心にとって時間とは何か (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
3.19
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本棚登録 : 389
レビュー : 14
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065180228

作品紹介・あらすじ

何が分からないかが分かる――、これは素晴らしい技能と言える。ある学問分野において何が分かっていないのかを正確に説明できるのは、その分野を相当に理解している人だけだ。

本書では、「心にとって時間とは何か」がどれだけ未知であるのかを探る。私の専門は哲学だが、哲学だけでなく科学についても、さまざまな知見を参照していこう。だれにも分かっていないことを謎としてうまく描き出すには、それがどのような知識によって囲まれているかを示さなくてはならない。私たちの知識の地図に、未踏の地の「輪郭」を描き込んでいくわけだ。

あとで改めて言い添えるが、私はこの目的のために、章ごとに違うサブテーマを定めた。〈知覚〉、〈自由〉、〈記憶〉、〈自殺〉、〈SF〉、〈責任〉、〈因果〉、〈不死〉という、各章の章題がそれにあたる。つまり、少なくとも八つの謎が本書には描き出されており、それらの不思議さや面白さ、そして、一つの謎から別の謎への道が見えてくる高揚感とが、私なりの言葉で綴られている。

第一章 〈知覚〉――時間の流れは錯覚か
第二章 〈自由〉――私はいつ決めたのか
第三章 〈記憶〉――過去のデッサンを描くには
第四章 〈自殺〉――死ぬ権利は、権利なのか
第五章 〈SF〉――タイムトラベルは不可能か
第六章 〈責任〉――それは、だれかのせいなのか
第七章 〈因果〉――過去をどこかに繋ぐには
第八章 〈不死〉――死はいつまで続くのか

8つのテーマと謎を手がかりに、「心と時間の不思議」に迫る!

感想・レビュー・書評

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  • 日々の予定と重なって、そうスラスラとは読み進ませてくれない本書に皮肉にも「時間」をかけた。
    個人的に最近ハマっているテーマである。

    構成はよく練られていて面白いのに、時間がかかったのは文章の相性が悪かったとしか言えない。
    具体例は入ってくるのに、それをまとめる言葉の繋がりが見えにくく、全体として把握出来たとは言えない。なので、このレビューは役に立たない。

    知覚と時間の関係性。
    私たちが意志と見なしているものより前に脳が反応を示しているとすれば、自由意志とは何か。

    記憶と時間の関係性。
    私が今ここに存在することは、複数の記憶から成り立っていると言える。
    ただし、私は生まれてこの時点に至るまでの全ての出来事を記憶している訳ではない。
    「五分前に世界が生まれた」ことが真だとして、この時点に至るまでの重みのある点が植え付けられているのだとしたら、それを覆す時間的根拠はどこに見出せるのだろう。

    責任と時間の関係性。
    これは本文からはかなり外れるのだが、私たちは過去に犯した過ちの責任を負う。
    本文では責任の所在について論じているけれど、私はその責任の負い方に時間的な関わりがあることに興味を持った。
    つまり、罪を償うにはお金での解決より、時間での解決の方がより「効果的」だと見なされている。
    人間にとって時間とは、生きる意味で最も貴重な有限の資源だからだろうか。

    最後に死についての章がある。
    筆者が、眠りという数時間の断絶を引き延ばした感覚を死と重ねて述べているのを読んで、なんだか腑に落ちる感じがした。

  • 『心にとって時間とは何か?』

    1.本書を購読する前の私
    2020年、心に対しての関心を高め、心のテーマの読書を開始しました。
    この書籍は、自身の時間を自身に向き合うをイメージして手に取りました。

    2.読了後の私
    この書籍の前置きと後書きに記載のとおり、著者は執筆にあたり、一般を対象にする意思はありません。
    また、すべての章を理解してもらうことも求めていません。
    内容はそれほどに難解なものでした。

    3.著書から共感できた内容
    ①よく使うポジティブ、ネガティブとは?
    こちらは、心と時間の視点で定義しなおすと下記のようになります。

    ポジティブ。思考の対象を未来に据えること。
    ネガティブ。対象を過去に据えること。

    ②心と決定とは?
    決定、決めるという行為。この行為にどれだけ心が反映されているか?の問いです。
    著書では、決定に対して心が影響を及ぼす範囲は部分であり、全体ではないということです。
    選択しているようにみえるという、曖昧な世界が存在するということです。

