- 講談社 (2022年7月14日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (336ページ) / ISBN・EAN: 9784065241066
作品紹介・あらすじ
あなたが「思っている」と思っていることは、全部でっちあげだった!
「心の奥底には何かが隠されている」と、誰もが思いたがる。
心理学者や精神分析学者たちは、暗がりに潜むものを暴き出そうと奮闘してきた。
だが、神経科学や行動心理学の驚くべき新発見の数々は、隠された深みなどそもそも存在しないことを明らかにしている。
「無意識の思考」などというのは、神話にすぎなかったのだ。
わたしたちの脳は、思考や感情や欲望を「その瞬間に」生み出している……行動の理由も、政治的信念も、そして恋心さえも。
本書が紹介する数々の驚くべき実験結果を目にしたとき、そのことを疑うことはもはや不可能になる。
世界はどのように存在し、自分はどんな人間であるのか―それも、脳がもつ途方もない即興能力によって創り出されるフィクションなのだ。
認知科学をリードする世界的研究者が脳と心の秘密を解き明かす、超刺激的論考!
※原題は、The Mind is Flat: The Illusion of Mental Depth and The Improvised Mind (Penguin, 2019)
【本書「訳者解説」より】
本書の最終結論である「心には表面しかない」ということは序章から明記されており、深みという錯覚で私たちを騙している犯人は脳であることが、あたかも最初から犯人がわかっている倒叙ミステリーのごとく、はじめから述べられている。そして、心理学実験を紹介しながら進められる論証は、章を追うごとに説得力を増していくことが、一読してわかるだろう。
・
チェイター教授は、オークスフォード教授との推論心理学(人間はどのように推論するのか)の共同研究を続けつつ、意思決定や判断、言語や社会的相互作用へと研究領域を拡げ、また自ら会社を共同創業したりイギリス政府へ協力したりと、認知科学のビジネスや政策への応用にも取り組んでいる。
・
「心は実体というよりは、外界と接する接触面(インターフェイス)における即興演奏の ”手癖” である」という捉え方を展開する本書の射程はかなり広い。
【本書の内容】
序章 文学の深さ、心の浅さ
第一部 心の深みという錯覚
でっち上げる力/現実という実感/インチキの解剖学/移り気な想像力/感情の創作/選んだ理由の捏造
第二部 即興が「心」を作る
思考のサイクル/意識の経路の狭さ/無意識的思考という神話/意識の境界/原理ではなく前例/知性の秘密
終章 自分を創り直す
みんなの感想まとめ
思考や感情は、その瞬間に脳が即興的に生み出すものであり、無意識や深層心理といった概念は実際には存在しないという新たな視点を提供します。私たちは、外界からの情報と過去の記憶をもとに、脳がその都度創り出す...
感想・レビュー・書評
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〜だから、〜だ。例えば、雲ひとつない空だから、雨は降らないはずだ。雲ひとつない空は朗らかだ。笑顔も朗らかだ。創造主が朗らかな気分だから晴れたのだ。人が善行をすれば、互いに笑顔だ。人の善行は創造主を朗らかにし晴れさせる。
この推論が物語化、意味づけの正体ではないか。
この本が明らかにするのは、我々が意味づけをしながら世界を認知する生命体であるということ。それに加えて、斬新なのは「自らの身体的変化に対しても、何かしらの意味づけをして物語化する。そしてそれこそが、感情である」という仮説である。
ロールシャッハテストのような黒いインク。あれは、一度ネタバレすると、その形状にしか見えなくなる。これを外的な意味づけとして、物語化の基礎的なものだと考えるが、結局、黒いインクみたいな、断片的な刺激は内外にそこかしこ生まれ、それを結びつけて解釈し、自衛しているのが人間である。
難しい本を読んでやんわり分かった気になる。それは、分かる範囲で意味づけをしたギリギリの認知世界である。実はじっくり繰り返し読めば解像度は上がっていく。この直感的な認知が、荒い我々の感情物語の篩い分けに近い。
ー 心臓が早鐘を打っている、血液中のアドレナリンの量がこれこれである、呼吸が速くなっている。脳が体から受け取る知覚信号は、そういうかなり大雑把なものだ。しかしそれらは一体、何を意味しているのか?自分の内的状態についての知覚という経験もやはり、より広い文脈のなかに置いたときに意味をなす解釈によって左右されるのだ。つまりまったく同一の生理学的状態が、苛立ちという「気持ち」になり、嬉しさという「気持ち」にもなる。
ー いわゆる「頭」と「心」の衝突というのは、理性と感情の戦いなのではない。ワンセットの理性と感情が、もうワンセットの理性と感情と戦っているのだ。
我々は自らを物語として経験的に語るのみで、その内感受性により人格が知覚される存在である。身体がなければ、例えば内臓がなければ飢えは感じないし、満腹も、食い過ぎも感じない。安心も恐怖も感じない。それこそが感情である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
