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Amazon.co.jp ・本 (344ページ) / ISBN・EAN: 9784065187470
作品紹介・あらすじ
没後20年を過ぎた今も世界中で多くの読者を獲得し続けている哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95年)。初の単著『経験論と主体性』(1953年)から『ニーチェと哲学』(1962年)、『カントの批判哲学』(1963年)を経て『ベルクソニスム』(1966年)に至る哲学者のモノグラフィーを発表したドゥルーズは、続いて『差異と反復』(1968年)と『意味の論理学』(1969年)を解き放ち、世界に衝撃を与えた。進化を続ける哲学者は、次に精神分析家フェリックス・ガタリ(1930-92年)との協働を始動させ、『アンチ・オイディプス』(1972年)と『千のプラトー』(1980年)という恐るべき著作を完成させる。その後、記念碑的な映画の哲学『シネマ』全2冊(1983年、85年)、ライプニッツ論『襞』(1988年)といった単著の執筆に戻ったドゥルーズは、最後にもう一度、ガタリとの共著『哲学とは何か』(1991年)を発表。そして、1995年11月4日、みずから命を絶った。
本書は、1976年から83年――『千のプラトー』から『シネマ』へと至る時期にドゥルーズ本人の薫陶を受け、その指導の下で博士論文を書いた著者が、主要著作の読解を通して師の歩んだ道のりをたどり直し、初めて1冊にまとめたものである。2001年に講談社選書メチエとして出された原著は、20世紀最大の哲学者の全容に触れたい人の「最初の一冊」として広く親しまれてきたが、このたび、大幅な加筆・訂正を経た決定版をお送りする。
ひたすら愚直に、そして誠実に主要著作を読み解いていった約20年前の作業を現在のまなざしで見直した著者は、「いまはドゥルーズについて書くべきことを書き終えなければ、と思う。量ではなく、質の問題、いやまさに強度の問題である」と書いている。こうして生まれ変わった本書は、今後も新たな輝きを放ち続けるだろう。
[本書の内容]
この本にいたるまで――学術文庫版に寄せて
プロローグ――異人としてのドゥルーズ
第一章 ある哲学の始まり――『差異と反復』以前
第二章 世紀はドゥルーズ的なものへ――『差異と反復』の誕生
第三章 欲望の哲学――『アンチ・オイディプス』の世界
第四章 微粒子の哲学――『千のプラトー』を読み解く
第五章 映画としての世界――イマージュの記号論
第六章 哲学の完成
エピローグ――喜びの哲学
文献一覧
あとがき
学術文庫版あとがき
ジル・ドゥルーズの生涯と主要著作
みんなの感想まとめ
哲学の外部との対話を重視する本書は、ジル・ドゥルーズの思想を深く掘り下げ、彼の主要な概念やテーマをわかりやすく解説しています。特に、経験主義やスピノザの影響を受けた欲望の非主体性、分裂症と資本主義の関...
感想・レビュー・書評
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この本はかなり難しい。章ごとに異なる著作を扱う構成になっており、私が理解可能だった順に並べると、『アンチ・オイディプス』>『哲学とは何か』>『千のプラトー』>初期ドゥルーズによる過去の哲学者(ベルクソン、ヒューム、スピノザ、ニーチェ、プルースト)の読解>『差異と反復』>『シネマ』といった感じだった。『差異と反復』の章ではほとんど、『シネマ』の章は全く理解できなかったというのが正直な感想である。著者はドゥルーズに直接師事していたこともあるようで、尊敬の念があちこち感じられる筆致であった。
『アンチ・オイディプス』は書名のとおり『アンチ』、つまり批判の書であり、打倒すべき敵がイメージしやすい。ここでの敵は『精神分析』と、それを自身の一部として取り込んだ『資本主義』である。これらは『欲望』を秩序化することで、本来的に自由である『欲望』の肯定的な生産性をスポイルするものとして批判されている。背景にニーチェとスピノザがあり、1968年の五月革命の熱気を注入して、それらを武器に『精神分析』と『資本主義』を批判するためにこねくり回したら『アンチ・オイディプス』のような本が仕上がるのだろう。『器官なき身体』や『欲望機械』など、キャッチーなワードの元ネタも『アンチ・オイディプス』であり、現在でも豊饒なイメージの源となり続けている。もっとも『アンチ・オイディプス』自身は、本書で引用されている文章を見る限り、著者の解説なしで読めるかかなり怪しい本だと思う。有名な『器官なき身体』は、『流動的で、強度の渦や断片にみちた身体』、『機能にも形態にも、質にも量にも還元できず、分割不可能な強度の身体、身体以前の身体』といったイメージで語られており、『差異と反復』における『強度』の定義である『質的な差異とも、量的な差異とも異なる根源的な差異』という表現が理解の助けになるかもしれない。これまた有名な『欲望する機械』とは、『無意識』を『機械』の一つと見なし、さらに自然、生命、身体、言語、記号、商品、貨幣、等々をも『機械』と総称し、これら相互の『連結』を総合的に捉える概念である。その『欲望する機械』が実現する一過程である『登録』について、著者は『それぞれの社会的体制を決定する巨大な身体に個別の活動が分配され、土地が登記されるように、アドレスやコードが記されること』と説明するものの、この説明自体が難解である。おそらく「秩序化される過程」くらいに読み替えてよいものだと思われる。また『欲望する機械』から世界史が再解釈される記述においては『コード』という語が頻発するが、ここも「秩序」という言葉に読み替えると、多少は理解できるように思う。