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Amazon.co.jp ・本 (250ページ) / ISBN・EAN: 9784065269404
作品紹介・あらすじ
大澤真幸・熊野純彦両氏の責任編集による叢書「極限の思想」第4弾!「自らの思考を極限までつき詰めた思想家」たちの、思想の根源に迫る決定版。21世紀のいま、この困難な時代を乗り越えるには、まさにこれらの極限にまで到達した思想こそ、参照に値するだろう。
本巻は『存在と時間』の精密な読解を通して、ハイデガーの思想の精髄にせまる!
ハイデガー自身が執筆し公刊された唯一の体系的な著作にして、未完の大著『存在と時間』。難解をもって鳴るこの哲学書をどう読むべきか。
「私たちがそれぞれそうであるところの存在者」を「現存在」と呼び、また、私たちが「世界の内にある」在りようを「世界内存在」と呼ぶ。このように、さまざまな概念を次々に出しながら、ハイデガーが分析しようとしたこととは何だったのか。私たちがそれぞれの「私」を生きているとはどういうことか。本来的な自己とは。――その哲学的果実を味読する力作。
[本書の内容]
はじめに
第一章 『存在と時間』という書物
第一節 ひねり出された大哲学書
第二節 存在の意味への問い
第三節 〈存在と時間〉と『存在と時間』
第四節 ハイデガーは現象学者か
第二章 世界の内にあること
第一節 手許のものの存在論
第二節 現存在へ
第三節 存在できることの行為論
第三章 空間の内にあること
第一節 近さ
第二節 方向
第三節 方域
第四節 身体のゆくえ
第四章 他者と共にあること
第一節 〈ひと〉であること
第二節 没入
第三節 〈ひと〉論の射程
第五章 ひとりの私であること
第一節 頽落
第二節 平安
第三節 不安
第六章 本来的な在りかた
第一節 実存の問い
第二節 良心の呼び声
第三節 死へと先駆しつつ決意すること
第七章 自己であること
第一節 物語と自己
第二節 非本来的な歴史性
第三節 本来的な歴史性
終 章 世界内存在を生きる
文献紹介
注
参考文献
あとがき
みんなの感想まとめ
難解なハイデガーの思想を、平易な文体で解説する本書は、哲学における「存在」と「時間」の関係を深く探求しています。著者の独特な感性により、読者は自身の「生」を新たな視点から捉えることができ、日常の中に潜...
感想・レビュー・書評
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ハイデガーの思想に関しては先に読んだ飲茶の『あした死ぬ回復の王子』が物凄く分かりやすかったので、もう少し違う視点、更に原典に近い内容を読みたくて手に取った。それと、何より著者の高井ゆと里に興味があった。ノンバイナリーの哲学者である。
ハイデガーの哲学そのものは、やはり原典をきちんと読もうという結論に達した。私は物臭なので、原典の今の感性から少しズレた語感を今の感性に直して、その上で自分自身の思考に当てはめる所作を好まない。噛み砕いて解説する本があるならそれで良くて、原典を経験したマウントは、本質的にそこまで重要視しない。
ただ、本書は、高井ゆと里氏独特の感性というか、言葉遣いがあったと思う。それだけで満足である。高井ゆと里に何故惹かれたかは、自分自身の分析と共に、ゆっくり考えたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書はハイデガーの『存在と時間』への入門書である。多くの書は『存在と時間』「について」の入門書である中、その読み解きの具体性において群を抜いているがゆえに『存在と時間』「への」入門書であるとあえて書きたい。『存在と時間』という著作の成立とその思想的背景に関しては轟孝夫氏の『ハイデガー「存在と時間」入門』が本書でも決定版と言われているように現在手にし得る最も詳しい本であると思われるが、本書はハイデガーに初めて触れる読者もそれなりに読んできた読者をも、ハイデガーが『存在と時間』において取り組んだ問いへとダイレクトに招く本である。
ハイデガーに関する本を幾つか読んでいくと時折指摘されるように「ハイデガー語」と呼ばれるような独特な言い回しに出くわす。そうしたことの一つひとつを剥いでいく作業が近年の研究の特徴であるとも言えるのだが、その中で本書は群を抜いてハイデガー語を感じさせることなく直接に読者をその問題へと招く本であるように思う。副題にもあるように本書はハイデガーの『存在と時間』における世界内存在をめぐる分析がなされていくのだが、訳者による他書にはないダイレクトな訳文を通してハイデガーの問いそのものが多数の引用とともに明らかにされていく。その問いかけの深みを確かめるためにいくつかの訳文を比較検討することを通して読者は自然とハイデガーのテクストへとも導かれていくのである。
