのわからん奴から吹き込まれた外から強制された目的だ。
     反対に、目的なんか人生になくたっていいのだ。目的をなくせば、どうどうとこう言えるのだ。「好きなことをやっていい」と。
     目的がないから、私たちは何でもできるのだ。

     目的社会、夢を目指す社会。これに対抗するために、シオランの自由論は非常に強力であると思う。

     そして「苦しみ」について、シオランは考えていく。シオランは「苦しみ」を認める。実在するという。思い込みに過ぎないなんてことはない。確かにある。シオランはここで、人生と世界を憎むことを愛してしまう。
     本著の後半のほうで、シオランが年下ドイツ人女性に対して浮気しようと愛の手紙を書いたり、文学賞を喜んで受け取ったり、文学サロンに通ったり、活発なシオランが紹介されており、A君に比べてシオランの中途半端さに苛立ちを覚える。しかし、もしシオランが、本当に怠惰を徹底し、彼がその思想通りに動いていたのならば、一冊の本も残しておらず、寝っ転がって死んでいただろうから、やっかいである。また、筆者大谷崇氏はこう述べる。「彼を誰も必要としなくなるときには、人類は何らかの意味でおしまいになっているのではないか、と思うのだけれども。他方で、彼がベストセラー作家になる世界も、もうおしまいだという気がする。難儀な思想家である」と。

     目的に対して別の目的をぶつける。そうした争いのやり方から転換して、怠惰から目的を避ける、もしくは目的そのものをぶっ潰してしまう。それがシオランの思想の面白さであると紹介されているように思う。

  • 三秋縋さんがツイッターで紹介されていて、すぐに気になって購入。川上未映子さんの夏物語で反出生主義について気になっていたところだったので、どんぴしゃだった。
    エミール・シオランというルーマニア生まれの哲学者の思想がとても平易な言葉で解説・批評されている。
    これまでは気になりつつもほとんど読めてこなかったので、初めてまともに哲学について触れることのできた貴重な一冊になりました。
    まるごとすべて素晴らしかった。どうして生きたくないのに死ねないのだろうとか、私がこれまで思い煩ってきたあれこれの解は、とうの昔にシオランが辿り着いていた思想だったのだ。
    これまでの人生、自分はなぜ厭世的に悲観的にしか生きられないんだろうと、それなりに悩んできたのだけれど、その薄もやが晴れていくような気がした。
    どうしたってペシミストとしか生きられない人間はいるのだ。生まれもってのペシミスト。(作者である大谷崇さんもそうだし、きっと三秋縋さんもそうなのだろうな。たぶん川上未映子さんも。)
    シオランの実際のアフォリズム集である「生誕の災厄」や「告白と呪詛」も読んでみたいな。
    そしてシオランをきっかけに、ベネターやショーペンハウアーにも親しめるようになっていきたい。

    **
    p31 シオランは、つねに思想なりなんなりが「生きられている」かを重視してきた。「生きられている」思想とは、その思想とともに生き、その人の人生が刻印されている思想ということだ。あるいは、思想なりを「生きる」とは、その思想のために傷を負うこと、の思想のために苦しむことだと言えるだろう。言い換えれば、その人の人生に影響を与えることだ。だからシオランは大学教授の洗練された知的遊戯よりは、乞食や売春婦の生きられた発言のほうに価値を認め続けた。

    p89 しかし、そもそも何かをする奴がいるから、何かをしなければならなくなったのだ。つまり根本的に言えば、何もしなければ悪は生まれないのである。そもそもこの世に生まれなければ、私が苦しむこともなく、私がこの世に私の子を生まなければ、私の子が苦しむこともなかったのと同じように。

    p114 自殺の観念は、それを抱く人に自由と解放の感覚を与えるのである。

    p119 "(不眠の)危機のあまり、私はベッドに身を投げてこう言いました。「もうだめだ! もうだめだ!」。すると司祭の妻であった母が私にこう返しました。「もし知っていたならば、堕胎していたのに」。このことは突然私に巨大な喜びをもたらしました。私は自分に言ったものです。なら自分はただの偶然の産物なのだ、これ以上に何が必要だというのか?"

    p121 私は生きているが、たまたま自殺していないにすぎない。そしてたまたま生きているにすぎない。人生はそのときが来るまでの余生だ。そしてそれは自殺の観念のおかげだ。だから人生は自殺の遅延である。

    p162 生きることをあきらめなければ善良さに到達できないとしたら、生きることと善良さと、どちらを選ぶのか。答えははっきりしている。みんな生きることを選んでいるから、この世はこんなにも地獄なのである。そして逆に、このような善良さを選ぼうとするのがペシミストなのだ。人類みんながペシミストであればどんなによかったろう!