    4.最後に
    他のひとのレビューにもありますが、目次をみて、関心ある章から読むこと。
    難解ならば飛ばすもありです。

  • 本書では「心にとって時間とは何か」がどれだけ未知なのかを探るものである。それは、「心が時間の流れを感じる」ことの謎についてどう考えるのか、と言い換えてもいいのかもしれない。最初に言っておくと、本書の中にその謎に対する答えは書かれていない。「移り行く「今」とは何なのかについて、確固たる学説は存在しない」と明言もする。

    この世の理を明らかにする科学において、特に相対論以降の時空間をひとまとめで扱う物理学からは「時間の流れ」は出てこない。「物理学は「今」を扱えないと言うよりも扱わないと言ったほうが適切だろう」という通りである。熱力学におけるエントロピーの増大だけが時間の順序をこの世の中に導入するとも言われている。しかし、その上でも「時間の流れを感じる」というのがいかにして可能となるのかは謎であり、本書にとっての大きなテーマとなる。そもそも「今」とはどういうものなのか。

    本書は、八つの章から成るが、その章ごとにサブテーマを設定し、<心>とそのサブテーマから<時間>がどのように見えるかを確かめるという意図をもって構成されている。著者はこれを三角測量と呼ぶ。いくつかの角度から三角測量をすることで、<心>と<時間>だけでは確定することが難しかった絶対的な位置づけを明らかにするのだ。著者によって、選定されたサブテーマは以下の通り。

    第一章 <知覚> 時間の流れは錯覚か
    第二章 <自由> 私はいつ決めたのか
    第三章 <記憶> 過去のデッサンを描くには
    第四章 <自殺> 死ぬ権利は、権利なのか
    第五章 <SF> タイムトラベルは不可能か
    第六章 <責任> それは、だれかのせいなのか
    第七章 <因果> 過去をどこかに繋ぐには
    第八章 <不死> 死はいつまで続くのか

    議論の本線を奇数章が担い、偶数章がそれを受けて人間生活における心と時間が分析されるという構成になっている。こういった、章ごとの違いとつながりを意識して読み進めると楽しめるという構成になっているという。率直にはそういったことに囚われず、著者の差し出す論点について自分でも色々と考えてみるのが結局はよい読み方になるように思う。

    まず、なぜ「今」が今あるように人間の意識にとって知覚されるのか、が最初の正しい問いの形であるように思える。その考察のひとつの端緒となるのがポストディクションの例だ。人間が自分の知覚を再構成していることの証左となる。赤と緑の点を左右に適切なタイミングで表示させたときにその点が左から右に動いたように見えるし、途中で色が変わったように知覚されるというものや、腕の中で手首から肘に向けて三か所を数回づつ続けて刺激した場合、三か所ではなくより小刻みに刺激されたように感じるというものだ。また、次のYouTubeの例もポストディクションの事例となる。
    https://www.youtube.com/watch?v=yCpsQ8LZOco

    意識による再構成ということで言うとリベットの実験も有名だ。これは、自由意志も後から再構成されているという事例のように考えてもよいだろう。著者はこれを自由意思一般に広げることには批判的だが、それは当然その通りでリベットもそうは主張するものではないだろう。著者の立場も中庸であり「もしそれが意思決定とは別の何かであっても、検討する価値を十分にもつ」という。

    しかしながら<知覚>や<自由>の章から、われわれの意識は「今」を遅れて再構成しているのだということは確からしいもののように思われるのだ。それは自由意志の喪失とは言わないが、その概念に対して大きな影響を与えることは間違いない。これにより、意識外において行動できるように脳と身体を整えることが、例えば人の行動の総体としての人格の形成にもつながる。また、後述される責任の議論にも強くつながっていくのである。

    時間と心ということに関しては、記憶がどのような意味を持つのかはひとつの重要なテーマとなる。自らの記憶の正当性は、どのように自らに保証するのだろうか。また、記憶の中の過去の自分は今の自分に対してどの程度<責任>を持つのだろうか。著者は、ここでラッセルの五分前創造仮説に言及し、五分前にはこの世界があったことが保証されるというのは過度の保証ですらあるという。また、それが五分前であろうが、何分前であろうが議論が成立するということから、その議論がどうでもよい議論であると結論する。それはなるほどと思うものの、この章がこの純粋哲学的な議論で終わってしまうのはいささか残念に思う。脳における記憶のメカニズムにも踏み込んで、より魅力的な議論もできたのではないだろうか。