私たち一人ひとりが固有の生を生きるにはどうするべきか、いかに生きるべきかという問いが『存在と時間』を貫いている。世界内存在として現存在である私たちはどのような世界に生き、どのような生を享けているのか。本書はその具体的な問いかけの積み重ねを通して生き生きとハイデガーの思考へと読者を導いてくれる。中でも印象的なのは社会の中で私たちが与えられてきた性の役割への問いかけでクィアの話題が取り上げられたことである。今までのハイデガー本でこれほどまでに直接的に私たちの生の諸相に分け入り、本来性そのものを問いかけ、新たな地平をひらこうとする本はなかったのではないだろうか。それほどに本書は強烈な印象を残した。
ここまで書くと今までの読解を無視した本であるとの印象を持たせてしまうかもしれないが、そうではない。むしろ凝縮された叙述は著者のハイデガー研究の積み重ねへの敬意を感じさせるものであり、なおかつそれらの不十分なところを補い、そのうえで直接にハイデガーのテクストそのものと向き合うことを読者に呼びかけているのである。 -
本書では、『存在と時間』は現代の小さな個人の物語に寄り添う本であるかのように語られている。他の類書が読者を『存在と時間』の時代に連れていってくれるのに対して、本書は『存在と時間』を現代に連れてきているという印象がある。著者の説明は非常に丁寧であり理解しやすい。著者は『存在と時間』について、『私たちがそれぞれ「私」の生を生きているとはどのようなことか』という問いから解釈すると宣言し、そこには『生き生きとした「生」についての哲学的分析』があると評している。
私は『存在と時間』の中心的モチーフについて、1927年という戦間期のドイツという時代背景もあって、「平凡で日常的で大衆的な『非本来性』から脱却せよ!『死への先駆』と『決意』において『本来性』へと立ち返れ!自己に固有の可能性に命を燃やせ!覚醒せよ!」というヒロイックな倫理規範の推奨というイメージをもっていた。当時のドイツで『存在と時間』が世間的大成功を収めたことを考えても、そのイメージはかなりの部分で間違っていないと思う(ハイデガー本人の意図とは異なる読まれ方だったとしても)。例えば他の類書では、『ひと』は「マスメディアや均一化する大衆社会への批判」として、『死へと先駆しつつ決意すること』は「戦争と不安の時代における若者像」として、具体例とすることも多い。それはそれで、当時の時代背景からしてやはり正しいと思う。対して本書では、『ひと』はマイノリティの人々への同調圧力として、『死へと先駆しつつ決意すること』はそのような人々が苦難や葛藤のなかで日々経験しているようなものとして、具体例に挙げられることも多い。著者が挙げる様々な例は、著者自身の関心に強く由来するものであることは間違いないが、それらは『存在と時間』の議論に現代的なリアリティを与えるために使用されており、著者の思想を強引にねじ込むようなものではない。現代の読者には、「戦争と不安の時代における若者像」よりも「同調圧力に流されつつ抗って自分自身として生きようとする孤独な個人」の方がイメージしやすいことも事実だろう。世間とのギャップを感じて、『不安』のただ中で、自分の『本来的な在りかた』に思いを巡らさずにはいられない姿というのは、十分に理解できる。本書には、当時のドイツが置かれた状況から『存在と時間』を理解するという読み方が決定的に欠けているという面は否めない。しかし実際、本書の記述それ自体はしばしば胸を打つようなものであったことも確かである。私は本書を読むまで知らなかったが、著者にはトランスジェンダーの活動家としての顔もあるようで、何かと言われがちなようである。しかし少なくとも本書における著者は、『存在と時間』の案内役として真摯であると思う。
どうしても本書で足りないと思ってしまう部分は、(1)『現存在の時間性』の説明がないこと(本来的時間性は『先駆-瞬視-反復』だという有名な議論)、(2)『共同存在』の『歴史性』に関連した『民族』の『運命』に関係する(今となっては)不穏な印象を伴う議論の説明がないことである。もっとも(2)は本書のコンセプトからしたら当然かもしれない。(1)については、ハイデガー本人の目的であった『存在一般』に連結される重要概念だと思われるが、著者は『よく理解できていない』、『哲学的に成功しているようには到底思えない』と述べており、自覚的に省略されている。その点は判断が分かれるだろう。
『存在と時間』が未完の著作である以上、『存在と時間』解釈において、『存在の問い』あるいは『ハイデガーの思想史』を無視して単独の著作として扱うという本書の姿勢は是非が分かれるはずである。しかし著者が強調するように、どういう読み方が『存在と時間』を『より網羅的に、また実り豊かに解釈できるか』というのもまた真だ。だから、著者が本書の姿勢について『決してハイデガーの意図を裏切るものではない』とまで言い切る必要もなかったのではないかと思う。というよりも、やはりそれはハイデガー本人の意図とは異なると考えるのが自然だ。しかしながら、もっと率直に、「ハイデガーの意図とは違うとしても、ここには極めて重要な洞察があり、読むべき価値がある」と言い切ってくれれば、それが全てではないだろうか。若い著者であるので、ハイデガー業界の先生方への対抗心なのだろうかと余計なことを少し考えもした。実際、本書は著者の読み方において素晴らしいものになっているので、ことさらハイデガー本人の意図から正当化する必要もないように思われる。 -
