ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで (講談社現代新書)
- 講談社 (2023年6月22日発売)
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感想 : 15件
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Amazon.co.jp ・本 (504ページ) / ISBN・EAN: 9784065321300
作品紹介・あらすじ
「20世紀最大の哲学者」ハイデガーが生涯を賭けて問い続けた「存在への問い」とはどのような「問い」だったのか? 変容し続ける思索の跡を丹念にたどり、その最後にたどり着いた境地に迫る。また、近年「黒ノート事件」によってスキャンダルを巻き起こした悪名高い「ナチス加担」がいかなる哲学的見地からなされ、そしていかなる理由からナチス批判に転じたのかについても徹底的に解明する。「道であって作品ではない」――ハイデガー哲学の魅力と魔力を余すところなく捉えた力作。
みんなの感想まとめ
存在を巡る問いを深く掘り下げたこの書籍は、ハイデガーの哲学の全体像を理解するための貴重なガイドとなっています。著者は、『存在と時間』におけるハイデガーの思索を再検討し、特に「存在」とその真理に関する議...
感想・レビュー・書評
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ハイデガーが何をもってナチスと紐付けられるのか知りたくて読んだ。
ちょっと難しくて理解に苦しみながら、4章まで読んで一旦読了とした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ハイデガーの思索をつらぬく「存在」をめぐる問いとはいったいなんだったのかということを、ていねいに解説している本です。
著者はすでに『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)を刊行していますが、本書でもふたたび『存在と時間』におけるハイデガーの思索を振り返っています。とはいえ、前著とは異なる観点から検討がなされていることはいうまでもありません。本書では、『存在と時間』の既刊部分ではじゅうぶんに展開されることのなかった、「存在」をめぐる問いとのかかわりに焦点をあてて、ハイデガーの議論が見なおされます。
つづいて、中期および後期の思想の検討がおこなわれますが、ここで著者はハイデガーとナチズムの関係についてのくわしい考察を展開しています。ハイデガーの反ユダヤ主義的な言説がしるされた「黒いノート」の公刊以来、ハイデガーのナチズムへの加担は決定的になったとみなされていることに対し、著者は異議申し立てをおこないます。
ハイデガーの「存在」とは、さまざまな存在者がその真理をあらわにする場所であり、そこには和辻哲郎の主張する「風土」としての性格がふくまれていると著者は主張します。こうした発想にもとづいて、ハイデガーはドイツ民族が彼らの置かれている「風土」において「存在」を迎え入れることの意義を説きました。著者によれば、こうしたハイデガーの議論は「存在」の性格にそくした、どこまでも哲学的な思索なのであり、ナチズムの信奉者のあいだに見られた、生物学的な意味での民族を称揚する議論とは無縁のものです。
こうした立場にたって、ハイデガーはみずからの思想にもとづく大学改革を夢見たものの、そのくわだては失敗に終わります。その後ハイデガーは、ナチズムをふくめて近代的な発想そのものを根底から批判する思索をおこなっていたと著者は主張します。また、しばしばハイデガーの不誠実さを示すと見られてきた詩人のパウル・ツェランとのかかわりについても、通説の誤りを明らかにしています。 -
東2法経図・6F開架:B1/2/2711/K
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本書の一番の目的は、書名のとおりの『ハイデガーの哲学』の全般に関する理解を提供することである。全般ということは必然的に、前期かつ未完の著作である『存在と時間』だけでは不十分ということになる。このような立場から書かれた一般読者向けの著作は希少であり、非常に魅力的に思う。また、著者の読みから導かれた結果による、ハイデガー=ナチスという短絡的な決めつけへの異議申し立ても本書の大きな要旨の一つになっている。ほかにも、『存在と時間』以降の業績に目を向けない研究者や、ハイデガー=ナチスと短絡的に断定する人に対して、「言いたいこと全部言ってやる」という気概も伝わってくる。聞いたこともない論文や講演、手紙まで引用して論証する本書は大変な労作でもあると思う。
著者は『第一章』で、ハイデガーの思索全体における『存在』理解の概要を提示している。
『存在』=(『場所』と『環境』を含む『時-空間』の生起)=『世界』の生起=『フォルク』を基礎づける原理