    p195 ユートピアとアポカリプスの相違は、前者が端的に希望なのに対し、後者が絶望的希望だということだ。希望ということでは共通しているが、ユートピアが漸進的なものであれ急進的なものであれ、社会改良を目指すのに対して、アポカリプスはもはや改良でなく、破滅を望む。外部から一気に私たちを滅ぼす何かが起こるのを望む。

    p220 彼は人生はむなしい、すべては無意味だという思いを抱いていたのと同時に、人生のむなしさを強調する文章や表現に好んで触れていた。ちょうど私たちがシオランに同じことを期待するように。

    p224 たしかに、彼らの労苦がすべて跡形もなく消えてしまったわけではない。たとえば古代の事業の痕跡は、私たちに彼らが生きて彼らがなしたことを語る。遺跡の出土品は、彼らの生活の営みを、彼らの人生が存在したことを物語る。だがそれすらも、この宇宙が消し飛んでしまえばすべて無に帰るだろう。私たちが住んでいる地球は、何十億年後かには太陽に飲みこまれて消滅してしまうかもしれないらしい。そうすると本当にすべて消えてしまうわけだ。

    p268 自分が苦しんだというだけで、人は他人の苦しみにも口を挟めると思いこむ。成功者でさえも自分の苦しみが軽んじられるのを許せない。誰も彼もが自分の苦しみを軽視するなと叫びたてる。

    p297 むしろ、私たちはこういうことすべてにうんざりしているのではなかったか。ちょうど、世界が憎悪によって活性化することに、「本当に生きるとは他者を拒絶すること」だという事態に、うんざりしたように。だとすると、もし人が生から身を避けようとするならば、死からも身を避けなければならないことになる。いわば、死とは人生に待ち構えている最後の罠だ。私たちは、死からも自由になるほど生から解放されたいのではないだろうか。それこそ死産児ーー死んだまま生まれた子供のように、あるいは、決して生まれなかった子供のように。

    p306 子供を作ることによって、つまり子供の人生が始まることによって、私たちはその子が生まれなければ経験することのなかった苦しみを、つまりは「死ぬ」ということすらも、その子に与えることになる。

    p326 ここで明らかになっているのは、知恵はある意味で私たちと世界との和解を試みるということだ。知恵は私たちの原動力であった嫌悪を、すべての感情ごと消滅させ、私たちと世界との対立をなかったことにする。

    p335 ペシミズムの中途半端さとは、生を嫌っているのに生きざるをえないところだ。全力で人生と世界を罵倒するのに、嫌っているはずのその惨状に魅了され、ずっと生にとどまっている半端者がペシミストだ。

  • 本書の購入は予定していなかったが、タイトルとデザインが興味を引いてつい買ってしまった。疲れていて、この本を購入したというのは、やや安直な選択だったかと思ったが、読んでよかった、出会えてよかったと思える本だった。
    シオランという思想家については寡聞にして知らなかった。フランス語で著述していたというので、これまで名前を聞いたことがないのは意外だった。
    シオランの思想の内容を、若手の研究者である著者が、わかりやすく身の回りの出来事や具体例を交えて解説してくれている。「ペシミストの王」にふさわしく、怠惰や自殺、憎悪や厭世観など、暗い話題が盛りだくさん。怠惰や憎悪などは共感できる部分も多いのではと予想していたが、自殺については、私は自殺を思ったことはないので、理解できるのかが不安だった。だが、自殺を積極的に勧めるような内容というよりは、「自殺の観念」を持つことによるメリットなどについてであり、その考え方自体は興味深かった。キーワードで分類されている各章の内容は相互に関連していて、シオラン自身の引用文はアフォリズム的な面があって実際には読みにくいのではないかと思ったが、うまく著者が筋道を立てて解説してくれているように思う。
    本書では、シオランは思想家としていわば中途半端に終わってしまっている、としているが、もちろん決して貶めている意味でそうしているのではない。シオラン個人の「失敗」している実人生からも学ぶべきところがある。
    しかし、とりわけ私が本書を読んでよかったと思うのは、著者がシオランの思想を紹介するのみならず、自身がいわば、いかに個人として「シオラン的」であるかを書いている点である。著者は、大学時代の友人と言える存在は2人だけだった、と書いている。また、人生のむなしさの章でも、シオランその人よりもむしろ著者自身の強い厭世観も垣間見える。
    個人的な感覚として、自分の著作にこのように書く人は、本当に孤独であり、一方で孤独を望んでいなくもあり、またおそらく何事にも誠実な方なのだと思う。つまり、自分に似ているということだ。

