土葬の村 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065225448

作品紹介・あらすじ

これは恐らく、現存する最後といっていい土葬の村の記録である。
村人は、なぜ今も「土葬」を選ぶのか?

日本の伝統的な葬式である「土葬・野辺送り」が姿を消したのは、昭和の終わり頃とされている。
入れ替わるように火葬が増え、現在、日本の火葬普及率は九九・九%を超える。
土葬は、日本の風土から完全に消滅してしまったのだろうか。

筆者は「土葬・野辺送り」の聞き取り調査を三十年にわたって続け、平成、令和になっても、ある地域に集中して残っていることを突き止めた。
それは大和朝廷のあった奈良盆地の東側、茶畑が美しい山間にある。
剣豪、柳生十兵衛ゆかりの柳生の里を含む、複数の集落にまたがるエリアだ。

日本人の精神生活を豊かにしてきた千年の弔い文化を、まだ奇跡的に残る土葬の村の「古老の証言」を手がかりに、詳らかにする。

【本書の内容】
はじめに
第一章 今も残る土葬の村
第二章 野焼き火葬の村の証言
第三章 風葬 聖なる放置屍体
第四章 土葬、野辺送りの怪談・奇譚
おわりに

感想・レビュー・書評

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  • Audible利用(7h20m)
    読了まで3日間(1.1倍)

    日本には今も土葬が残っている。土葬は法律で禁じられているわけではない。このことにまず驚いた。
    私は日本人がこれまでどのように弔われてきたのか、ほとんど何も知らなかった。自分の故郷に、今住んでいる土地に、どんな埋葬や弔いの文化があったのかも知らないのだ。
    著者の高橋さんは、滋賀・奈良・京都を中心に土葬が現存する地域や最近まで土葬が続いていた地域を訪れ、土葬に携わってきた人々の体験談を聞き取り、現地の百箇日法要や初盆にも足を運んでいる。これはものすごいルポだ。

    土葬を行うには様々な苦労があるそうだ。
    特に「座棺」といって死者を胡座または正座の姿勢で埋葬する場合には、死後硬直が始まったご遺体を決まった寸法の小さな棺におさめるためにたいへんな労力がかかるのだという。具体的な納棺の様子は「見ていた子どもらを外に追い出した」「とても素面じゃできないので、酒をあおって皆で納棺した」ほどの過酷なもので、各地でご遺体を柔らかくするための様々な対策(まじないや神通力めいたものも多い)が伝承されている。「亡くなった親の膝を折っておくのは、息子ができる最後の親孝行と言われた」という証言も紹介されている。
    故人の体の大きさに合わせた棺を用意する場合やご遺体を寝かせて入れる「寝棺」の場合は、もちろんこの労力はぐんと減る。しかし、決まった寸法であることにも「意味」がある。死者が西国浄土に往生できる寸法なのだ。
    こうした弔いにまつわる細かなルールや作法が、インタビューや文献をもとに他にも色々とまとめられていて、中にはかなりショッキングな内容や奇怪に思われるものもあった。
    しかし、実際に土葬による弔いを行った人々の体験談を読み、一つ一つの作法に込められた意味や思いを知ると、恐怖心や嫌悪感は不思議とわいてこず、死者を身近に感じながら生きてきた人々の語る「弔い」の迫力と奥深さに胸を打たれることの方が多かった。

    時間をかけ、手間ひまをかけ、みんなで力を合わせて死に寄り添う弔い。
    その土地で生まれ、育ち、看取られ、どの家庭にも子供が(複数)いて、男手も女手もあって、親戚付き合いや近所付き合いもそれなりに良好で、幼い頃から弔いを何度も経験し地域全体で受け継いでいく…… こうして生きてきた人たちにとって、古くから土地に伝わる弔いは死生観を共有し死への心構えを作っていく大切な場ともなっていただろう。
    一方で、本書では触れられていないが、何らかの事情で土地に馴染めない人、爪弾きにされてきた一部の人たちの存在を思わずにはいられない。身内を亡くした悲しみに加えて、弔いの儀式自体がより辛く負担の重いものになったのではないか。