一般的に私たちが考えている「バックグラウンドで考え続ける」無意識というものは存在しない、という主張の本。つまり我々の思考や感情はその時その時に感覚器官からもたらされる情報と、記憶の蓄積から、脳が「即興的に」生み出しているだけ、ということだ。無意識なのはその即興性だ、というかそこ即興性が意識できない、ということ。「記憶」の解釈には踏み込んではいないが、バイアスやらスキーマのようなモノの見方も、解釈機関たる脳の「手癖」のようなものだ、と思えば納得できるかな。世界の見方を変えるには、やはりいろいろと新しい経験やら考えを記憶の棚に追加して、解釈の幅を広げるという地道な作業が必要なのだろう。「われら全てを無に引さらう永遠の創造、そんなもの、何になる?」
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原題は、THE MIND IS FLAT
心はフラット。平ら。深さはない。
フロイトが発見した無意識はもちろん存在しない。
あるのはニューロンのネットワークの発火のみ。
私たちは小説の登場人物のように一貫したキャラクターを持っているように見えるが、じつはニューロンの共同作業によってなされる思考のサイクルは、一度につき一回。
極端な話、そのつど脳の働きがでっち上げているものが思考だ。なんだか元も子もない話だが、本書を読むと納得させられる。
マルチタスクと言われるが、あれもできるものとできないものがあるようだ。脳ができる仕事は基本1つの作業だけ。
すべての記憶を参照しながらAIと比べたら遅々とした作業をおこなう。
(このメカニズムのくだりを読んでいたら、ベルクソンの『物質と記憶』を思い出した。そして彼の洞察力に驚嘆した。ほとんど彼がその著作で書いていることだった)
脳が得意とするのは、類推だ。記憶を頼りにして、目の前の現象と過去の記憶を照らし合わせる。それこそが比喩だ。
これはAIにとってひどく難しい仕事なのだそうだ。だから人間の知性の真価は今のところこのアナロジーの力にこそあるようだ。
私たちはアナロジーの働きを借りて、まるでスナップショットを撮るように思考している。断片の継ぎ合わせによって世界を認識している。じつはスカスカなのだ。
けれども私たちには類推によって物語を作る能力があるために、まるで深遠な心が存在するとさえ思い込む。
そのような脳の特性に囚われた存在が私たちなのだ。
でも考えてみれば動物によって世界認識の仕方はかなり異なる。どうして人間だけに真実を知ることができるだろう。そもそも真実という概念(言葉)も人間が発明した物語だ。
本書を読めば心にまつわるもろもろがフェイクであることがわかるが、それでも人間が真実にこだわるのは、じつはそれが真実ではなく善悪や損得の問題であるからだ。
その意味で真実は権威と密接に結びついていることがよくわかる本だ。 -
【ザクっと所感】
・星3.5〜3.8くらい。主張はめちゃくちゃ面白い。ただ私の理解力と、読み終わるのに一年かかっちゃう読書スピードでは「結局こうなんですわ!」と人に言えるほどまではアハ体験できなかった。多分再読が必要。
・本当の自分が〜とか心の奥底では〜みたいなものを徹底的に否定していて大変痛快だった。割と市民権ありそうなトラウマすらも「後から無理やり意味付けしてるだけ」と否定的だったが、まあこれは諸説あるかなと。(個人的にはトラウマなんてものはフロイトが作ったバカ言説でした!の方が有難い気持ち)
【気になったこと&とはいえ…なこと】
・表面とは何か、深みとは何か、冷静に考えるとそこまでちゃんと定義されてなかった気がする。記憶や意味づけの積み重ねの結果こそが無意識や本当の自分的なものやないか!と言われたら、まあそうだね…と。
・とはいえ、本当の自分やら裏の顔が〜的な呪縛は存在せず、経験と意味付けの積み重ねによってのみ人は構築されるのであるという論理にはなんだか救われる気も。油断するとすぐ運命論に流されちゃうんだから全くもう…。
【なんかこういう意味だった気がする】
・即興する知性。人の心に深みや本当の自分や裏の顔やマルチタスクや写真記憶やせりあがる感情などはなく、ただその瞬間瞬間に起こることに集中して出力(意味付け)しているだけである。
・しかし、人がすごいのはその出力にあたり、過去の出力のうち一見全く関係なさそうなものをも紐づけてしまったりする想像力なのである、と。過去の経験(意味付け)の積み重ねとそれに伴う今の出力の豊かさこそ人の知性で、それこそが尊いのだ、と理解した。違ったらすみません。
【この本そのものの背景やら文体やらに対して感じたこと】
・この本は人工知能をGPT-3くらいのレベルで想定している気がするが、なんだか人にしかないっぽかった豊かな想像力も今やAIは比肩するレベルになっちゃったなあ…。
・具体例パートがちょっと長いのと、翻訳文ならではのノイズがあったのとで読みづらさはある。現代文の読解をやっている気分になった。
【雑多なメモ】
・不安は所詮解釈でしかない
・豊かな出力をするためにはやはり豊かな入力(経験)が必要。経験からしか出力しないのだから
・読書とは修行である、とこの本を読み進めながら思い出した -
今年読んだ本の中ではベストの書だ。
「感動した」とか「泣けた」とかじゃなくて、せっかく一冊本を読むなら、こういう盲冥を照らすような書を紐解くべきだなと改めて感じた。