  • 【感想】
    「ネガティブなのになぜか勇気づけられる」

    それがシオランの思想だ。筆者が次のとおり述べている言葉を参考にすると、その理由がグッと理解しやすくなるかもしれない。

    「(シオランが述べていることに対して)野蛮であるとか、非道徳的であると思う人がいるかも知れないが、それは私達が現実にやっていること以外の何物でもない。シオランはそれを、悪趣味とは言えそうだが、抉り出して私達に見せつけているにすぎない。」

    シオランの言葉には不思議な説得力がある。それはデータや経験則で説明するからではなく、我々が暗黙のうちに承知し目を背けている「真理」に、はばかり無く土足で踏み込んでくるからだ。
    成功者の自伝は眉唾であるが、失敗者の自伝には共感できるポイントが多い。「成功するための秘訣」とは違い、失敗者の嘆きには時代性を超えた普遍的な教訓が宿っている。「そもそも何もしなければ、悪は起こらない」「すべては無意味」といった彼の思想は、仏教を始めとした各種宗教が提唱してきたおなじみの教訓である。ペシミズムはそうした当たり前の事実を現代風に解釈する思想であり、そこには古き良き安心感が根を下ろしている、と言うべきかもしれない。

    シオランの思想と同様に、筆者の「ペシミズムとの向き合い方」の自論も、なかなか説得力があって素敵だ。あまり服用しすぎると毒になるため、「生きる知恵」として、己の心にとどめておく程度がよい。入れ込みすぎず、距離を置き、苦しくなったときに薬として少しだけ飲むのが良い。

    現代社会は進歩主義である。生きる以上何かを成し遂げねばならず、一日たりとも歩みを止めてはいけない。現代人は「意味」をとにかく追求するため、その過程で過熱した精神が悲鳴をあげることもあるだろう。そんなときはシオランの著作を読んで、その無意味性に思いをはせてみるのもいいかもしれない。


    【本書のまとめ】
    ペシミズムであるシオランは、あらゆることは無意味だと考え、社会や生を忌み嫌う人間であった。彼は「解脱」と「生まれないこと」に救済を見出していたが、それは当然不可能な行為である。
    しかし、全てが無に帰すと考えれば、もはや怖いものはない。ペシミズムは裏を返せば無限の可能性を秘める思想であり、生きる知恵なのだ。


    【本書の概要】
    1 怠惰について
    シオランの思想のひとつ:労働の拒否と怠惰の礼賛
    シオランは、怠惰は確かに悪徳であるが、「高貴な」悪徳であると言った。ここでの怠惰は労働に対するものだけでなく、活動や行為一般に対するものも指す。

    怠惰とは、何かをすることそのものの拒否である。始まりをもたらす行為の拒否であり、存在の拒否である。
    この「行為の拒否」としての怠惰は、社会的観点から見れば、労働も含めた社会的役割を担うことの拒否となるが、ある意味では殺人よりも世間から忌避される。殺人は他の社会的活動と同じように、生き生きとしたエネルギーのある行動だからだ。
    私達のいる世界は、みんなが全力を出しながら、交互に奴隷になったり暴君になったりしている。

    シオランが怠惰を高貴としたのは、怠惰な人間にはエネルギーや生命力がないため、それらが必要な行為から帰結する悪に手を染めないからだ。健全な善人である。

    ここからシオランは一歩進む。「そもそも何もしなければ、悪は起こらない」。それがゆえに怠惰を美徳としているのだ。


    2 自殺
    自殺するつもりだと考えることは健康にいい。
    私達は、望めばいつでも自殺することができる。いつでも逃げ道が用意されていると考えることで、自分の人生を自分で支配している感覚が生まれる。また、いつでも自殺できると考えることで、残りの人生が一種の余生になる。破綻した人生の延長戦には何をしてもよく、自殺とは「解放の手段」なのだ。
    自殺だけが、選択して生まれてきたわけではない私達に可能な、唯一の返答である。

    シオランは、人生は自殺の遅延であると思っていた。「生きることこそ立派だ」と我々は思うかもしれない。しかし、自殺という観念にすがって生きることは、本当に自殺するまでの「短いが確かな綱」が確実に機能しているといえる。