    土葬は急速に減少しており、村や町など共同体で慣習として続いてきた土葬は既に滅びかけている。現在は、全国の土葬を希望する人をサポートをする団体があるそうだ。
    過疎化が進み、何事につけても簡便化が進む現代で、土葬が滅びゆく現象自体はどうしようもないと理解は簡単だ。私にしても、「亡くなった方の生前の希望だから土葬を執り行ってください」と言われて自分が当事者になってみれば、途方に暮れるに決まってる。
    それでも、自分でも身勝手だと思うが、弔いの文化が時代の波に飲まれて失われていくことに、「本当にそれでいいのか?」という思いがある。
    「みんなで"ムダ"をいっぱいして故人を送ることが供養になるのです」というご住職のことばが印象的だった。「簡単・便利・気楽」と引き換えに心を失ってはいけない。

  •  印象に残ったことメモ。

    ・火葬は便利で手早いが遺族の気持ちがついていかないうちに終わることがある。土葬は、面倒で大変でムダなことが多いが、そうやって故人や死というものに向き合わざるを得ない時間を過ごすことが、弔いというものなのだ。…というような言説があちこちにあった(私のいい加減な要約であって厳密な引用ではありません)。後半の考えはわかるが、火葬にしたって葬儀屋さんや火葬場の人にとっては面倒で大変なこともあるだろうし、火葬対土葬というよりは、業者に頼むか自前(隣組のような、地域での制度的な協力体制を含む)でやるかの違いなのではないか。

    ・それにしても取材された土葬の実態の内容自体は、初めて知ることも多く、勉強になった。土葬の他、野焼き火葬、風葬、洗骨なども。

    ・「土葬の会」があるのも、選択肢があって良いことだと思った。

    ・読みやすい本かというと、そうでもない。重いとか難しいとかいう意味ではない。

  • 「死んだら故郷の土に還りたい、それだけや」

    火葬以外に弔いの選択肢があるということ、またそれを選ぶこともできるということ。風葬や土葬は海外の文化だと思っていた。日本でもそういう弔いを選べるんだなあと。
    そういう選択肢を残そう・広げようとしている「土葬の会」もいい活動だなあと思う。
    死者の死後の幸福を願う儀式、生者の生活を脅かされないよう願う儀式、弔いは祈りだなあと。
    日本は小さい国だから土葬文化を続けるのは厳しいのかなと思っていたけど、土葬を望む人が応えてもらえるとしたら素敵だなあ。
    死ぬこと・送り送られることを考えさせられました。

  • 99.8%と、世界的に見ても火葬率が高い現代日本。しかし、昔ながらの土葬で死者を送りだす風習を残した村が奈良と京都にあった。1990〜2020年の30年に渡る聞き取り調査の記録と、土葬と同じく実施が難しくなった野焼き火葬や風葬などの伝統の実態を知る人びとへの取材など、施設での火葬に一本化されていく前の〈弔い〉を後世に伝える一冊。


    内容的に「面白かった」と言ってしまうのは憚られるけど、とても勉強になった。まず、この10年以内にまだ野辺送りをして土葬する形の葬送をおこなっている村があることを知らなかったし、土葬がスタンダードな国(たとえば20世紀までの韓国)から日本に移住した人びとの受け皿がない現状にもこの本を読むまで思い至らなかった。
    とはいえ、感染病予防の観点から今後も火葬率は上がる一方だろう。土葬にかかる肉体的・精神的負担を知るにつけても、続けていくのは困難だと思わざるをえない。座棺に亡骸を納めるため、遺体の膝の骨を折るのは長男の役目だとか、縄で雁字搦めに亡骸を縛るとか、あるいは地面の陥没を防ぐため、四十九日にもう一度墓を掘り起こす(白骨化しきってないこともしばしば)など、想像だけでも辛いものがある。もちろん、風習が廃れてしまった一番の要因は、村という共同体が崩れてしまったことにある。
    しかし、老いも若きも一つになって葬礼をおこなうことは、死者とその遺族にとっては心落ち着くものでもあっただろう。また血縁ではなくとも、自らの死を意識する年齢の老人たちにとって葬礼は予行演習のようなものであり、自分も同じように手厚く弔われるのだという安心感を得られもしただろう。葬送儀礼は共同体の未来が続くことの象徴でもあったのだと思う。

  • 読了2021.09.20
    弔う作法は思っていたよりもずっと多く、時代とともに形を変えてきたんだなあ。
    コロナ禍で葬儀の形が簡略化されたり、いろいろ考えるこの頃です。