共著であった『言語はこうして生まれる』が面白く、訳者があとがきでも本書の紹介がしてあったので、興味がわき手にとったが、それでももっと話題になっても良さそうなのに、それほどでもないのはホント不可解。
強いて言えば、ちょっとタイトルが頂けないかな。
堅過ぎるし、ありきたりだし。
原題どおり『みんな心は薄っぺら』にすればと思ったが、ちょっと刺激が強すぎるか。
「心には”深み”も”奥行き”も”深層”もない。あるのは薄っぺらな表面だけ。心の奥に何かあるなんて信じてるのはオカルトですから、残念」なんて言ったら、自己意識を肥大させた読者の共感は得られんだろうなと思うけど、へたな心理療法にかかるよりよっぽど健康的だし腑に落ちるんだけど。
かつて話題になった『嫌われる勇気』は、本書だけで276万部発行され、しかも今も海外に読者を獲得していて、なんとシリーズ累計は全世界で1,000万部を超えるのだとか。
せめてその1/3くらいの読者を獲得してもバチは当たらないだろうに。
比較に出したからというわけではないが、無理に共通点を見つけると、両者ともどこに境界線を引くべきかという論点が通底している。
『嫌われる勇気』では、本来は他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思い込むような承認欲求に縛られた生き方を否定するアドラー心理学を核として、「課題の分離」という考えを呈示している。
「ここら先は自分の課題ではない」という境界線を引き、他者の課題は切り捨て、自分の課題に集中しようと説いている。
一方の『心はこうして創られる』では、意識と無意識という従来の境界線自体を引き直す。
フロイト以来の精神分析で好んで常用されている、無意識という名の、水面下に暗く巨大な質量を秘めた氷山があるというメタファーなんて間違いだ、と。
そんな所に境界があるんではなくて、思考の意識的結果と、その結果を造り出した無意識のプロセスというところにこそ境界線があるのだ、と。
順に追っていくと、著者はまず、心の隠された深みの解明に失敗してきたのは理由があると説く。
そもそも「心には隠された深みがある」という発想そのものがデタラメだ。
心理療法、夢分析、何をどれほど試しても、人間の「真の動機」を取り出すことはできない。
見つけるのが難しいからではなく、見つけるべきものは何もないからだ。
心の内側の信念や動機や恐怖も、それ自体が想像の産物なのであり、その場でひねり出した自己解釈に過ぎない。
自分の知識や動機や欲望や夢についての私たちの説明は、実は薄っぺらな即興であり、事後的なでっち上げなのだから。
「人は自分の行動を説明するにあたって最終的な発言権など持ち合わせはしない。不完全な寄せ集めであり、どこまでも異論の余地があるという点で、本人の解釈と他人の解釈は何ら変わらない」
「私たちが自分や他人の言動を正当化したり説明したりするために語る筋書きは、細部が間違っているのではない。始めから終わりまで純然たる絵空事なのである」
こうなってくると行動の解釈の信憑性はどうなってしまうのか?
京アニ事件の裁判で、被告が事件の動機などに関して何を語るのかが焦点となっているが、どう考えたらいいのだろう。
検察は「犯行の動機は妄想だ」と主張しているが、著者の論に従えば、動機が妄想なのは被告だけなのかと問いたくなってくる。
困ったことにと言うべきか、我々の現実の人生も、小説などの架空のキャラクターの物語と大差ない。
主人公が何を信じ、どう行動するかといったことが創作であるように、私たちの信念や価値観も、その瞬間のうちに作り出されたもの。
内的な世界から生み出されてくるわけじゃない。
「思考というのは、創作作品と同じく、拵えたときに存在しはじめるのであって、その一瞬前にはどこにもない」のだ。
「心を覗き込む」なんて発想も誤りで、まるで自分の内側の世界をつぶさに調べることができるように考えてしまう。
しかし内観とは、内的世界の知覚ではなく創作だとすれば、内観する力なんてないし、そもそも内なる世界そのものが蜃気楼に過ぎない。
ただ我々は、自分自身の言葉や行動の意味をとるため、その都度リアルタイムで解釈をひねり出しているだけなのだから。
読者は小説の登場人物の隠された動機が行間に潜んでいるように感じているが、現実においても我々は、本人すらはっきりと把握できないような内的な欲望や動機に操られていると考えてしまう。
しかし著者は、心に深みがあるなんて発想自体が幻想だと語る。
深くない?
じゃあ浅いのかと言えば、それも違う。
原題の「The Mind is Flat」、心には表面しかないというのが真実なのだ。
じゃあ我々はどうやって行動できているのかと言われれば、究極の即興家である心が、その行動を説明するための動機や欲望を、瞬間毎に創作してしまっている。
それがあまりにも華麗で流暢なものだから確固としたものに見えるが、映画のセットのように裏に回れば、実はハリボテの代物。
そう、薄っぺらで断片的で矛盾だらけなのだ。
そういう意味では、我々は毎日、それも一分一秒、心という魔術師が仕掛けるイリュージョンを体験しているのだ。
見方を変えれば私たちは、自分自身が創り出すキャラクターだとも言える。
私たちの心は物語を紡ぎ出している。
動機や信念、道徳基準、宗教規範に人間は動かされているのだという物語を。
それがあまりにも真に迫ったストーリーなので、我々は易々と騙され続けているのだ。
この小説のキャラクターの行動は矛盾している?