    3 憎悪と衰弱
    生きるというのは、本当の意味では他者を拒絶することである。
    この世が対立で満ちているのは、私たちの意志が個人個人で異なり、社会のなかで多様だからである。
    不正は、対立相手を凌駕しようという意志から生まれる。何かを成し遂げよう、何かに秀でようとするとき、その意志は他人の意志とぶつからざるを得ない。悪徳や敵対感情が我々に意志とエネルギーを与え、憎しみが自らを活動的にする。

    あらゆる対立の立場から身を引く「中立」の態度は、決定することができない無力なものであり、無関心と同義である。
    対立から身を置いた人間は、衰弱が起こる。ただし衰弱は悪いことではなく、衰弱によって人は人に寛容になれるし、自由も享受することができる。
    生きることの意味は、対立の中に身を置いて、錯乱した世界の中を切り抜けていくことだ。それには他者を拒絶することが必要である。
    反対に、生きることをあきらめ衰弱することによって、人は善良となり、他者を傷つけず、他者を拒絶しないことが可能になる。


    4 文明と衰退
    人間と同様に、民族や文明が成功するにも悪徳が必要である。帝国などの生き生きとした民族(強い民族)は排他的で野蛮だ。
    対して、自由で寛容な国家を実現するのは、各人が異なる意見、異なる文化、異なる生き方を持つことを尊重する国である。このような自由化は衰弱のプロセスである。ちょうど健康な人間が、病気になって初めて、自分が健康だったことを意識するのと同じように、衰弱に陥っている人間のみが、自分が生きていることを強く意識する。
    しかしながら、完全な自由社会は、あらゆる超越的なものを押し付けず個人に委ねてしまうから、神秘も絶対も秩序も除去してしまう。そして、個人性を極めた先にある何かすら、自由社会は遺棄してしまう。

    人が無関心の能力を失うとき――誰もが他人に自分の考えを強制しようとするとき――、自由が危険にさらされる。
    自由社会は成員が堕落していないと維持できない。そして政治体制もある程度腐敗している必要がある。なぜなら、堕落した社会は他人の堕落にも寛容であるが、いっぽう一切堕落を許さない政治体制とは、他人にも堕落を許さない不寛容な政治体制だからだ。


    5 人生のむなしさ
    人生がむなしい理由のひとつは、私達のやることが結局は無に帰すからだ。一切は徒労であり、徒労と知りつつ自分の行為を果たすことすら徒労である。
    しかし面白いことに、一切は徒労であると断言すると、人生の何もかもが気晴らしになる。「それが何になる?」という問いは、この世の真理だ。

    死は有効性と無効性の両方を正当化する。私達は、「いずれ死んでしまう」という事実から、「死ぬ前に何かをやらなければならない」という答えを引き出せるし、逆に、「どうせ死ぬのだから何をやっても意味が無い」という結論も引き出せる。いずれにせよ、死はあなたを助けてくれる。
    人生には目的が無いが、無いからこそ何でもできる。むしろ目的を与えられているから、何かをやらなければならずに苦しんでいるのではないか?


    6 病気と敗北
    人生とは病気と苦しみと挫折の連続である。
    シオランは、苦しみにはただひとつの目的、つまり、目を見開かせ、精神を覚醒させ、認識を深めることがあると言った。
    病気には実在性がある。逆に、健康である限り、人は自分の存在に気付かない。
    病気がこんなにも実在性を帯びているのは、それが苦しみをもたらすからで、わたしが生きており、不幸だと知らせるからである。

    シオランはいつも勝者よりも敗者のほうを好んできた。勝利者は成功により舞い上がり、うぬぼれを得、自分について幻想を膨らませる。失敗はつねに人を待ち構えているというのに。
    そういう人は、いざ失敗に襲われた後も、つねに過去の成功に固執し、より惨めになっていく。これに対して、失敗と挫折は、自分自身についてのはるかに正確な見方を与えてくれる。
    人生においては敗北のほうが重要である。言い換えれば、敗北は嘘くさくない。
    そして、死は敗者にとって多少肯定的側面がある。死は解放だからだ。勝者はその逆である。死は敗者よりも勝者にとって、もっとも脅威である。
    敗北につぐ敗北を耐えてのける唯一の方策は、「敗北」をそのものとして愛することだ。そうなればもはや不意打ちを食らうこともない。生起するあらゆる事態よりも優位に立ち、おのが挫折を支配できる。無敵の被害者だ。