    また時間の流れがどうやら主観に基づくものであるとすると、<心>の喪失である死と<時間>は、どのような関係を持つのか。自分が死んだ後、時間は存在するのか。ここで著者は時間との関係で自殺をテーマに挙げる。つまり、現在の自分が自殺することは、未来の自分に対する殺人ではないかと。ここでは、時間の内にいる自分の連続性と同一性について議論される。また、そもそも「死ぬ権利」の前に「死ぬ能力」を十分に持っていないことから議論を始める。もし、確実に簡単に死ぬことができれば(著者は命のスイッチがあれば、と表現する)、議論はもっとシンプルになると。この辺りの議論はとても知的で面白いのだが、どうも本質的な議論が手から滑り落ちていくような隔靴掻痒といった感じが生まれる。そして、正しくその感覚こそが正しい向き合い方なのかとも思うのだが。

    時間の問題がSFにおいて直接的に議論されるのは、タイムトラベルである。時空間が統合的に扱うべきものであるとされてから、空間を旅するように時間を旅することができるのではないかと想像を掻き立ててきた。相対性理論からはウラシマ効果と呼ばれる。ここではタイムトラベルをいくつかの種類に分けて順序トラベルが成立するのかどうかについて議論する。多くのSFは、ある種の論理的規制へのバイオレーションを侵しているように思われるが、そのことをうまく説明するのは意外に難しい。

    なお時間は因果関係にも強く影響を及ぼす。因果関係は<責任>につながる。この領域は道徳学や倫理学の領域にあるのかもしれないが、道徳や倫理の範疇には収まらないという予感もある。いったい、ある行為XがYを引き起こした場合、どのような場合に責任は生じ得るのだろうか。それは自由意志の問題や脳疾患など避けえたものかどうかにも依存していくのかもしれない。また、予見可能性にも関係づけられる。少なくとも社会的にはそういったコンテキストに依存するし、おそらくは法的にも依存せざるをえない。そして、そういったこと全部を抜きにして、自由意志による行為を前提とした責任というものが存在しうるのだろうか、という問題にぶち当たる。自分にとって、それは社会の存続に対して有用で整合的なものであるのかによって全体として定まり、それは個々の責任はそこから導かれるべきもので、イベントの倫理には依存しないと思うのだが、どうだろうか。それはシステムの問題であって、論理の問題でも倫理の問題でもなく、それがそう見えるのは、それが社会的システムにとって整合的であることによってそう見える、と言えないだろうか。深く考えてみたい問題である。

    果たして、意識<心>のあるものと意識<心>がないものの差はどこにあるのか。時間が意識によって意味があるものとなるのであれば、それは大きな問題である。著者は、そこに明確な線引きができない可能性について言及する。時間の流れや「今」が主観的なものであるとした場合、死による意識の喪失後、私はどういう意味で「死者であり続けていく」のだろうか。そのことに答えるには、客観的な「今」がどのようにしてあるのかについてどのように考えるべきかという前提が必要になる。そのためには「「ある心のパターンがそれ自身の生滅を感じること」とはいったい、どのようなことなのか」という著者を悩ませている謎を解かなくてはならない。この謎こそが本書を貫く謎のひとつでもあるかもしれない。いかにして時間の流れとそこから生じたのであろう「今」が意識から立ち現れることができたのか。著者の著述は、その知識量にも支えられていることが感じられ、論理の運びも上手いと感じることが多々あったが、最後までストレートに問題に踏み込まずに章を閉じるように感じるところもいくつかあり、もやもや感も残る。もしかしたら、それは著者の意図するところなのかもしれない。結論として、楽しめたし、いい本だと思う。

  •  まず真っ先に指摘したいのはこの本の章立ての独特さだ。もちろん意欲的な試みだとは思うのだが、扱っている題材の重さと新書というメディアからするとやっぱり複雑すぎると思う。奇数章で時間の認識論及び存在論、偶数論で理論の現実世界への適用のあり方を扱うというのはいいとして、これをさらに前半と後半で2分割する必要があるのだろうか。結果として議論がぶつ切りになってしまい、僕には一つの統一した書籍として処理することができなかった。仕方なく本書を断章の集積としてエッセイ的に読んだのだが、やはりフラストレーションは否めない。ただ各章の内容それ自体は極めて示唆に富んでおり、興味深く読めるのは間違いない。