いや、辻褄の合わなさはフィクションだけの特徴ではない。
リアルでも細部が欠落していて当然だし、それが心の営みの著しい特徴なのだ。
「心の即興は、できるだけ思考や行動に一貫性をもたせること、役柄に徹し続けることをこそ任務としている。そうするためには、脳は絶えず努力していなければならない。つまり、以前の思考や言動とできるだけ食い違わないように、いまの瞬間に考えたり行動したりしているのだ。過去という主題曲のもとで現在という即興曲を奏でる驚くべき創作能力にこそ心の秘密がある」
「脳は即興家であり、現在の即興を以前の即興に基づいて作っている。知識や信念や動機からなる隠された内的世界ではなく、それまでの各瞬間の思考や経験の"記憶の痕跡"を利用することで、新たな瞬間の思考や経験を創り出しているのだ」
あの人は、言動がころころ変わったり、思いつきで行動すると批判するけど、脳が比類なき即興家であることを考えれば、むしろ当たり前のように思えてくる。
脳は、その瞬間ごとに意味を見つけ出し、その瞬間ごとにもっとも意味をなす行動を選択しているのだ。
「そのさい私たちの思考や行動は、過去の思考や行動という豊かな伝統に基づいている。今という瞬間の課題に取り組むため、脳は過去を利用し、再加工しているのだ。それだけでなく、今日の思考が昨日の前例を踏まえるのと同じように、今日の思考は明日のための前例となっていく。そうして私たちの行動や言葉や生活は一貫した形を保っている。したがって、何が人それぞれを特別な存在にしているのかといえば、その大部分は個々人の思考や経験が経てきた歴史である。言い換えれば、人は誰もが、つねに創造のさなかにある唯一無二の伝統なのだ」
ここで見てわかるように、著者は一般的な心理学やいわゆる精神療法に喧嘩を売っている。
なにせそれらは、内なる信念や動機、恐怖といったものを抽出して、そこから人間の振る舞いを理路整然と説明していく学問だからだ。
まるで数学の証明のように、前提を用意し結論を導く。
だけど人間の思考や行動は、こんな風に論証的には働いていない。
もっと即興的に、複雑なパターンでもぱっと識別するような働き方をしていてるはずだ。
ゆえに著者は、心についての多くの科学理論には根本的な欠陥があると語る。
「心のしくみについて私たちが知っていると思っていたことのほぼ全て、すなわち内観や正当化や説明のさいに抱いている直観は、まるごと捨て去る必要がある」、と。
これまでの心理学や神経科学が解き明かした成果の乏しさ、無意味さについても慨嘆している。
自己を意識するなどという話は支離滅裂なナンセンスだと言い切る。
初期の人工知能研究が失敗した理由もここにある。
人々の振る舞いの基礎となっている知識や信念や動機を明るみに出し、そこから抽出してきた思考方法を体系化して、人と同じように推論させれば、人工知能を作り上げることが出来ると考えていた。
が、失敗する。
抽出できるとされた直観理論も存在しないし、深く説明できるという考えも錯覚だった。
「内なる心の世界のどこか奥深くに、人間が行う推論の基礎となる理路整然とした理論が潜んでいたりはしない。出たとこ勝負、その場しのぎ、即席のでっち上げなのだ。研究者たちの目論見は、内なる託宣者の秘められた叡智たる直観物理、直観心理、直観倫理などなどを明るみに出すことであった。だがその託宣者たるや、詐欺師、夢想家、筋金入りの作話症患者であると判明してしまったのだ」
知覚経験の豊かさは幻想であり、五感と外界とは、か細いつながりしかないのだということも、多くの心理学者はなかなか認めようとしない。
感覚世界は緻密で多色刷りだという自分の感覚も錯覚で、感覚経験はすかすかなのだ。
眼の解剖学からわかっているのは、人は視線の先のほんの数度以内を除けば白黒でしか見ていない。
そればかりか、視界の周辺部は色がないだけでなく、極端にぼやけている。
しかし我々は、視野のすべてにわたって、外界が隈なく鮮明に映し込まれていると感じている。
実際には、ごく小さな「鮮明さの窓」を通してしか、世界を見ていないにも関わらず。
目をまっすぐに向けていないものはすべて、不完全な滲みでしかなく、極論を言えば、視野のほぼすべては無色でぼやけているのだ。
また実験データから、人が識別できるのは一度に一つの対象であることも判明している。
確かに部屋を見渡せば、ソファなどすべてが、同時に目に飛び込んでくる感じがする。
しかし実際にはどの瞬間においても、私たちが認識できる顔は一つだけ、読める単語は一つだけ、見分けられる物体は一つだけだ。
人込みを見るときも一度に一人しか認識できない。
色彩豊かな光景を見ているときも、真っすぐに見ている一ヵ所の色や細部しか言うことはできない。
たとえ視野の中心に複数の色が配されていても、人は二色を同時に把握することができない。
二色を同時に見ているような感覚でいられるのは、眼球運動によって、二色の間を視線がぴょんぴょんと素早く往復しているからだ。
実験データからわかっているのは、脳が処理できる色や形や向きは、一度にたった一つだけだということ。
脳が目指しているのは、周囲の世界の情報を知らせることであって、脳自身の動作を知らせることではない。
脳が見せたい世界しか、我々は見ることができないなんて、まるでマトリックスの世界だ。
脳という物語作者は、いかに自分たちが安定した世界を作るため、どれだけ複雑な処理をしているかなんて無粋なことを見せるはずがない。
ただ目立たないように背景に退き、我々が物語に集中できるよう望んでいる。
単語で埋め尽くされた一ページ全体を見ていると思い込んでも、実際には一度に一語だけ見ていて、それ以外のところは「規則的な列の模様がある」くらいの漠然とした印象のみを拾っている。
文章全体や目の前の光景の全体が見えているという実感は、目が視覚世界をぴょんぴょんと移動しながらかき集めた視覚情報の切れ端が統合されるからこそ生じているのだ。
眼球がつねにぴくぴくと動いていて、それは意識的に制御できない。
もし視線を固定したらどうなるか。
実験では、眼球運動によって何の視覚刺激も見つからなくなると、画像全体が完全に消失するのだとか。
このことからわかったのは、次のことだ。