これが総論であり、後の章は時系列に沿った各論といった構成である。ハイデガーは思索の進展に伴って、同じ事態について『存在の意味』→『存在者全体』→『性起』→『もの』と『四方界』…と表現を変えていった。その着想の背景には、根本としての『存在の立ち去り』≒『存在忘却』がある。つまり、現代に至るまで支配的な『存在』=『制作可能なもの』という『存在』理解が、プラトンのイデア論に既に見られ→中世の『存在』=『被造物』という見方で強化され→近世において『存在』=『資材』という見方に先鋭化し、今日の『悪』を生んでいるという洞察がある。大きく考えると、ハイデガーは現代文明を相対化し、さらには克服するため、現代文明を根底から規定する『存在』概念の受け取り方のオルタナティブを探究した、ハイデガーの表現だと『別の始元』を探究したと理解できる。それにしても、なぜ執拗なまでに『存在』という一事を追求したのだろう。私の思いつきであるが、ハイデガーの出自から一つ連想されたことがある。教会の堂守の子として生まれた彼の幼心に、自身を「在りて在るもの」と告げた何者かが強い印象を残し、生涯にわたって影響を与え続けたのではないだろうか。
ハイデガーの『存在』理解について、著者は日本語の『風土』に類するものではないかと推測する。そうであるから、『フォルク(Volk)』は本書のキーワードの一つである。これは英語のFolkに相当し、一般に民族や国民とも訳されるが、著者は先入見を避けるためとして、あえてカタカナ表記を使用しているのだと説明する。確かに本書の『フォルク』を民族と読み替えた場合、ハイデガーの発言の中には極右としか思えない箇所もあった。著者の説明によると、ハイデガーは自らが依って立つところを率直に表現しているのであって、自らが依って立つところの優位性を誇示しているわけではないということである。著者の解釈によるこの『フォルク』という表記が、ハイデガーの真意をどの程度反映しているのか、考えながら読み進めるといった心構えが必要であるとも感じた。
伝記的エピソードの類は、読者としては何が真実か分からない。特にユダヤ人の詩人であるツェラーンとのエピソードは、木田元の本ではハイデガーの酷薄さを強調するものとして扱われていたが、本書によるそれは正反対の印象であり驚きであった。しかしとにかく、本書の内容が全て事実であると前提したうえで、それでもなおハイデガーの人間性には難があると感じざるを得なかった。
ハイデガーは学長時代に、『血と大地』とか『フォルク』などのナチス用語を多用しながら、それらにナチスの人種主義とは全く異なった意味を込めて口にしている。著者がそう解釈しているだけでなく、引用されるハイデガー自身の言葉もそれを裏付けているように思える。しかし、である。言葉の『換骨奪胎』といえば聞こえはよいが、短時間で自説を理解させる必要がある現実の政治の場でそれを行うのは悪手だとしか思えない。ましてや『存在と時間』で「平凡で日常的で大衆的な『非本来性』から脱却せよ!『死への先駆』と『決意』において『本来性』へと立ち返れ!自己に固有の可能性に命を燃やせ!覚醒せよ!」と提唱した(というように受け取られていたであろう)ハイデガー学長に、『世人』がどのような期待を向けていたか分からないものだろうか。こう考えると、実はハイデガー自身、『存在と時間』の世間的大成功の理由に無自覚だったのではないかとも思えてくる。
戦時中に書かれた『黒いノート』の『反ユダヤ』とされる記述についても思うところがある。確かに著者の解説は説得的で、西洋文明の総体を『ユダヤ-キリスト』的なものと捉えて、その『存在』=『制作可能なもの』という『存在』理解と『作為性』の帰結である『主体性の形而上学』の克服を図るというモチーフは十分に理解できる。また、本当にハイデガーがナチスの信奉者なら、秘密のノートにではなく新聞にでも書けばよかったのだから、ハイデガー自身はナチス流の『反ユダヤ』ではないのだろう。著者は、あえて『ユダヤ的』という言葉を使うのは、ユダヤ人を迫害するナチス自身が、『主体性』を本質とする近代文明の一形態であるのだから、必然的に『ユダヤ的』であることに対する皮肉なのだと説明する。しかし…当時の状況からして、皮肉に使う言葉にしては明らかに度が過ぎている。例えば「形而上学的意味において本質的に〈日本的なもの〉が、はじめて日本的なものと戦うとき、歴史における自己破壊の究極点に到達している」などと書かれたのを目にしたら、我々ならどう思うだろうか。そもそも思索の枢要を表現しようとするのに、明らかに悪目立ちする『ユダヤ的』のような表現は悪手であろう。
