- 本 ・本 (162ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065241882
作品紹介・あらすじ
第165回芥川賞受賞!第64回群像新人文学賞受賞のデビュー作。
コロナ禍が影を落とす異国の街に、9年前の光景が重なり合う。ドイツの学術都市に暮らす私の元に、震災で行方不明になったはずの友人が現れる。人と場所の記憶に向かい合い、静謐な祈りを込めて描く鎮魂の物語。
(群像新人文学賞 選評より)
記憶や内面、歴史や時間、ここと別のところなど、何層にも重なり合う世界を、今、この場所として描くことに挑んでいる小説 ーー柴崎友香氏
人文的教養溢れる大人の傑作
曖昧な記憶を磨き上げ、それを丹念なコトバのオブジェに加工するという独自の祈りの手法を開発した ――島田雅彦氏
犠牲者ではない語り手を用意して、生者でも死者でもない「行方不明者」に焦点を絞った点で、すばらしい。清潔感がある。 ーー古川日出男氏
感想・レビュー・書評
-
第165回芥川賞受賞作。
ようやく読了。とても難解だ。たかだか162ページの作品だが読了までに図書館の貸出期間まるまるかかる。
ドイツ・ゲッティンゲン(月沈原)で、留学中の大学生・小峰里美が東日本大震災で津波にのまれ行方不明となった旧知の男子学生・野宮に再会するところから物語は始まる。
野宮は実物なのか幽霊なのか、終盤まではっきりしない存在だ。この小説はつまるところ、野宮という存在に里美が正面から向き合うまでの葛藤を描いたものと理解した。
東日本大震災の行方不明者は(未だ2500人以上いる!)、その家族や親しい人にとっては野宮のような存在なのかもしれない、と想像した。
久々に芥川賞らしい読みごたえのある受賞作品を読んだ感じ。
言葉は美しく文章もリズムよく流暢に流れる。しかし、残念ながら、現実なのか虚構なのかフワフワした(←表現があまり良くないですね。ぴたっとする言葉が思い付いたら書き直します。)世界観が、僕の読解力でははなかなか厳しいなぁ…と。
里美はこの小説の最後で「記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感」にたどり着く。僕はどこかにたどり着いたようなたどり着かないような、そんな読了感でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
思いがけず、四日前に芥川賞を受賞したこの本が
手に入ってしまいました。
まだあまりレビューがないうちに
さっさと勝手な解釈を書いてしまおう。
最初はずっと「震災で亡くなったと思っていた友人に再会したのだ」と思って読んでいたけど、やはり彼はまだ「生きていることが確認されていない」と思いました。
この小説で大事なポジションにある「冥王星」
〈プルートは冥王星のラテン語由来の名称で、
ローマ神話の冥府の神を表している。
死者の行く場所〉
そしてこの地にゆかりのある物理学者寺田寅彦も
登場しています。(昭和10年没)
著者は宮城出身ですが、津波の被害は受けていません。
もちろん辛い体験の記憶はもっているのですが、
それと同時に、自分よりもっと被害の大きかった人たちへの想いを
この小説で整理させたかったのではないでしょうか。
そこで〈私の研究主題は、中世以降のドイツにおける十四救難聖人の図像の発展と信仰問題であった〉ので、
聖女の皆さんに登場していただいたのでは。
ローマ総督に乳房を切り取られたアガータ。
長い髪で羊を抱くアグネス。
ウルスラにはマント。
塔への散策を提案したバルバラ。
眼の形の首飾りをしたルチア。
車輪をもつカタリナ。
そして自分は歯痛の聖女アポロニア。
彼女は知ります。
〈私が恐れていたのは、時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みだった。〉
〈記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感。
その輪郭を指でなぞって確かめて、
野宮の時間と向かい合う。
その時、私は初めて心から彼の死を、
還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた。
九年前の時間が音を立てて押し寄せる〉
はー。
これから他の人のレビューや大先生の講評など
楽しませてもらいます。 -