私たちの脳は、解釈を押しつけることのできる素材を見つけようと絶えず全力で努めていること。
そしてその素材は、ランダムな断片としてではなく、単語やパターンなど、視覚的に意味のあるまとまりとして見ていること。
意味のあるまとまりとならない感覚情報は、なかったものとして無視される、ということだ。
「こうした実験結果はむろん、私たちが体系的に欺かれていることを示している。文章、物、顔、色。なにを見ているときであれ、自分が思っているよりも、ものすごく少ししか見ていないのだ。私たちが世界を見るのは、一度に一つの断片のみ。ただし、ちょうど物語の文章を繋げていけるのと同じように、断片どうしを結びつけている」
私たちは、きめ細かくて色とりどりの世界全体を見ているように錯覚しているが、脳が感覚経験を豊かに、そして整合性のあるように見せて騙しているだけだ。
目の前の光景のあちこちについての答えは、前もって保管されていた答えを引っぱり出しているのではまったくない。
自分の目がそこへ駆けつけて一瞬で答えを出しているだけだ。
一度に一つしか経験できなくても、必要ならどんな場所にも瞬時に視線を飛ばし着地させる。
視線を一瞬にして移動させ、注意を一部にフォーカスするというのが、この手品のタネだ。
我々は、局所的なひとかじりの映像を、脳によって、みっちり豊かで色彩の溢れる、確固とした連続世界として体験している。
知覚がもたらす「大いなる錯覚」は、実に適切で、必要不可欠だと著者が結論づけるのは理由がある。
緻密で色彩豊かな実際の世界をありのまま、すべての色や細部を我々に届けることは、目や脳の手に余る。
そのかわり目立たないよう裏で「大いなる錯覚」を仕掛けることで、世界が細部までフルカラーで存在している感覚を味あわせてくれる。
感覚世界が豊かだと実感できれば、意のままに世界を探察できるという可能性の感覚も生まれる。
しかしその感覚は、最初から答えはそこにあるという感覚を生じさせ、ひいては脳に前もって読み込まれているのだと勘違いさせる。
この脳による企みは良心的な騙しであるが、トレードオフとなる罠も仕組まれているのだ。
「手品のタネがわかってしまえば、何が一体、言葉による説明を中身のあるものと感じさせているのかもわかるようになる。ちょうど、視覚世界について自分がそのとき尋ねた問いに答えるために視線が動き出すことができるのと同じように、創作力あふれる心は、自分の行動や信念や動機をどう正当化しようかと思ったまさにそのとき、魔法のように正当化を登場させることができるのだ。なぜ水たまりはできるのか。家の電気の配線はどうなっているのか。そんな疑問が思い浮かぶと、ただちに自分の意識に説明が生まれる。そして、そういった説明のどの部分についてでも問えば、もっと多くの説明が際限なく湧き出てくる。あまりに淀みなくでっち上げることができるせいで、無際限なほどに込み入った説明のすべてが内的にあらかじめ形作られていたのだと思い込むことができてしまう。だがもちろん、答えは一つずつその瞬間に創られているのだ」
見る聞くなどの知覚体験がまやかしであったように、心の映像もスカスカで矛盾だらけだ。
人間の想像力や思考でさえも、本質的に即興で生み出されるフィクションである。
じゃあ、感情は?
腹を抱え涙を浮かべるほどの笑いも、顔が真っ赤になるほどの怒り、目の前が真っ暗になるほどのショック、肩をふるわすほどの悲しみなどは、さすがにフィクションと言うことはないのではないか?
実は感情も、内からの生理学的な反応ではなく、瞬間的・即興的な解釈の結果だと説く。
特定の感情は内から沸き上がってくるもので、それが特定の身体状態や生理学的変化を引き起こしているんだと考えがちだ。
例えば、自分は怒ってるんだ、だから心臓の鼓動が速くなっているんだ、と。
実際は、因果関係が逆で、生理学的反応がまずあって、その後から感情が伴っている。
心臓の鼓動が速くなっているのは、こう感じているに違いないと、何らかの感情を見つけ出そうとしているのだ。
つまり脳が自分の生理学的状態に照らして、そうした身体状態を材料にしてその瞬間に解釈することで、自らの感情的経験を作り出しているのだ。
特定の身体状態は必ずしも特定の感情と密接に結びついていない。
まったく同一のごちゃごちゃした思考を、私たちは絶望や希望、あるいは静かな諦めなどとして体感する。
自分の身体状態について、その都度、自己解釈しているのだと考えれば腑に落ちる。
心臓が早鐘を打つ、呼吸が速くなるなど、脳が体から受け取る知覚信号は実に多義的に解釈されうる。
まったく同一の表情でさえ悲嘆や情欲と解釈されうる。
「したがって、感情というのは内側から自ずとほとばしり出てくるのではなく、事前にはまったく存在していない。そのとき置かれた状況に照らして、その時の身体状態のフィードバックについて脳が作り出した、その瞬間の最良の解釈なのだ。私たちは自分の感情を解釈するため、自分の身体状態を読む。それは他人の感情を解釈するためにその人の表情を読むのと、ほぼ同じことなのだ」
「私たちは自分の体に感じる極めて乏しいシグナルを、自分の解釈する力しだいで、怒り、幸福感、熱狂、その他ほぼあらゆる気持ちとして感じることができるのだ。この解釈力は、自分の生活や周囲の世界のさまざまなことを分かろうとするときに用いている、まさにその能力なのである」
感情とは解釈を経たものだとすれば、幸せを演じれば幸せになるのだろうかという疑問が起こる。
無理やり笑い、楽しそうに踊っていれば、幸せになるのでは、と。
感情とは解釈だという理論が正しいのであれば、確かに幸せを演じることで、人生は少し楽しく感じられるようになるだろう。
著者はここで留意点として、強烈な逆効果の例、紛い物の幸せを演ずることで不幸せが高まる事例を紹介しているが、それより何より、日本各地に伝わる「お笑い神事」を思い出し、”あぁ、これか”と密かに感動させられた。
形は微妙に異なるが、年末年次のお祭りとして、境内で皆が「あっはっは」と大笑いして福を呼び寄せるのは、ほぼ共通している。
無理に笑って意味あるのかよと思っていたけど、感情とは解釈で、通常とは逆の連鎖が働くのなら、決して無意味ではないよなぁ、昔の人は賢いなぁと思ってしまった。
