手の倫理 (講談社選書メチエ)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 1090
感想 : 72
  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065213537

作品紹介・あらすじ

人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。

感想・レビュー・書評

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  • 『さわる』と『ふれる』。無意識に使っている言葉。著者は、研究者として、緻密に検証しています。素人の自分には、本書が全て理解できたわけではありませんが、職業的に人に触れることが多いため、触覚やコミュニケーションの観点から『ほぉ』『へぇ』と学ぶことが多かったです。介護者や援助者は読んで損はないと思います!ちょっと難しい箇所は飛ばし読みでよいと思います。

    第一章 倫理
    第二章 触覚
    第三章 信頼
    第四章 コミュニケーション
    第五章 共鳴
    第六章 不埒な手

    本書の序文から抜粋します。

    日本語には触覚に関する二つの動詞があります。
    ①ふれる
    ②さわる
    英語にするとどちらも『 touch』 ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。

  • 終了した講座
    手の倫理 | 新宿教室 | 朝日カルチャーセンター
    https://www.asahiculture.jp/course/shinjuku/83a2dfc2-ea96-64c6-99a9-5e1a83da71d7

    『手の倫理』(伊藤 亜紗):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部
    https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000345814

  • 「ふれる」は相互的で人間的なかかわり、ふれることは直ちにふれ合うことに通じる。
    「さわる」は一方的で物的なかかわり。
    相手が人間だからと言って必ずしも人間的なかかわりとは限らない。とはいえ物的にかかわることが悪とは限らない。
    ~介護は正しく「ふれる」仕事である。ふれあうことで感じあえるから、好きな仕事としてでき、やりがいをかんじるのだろう。
    ところが「さわる」ことしかできない介護職は少なくない。利用者を「もの」扱いし、介護をお金を稼ぐ手段としてしか考えられないのだ。だからふれあうことで利用者から伝わってくるものを受け止められないのだ、もったいない。

    「技術」は習慣とは違って、文化の差を超えて流通しうるもの。誰が、いつ、どこでやってもきちんと作動さえすれば同じ結果をもたらすもの。
    ~技術には再現性が必要、そして他人に伝えられなければ技術とは言えないと思う。

    「道徳」は小学校の道徳の授業で習うような「〇〇しなさい」という絶対的で普遍的な規則。
    「倫理」は現実の具体的な状況でどう振舞うのが良いか、少しでもマシなのかということ。世の中は単純で明確なことはめったになく、困難な問題を考えていく。
    ~「倫理」はジレンマに繋がる。それでも少しでも良い方向に進むために考え抜くことが求められるのだろう。
    これさえ守れば正しいというものではない。

    「多様性」は「不干渉」と表裏一体であり、「分断」まではほんの一歩である。
    ~相手の存在を受け止め、程よい距離感で関わることが難しい世の中になった。相手に関わりたくない、または見下したいという感覚が「分断」を産むのではないか。

    「安心」とは、「相手のせいで自分がひどい目に合う」可能性を意識しないこと。
    「信頼」とは、「相手のせいで自分がひどい目に合う」可能性を自覚したうえで、ひどい目に合わない方に賭けるということ。信頼はものごとを合理化する。

    「生きること」はそもそもリスクを伴うもの。
    「安心」の枠外にでること、それは「信頼」にもとづいて生きること。
    ~「安心」の中だけで生きていくのはつまらないし、それがいつまで続くかは分からない。少しリスクが伴う「信頼」を伴う生き方が楽しく、自己成長に繋がるのだと思う。「信頼」できる人がいないことで楽しくなく、未来に希望を持てない人が少ないのではないか。

  • 「さわる」と「ふれる」の違いから、かつては感覚の中で劣っているとされた触覚を、信頼・コミュニケーション・共鳴の章を立てながら展開していく。

    冒頭からめちゃくちゃ面白いのが、「道徳」と「倫理」の違いについて。
    道徳が普遍的な「……であるべき」なのに対して、倫理はある経験に則して、道徳を当てはめるときの難しさ、上手くいかなさから、再度自分で構築しなおす感じ。

    そこに触覚という、相手の内部に入っていくという感覚と組み合わせていく。

    さらには社会、多様性が取り上げられすぎる違和感ももって、反対に分断を肯定してしまっているのではないかと続ける。
    人と人との関係性、自分の中にある複雑さも、ふれることと倫理から見直していこうとする。

    たまたま今日、美容師さんと「親密な関係ではない人に、いきなり髪に触れられたらイヤですよね」という話をしていた所で。
    その人は初対面の相手には必ず声をかけてから、髪に触れるのだと聞いた。

    文中では胸元の計測器が外れていた患者さんに、看護師さんが徐に付け直したところ、蹴られたというエピソードに似ている。

    私は、美容師さんって仕事なのに気を遣っているんだなーと思っていたのだけど、ふれること、の距離マイナス感を、彼女はちゃんと感じているということなのだろう。

    続けて、祖母が亡くなる前はベタベタと触れられたのに、棺に入ってしまった後は触れられなくなったことも思い出した。
    その時の自分は、触れないといけないけど、なんだか怖いという思いで、そんな思いでいる自分に対して憤りも同時に感じていた。

    尊さと畏怖、という言葉を与えてくれた伊藤さんには感謝をしたい。

  • 道徳と倫理の違いからはじまり、興味深い多彩な例示でわかりやすく論じられててよかった。
    どの項も面白かった。ロープを通じて伴走するときに感じる共鳴について、特に印象に残った。
    最初に道徳と倫理の違いについて知った時、だから私は道徳だとピンとこなかったけど倫理には興味が持てたんだと納得した。
    参考文献にも面白そうな本がたくさんあったので読みたい。