最上級に噛み砕いて、これほどわかりやすく『存在と時間』を解説してくれた本はない。
自分の生を日常性から一歩深い視点で見つめることができる。
初めて解説本を読んで、『存在と時間』そのものに挑んでみようと思えた。 -
ハイデガーの『存在と時間』の解説書です。
『存在と時間』はかつて、既刊部分のみをもとに実存哲学の代表的な著作とみなされていましたが、その後「存在の問い」というより大きな問題設定のなかで『存在と時間』の位置づけを見なおすことの必要性が主張されるようになり、日本でも木田元が多くの著作を通じて、そうしたハイデガー解釈を啓蒙してきました。
もちろん、そのような理解が広く受け入れられたあとも、仲正昌樹の『ハイデガー哲学入門─『存在と時間』を読む』(2015年、講談社現代新書)や北川東子のハイデガー 存在の謎について考える』(2002年、NHK出版)など、あえて『存在と時間』の議論を実存哲学として紹介することで、その魅力を示そうとした著作はあります。これに対して本書では、『存在と時間』が現在われわれが手にとることのできるようなかたちで刊行されたことの意味を重視し、「存在の問い」という後年のハイデガーが手掛けることになる問題設定のなかで『存在と時間』の解釈をおこなうのではなく、『存在と時間』の内在的な解釈を通して、ハイデガーがわれわれの「生」についてどのような分析をおこなっているのかということを明らかにすることがめざされています。
その一方で、伝統的な実存哲学の概念に依拠して説明をおこなうのではなく、ドレイファスや門脇俊介といった研究者のスタンスが踏まえられているのかもしれませんが、現実のなかで実践的な活動をおこなうわれわれのありかたにそくしてハイデガーの議論を読み解く試みがなされており、新鮮な気持ちで読むことができました。 -
自分がいまだに通読したことのない『存在と時間』についての読みをこの一冊で包括的に提供してくれた、(単行本ではあるが)新書的アプローチの本。注釈を中心に国内外の最新のハイデガー研究の成果が書かれており、読者としては信用がおける。
要約の仕方については論争的な部分もあることも含めて著者自身が丁寧に紹介しているが、素人目にはあまりその点はわからない。とはいえ木田元の「未完問題」アプローチがあることは知っており、それゆえ「未完のものをどう論ずるのか」という先入見が自分にも多少残存していたので、その懸念をかなり早い段階で棄却してくれた点は読み進める上でありがたかった。
ハイデガー哲学に必ずしも「(健常な)身体」概念を要請する必要はないこと、哲学における「自己物語」の話が現存在の同一性を認定する上で重要であることなど、20世紀哲学のあれこれを読みながらハイデガーをつまみ食いする上でしばしば引っかかっていたことをしっかり説明してくれたのも、よかった。
もしかして、このハイデガー本において示される自己論は、キルケゴールの実存主義哲学やメルロ=ポンティの身体コミの現象学より、プラグマティズム思想家兼社会心理学者であるジョージ・ハーバート・ミードの『行為の哲学』や、その後(主にイギリスの)質的社会心理学で展開された言説心理学(Discursive Psychology)のとる立場に近しいものとして読み直せるのではないか。そういう気づきを得させてもらった。それは著者が「ノンバイナリに気づく一人の男性」の事例について述べた時、ジェンダー論における哲学的アプローチとしてハイデガー哲学を参照したことで、より鮮明になったように思われる。 -
「存在と時間」を実存解明の書として読むという視点が卓抜。
しかもかくまで平易に噛み砕いて解説した入門書はかつてなかったと言ってよいだろう。
ただ、分量が限られているせいか、やはり物足りなくはある。 -
大胆な単純化が施されているけどいい入門書と思う
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本書は「私たちがそれぞれ『私』の生を生きているとはどのようなことか』という問題に対する取り組みとして『存在と時間』を解釈する。
実存主義にも存在論にも還元できない、そうした『存在と時間』に固有とも言える哲学的洞察を評価する試みであることを個々に明記しておく。
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著者プロフィール
高井ゆと里の作品
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