総じて、秩序的なものをいかに解体するかの議論が延々と続くようであり、秩序化の過程は『オイディプス化』として、その解体の過程は『分裂症化』として表現されているようだ。ドゥルーズ=ガタリは、現実の精神分裂症(統合失調症)について『このような欲望の外部性が、内部に向けて押しつぶされるところに現れるような「病」である』と解釈した。つまり、本来的にはポジティブなものである『欲望』の敗北した姿だということだろう。しかしそれが、現実に病苦として存在する以上、ドゥルーズ=ガタリの表現が批判を呼んだことは想像に難くない。また『精神分析』に代わる『分裂者分析』なるものが提唱され、その課題は『欲望そのもののリアリティを見出し、欲望の平面と過程を発見すること』だとされる。それにおいては、あらゆるものは『千のタイプの欲望、あるいは欲望の連結』あるいは『千の欲望機械の表現であり、すなわち実現』として解読されるということであるが、その具体的な営為は本書には示されていないように思う。あくまで『アンチ・オイディプス』とは『アンチ』の書なのだなという印象をもった。
『哲学とは何か』では、哲学とは『概念を創造するものである』という主張が中心軸となっている。前提とされる他分野の知識が少なく、哲学自身に焦点を絞った内容である。ドゥルーズは『概念』について、『前-哲学的なレベルにあるひとつの「平面」の上に構築されなければならない』、あるいは『ひとつの「平面」とともに創造されなくてはならない』と説明した。その『概念』を包括する『内在平面』とは、『概念が生息すべき大地あるいは砂漠のようなもの』、あるいは『思考のイメージ』のように表現される。例えば『コギト』におけるそれは『万人が、思考、存在、私について知っている、という前提』である。ここは難解だが、その『概念』が前提とする地平のようなものであると理解できるだろう。『概念』を駆動させる『概念人物』とは、『本質的に、テリトリーを離れ、思考を脱領土化する人物』であり、『コギト』においては『白痴』という『人物』の潜在が指摘される。著者は他の『概念人物』の例として、ニーチェの『ツァラトゥストラ』、キルケゴールの『ドン・ファン』、『アンチ・オイディプス』の『分裂症者』を挙げている。著者が例として挙げなかったのが不思議であるが、私はここにプラトン対話篇の『ソクラテス』も入ると思う。
『千のプラトー』は『アンチ・オイディプス』の続編であるが、どうも話が生命体、人間、歴史と様々に飛ぶようで、これはこれで厄介な本のようだ。著者によると、このような壮大な考察は、『資本主義というとてつもないシステム』に戻って『人間の問題』について考えるためであり、『日常のすみずみまで浸透したさまざまな拘束や権力は、「人間的な価値」というイマージュでわれわれの視野を覆い、そのような遠近法を閉め出している』と主張される。このあたりの問題意識はフーコーにも通じるものだろうかとも思ったが、まともに理解できないままであった。ドゥルーズ=ガタリも読者の困惑を予想してか、次のように述べている。
『何ものかを正確に指し示すためには、どうしても非正確な表現が必要なのだ。〔…〕非正確さは、いささかも近似値などではなく、逆に起こりつつあることの正確な経路なのだ。(『千のプラトー』)』
こんなこと言われたって困惑するしかないというのが率直な気持ちであった。
第一章ではドゥルーズの過去の哲学者(ベルクソン、ヒューム、スピノザ、ニーチェ、プルースト)への読解が扱われるが、本書の記述が「元ネタの哲学者」を示すものなのか、「元ネタの哲学者へのドゥルーズの読解」を示すものなのか、「元ネタの哲学者へのドゥルーズの読解に対する著者の説明」を示すものなのか、なかなか複雑で理解しにくい。元ネタの哲学者についての知識がないと、さらに分からないと思う。ただ一つ、ドゥルーズの『永遠回帰』解釈については、ニーチェ自身の記述とは決定的に異なるという点で反発を覚えた。ドゥルーズは『永遠回帰』を、等しきものの『永遠回帰』ではなく、『差異』の『反復』として解釈している。ドゥルーズ自身が『もし一切が回帰する、同一へと回帰するというのが真実なら、小さく狭量な人間も回帰するだろうし、ニヒリズムや反動もまた回帰することになるからである』と述べているように、『永遠回帰』からネガティブなもの一切を除去するための解釈であることが分かる。著者も『力への意志の肯定性は、こうして初めて完成される』のであり、『あらゆる生成への肯定を完成し、生をたえず異なるものとして反復しようとするエティカを示す』と賛同を示す。しかし私としては、このドゥルーズの『永遠回帰』解釈には肯首できない。ニーチェは『永遠回帰』を戦慄すべき『最大の重石』として描写しているのだから、その恐るべき側面を楽天的な論理操作で削ぎ落とすべきではない。
ドゥルーズの単著としての主著である『差異と反復』については、著者も『この本で展開される思考は、ドゥルーズの本の中でもいちばん抽象度が高く、精密で、しかも多岐にわたっている』と述べているように、専門家でも難解な相手のようである。実際に引用されている文章を見ても、とてもじゃないが自力ではまともに読めそうにない。『シネマ』はより意味不明であった。本書を読んだ結果としては、私に少々でも理解可能だと思われたのはドゥルーズ=ガタリの思想であって、ドゥルーズの単著は理解困難なようである。 -
https://calil.jp/book/4062582120
講談社 2001 -
[出典]
「現代思想入門」 千葉雅也
P.60 ドゥルーズの入門書
著者プロフィール
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