さらにこの理論を援用すると次の催しも効果的だとわかる。
例えば、なかなか嫁が見つからない若者がゴロゴロいる村で、村内唯一の吊り橋体験ツアーを企画する。
集まった参加者(主に未婚の女性)は、高くグラグラする吊り橋を、なんとか一人で自力で渡り切る。
そこで参加者は、渡り切った所に立っていた村内男性から声をかけられ、アンケート調査に回答する。
恐怖からアドレナリンが体内に駆け巡っている女性からしたら、この過剰な分泌を、渡り切った橋のせいから、話をしている男性の魅力のせいだと誤解するチャンスもなくはないだろう。
へたな婚活イベントやるより成功率が高そうな気がするがどうか。
ただ、本書にもある通り、危機的な状況で生まれた出会いは、長続きしないだろうけど。
とにかくこの第5章の「感情の創作」はほんと目から鱗で面白かった。
「感情とは内なる世界で発見される何かではなく、創作行為なのだ。私たちの脳は、きわめて多義的でありうる表情を、優しさ、はぐらかし、退屈の証拠、その他無数の可能性の具現化として解釈する。そして、自分の身体状態を恋人への気持ちを表したものと解釈するのも、絶え間なく働き続ける脳が、心臓の早鐘や息の荒さを、ある瞬間にはうきうきするような恋のしるしとして、また別の瞬間には絶望の淵に立たされたしるしとして、盛んに説明してみせている結果なのである」
激情に駆られてカッとなった瞬間の言動も、「本心が表出したのだ」と単純に思い込んでしまうが、実はその瞬間の支離滅裂な創造の産物だということも考えあわせると、過大評価に過ぎるというものだし、害悪でもありうる。
「紙幣の印刷模様や硬貨の合金比率をどんなに細かく調べても、価値を有しているのは紙や金属ではない。言葉がただの音ではないのと同じく、お金とは数字の印刷された紙ではない」
経験や人生の意味を探る時も、これと同じことが言える。
感情とは、解釈を経ない「ありのままの経験」から意味を得ていない。
そこには文化や伝統があり、関係性などのコンテキストを通じて意味を持つものだ。
選択の理由付けにも、解釈者である脳によるでっち上げが行なわれる。
何を選び表明するかは、自らの信念や価値観を収めた内なるデータベースからの読み出されるのではなく、まったき創作行為なのだ。
「私たちが思考や理由づけを紡ぎ出す速さと滑らかさには目を見張るものがある。あまりにも素早いものだから、自分に問いを投げかけたその瞬間に答えが心へ浮かんだように感じる。じつに淀みなく出てくるものだから、その場で自分が作り上げているとは自覚せず、答えはずっとそこにあり、読み取りされるのを待っていたという幻想を維持できてしまう」ほどだ。
その瞬間瞬間に選択の理由付けがなされているため、いずれの選択肢を選ぼうとも正当化できる。
そのため、同じ選択肢なのに、選びかつ拒むという奇妙な現象も生まれるのだ。
脳は毎回、新たな物語をぱっと作り出す。
このストーリーテラーは、わずかに異なるつつき方をされるだけで、大抵の場合は少し違った物語を紡ぎ出してしまうのだ。
創作の過程があまりに素早く流暢なせいで、内なる心の深みからの報告だと思い込む。
このことを著者は何度も強調する。
内なる心の深みという幻想と、流暢な即興性は、コインの表と裏の関係にあるようだ。
今まで全くできなかったことや理解できなかったことが突然できるようになる、アハ体験の瞬間はどう説明づけるのか?
あれこそ無意識のうちに問題を処理していて、答えが意識の中へ吹き出てきた証左ではないのか?
この考えも完全に間違っている。
「脳にバックグラウンド処理なし」だし、無意識的熟考をする余地すらないからだ。
突然の理解という現象は、バックグラウンドの思考がひそかに問題に取り組んだ成果などではない。
無意識が何時間、何日も熟考してくれたように見えて、実は正解は一瞬にもたらされる。
ひらめきは、乏しい手がかりや断片を組み替え、有意味な解釈へと噛み合わせることでもたらされる。
つまりアハ!体験とは、無意識的思考の証明ではなく、パターンを見つけにくいという問題そのものの性質に由来している。
思考サイクルにおいては、結果を経験するのであって、処理の過程は経験しない。
意識されるのは結果としての意味やパターン、解釈だけであって、それ以外の何も意識されはしない。
このことは、自分の肝臓の生化学的過程を意識できないのと同様で、心の内部処理も、自分で意識することはできないのだ。
このことを証明するため用いられるのが、日本の研究者のトゲ玉の実験なのだが、これまた実に面白い。
この実験を通してわかるのは、見え方にどれほど解釈が介在しているかであり、脳がそこに何があると考えたかで、我々の意識的経験が決定されていること、そして知覚とは、無意識的な推論であるということだ。
白黒模様のランダムな配置から、「トゲトゲの球体」という意味を作り出したいというのと同様の衝動が、会話の断片や文章から、演劇や小説の作品全体の意味をとろうとすることにも当てはまる。
意味を探し求め、パターンを見つけだす。ぴったりとした噛み合いは、新たな思考につながる。
こうした解釈の繰り返しこそ、人生そのものではないか。
私たちが古今東西を問わず、あらゆる生活文化全般にわたって、どうしてこれほど多くの比喩表現を日常的に用いているかの理由も、パターンを見つけだすという知性の秘密に帰因していると説明される。
構造らしき構造のない所や予想外の所にまでバターンを見出す能力は、「見立て」と同様であり、比喩表現を用いることは世界の一面に意味を押しつけ、それによって少しでも理解の助けにしようとする目論見と同じなのだ。
「思考のサイクルは、私たちにその存在や動作が見えるものではまったくない。その出力、すなわち感覚情報の有意味なまとまりのみが意識されるのだ。意識的経験の流れは意味の連なりであり、しかしそれらの意味を生成する処理(と、その処理が働きかける感覚データや記憶)は、決して直接には知り得ない。これはおそらく驚くようなことではない。肺や胃の働きだって内観できないのに、脳だけが特別な理由があろうか?」 -
心は錯覚に過ぎないという非常に刺激的な言説。
その上で人間の即興性、柔軟性をむしろポジティブに捉えているのは斬新だった。
