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Amazon.co.jp ・本 (250ページ) / ISBN・EAN: 9784065239490
作品紹介・あらすじ
大澤真幸・熊野純彦両氏の責任編集による新たな叢書、ついに刊行開始!「自らの思考を極限までつき詰めた思想家」たちの、思想の根源に迫る決定版。21世紀のいま、この困難な時代を乗り越えるには、まさにこれらの極限にまで到達した思想こそ、参照に値するだろう。
本書は、ニーチェの道徳批判に焦点を当てる。ニーチェは道徳を批判した。今ある道徳を改善するためではない。われわれの道徳意識を「キリスト教道徳」と規定し、これに対して一切の価値転換を迫る。では、なぜ批判したのだろうか。正義や同情をどう考えればいいのだろうか。主として『道徳の系譜学』を中心に読み解き、ニーチェ哲学の魅力と射程に迫る。
【目次より】
第一章 歴史と系譜学
第二章 ルサンチマン
第三章 良心と禁欲
第四章 生の価値と遠近法
みんなの感想まとめ
道徳批判に焦点を当てた本書は、ニーチェの思想を深く掘り下げ、特に「ルサンチマン」や道徳意識の成立過程を考察します。著者は、ニーチェの道徳批判が単なるモラリストの視点とは異なることを強調し、彼の超越論的...
感想・レビュー・書評
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哲学的歴史を相剋したものとみなすとき、それが因果的な過去や史実に限らず、「昨日何をしたか」という個人の記憶や道徳的履歴まで含めて考えるべきだと感じた。その上で、結局、一人の人生は生まれながらの初期設定も含めて〝因果“あるいは〝予定説、運命論“で描き出せるものであり、ニーチェの超人という思想は、その関係性からの思考的離脱にあるのではなかろうか。
ルターやカルヴァンの予定説は、「人間は生まれる前から救われるか否かが決まっている」という救済の選別を前提とする。が、ニーチェは人間が自己を創造しうる「自己超克」を重視。つまり、予定説が押し付ける「すでに決まった運命」や因果論には反旗を翻し、自らの運命への主体的姿勢を超人に見出した。未来を自ら書き換える存在として超人を仮定する。
そして、いわゆるフォアキャスティングでもバックキャスティングでもない、今を生きる刹那の繰り返しを「永劫回帰」とした。様々な文脈の中で自我は象られ、連関している。だが、結局はそうした外部性に関わらずに存在する個性こそが超人であり、その純粋な存在は、繰り返しても同じ。純粋な存在を重視すべきだ。
ー ニーチェはなにも、歴史的人間を忘却の力で非歴史化することを目論んでいるのではない。いいかえれば、自然の意志衝動によって人間を野生化することで、歴史病を治そうというのではない。ニーチェはむしろ「超歴史的な立場」に立つことで、歴史と非歴史をひとしく超克しようとする。超歴史的立場とは、歴史のなかに非歴史を見てとる立場である。この立場から見れば、歴史的な偉業や達成をつくりだす人間の魂や文化の活力は、歴史過程のなかで発達するのではなく、むしろそのつど完成して終局しているのであって、それゆえ同一の形が歴史と現在の生を貫いている。超歴史的立場の命題をニーチェは次のように定式化している。過去のものと現在のものは同じ一つのものであり、すなわち、あらゆる多様性にもかかわらず類型としては等しい。それは、不易の諸類型の遍在として、不変の価値と永遠に等しい意味をもつ静止した形姿である。これは後年の「永遠回帰」の萌芽となる思想であるといってよい。
ー 歴史を虚構にしないためには、歴史に対する尚古的な態度が必要である。「尚古的歴史」とは、いにしえからの文物や伝承の骨董的な保存という意味での歴史である。過去をもたない人間は、いわば根無し草のように軽薄であろう。みずからを形成してきた伝統を学び、保存し、その敬虔な雰囲気のなかで呼吸すること、その伝統に根ざして養分を受けとることが人間の成長には不可である。
正直に言うと、ニーチェが何のために永遠回帰などという、逆説的には人生が何度も生きられるような思考実験を用いたのか、分からない。一度きりの人生だと考える方が超人の前提に相応しい気がするからだ。その方が余程、大切に生きるはずではないのか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ニーチェの『道徳の系譜』を読み解くとともに、彼の道徳批判がもつ超越論的な意義を解き明かそうとする試みがおこなわれています。