表紙のデザインと物語の印象がピッタリ合っており、「死(記憶)」や「惑星」について哲学的な視点で述べられています。本書はドイツのゲッティンゲンを舞台に、主人公と幽霊の野宮(東日本大震災で行方不明)を中心に物語が進みます。
東日本大震災のように、誰かをある日突然失ってしまったら、その方の死の実感が沸かないことがあると思います。野宮のように、行方不明であれば尚更かと。最期を看取ってお見送りをすることは、その方の為というのはもちろんですが、残された方が徐々に死を受け入れる心の準備でもあると気付かされました。
物語のキーワードの一つとして、〝冥王星〟が挙げられます。ゲッティンゲンには「惑星の小径(Planetenweg)」と呼ばれる太陽系の縮尺模型(20億分の1 )があり、駅から東に直線に延びるゲーテ通りの〝太陽〟が始点になり、〝水星〟から〝土星〟は旧市街、〝天王星〟と〝海王星〟は住宅地(森の境界線)に配置されています。地球から遠く離れた〝冥王星〟は森に配置されていたのですが、2006年に準惑星に位置づけられて惑星のカテゴリーから外されたため〝冥王星〟の模型とブロンズ板は撤去されてしまいます。ところが、そのブロンズ板は、森の中で現れたり消えたり‥様々な場所で見かけられ不思議なことが起こります。
この場面、深く描写はされておらず謎のままなのですが、幽霊のように現世で現れることを暗喩しています。
---------------------------------
【本書より抜粋】
私が思い出すのはミヒャエル・エンデの『運命の象形文字』という物語のデッサンであった。第二次世界大戦中、兵役中に出ていた青年が休暇をもらい、恋人の許に駆けつけた。空襲警報が鳴り響く中、ホテルの部屋にいた恋人たちは、2人だけの時間を選び、地下壕に避難しなかった。ホテルは爆撃され、青年は死に彼女は助かった。だが、生き残った女性の顔には刻印があった。恋人に庇われた半面は、もとの彼女の白い肌、もう半分は爆風の圧力によって、無数の灰燼の黒い粒子が肌にめり込んだままだった。白と黒の二面からなる顔は、戦争が終わっても消えることなく、彼女の記憶は身体に刻みつけられたままだった。
仙台東部の道路を挟んだ土地の写真を見た時、私の目にはこの二面の顔が重ね合わされた。
---------------------------------
以前、私は出張で仙台東部を訪れたことがあるのですが、車道のコンクリートの色が真新しく、あの日以降に整備された場所であることがすぐにわかりました。記憶は時間と共に風化するものですが、視覚化された何か(碑や神社、津波を免れた土地と海側の更地)があると、悲惨な記憶が後世に伝わります。
私には上手な言葉が見つからないのですが、本書は複雑な事柄が言語化された物語でした。 -
東日本大地震から10年。
いまも、行方不明の人がたくさんいて、その分だけ、行きどころのない気持ちで、その人を待っている人たちがいるんだなと、改めて思った。
一般的に喪失感と呼ばれているような、心に何か欠けている部分があるような、でもそれらとはまた違う、うまく言えない心情が描かれていた。
ドイツはほぼ地震とは無縁で、この地に生きる人たちは「親を絶対的な味方だと信頼の眼差しを向ける子供」のように、地面に対して絶対的な信頼を置いている。
一方で、あの地震を山間部で経験した主人公は、地面からの「気配」をささいでも感じ取るようになった。
そんなドイツで、あの地震以来連絡のとれていない野宮(と思われる存在)と出会う。
9年ぶりの、そしてはるか遠く離れた、地震とは無縁な場所での「再会」は、すぐには受け入れられず、感覚に長い「時差」が生じていた。
記憶だけでなく、体の感覚もなお覚えている震災と、惑星の配置、芸術研究、そしてコロナ禍の現代を絡め合わせていた。筆者の実体験なんだろうか。
さすが芥川賞受賞作品。
重厚で、ちょっと私が味わうには難しかった作品のように思う。 -
東日本大震災から10年の節目となる2021年に刊行された本作。
コロナ禍真っ只中の2020年とその9年前に起きた震災が対比されることにより物語は進む。大学時代の知り合いであった野宮は津波に飲み込まれ行方不明となっていたが、9年の時を経てドイツのゲッティンゲンに姿を現した。著者が西洋美術に造詣のある人とのことで、その分野の話が多く、理解するのに苦戦する部分もあった。だが、物理学者で随筆家の寺田寅彦と思われる「寺田氏」や12歳の少女のアグネスといった不思議な雰囲気を醸す登場人物もいて、飽きることのない作品であった。
