仏教入門 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 79
レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065164716

作品紹介・あらすじ

普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。


普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。
ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
私はこれまで、仏教の思想や実践について、何冊かの本で自らの解釈を述べてきてはいるが、それを全体的にまとめて読める書物は出していない。そこで、ここらあたりで、自分の仏教に対する考え方を見渡せるものを作っておきたいと思った、というのが本書上梓の正直な理由である。
しかし、これは要するに自己都合である。そこで、あえて読者の益になりそうなことを述べさせてもらえば、仏教を「平たく」解説する本などは、ずっとふさわしい書き手が大勢いるはずで、私に書かせても役にも立たないし、読んで面白くもないだろう。
さらに言うと、およそ「平たい」記述など、私に言わせれば幻想にすぎない。すべては所詮書き手の見解である。
ならば、本書ではその「見解」の部分を極端に拡大して、読者の興味をいくばくか刺激し、仏教をより多角的に考える材料を世に提供できたなら、そのほうが私の仕事としてふさわしいのではないか。こう愚考した次第である。
(「はじめに」より)

感想・レビュー・書評

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  • 西洋哲学の存在論や現象学的な問いと重なる部分があるのが面白い

  • 『仏教入門』南直哉(みなみ じきさい) 講談社現代新書・2019.7 記録:2020.1.1
    https://www.amazon.co.jp/仏教入門-講談社現代新書-南-直哉/dp/4065164710/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%A5%E9%96%80&qid=1577862303&sr=8-3

    南直哉:禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)福井県霊泉寺住職

    入口はどこか p7
    宗教とは何か。まず浮かぶのは救済されること。宗教はそういう絶大な救済力を持つ存在を提供する。
    一般に現世利益と呼ばれる。これに代わる能力は化学技術の進歩で出番が減るが、解決されない余白がある限り欲望と需要は尽きない。
    現世利益とは別の需要として、自分と世界が何故存在するかという問いに答えることである。
    人間には自己と世界の存在根拠や存在理由を知ることへの圧倒的な欲望がある。
    宗教には現世利益のほかに存在理由を明らかにする役回りが求められるのだ。

    南が仏教を選んだのはゴータマ・ブッタへの共感からだ。彼の「自分が存在することの不安」に対してだ。

    仏陀の言葉。初期仏典。「比丘たちよ。老いを超越してないのに老いた他人を見て恥ずべきことと思うことはよくない。このように深く思慮しているとき若者の若さの驕りは捨断された」
    『原始仏典Ⅱ』
    なぜ若さ・健康・生存を驕れるのか。この問いから仏教は始まったと南は考える。

    ゴータマ・ブッダ
    ブッダは覚者や悟った人という一般名詞だ。ゴータマ・ブッダ以外にもブッダはいたのだ。
    となるとゴータマ・ブッダ(出家前のゴータマ・シッダッタ)は複数のブッダの言説を集めて創作された人物と指摘する者が出てもおかしくない。
    さらに大乗仏教の時代になると
    理念化したゴータマ・ブッダである釈迦如来(法華経)
    宇宙の根源的な存在として説かれる毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)(華厳経)
    極楽浄土の主宰者・阿弥陀如来(無量寿経むりょうじゅきょう)
    などが現れる。

    これらブッダたちを勘案の上、南が本書でブッダとして考えるのは初期経典で教えを説くブッダだ。
    このブッダは実在したのか考えるが、それ自体はどうでもいいと南は考える。そう断りをいれてから南は初期経典中のブッダだけを仏教の教主と認定して今後の議論を行う。
    大乗経典など、それ以外の経典に出るブッダに関心はあるにしても、南が仏教を考える上での主題にはならない。

    ゴータマ・ブッダの生涯については初期経典に言及する文章が散在する。その中から特に重要な出来事を4つ選んで「四大事」という
    「四大事」とは誕生・成道(悟りをひらく)・初転法輪 しょてんぼうりん(最初の説法)・涅槃(入滅、逝去)である。
    4つを誰が決めたかは不明だが、南はこの選択に不満を持つ。たとえば「出家」がないことを指摘する。
    さらに初転法輪をいうならそれを可能にした梵天勧請 ぼんてんかんじょう(梵天による説法の要請)も重要だとくわえる。

    梵天勧請 梵天はバラモン教・ヒンドゥー教の主神ブラフマンのこと。
    南曰く大事なのは梵天がシッダッタに説法を要請したことではない。要請されない限りシッダッタ青年本人に自分の悟りを他人に教える気はなかったということだ。
    すると彼は自分の悟りを普遍的で絶対的な真理・誰もが知るべき教義などとは考えていなかったことになる。
    梵天勧請の重要な意味はシッダッタの悟りが自己満足の錯覚でなく、真正な悟りであることの立証は、理解してくれる他者がいるかの一点にかかる。梵天の説得はこの事情を象徴的に物語る。

    初転法輪
    シッダッタがブッダになり考えが仏教になったのは悟りをひらいたときでなく、最初の説法で修業仲間の一人が理解したときである。
    南が面白いと思うのは仲間が聞いただけで悟ったと経典に書いてあること。ブッダはヒアリングレベルで悟れるような易しい話を最初の説法でしたことになる。

    涅槃
    死ぬこと。あえて言うなら仏教の最終目標は特定の死に方で死ぬこと。修業とは死の需要の仕方を稽古することなのだ。
    教義上は有余涅槃・生きている間の涅槃と無余涅槃・肉体消滅とに分ける。有余涅槃は悟りや解脱と区別がつかない。したがって涅槃として問題なのは無余涅槃(死)だけである。
    ブッダは涅槃に入る前に第四禅という禅定段階にいて、そこから涅槃に入ったと経典にある。
    第四禅とは、あらゆる感受を停止し、意識を保ち苦も楽もない心身状態に入ること。