ニーチェの道徳批判といえば、われわれの道徳的な心性の背後にルサンチマンが控えていることを指摘したものとして広く知られています。しかし著者は、ニーチェの道徳批判を、いわゆるモラリストたちのそれから区別しなければならないと主張します。モラリストたちは、表面上は道徳的にふるまっている人びとの心の奥底に、非道徳的な動機が存在していることを鋭く見抜きました。しかしそうした批判は、いまだ道徳そのものに対する問いなおしではありません。
著者は、「ニーチェがカントの批判哲学の超越論的な問題設定を継承したこと」を承認するという立場から、彼の道徳批判を理解しようとします。ニーチェの思想における超越論的な立場からの考察は、「系譜学」という歴史的な方法として具体化されましたが、それは「発生論の誤謬」を犯すものであってはなりません。このアポリアを切り抜けるために著者は、『道徳の系譜』の議論を読み解き、ルサンチマンにもとづく自己欺瞞に対するたえまない自己検閲をおこなうことで、道徳的な意識が成立したことを明らかにしています。
一方で、こうしたニーチェの超越論的な系譜学の立場にもとづく議論は、道徳批判をおこなうための価値基準をみずからのうちにもつことになります。このような問題に対して、ニーチェは、あたらしい価値をみずから創造する「超人」の思想を提出することでこたえようとしたのだと著者は論じています。
「あとがき」で著者は、「ニーチェの方法論的核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という確信のもとで本書を執筆したと述べています。ニーチェの思想の解釈としてたいへん意欲的な試みだといってよいと思います。 -
カント専門家による『道徳の系譜学』を中心としたニーチェ読解の書.卒論はニーチェで,大学院でカントに乗り換えたとのこと(あとがき).
正直,最終章の僧侶とニーチェの生の価値の優劣の箇所は全く着いていけませんでしたが,それ以外は非常に整理されており分かり易かったです.
はじめの1冊目としては難解かもしれませんが,手軽な二次文献の中では頼りになる優れた解説本だと思います. -
『道徳の系譜学』を中心とした論考であり,ルサンチマンの理解を深める。
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ニーチェの『道徳の系譜』を読み解く上で非常に参考になった。『道徳の系譜』初読の時点では全く見えなかった景色が、この本を足がかりに見えた。ニーチェ初心者は、できれば『道徳の系譜』とこの本を交互に理解しながら読み進めるのがいいのではないと思う。
しかしこの本で解説される部分は、『道徳の系譜』の特に大事なところ、要点に絞られるので、ところどころは自分自身で、あるいは他の解説書を参考にして読まなければいけないところもある。
また、『道徳の系譜』では触れられていないニーチェの思想も四章で触れられるが、『道徳の系譜』のみの解説で良い人には二章と三章で十分だろう。
それと、著者はニーチェが専門ではなく、カント研究者らしい。しかし、『道徳の系譜』に何箇所も出てくるカントの部分の解説が欲しい人には特に参考になるだろうと思う。
また読み返して、今度は理解しきれてない部分を拾っておこうと思う。 -
本書はニーチェの哲学全体を『道徳の系譜学』を中心軸として論じている。著者はニーチェが書かなかったことや見落としたことまで指摘しながら考察を進めている。その際、様々な論者の異説が比較されることで、著者の説得力が増している箇所も多い。このような読み方は自分一人では到底無理なので大変ありがたい。
『道徳の系譜学』の三つの論文は、ときに第一論文(つまり『ルサンチマン』論)の読みやすさとインパクトが際立つため、それだけで論じられることもあるが、本書では三つの論文の内的関連も重視されている。主題はそれぞれ、第一論文『ルサンチマン』、第二論文『疚しい良心』、第三論文『禁欲主義』であり、これらはどれも『道徳』の『原動力』であるとされる。著者の整理では、『意味のない苦悩』は耐えがたいが、その『苦悩の正当化』はどこに求めてもよいという洞察を前提に、その向け先を内部に求めれば『疚しい良心』が、外部に求めれば『ルサンチマン』が見いだされ、そのような『解釈』を先導するのが『禁欲主義の理想』の『僧侶』である、というように三つの論文の有機的なつながりが示される。そしてさらに、これらのキリスト教の『道徳』が勝利してきたのは、それが『唯一の理想だった』から、つまり『対抗理想が欠けていた』からであり、だからこそニーチェは『ツァラトゥストラの理想によって更新することもできる』と考えたとされる。このように『道徳の系譜学』の内部から『ツァラトゥストラ』への導線も明瞭になる。