  • 火葬場が近くにないと土葬が多いが、近くに火葬場があると便利なので土葬が少なくなっていく印象を受けました。

  • ベースは民俗学だけど、終活に興味がある人が読んでも面白い。現代の視点から語られているので、単なる昔ばなしではなくどのように今にいたるのか、今、葬式や埋葬方法についてどう考えるかというヒントを投げかけているように感じた。民俗学は今をいかに生きるかという学問なんだというわかりやすい例かも。

    印象に残ったこと
    ○「死んだらどこへいくのか」。もともと日本人は極楽浄土へいくという仏教的な考えよりも身近なふるさとの山に帰ると思っている人が多い。山中他界観というらしい。葬式=仏教のイメージが強く、神式のお葬式は想像もつかなかったので、本書で初めて知った。また「山にかえる」的な考え方は神道由来の考え方ということも初めて知った。

    ○神葬祭は、魂は霊壐に乗り移らせ、埋葬は遺体を葬るための祭儀という考え。

    ○三重県の天台宗の寺院がある村では、埋葬して四十九日のタイミングで墓を掘りかえす。死体となっても髪が伸びていることがあるという。そして棺に土を入れて埋め戻す。土葬の中でも最も凄絶と著者が評していた。取材もなかなか取り合ってくれなかったという。

    ○現在は土葬の会というグループがあり、宗教も不問のグループという。会長曰はく、「順風満帆に生きている人、元気な人は会員にいない」という。そういう人はまだ死なないと思っていると。これが実際なんだろうなあと思った。また、亡くなってから家族が慌てふためくことのないように、予め自分の意志を家族をよく話あっておくことが大切、というACP的なお話もあった。

    ○浄土真宗のお坊さんが亡くなった際、小さい骨壺は親鸞聖人の眠るお墓へ、大きな骨壺は村のお参り墓へ納骨される。

    ○野焼きの話。炎に包まれると、座間に胡坐をかいている体が背骨から崩れ落ちるので、死体が踊っているように見えたという証言がいくつもあると。これは「のぞきめ」を彷彿とさせた。ホラーの原点の一つを見た気がする。

    ○死枕を蹴るという風習。死霊の宿る死体に触れることを恐れ自らを守るための衝動であったとされている。
    →こういう本をいくつか読むまでは、上記のような風習とか、死霊とかケガレとか、死んだ人に対して失礼だなあと思っていたが、共通事項として「その人を死にいたらしめたもの」あるいは「魂の抜けた死体にやどる悪いもの」を恐れていたこと、死因もよくわからない時代の死への恐怖がベースになっているのだということがわかってきた。

    ○遺骨の引き渡しは遺族でなければできない火葬場が多い。今後親族のいない人の死が増えることを考えると課題であると思った。

    ○筆者が行なった友人葬について。まだ友人葬というのは少ない。弔いの歴史を見ると、伝染病や市のケガレを恐れたことから家族だけが弔ってよいとする規範が生まれていったということがわかり、死のケガレを恐れなければかけがえのない友人同士で弔っても良いのだと自分のこれまでの規範からすこしずつ解放されていったということが書かれている。じーんとくるエピソードでこれも過去から現在まで続く風習を知り、現在に生かすという民俗学のあってほしい姿だと感じた。

  • 扱うテーマが興味の対象かどうか、筆者の熱が感じられるかどうか、そして、全体の構成が理解の流れを促すようなものかどうか。
    今まで意識していなかったが、この本を読了して、私がノンフィクションやルポルタージュを読み終わった時に、その本を評価する際に用いる基準がこれらであることに、気づかされた。

    この本、興味の対象でもあるし、筆者の熱も十分に感じられたのだが、構成が下手すぎて、内容があまり頭に入ってこなかった。2~3段落ごとに小タイトルが付されているのだが、それらの小タイトルの並びが徒然過ぎて、結局最後まで読み流してしまった。

    一方、これまで日本には火葬しかないと思っていたそのバイアスが取れたことは、この本を読んだ一つの成果である。

  • 私設の葬祭研究所を主催するルポライターでもある著者が、滅びつつある日本の土葬文化や、野焼き火葬(近代的な設備を持つ火葬場ではなく、住民自らが操作する超小型のボイラー設備等で行うもの)、風葬など、様々な弔いの風習をまとめあげたルポルタージュ。