戦後の『沈黙』あるいは『開き直り』と批判されることもある態度についても、著者は、『主体性』に内在する破壊性=『悪』が無害な装いの下で存続したままの社会に対して恭順の意を示すことを拒否したのだと説明する。ハイデガーの立場からは、ナチスも戦後社会も本質的に「同じ」ということになる。この点が理解できなければ、戦後の技術批判が何を問題としているのかすら理解できない可能性が高い。しかし、現実に大量殺戮が行われていた社会と、とりあえずはそうでない社会とを「同じ」とするのは、戦禍に苦しんだ者たちには受容できない話であろう。ハイデガー自身は『荒廃化は、ようやく世界戦争の帰結であるというのでは決してなく、世界戦争のほうがすでに、また単にこの数世紀来、大地をむしばんでいる荒廃化の帰結でしかないのです』と書いている。それは高度な思索である一方で、世間に対してあまりに自閉的な態度という印象は否定できない。
もう一つ指摘しておきたい。戦後の『技術への問い』において、現代では『存在者』=『作成可能性』+『計算可能性』という理解が支配的であるという洞察から、今日的な意味での『技術』の本質とは、あらゆる『存在者』を『注文すること』が可能な『資材』として『無理強い』する『駆り立て-組織(Ge-stell)』である…と批判が展開される。これは理解できるし、おそらくある一面の真実を恐ろしい精度で射抜いていると思う。しかし、その『無理強い』の例として炭鉱開発、水力発電、飛行機を挙げつつも、『農夫の仕事は農地を無理強いしない』としている。そこに私はハイデガーの田舎びいきを見た思いがした。いわゆるサーキュラーエコノミー的な観点からハイデガーの言い分の妥当性も分からないでもないが、そもそも『農地』は自然の生態系に挿入された異物である。それを持続可能性という観点から『無理強いしない』と判断したのであれば、いかにも人間中心主義的な発想となるだろう。それは継続的に『注文すること』が可能であるという意味なのだから。つまり、『農地』と炭鉱開発、水力発電、飛行機の差は質的なものではなく、程度の差でしかないと思うのだ。
総じてハイデガーは、他者の理解あるいは無理解に無関心であったのだと思う。本書にて引用された文章を読む限り、確かにハイデガーはナチスのイデオローグではない。それでも、他者に対して極めて無神経だったとは思う。著者は、ハイデガーの学長時代に教授陣の支持が得られなかったことを思想上の対立と見ているが、私としては(KY過ぎて普通に嫌われていたんじゃないのか…)と思ってしまった。もっとも、それくらいの方が哲学者らしいのかもしれない。全てを疑問符に付すような視座は、日常を別の目で眺めることから生み出されるのであり、それは生得的な資質に起因する世界や他者への違和感がなければ不可能だし、そもそも不要さらには有害なのだ。つまり、共感力の高い人物が、根源的な思索に到達するとも思えないのである。 -
エイアイクニス!
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骨太な読書になりました。
ハイデガーの『存在と時間』については大体理解していたつもりだったが、著者の胆力ある丁寧な説明のおかげで理解がより深まった。人生論としての存在という表層的な思考に留まることなく、ハイデガーが追い求めた思索の過程とその結果生まれ得た多くの概念に肉薄していく。
存在という概念に取り憑かれたハイデガーおじさんは、その思考の果てに存在を超出していく。
ナチとの繋がりについてはフェアな立ち位置から出来るだけ冷静に分析していて興味深い。
ツェランとのエピソードはなぜか泣いてしまったた。
ただハイデガーの胡散臭さは免れ得ない印象。
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書き手である轟氏の持つ個人的な問題意識に強引に誘導しようという「臭み」を感じさせない清潔さ/フェアネスを感じる。ハイデガー『存在と時間』をいま読むということ。どんなスノッブ/ファッショナブルな先駆者の言葉の引用も行わず、轟氏は徒手空拳でこの未完の大著と取り組み内在する「可能性の中心」に迫っていく。ただ、ぼくの理解力では「そうか、『存在』は神秘なんだ」という程度の読みにとどまりそこから考えが止まってしまった。轟氏の態度を見習い『存在と時間』そのものと取り組み、ハイデガーが照らす「道」を通って自分を見つけたい
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ハイデガーって、『存在と時間』の解説はけっこうあるんだけど、後期の著作を含めて整合的に理解できる解説ってほとんどないんですよね。これはかなり理解しやすい形でまとめられている。ただ、ナチに関してはちょっとハイデガーに好意的すぎない?! というのと、最後半の「主体性」をめぐって「その"主体性"の"主体"は誰?」「ひとつに収斂しないのはなぜで、その違いは何?」という疑問がぬぐえなかった。またいつか読んでみての感想が自分でも楽しみ。
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2023年8月8日図書館から借り出し。
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轟孝夫の作品