    7 シオランはどういう思想家だったのか?
    筆者の大谷氏は、「シオランは失敗した、挫折した、中途半端な思想家であり、だからこそ素晴らしい」と述べている。

    何故シオランは中途半端なのか?
    それは、彼が思想それ自体に挫折しているからだ。

    彼は生きることにうんざりしていたが、死にたいとは思っていなかった。彼にとって、死は生に内在するものであった。死ぬためには生きている必要があるのだから当たり前だ。
    死の生への内在性を形式してくれるのが病気と鬱である。言い換えれば、人は死と格闘することで、人生を真剣に生きられるのだ。

    しかし、死に近づけば近づく程このうえなく生を意識し、本当の人生を充実させてしまうということは、どうすれば生からも死からも解放されるのか?
    ここで出てくるのが、「解脱」と「生まれないこと」である。

    後者は簡単だ。いわゆる反出生主義であり、あのシオランでさえ子どもを作らないことには成功している。
    やっかいなのは前者だ。解脱とは、人生および現世からの解放である。生きたまま生を放棄することであり、人生の悪すべてを、人生ごと脱却し、人生と現世から解放できる。
    ネガティブなもの全てから離れ、ネガティブなものがポジティブなものに奉仕するという事態をひっくり返し、生そのものを克服する。行為という行為に重要性を置かずに行為する境地、感心か無関心かに関心がないような境地のことを、シオランはそれぞれ「無為」「無関心」と呼んだ。
    これらに完全に接近した者は、もはや自分の感情や感覚のみならず、自我そのものからも解放されている。究極の中立であり衰弱の状態なのだ。

    とは言っても、解脱なんて可能なのか?
    シオランは一部の限られた人間(仏陀など)には可能だが、現代人にはまず不可能だと言う。

    そもそも、解脱においては何もかもが無に帰すと彼は考えていたにも関わらず、苦しみは確かに実在すると認めていた。
    また、人生と世界に対する嫌悪こそペシミストの存在意義であったが、これとも袂を分かつことができなかった。

    シオランが中途半端で、思想そのものに挫折しているという理由は、この「解脱の思想」から読み取れる。彼は解脱を、「現世や人生のあらゆる悪に効くもの」だと考えていたが、自分自身でその有効性を否定していたのだ。

    ペシミストは「人生から救われよう」と試みるが、結局は救済がありえないことだと思い知らされ、人生のなかに再度放りだされる。「生まれない」という選択肢を選ぶことが完全に不可能な以上、もはやペシミストにやるべきことはない。
    ただし、逆説的だが、あらゆる行為の等価性と無意味性が、ペシミストにあらゆる行為を可能にさせる。「それが何になる?」には何でもできる可能性を秘めている。
    シオランの言葉を使えば、ペシミズムとは「生きる知恵」なのだ。

  • ものすごく時間をかけて読んでいる最中です。
    私はこの本で人生観ががらりと変わるだろうと感じました。
    まだ途中ですが、すさまじい本だと思いました。

  • シオランの生涯から、思想・ちょっとしたエピソードまで、この1冊で大体を把握出来る内容となっているため、入門書として良い本。自分はペシミストではないため共感はできなかったが、人生解釈の1つの意見として面白かった。
    自由社会の考え方、人生を余生とする考え方は特に興味深かった。

  • ペシミストとしてよりも、知性はあるけど、ものすごくものぐさでひねくれものとして考えると、シオランの言葉はとても人間的である。
    「解脱」という言葉がでてきてうすうす感じてはいたが、最後は仏教的になる(明確に区別はしていたが)。
    内容的には悪くはないが、タイトルで売る典型の本です。

  • 生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想。大谷崇先生の著書。悲観主義で生きるよりは楽観主義で生きる方がきっと楽。でも本当の意味での楽観主義を知り、楽観主義を極めるためには、悲観主義を知り、悲観主義を極めることが必要だと思う。最強のペシミスト・シオランの思想を学ぶことは楽観主義者への道なのかも。

  • ペシミストは悪い生き方ではない。むしろ真っ当な生き方、思想だとも思える。

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著者プロフィール

1987年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部総合人文学科哲学専修卒業。同大院文学研究科人文科学専攻哲学コース博士後期課程在籍中。2018年よりルーマニア国立バベシュ・ボヤイ大学に留学中。戦間期ルーマニア思想史およびシオランの思想を専門とする。おもな著作に、共著『交域する哲学』(月曜社、2018年)、論文「精神の敵対者としての政治:戦間期ルーマニア若手知識人の「政治」および「精神」概念の分析」(『東欧史研究』第41号、2019年3月)などがある。

「2019年 『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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