     有名なリベットの実験を初めて知ったのは多分ノーレットランダージュ「ユーザー・イリュージョン」だったと思うが、その時に感じた素朴な疑問を本書の第2章がダイレクトに扱っているのが嬉しかった。件の準備電位の実験は「自由意志の発現時点」が確定可能であるという前提を所与として行われているのだが、これを読んだ時「そんなの被験者の自己申告なのにどうやって客観的に確定させるの?」と思ったのだ。こんな素人考えは僕だけのものだろうなあと思っていたのだが、改めて本書の「自由意志に明らかに対応する心理現象などあるのだろうか?」という疑問に接して再び意を強くした。仮にそういう心理現象が確定されたとしても、さらにその原因となる前駆現象を探さねばならないという無限後退に陥る。脳神経科学の唯物論的な議論に一定のシンパシーを覚える僕だが、ひょっとして脳神経科学はプロセスを解き明かすのには至便だが、自由意志の原因にリーチするという目的からは離れてしまうのでは?とも思ったりした(ただし、本書でも触れられている「脳と時間(ディーン・ブオノマーノ著)」では、脳内ニューロンの電位変化から prospective に被験者の動作を予測できたという実験結果が紹介されている。これが事実ならリベットの実験にも hindsight 的な側面はないことになるのだろうか?)。

     1章の議論も、僕が抱いてうまく言語化できなかった疑問をストレートに表現してくれている。時間を測ることの奇妙さだ。物理的な質量・大きさなどの他の概念と異なり、時間を測るときだけはなぜだか「物差しの長さをその物差し自体を使って測る」ようなトートロジーを感じるのだ。なお本章で扱われる「バーバーポール説」も、時間の流れとはあらゆる時空が並存する「多元宇宙」の各ブロックを連続して認識した時に生じる錯覚であるというブライアン・グリーンの説を想起させ興味深い。どちらも「この今」という概念を捨象し「今」性というべき時間の一般性を扱う点で共通している。

     ラッセルの「5分前仮説」に関連し、個人的に好きな野矢茂樹氏の議論が扱われる第3章。著者の主張は「5分前仮説は確かに危険だが、1秒前仮説や1億年前仮説と同等の危険性しかない。無数に挙げられる懐疑論の一つでしかなく、そこには深刻な個別の懐疑はないため無視しても無害」というもの。うーん、確かに小気味良いけど、果たしてそれでいいのか…。「無数に挙げられる懐疑論が全て致命的に危険」という可能性はないのか。仮にこれが「個別の危険性」を唯一の評価軸にしてよいという意味なら、思考実験の大宗は無意味ということになりそうな気がするが、違うのだろうか。ただこの章を踏まえた、なぜ我々が眼前の「スケッチ(5分間仮説における懐疑の出発となる土台)」を出発点とせざるを得ないかを論ずる第7章は、エピソード記憶をメタ的に分解することで眼前の景色の蓋然的な確からしさを身体論にリンクさせており、なかなか面白い。

     あと印象に残ったのは第6章。イーグルマンのように有責性を脳の器質的要因に帰属させるとなると、それは確かに未来志向的(予め規定された犯罪の類型=タイプとの照合で有責性を判断)ではあるが、個別の(=トークンとしての)犯罪には他行為可能性が認められないことになり、その犯罪者に修正可能性がなければ責任は問えないこととなる。かなりラディカルな決定論をとっているといえるが、これに対する著者の反論が気が利いている。犯罪について環境と遺伝を重視するのであれば、ことの善悪を問わず社会制度全般に同じ評価軸を当てざるを得ず、倫理に与える影響が甚大だというのだ。つまり器質的決定論は正しいかもしれないが、現実社会への適用の場面で問題を生じる。「認識における未来志向」と「効果における未来志向」を衡量し、倫理の進化過程に鑑みれば後者に天秤が傾いているため前者は放棄して良い、というのが著者の考えであり、プラグマティズム重視と言えよう。ただ、発生主義で決定論と自由意志のコンフリクトを調停しようというのはよくある手筋。本書では量的な制限もありそこからの深い議論はなされていないのがやや残念。