ただ原著が2018年ということで、AIの推論能力が超進化した現在、私は著者の言うような人間の独自性を確信できなくなってきている。
この後にNEXUS読んだら面白いのでは。 -
【はじめに】
「心には隠された深みなどない」というのがこの本を貫くテーマである。原題は”The Mind is Flat”。心には深みなどなく、表面しかないということを示している。ついでに言うと、副題は”The illusion of mental depth and the improvised mind”。心とは即興で作り上げられるものであり、それを支えているような何か深遠な仕組みなどはないということだ。
「心の秘密は、その隠された深みにあるのではない。過去という主題曲(テーマ)のもとで現在という即興曲を奏でる驚くべき創作力にこそ秘密がある」
例えば、真の動機は何かと探っても、それは見つからない。なぜならそれを探るのが難しいからではなく、もともと何もないからだというのが著者の主張だ。私たちの心の中に内側から送り出すような「内的な思考世界」は存在しない。思考というのは、こしらえたときにはじめて存在しはじめる。内観というプロセスは、何かを知覚しているのではなく、創作するプロセスであり、その解釈の営みなのだ。その能力はそれとして驚くべきものであるのだが。
本書では、心のしくみについての一般的に広まっている誤解を一掃する。その上で、いかにして心が即興曲を奏で続けているのかのしくみを説明する。
【概要】
まず著者は、トルストイの小説のアンナ・カレーニナを紹介する。彼女には小説世界においてキ生き生きとしたャラクターはあるが、言うまでもなく本当の内面などは実在しない創作の世界の人物である。しかし、小説の中の主人公と同じように私たちは自分自身が創り出すキャラクターであるとも言えるのである。内なる知覚世界という幻想は存在しないのだから。
視覚について見てみるとわかりやすい。本書でも視覚に関わる実験や事実が数多く紹介されている。実は、われわれの眼が色を感じることができるのは中心窩の近辺のごく一部であり、また一度にはひとつの色しか感じることができないという。つまり、視野のほとんどにおいて色を感じていないのだが、認識上では視野全体において鮮やかな色があるように視野を構成している。また文字を読んでいるときも一度に見ているのは十文字から十五文字程度でしかないのに、われわれはほとんどページ全体に目を配っているように感じている。
また、著者は、内観のいい加減さについて心の中で想像する虎の例で説明する。われわれは活き活きとした虎を心の中で想像することが可能であるように思う。しかし、その虎の体の縞がどうなっているのか、足の縞は、さらには顔の縞はどうなっているのかを聞かれると実際には具体的な虎を思い浮かべていたと言えないことに気が付く。
感情というものも、身体の生理学的状況と社会的文脈を推論解釈したものであって、感情が生じたことによってその結果として身体に影響が生まれるわけではない。有名な吊り橋実験では、心拍数の増加を恋愛感情の高まりと解釈することで相手を好ましく思う
われわれがいかに解釈するのが上手なのかはいくつかの心理実験でも明らかになっている。二人セットになった異性の写真を複数セット見せてどちらが好みかを選んでもらった後、それぞれなぜその写真の異性の方が好ましいのか理由を尋ねる実験で、ときどき選ばなかった方を指してなぜこちらの方を選んだのかを尋ねると、ほとんどの場合に自分が別の写真を選んだとは思わずに、過去に行った選択を正当化するべくその理由をでっちあげるだ。
選んだ理由をでっちあげる事例としてさらに衝撃的な実験として、ガザニガの分離脳患者の実験の事例が有名である。右脳に積もった雪景色を見せ、同時に左脳にニワトリを見せた後、右脳に見ている絵と合致する適切な絵を選択してもらう実験だが、右脳が選んだシャベルを左脳が選んだ理由をニワトリから全く疑問に思うことなく「ニワトリ小屋を掃除しないといけないから」という理由をでっちあげた。われわれの脳は、目の前の整合性が取れるように解釈を調整することとそれを信じ切ることに長けているのである。
以上のことは、心が即興で創作されていることのひとつの証拠であるのだ。われわれは思考や理由付けを紡ぎ出す速さと滑らかさによって、それが自分の内側にずっとあって、行動や発言の根拠としてゆるぎないという感覚を持つ。しかし、実際には行動があって後に思考に上るその動機の解釈があるのだ。
著者は、心の原理として、次のようにまとめている。
第一原理: 注意とは解釈の過程である
第二原理: 感覚情報について意識的に経験できるのはその解釈のみである
第三原理: あらゆる意識的思考は、感覚情報へと意味のある解釈を施すことにかかわっている
心は常にその瞬間に作り上げられている。繰り返すが、心があって、それによって思考したり行動したりするわけではないのだ。ましてやフロイト流の無意識など存在しないし、バックグラウンドでの思考などはどこにも存在しないのだ。
「私たちの直観とは裏腹に、意識そのものが愕然とするほどすかすかなのだ」
【まとめ】
著者のテーゼ”The Mind is Flat”であり、意識というのは後付けの解釈である、というのは最新の脳神経科学の知見の主流となっているように思う。少し前の本になるが、デヴィッド・イーグルマンの『意識は傍観者である』という本のタイトルにも取られた主張は、同じことを言っているとも言える。トール・ノーレットランダーシュ の隠れた名著『ユーザーイリュージョン』でも同様に意識というものが後付けの解釈でしかないということを強調する。
意識の主観性というものが、現代における先入観であり、科学的見地からは誤謬のひとつとして受け入れられるようになるのではないだろうか。それは、われわれが昔の人が天動説を当然のものとみなして地動説を受け入れることを拒否し、そもそもそうする理由もわからなかったという歴史的な事実を見るように、後世の人から見なされることになっても驚かない。われわれが今、意識を所与のものとして見ているさまを、将来に生きる人は、古く誤った考え方として見るようになるのかもしれない。そうなったときに社会や道徳や法はどのように変わるのだろうか。宗教がその座を奪われたときに社会と道徳と法が大きく変わったように、「人間」や「意識」というものへの認識が大きな変革を迫られた場合に何が起きるのか。過去の歴史上、大きく変わったことがあったことから、今後も何も変わらないという保証は当然のことながらないのだから。