  •  目の見えない人や耳の聞こえない人からインタビューして研究を進めていた著者が、介助の経験を通して体の接触をする中で、「さわる」、「ふれる」とはどういうことなのか、人間関係にどのように関わるのかなどについて考察したものである。

     伝統的な西洋哲学では、5つの感覚において視覚が最上位に位置付けられる一方、触覚は劣位に置かれていた。そうした中でも子供にとっての触る事の重要性を論じた教育学者のフレーベルや、哲学者ヘルダーの議論を紹介しつつ、触覚の意味合いについて考察を深めていく。

     第5章「共鳴」では、ブラインドランのランナーと伴奏者の間のロープを握って走るという具体的な行為を例に取って、両者が共鳴することで情報がやり取りされること、一方的な伝達ではなく、伝わっていく関係ができるというところは、とても興味深かった。

     子育て、介助、スポーツなど肉体的接触の場面は決して少なくないにもかかわらず、あまり正面から取り上げられてこなかった、さわる/ふれるについて、様々な角度から考察がされており、創造的な人間関係を開いていく可能性に期待を抱かせる、そのような書であった。

     なお、本書タイトル『手の倫理』の"倫理"の意味するところについては最終章に詳しいのだが、是非本文を読んで、読む人なりに考えてもらうことを望みます。

  • 触覚を通じたコミュニケーションは「距離ゼロ」ではなく、相手の内面にふれる「距離マイナス」なのだという考え方。
    今までそこまで考えてしてたわけじゃないけど、コロナ禍で「握手」が気軽なものではなくなったことで変わる人間関係もあるのかなーとか思ったりもした。

    一方的な「さわる」と相互的な「ふれる」
    ただ発信するだけの「伝達モード」とやり取りを重ねる「生成モードのコミュニケーション」
    後者を正解とするのが「道徳的」な態度なのだろうけど、必ずしも一方的な発信が悪ではないのが現実。
    今はどちらの態度でふれれば、あるいはさわれば良いのか考えるのが倫理というもの。

  • 筆者の論考の基になるのが視覚障害者との(触覚による)コミュニケーションなのだが、そこから触覚によるコミュケーションの要素をキーワード(伝達モードと生成モード、共鳴、などなど)として抽出していく様が鮮やかで、とても面白い。

    最終章では触覚の「不埒」で扇情的な側面(触覚のその素晴らしい特性から、思ってもみない欲望や衝動が掻き立てられてしまう。セックスの翌日に入浴介助をすれば不快な重なりが生まれることもある)にも触れる。

    ただそれは決して不道徳なことではなく、普遍的な善を追求する「道徳」を相対化し、むしろ現実的な場面に即し、悩みや葛藤を伴い、そしてより創造的な、「倫理」の世界に近づいていくものだとする。

    「触覚は道徳的なものではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。」と締める最終文まで全て腑に落ちて、でも新たな発見も随所に散りばめられた素晴らしい論考だと感じた。

  • インパク知6・4
    かかった時間 100分くらい?

    話題になっていたので読んだ。
    大きくは、視覚的コミュニケーションと触覚的コミュニケーションの話だが、その触覚的コミュニケーションには伝達的な「さわる」と、相互生成的な「ふれる」があり、後者は他者への信頼に基づくという。また、筆者はこの言葉は使っていなかったと思うが、「ふれる」コミュニケーションにおいては、他者との融合?深いトランス?意識の飛躍?トリップ?みたいなのがある、とのこと。

    おそらく自分自身が閉じているニンゲンなので、基本的には「へー、そんなもんか。まあそんなもんなんだろうな」と思いながら読んだ。

    読みながら思ったことを書く。

    西洋哲学では視覚上位、触覚下位という話。おもしろい。こういう話スキ。

    筆者を含めたふつうの人?が他者を信頼していない話。まあそうだろうな。でも、たぶん自分はそういう(他者に預ける)生き方はしないし、したくないかな。

    介助は、介助者の条件(できるできない、年齢、関係性などなど)によって、当事者の「やりたいこと(として介助者に伝えることが)」が決まるから、そういう場合は、介助者には当事者の「本当にやりたいこと」が伝わらないし、介助者には「本当にやりたいことが別にある」ことさえわからない、という話。
    たしかに。でもそれは、他者(介助者)の条件だけの話ではないと思う。自分の肉体や精神や能力によって、われわれは「やりたいこと」を決めているんじゃなかろうか?それこそ、「本当にやりたいことが別にある」かどうかもわからないままに。

    触覚的スポーツ中継の話。
    めっちゃおもしろかった。とくにフェンシングのくだり。そして、「視覚による観戦はわりとその競技の本質を外している」的なところ。なるほど。
    そのあとの、カラダに思考?感覚?がひっぱられるという話もおもしろかった。カラダ侮れない。やっぱパッキリ心身二元論的に生きるのはちょっと違うんだろうなあ。
    (筆者はこの話を書きたかったんだろうな、と、なんとなく思った)

    あとがき的な、母親とのエピソード。
    この人の原体験として書かれていた。いい話だし、見田宗介じゃないけど、やっぱり自分の中の、良くも悪くも(ことばどおり)かけがえのない体験、他者と交換不可能な体験が、こういった、なんていうかなあ、リアルな?エッセンシャルな?語彙がないが、ホンモノの?熱のある?研究を生むんだろうな。

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著者プロフィール

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。専門は美学、現代アート。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社メチエ)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)など多数。

「2023年 『NHK出版 学びのきほん 感性でよむ西洋美術』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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