    本当の自分への欲望 p33
    本当の自分とは何かという動物の欲求に匹敵・または凌駕する欲望。我々は死がなにか原理的にしることはできない。
    したがって概して外から根拠をもってくるものである。神や天、イデアなど、世にいう神学や形而上学の思考だ。

    十二支縁起
    ブッダが悟りを開いてから最初に考えたとされる。自己の実存を12の要素の因果連鎖で説明するものである。

    四諦 してい
    因果関係を骨格とする初期の重要な教えがもうひとつ。ブッダの初転法輪、はじめての説法で説かれた教えとされる。
    四諦とは苦諦くたい・集諦じったい・滅諦めったい・道諦どうたい

    輪廻・業というアイデア p79
    すでに古代インドのウパニシャッド文献のなかに、いわゆる五火二道ごかにどう説として見られインド土着の思想といえる
    バラモン教を思想的に継いだヒンドゥー教では業の結果としての次の生まれ先の状況を地獄 畜生 餓鬼 人間 天界 の5つに分けて身分制度としてカースト制度に結びつける
    これが仏教になると畜生と人間の間に修羅という闘争に明け暮れる世界を設定して6つとして仏教の輪廻は六道輪廻といわれるようになる

    南は輪廻は仏教界には不要だと主張する。
    始終一貫した同一性を持つ霊魂みたいなアイデンティティーを保証する何かが生まれ変わり死に変わるという言い方・考え方はどう見ても仏教のコンセプトに背反する。
    現代は「認識のエネルギーが輪廻する」とか「エネルギー保存の法則」などを持ち出して説明する骨董無形な言い分まである。
    これらは無我輪廻説のたぐいだ。

    死の需要としてのニルバーヴァーナ
    経典中に見る限り我々が認識可能な完全なニルヴァーナはブッダの死である。するとニルヴァーナは仏教の最終目標であっても、それが何か定義されないものだから
    修行者にとっては達成すべき目標とも対象とも言えない。
    ならば我々にとって可能なニルヴァーナへのアプローチとはある行為様式(生き方)における死の需要でしかないと南は考える。

    感応道交
    一方が感じると他方がそれに応じる、そういう相互の交わりが自然に行われること。宗教時次元的な意気投合に近い意味合いである。
    南はこれを相手は自分だと感じる関係性だと解釈する。他者に自己を発見する感覚が感応道交なのである。
    人間の感情において喜びや楽しみは人の間に生じるのがふつうである。他者の肯定や承認がなければ成立しない。
    対して苦しみや悩みは通常、当事者一人の問題に感じられる。痛みを痛いと感じるには痛みであることを教育されねばならない。我々はその事実をほとんど自覚することはない。
    多くはないが日常の中で「苦」を自覚する者はいる。日常が破綻すれば大抵のものは自覚するだろう。
    自己の実現そのものにおいて苦を発見するとき、それが仏教の問題になる。
    その深みには自己を課す他者がいる。苦もまたそもそも最初から他者によってもたらされている。感応道交はこの苦の共有を自覚することで成立すると南は考える。

    他者から課された自己の倫理
    通り魔事件からは他者との関係から自己を起こしていくことができなかった人間の在り方が、悲劇的な典型として見て取れる。

  • 入り口はどこか
    第1部 思想篇(ゴータマ・ブッダ;苦、無常、無我;縁起と因果;空と縁起;無記と中道;輪廻と業;悟りと涅槃)
    第2部 実践篇(出家と戒律;坐禅と基本的修行;途上にある者)

    著者:南直哉(1958-、長野県、禅僧)

  • 東2法経図・6F開架:B1/2/2532/K

  • p29 「机」として使われるから、〜「机」になる。
    #師はしばしばこの例えを用いるが、使う直前に机として使おうとする動機を説明できない。もう一歩踏み込むなら過去の経験に基づいて机としての働きに期待するから机として用いるのである。名は期待された機能に与えられたラベルである。
    p38 道具〜それは何らかの目的のために使われて、初めて道具である。
    #この目的こそが動機であろう。
    p43 〜関係の仕方を命名(言語化)して意識に刷り込み、〜それ自体で存在する〜これが言語の機能であり、無明とはそのこと〜
    p193-194 〜ブッダが〜、我々の実存をまるごと「苦」と見ているからである。「自己」の実存構造には、他者から課せられて自己たりえるという、根本的な矛盾がある。〜、「課せられた」構造を「迎え入れる」構造へ転換し、最終的に構造自体を解消〜しなければならない。
    なぜなら、我々が言語内存在であり、意識的実存である限り、自己の在り方が他者との関係で決まる実存様式は変わらず、〜その矛盾は完全に解消しないからである。
    p195 仏教は「ありのまま」の人間の在り方を肯定しない。〜したがって、結局、我々を安心させない。

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著者プロフィール

禅僧。福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代(住職代理)。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て1984年に曹洞宗で出家得度。約20年の修行生活ののち、2005年より現職。著書『語る禅僧』(ちくま文庫)、『自分をみつめる禅問答』(角川ソフィア文庫)、『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ)、『なぜこんなに生きにくいのか』(新潮文庫)『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)『善の根拠』(講談社現代新書)、『禅と福音』(春秋社)、『「悟り」は開けない』(ベスト新書)他多数。

「2017年 『死と生 恐山至高対談』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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