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『意識は傍観者である: 脳の知られざる営み』(デイヴィッド・イーグルマン)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4152092920
『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール・ノーレットランダーシュ )のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009241 -
心、人格、キャラクターは後付け…まあそうだろうね。ただ神の媒体、フィルター、パイプ、楽器としての個性はあると思う。
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無意識は存在しないという、衝撃的な内容。
付随するこの辺の話は面白かった。
・視覚の中心だけカラフルで実は周辺は白黒でぼんやりしている。
・人間は一度に1単語、1つの形、1つの色しか認識できない。
・五感から入力された物を過去の経験・記憶に照らし合わせて、即興で創造している物が意識。
ただ、いかんせん長い。どの章も結局、心の内側なるものは存在しないと同じ事を言っている。 -
心には意識・無意識といった区別よ深層心理といった深みなどなく表面的な振る舞いのみが全てであるという解説が書かれている。意識といった太古から人類が考え続けた事柄に関して心理学的にその本質をついている。身近な疑問から徐々に深いところに入っていき、疑問が順番に生じてくる点を順を追って解決してゆくので流れを追いやすかった。
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「深層心理」とか「本当の自分」とかなんてない、という主張の本。
今までの自分を振り返ってみると、「心は脳の即興」という筆者の主張がわかる気がするけど、だからこそ信念を持たなきゃならない、本当の自分に気づかなきゃならないと考えてきたので、信念までも脳の即興だって言われて、共感半分、疑い半分の気持ちで読み進めた。
第11章までは、要は脳は一度に1つのことしか処理できないよね〜ってことと、だから「深層心理」なんてあるわけないよね〜ってことが多くの実験結果を引用して何度も書かれていた。実験の話はたまに「その実験結果からその結論にいくの…?」と思うところがあったけど、筆者の主張は理解。
でもずーっと「じゃあ心って何?」という疑問が頭を離れなくてイライラしてたんだけど、最後の方にきてちゃんとそれに答えてくれてて、それがすーっと腑に落ちたので、すっきりした気持ちで読み終えられた。
「信念」へのこだわりとか「本当の自分」に気づかない鈍感な過去の自分も許せる。だってそんなものないとわかったから。下手な自己啓発よりもずっと自己肯定感上がるし、未来に期待がもてる気がするけど。
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原題の「Mind is flat」のほうが内容を過不足なく表現している気もするが、まあ楽しい本だった。先に読んだ「言語は~」のほうは、言語のルールが即興ジェスチャーの伝統でしかないという話だったが、心もまた経験から判断される即興の場繋ぎでしかないとは。
部分しか把握できない人間が、意識できないレベルでの視点移動で全体を把握しようとし、そうしたトリックを意識それ自体は把握できず、ただ入力される感覚情報に頼るしかないなどなど、得心が行くとともに実に興味深い話ばかりだった。 -
無意識、深層心理は存在しない。
自分が何を感じているのか、認識しているのか。
脳のフィルターを通したものしか認識出来ないし、元になる情報がどのような解釈や変換をされたのか、過程を知ることはできない。
このラフな仕組みを持つことで今の生活が成り立っているのは不思議なことだ。 -
今年最大の良書に出会ったかもしれない。
心に深さはない。表面しかない。
知覚から脳を探る。
無限に意味を再解釈と再評価する。
認知心理学がベイズ的合理性を伴う研究ブームの流れを作ったニック・チェイターの本。
深層学習などの機械学習の考え方が脳の認知を再考する手助けになっているとは。
心のデータベースなんてのはなく、という立場をとる。
心の表層と即興芸術という視点に立つと自身も感じていた違和感を説明できて楽しい発見。
直観的というより、反応と意味解釈と考える。プロセスは見えない。
経験も判例と考えるとプログラミングのようにリファクタリングの伝統にも見える。
バグを抱えながらも生きることができるとも見えて来て、人間の脳のストーリーテラーな実態に驚かされる展開。
序文と目次と解説だけで十分理知的で読んでいておもしろい。
価値観は所詮タグ付けだなと思えた。
コロコロ変わることはないが、簡単に付け替えることはある日突然できるということ。
信念なんてものもないけど創れると考えた方がよさそう。口から出る内容は矛盾だらけなのだから。
反直感性を常に保つために客観性となる思考のアウトプットは欠かせないとみる。
己を知ることはできないが己の癖は見つかるはずで即効芸術のパターンは持っておきたい。
無意識なんてものはないのだから。
記憶は理解の副産物。解釈できないことは記憶できない。
意味をパターンとして保有する。
想像の飛躍は人間の知性の核心。
著者の最新刊が今年和訳されるので楽しみ。 -
意識とは、思考とは何かが緻密に解き明かされるさまは圧巻。
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表現としては即興だけどベースには手続記憶があるわけだから、心の修行は大事。