     読み終わってみると「あれ、これって時間の本なんだっけ?」と思うほど扱われている領域が多岐にわたっていることに気がつく。やや不親切な章立てには不満を覚えたが、時間のもつ圧倒的な奥深さを実感できたことは収穫だったと思う。

  • 《たとえ五分間であれ、いま在る記憶や痕跡と過去との繋がりが保証されるなら、それは僥倖と言ってよい。現実の生活において、そのような保証はけっしてなされない。私は眼前のデッサン画(輪郭と空白からなる過去の内容の像)にすがりつくようにして過去への推測を行うが、それは、このデッサン画の正しさが保証されているからというより、それしかデッサン画がないからである。》(p.94)

    《五分前創造仮説は実践的には「どうでもよい」ものに見えるが、それはこの仮説が間違っているからではなく、同じくらいに正しい仮説が無限に存在するからである。世界は五分前に造られたのかもしれない、というラッセルの懐疑。これに対する私の答えは、そうかもしれない、だが、どうでもよい、というものだ。》(p.99)

    《仮説に正面から立ち向かうのでなく、その正しさをいったん認めたうえで、それを無限に薄めてしまうほうがよい。》(p.100)

    《各人は各人の境遇のもとで、「私」にとっての「理想の自殺」の細部を思い描くことができる。命のスイッチが存在するなら、その理想の実現はずっと身近なものになるだろう。だが、命のスイッチは存在せず、「私」はその代替物を得るために社会の承認を受けなければならない。こうして「私」は
    、自分の「理想の自殺」に関して、なぜそれが公共的にも理想であるのかを説明させられる。それは実質的に、社会に対して自分の苦しみの詳細を——他者にも想像可能な範囲で!——語っていく作業となるだろう。》(p.117)

    《個人の内部で時間化されたパターナリズムとはどのようなものか。そこでは、介入する人物と介入される人物が同一であり、しかし、その時間的な所在が異なる。そして、介入される人物のほうは、介入の時点に存在していない。というのも、そちらは未来に位置し、それゆえ、まだ不在だから。》(p.125)

    《責任が受け渡し不可能なものであるなら、それが可能であるかのような言説を日常的に耳にするのはなぜか。この前掲の問いに対して、責任をめぐる私たちの実践が構成主義的だから、と答えるのは一定の説得力をもつだろう。理想主義に比べて構成主義は、たしかにリアリスティックに見える。だが、私はこの天について、ひとこと付け加えておきたい。実践がたとえ構成主義的であっても、責任への私たちの理念には理想主義的な側面があり、そのことは馬鹿にできないのだと。徹底された構成主義のもとでは、闇に葬られた冤罪というものは原理的に存在しなくなってしまう。このことにつねに脅威を感じ、構成主義のもとで居直らないこと——、これもまた、責任をめぐる私たちの現実に求められたものである。》(p.169)

  • “自由”や“記憶”など大きなテーマに一石を投じる一冊。
    普遍的と思われている概念を良い意味で“疑う”とこで心の視野狭窄に陥ることを避けられると思った。

  • テーマは興味深いが「時間とは何か」の前にそもそも「心とは何か」が私にとっては問題なのだけれど、そこは共通認識がある前提で書かれている…のかな?一通り読んでも「心」の定義(著者がどう定義して書いているのか、そもそも定義しているのか)がわからない。
    「心」というよりは「意識」や「脳」に近いような気がした。確かに近いものではあるように思うが、イコールではないと私は捉えている。サブテーマを見る限り「意識」とも違うのだろうけれど、その辺りが何とも言えず、モヤっとした。


    あとは、分かりやすい本ではないが難解な内容というより読みにくい文章だと感じた。まぁ慣れなのかもしれない。

  • 2020-9

  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/523551

  • う~ん、なんだかなぁ、というのが率直な読後感。

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著者プロフィール

一九七五年生まれ。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。博士(哲学)。県立浦和高校、千葉大学文学部、日本学術振興会特別研究員、山口大学時間学研究所准教授等を経て現職。二〇〇六年、日本科学哲学会石本賞を受賞。二〇一一年、文部科学大臣表彰科学技術賞を研究グループにて受賞。著書に『時間と自由意志』(筑摩書房)、『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(太田出版)、『分析哲学講義』(ちくま新書)、『新版 タイムトラベルの哲学』(ちくま文庫)など。

「2019年 『心にとって時間とは何か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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