カントの専門家でもある著者は、ニーチェの哲学を『カントの批判哲学の超越論的な問題設定を継承』し、『カントの啓蒙のプロジェクトを貫徹しつつ、その陥穽を超克するもの』であり、『おのれの定言命法を発明する』ように鼓舞するものだと評している。具体的には、ニーチェの『道徳』は『誠実』=『価値評価する生を開示してみせる立場』であるのに対して、比較される僧侶の『道徳』は『不誠実』=『道徳的価値の客観的な真理性を唱道し、そのもとで自己の生を隠蔽する立場』である。前者は『既存の価値基準に隷属的に依拠することなく、価値評価における遠近法をみずから開設するのであり、しかもその遠近法によって序列化される位階秩序において、その元首的な位階におのれを置くことによって、自律的に尊厳を体現して、みずから高貴になる』という立場であり、そこからは後者の『隠蔽の秘めた身振りが見通せる』ことになる。カント道徳論においては『意志の格率』という主観的なものだけが問われる。ごく素朴に、本人が善と信じてなす悪行があふれているこの世界において、私はカントの考え方は極めて無責任だと感じる。そして思うに、常識人カントは自説に潜むこの非社会性を前にして立ち止まってしまい、だからこそ自身の体系に「心の不死」だの「神」だのを慌てて後付けするはめになったのだ。もしニーチェがこのように考えたのなら、カント以上に「自律」というカント的原則を押し進めた結果、その極限形態として『貴族的』な、まさしく著者がいうように『おのれの定言命法を発明する』ように鼓舞する『道徳』が帰結することも何ら不思議ではないと思う。
最終章では『道徳の系譜学』以後のニーチェが扱われる。著者の『永遠回帰』解釈では『無限に反復されることで極端に大きな文字へと拡大された自己を、是認しうるか否か』が問われることになる。そして、『永遠回帰』の試練を経由した『自己是認』とは『生活のすべてが然るべく配置されて、最善の成り行きであると確信しているような、晴朗な精神状態のこと』だとされる。一方でそれは『実存主義的な読み方で推奨されていたような、雄々しくも悲壮なもの』ではなく、そのようなものは『永遠回帰の不条理な無意味さに対するルサンチマンであり、その無意味さに屈することなく諦念と覚悟をもってこの人生を愛そうとする禁欲主義であろう』と否定される。そのような確信に満ちつつ静謐な境位ということで、私はスピノザの「直観知」を連想した。さらに著者は、『永遠回帰』によって『人類の歴史をも救済する』可能性を示唆している。それは例えば『ツァラトゥストラ』の『すべての「そうであった」は断片、謎、残酷な偶然である──創造的意志がそれに向かって「しかし私がそう欲したのだ!」と語るまでは』という言葉に示されているようだ。著者の説明によると、繰り返し『そう欲する』とき、『創造的な意志』によって、『過去』は『現在の生を形成する歴史として継承』され、『未来』は『解釈され展望されることで将に来たるべき歴史』となり、そのとき『永遠回帰』とは『歴史』と『解釈する人間的生』の全体を『その動態において肯定する形式』である…ということだ。私はここではハイデガー『存在と時間』を連想したのだった。 -
カント研究者の視点が随所に光る。
キーワードは超越論的。
ニーチェの道徳批判を『道徳の系譜』に基づいて丁寧に読みほどいている。
ニーチェの問題意識がよく分かる。
最後に著者が読み解いた、個人としてだけではなく、人類としても、歴史としても、道徳を解体していく「永遠回帰」の思想は魅力的だ。 -
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今の自分には消化しきれない説明が多かった。また今度再訪したい感じ。
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文章が挑発的で素晴らしかった。
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ニーチェを多数読み込んでいるわけではないので、著者の言わんとするところがどこまで理解できているか心許ない。さしあたり「道徳の系譜学」を読んでから再度チャレンジしたい。
著者プロフィール
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