    正直なところ、本書を読むまでは土葬というのは何かしらの法規制で禁止されているものだとすっかり思い込んでいたが、そんな法規制というものは存在しない。単に利便性等の観点から、近代的な火葬場での火葬がメインになった、というだけの話であり、実は奈良県など関西の山奥の地区では土葬文化が存続しているという。著者は自らそうした土地にインタビューに赴き、土葬に紐づく様々な風習・しきたりなどを丹念にまとめあげている。

    特に驚愕したのは、1970年代まで三重県の一部地区で行われていた”お棺割り”という風習である。それは、四十九日のタイミングで土葬した墓を掘り起こして棺桶の蓋を破壊し、そこに土を入れて再度埋め直すというものであり、時期によっては白骨化せずにミイラ状になっているケースすらあったという。なぜこのような一見、凄惨に見える風習があるかというと、それには明確な理由がある。この地域の土は水分保有量が多く崩れやすいために、時間が経つと棺桶の中の空洞に土が入り、墓が倒壊してしまうのを防ぐためであるという。

    ”死んで炎に焼かれるよりは、自分が生まれ育ったこの土地にそのまま埋めてほしい”、と土葬を願う地元住民の声を聞くにつけ、自らの死に方を選ぶ自由というのは確かに残ってほしいと切に思う。

  • 民俗学の本というよりも、どちらかといえばルポや民族誌に近い。著者は直接その村を訪ね、現地の人たちから生の証言を得た上で、この本を書いている。
    中には一度埋めた遺体を掘り返したり、埋葬する前に傷つけたり、燃やしたあとに焦げた脳みそを食べる風習をもった村もあったそうで、日本の習俗の裏に隠れた奇妙な世界を垣間見たようだった。
    日本の火葬率が99%になったのはここ最近であり、以前は土葬も多く見られたそうだが、なぜこのような推移があったのか、著者は言明していない。そもそも、法律で禁止されたわけではないから、分析が難しいし、それ以上立ち入って考えるのは本書の主旨から外れると判断されたのだろう。
    読者としても、民俗学者ではないのだから改めて深くこの点について考える必要もないだろう。ただ火葬の場合葬儀が効率的だし、一体あたりが占める埋葬場所の面積がかさばることも少ない。おまけに葬儀屋の営業がうまい、という地元民の証言も紹介されていた。
    葬儀の形態としては風葬→土葬→火葬の順で古いそうだから、火葬が歴史的に見て伝統的、というわけではない。もちろん火葬もうん百年近い歴史があるから近代の産物!ということはできない。
    ただ現行の葬儀の形態では仏教色が強いし、ほかの宗教の葬儀もままならないうえ、故人の意図を汲んだ葬儀を完璧に行うことは難しい。人を弔う、というのは死と向き合う、ということだ。だからこそ、様々な価値観が隣り合わせに存在する現代で、可能な葬儀を考えるとき、失われた日本の風習や考え方に目を向け、その可能性について考えることも悪いことではないと思う。

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著者プロフィール

1954年、京都府生まれ。ルポライターとして葬式、笑い、科学、人物を主要テーマに取材・執筆。高橋葬祭研究所を主宰し、死と弔い関連の調査、研究、執筆を行う。雑誌『SOGI』で「弔いの系譜—仏教・民俗」を約10年間連載。絵・イラストを描き、切り絵の個展を何度も開催。著書に『ドキュメント 現代お葬式事情』(立風書房)、『葬祭の日本史』(講談社現代新書)、『看取りのとき―かけがえのない人の死に向き合う』(アスキー新書)、『寺・墓・葬儀の費用はなぜ高い?』(飛鳥新社)、『死出の門松―こんな葬式がしたかった』(講談社文庫)、『お葬式の言葉と風習―柳田國男『葬送習俗語彙』の絵解き事典』(創元社)、『土葬の村』(講談社現代新書)、創作絵本『いぶきどうじ—オニたんじょう』(みらいパブリッシング)など。本書には、聞き取りをもとにして作成した切り絵やイラストがふんだんに挿入されている。

「2022年 『近江の土葬・野辺送り』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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