生者と死者との距離感のことは、実際に身近な人を亡くさないと理解が難しいのではなきかと感じた。生者は死者のことを思い出し、痛みを感じるために記憶を封印してしまうのか。その痛みも受け入れ、死者の記憶を己に刻むことが大切だと感じた。
難しい題材ではあるが、デビュー作にして芥川賞受賞作である本作にかけた著者の熱量を感じざるを得ない。
最後に本書のなかで気に入った文章を引用する。
私はトリュフ犬と一緒に、ただ居心地悪く立っていた。小学校のクラス劇において水増しされた、数字かアルファベットで識別されるように。(p.17)
映像だけが記憶となるのではない。身体のひとつひとつの部位が記憶を蓄え、それを静かに抱え込む。その身体が抱える残像を、おそらく消せることはないだろう。皮膚は周期ごとに細胞が新たなものになるが、地震から後の時間や感覚は、静かに透明な皮膚の層として残されたままなのだ。(p.60) -
宮城県生まれで、現在ドイツ在住の作者が、内に秘めた思いを抱えながら、書きたいことを書いたと思わせる潔さを感じた作品。
コロナ禍のゲッティンゲンに於いて、幻想的に立ち現れる東日本大震災を思い出させる出来事には、「冥王星」、「聖ヤコブを表す持物(アトリビュート)としての帆立貝」、「夏目漱石の夢十夜」、「寺田寅彦」、「アルトドルファーの絵画」等、それらと違和感なく混在化する現象には、誰かが言ってたように、知的な作品と言えるのかもしれない。
また、キリスト教の聖人たちが抱えている、拷問具や傷つけられた身体の一部を、「死してもなお、痛みの記憶の断片を抱え続けることの意味」に擬えて行方不明者の「野宮」の幽霊に対する答えに窮する、「里美」。
時間を超え、哀しい記憶が積み重なった場所に刻み込まれた多くの人達と、今を生きながらも哀しい記憶を疼かされる人達の関係性は、無意識に忘却されようとしていた記憶だが、決してそれを忘れてはいけないと戒めるものなのかもしれない。
文体はあくまで冷静に文学的で詩的な美しい描写で一貫されていて私好みだが、却って、内に秘めた熱く冷たいものが垣間見えるようで、心まで無言にさせられる。
これだけ、多くの異なる事象が重なり合って、問いかけた結果、あの出来事の非現実的な現実を、日常的な感覚としての記憶として捉えることが、如何に烏滸がましいのかを痛いほど実感し、数え切れない見えない記憶たちの面影を、当事者でなくても決して忘れたくないと、胸に刻む思いに駆られたことは確かだった。 -
コロナ禍に異国の地で祈る震災死者の帰郷 | レビュー | Book Bang -ブックバン-
https://www.bookbang.jp/review/article/696105
「貝に続く場所にて」書評 現れた知人は震災の行方不明者|好書好日
https://book.asahi.com/article/14407158
『貝に続く場所にて』(石沢 麻依)|講談社BOOK倶楽部
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000353872 -
2021年夏の「芥川賞」受賞作です。工夫に工夫を凝らした作品です。かつて、批評家の加藤典洋さんが、おそらく「戦後文学」をもじってだったと思いますが、「災後文学」ということをを唱えたことがあります。東北の震災から10年以上の年月が経ちましたが、加藤さんが期待した「災後文学」はまだ表れていないように思います。
その「災後文学」に若い石沢さんが、果敢に挑んでいる印象を持ちました。引用されている絵画も素晴らしいイメージでしたし、宇宙論も、実に興味深く読みました。
ただ、彼女の立ち位置を思わせる、繰り返し出てくる「佇む」という言葉に引っ掛かりました。このままだと、「所詮学者さんの小説ですね」と言ってしまいそうですが、さて、次に彼女はどんな作品をお書きになるでしょうね。
ブログにも感想を書きました。よろしければ覗いてみてください。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202109250000/ -
読み始めてしばらく文章の読み辛さに戸惑ったのだけど、書かれているものが見えて来ると、この作品は読み易くてはだめなんだ、と思った。
作品を構成する過剰なほどの描写と比喩は、東日本大震災の際に目にしなかったものを映像や伝え聞きと想像でなぞることに似ている。
どんなになぞっても、そのものにはならない。
同じ場所に立ちながら異なる時間にいる生者と死者に、海や絵画、惑星のイメージが重なる。
静かな温かさのある作品だった。
著者プロフィール
石沢麻依の作品





