- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065324387
作品紹介・あらすじ
あ、また時間に捕まえられる、と思った。捕まえられるままに、しておいた。小説家のわたし、離婚と手術を経たアン、そして作詞家のカズ。カリフォルニアのアパートメンツで子ども時代を過ごした友人たちは、半世紀ほどの後、東京で再会した。積み重なった時間、経験、恋の思い出。それぞれの人生が、あらたに交わり、移ろっていく。じわり、たゆたうように心に届く大人の愛の物語。
感想・レビュー・書評
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1950年代後半〜60年代初頭頃の数年間の子供時代を父親の仕事や研究の関係でアメリカのカリフォルニアで過ごした男女の中年〜60代(コロナ禍)の友情を描いた物語。
いずれも日本に戻ってきた後の学校への「適応」に苦労し、小説家や作詞家、翻訳家といった自由業への就業率や、離婚率が高め。主人公の女性、朝見もその1人。朝見がよく連絡をとっているのは、アメリカ人と結婚したが離婚しシングルマザーのもと育った3人姉妹の長女アンと、商社勤務の父親の駐在でアメリカにいてその後の学歴はエリートコースを歩んだカズ(いずれも同年代)。
設定はとても面白く、淡々と進むストーリーも味わい深いものと頭ではわかっているのだが、残念ながらあまり入り込めなかった。彼らの性格や生き方に、子供時代のアメリカ滞在が大きく影響しているのかどうかがよくわからなかったのと、自分自身の今の価値観と主人公たちの価値観があまり合わないと思ってしまったからなのかな。また時間を空けて読んでみたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
川上弘美、わたしの世代(50代後半)だと昔から知ってるけど、なぜかほとんど読んでなくて、ヒット作「センセイの鞄」ですら読んでない。でもこれは興味を引かれ(たぶん、子ども時代をアメリカで過ごしたっていう設定のせいかも。でもそれはストーリにそれほど関係なかった)、読んでみた。
60代前半で作家の主人公(ご自身を投影しているのかな)、子ども時代アメリカに住んでいたときの幼なじみたちと今でも親しく、ときどき会って話したりしているっていう内容。コロナ禍のころが背景にはなっていて、あのころの雰囲気は感じるけど、大きなできごととかストーリーがあるわけではなく、ほぼとりとめない会話とか思いとかで成り立っている感じ。
こういう淡々とした、なんていうことのない小説は好きだけど、読むのはちょっと久しぶりだったかもしれず、ちょっとなぜか慣れない感じもしたり。
自身も友達も初老に近く…っていうのが自分も同じなので、身につまされるっていうか、読んでいて気が沈むようなところはあった。しーんとするような。別に悲しいこととか暗いことが書いてあるわけではないんだけど。
主人公が、90代の父親に、きみも90歳まで生きるとしたらあと30年近くあるわけだから計画を立てなさい、と言われて、まあ立てないだろうな流されるだけだろうな、とか思うところとか、ひとり暮らしで今後どうするかとかを考えてないとか、生死についてもぼんやり「わたしたちはこれからどこへいくんだろう」とか思うところとか、そういう流されていくだけの感じには共感したのだけれど。
あくまで個人的に、あくまでわたしの今の気分としてだけど、こういう淡々と静かな話より、もっとストーリーがあってがちゃがちゃした感じの小説のほうがいいのかな、そういうほうが娯楽として集中して読めていいのかも、とか思った。。。 -
ふうん?と思いながら読んでいたんだけど、なんかハマった!w
川上弘美さんはいい!やっぱりいい!
選ぶ言葉や、言い回しや、独特の空気感も好き過ぎる。
サイコーだ!! -
焼き鳥とポテトサラダのある喫茶店!
甘えるとか甘えないとか
会いたいとか
チェイサーにシャンパンとか
なんか、いい。 -
大人の、友達以上恋人未満ってこうなのかなって思いながら読んだ。登場人物がとても多く迷子になったりもするけど、川上弘美さんらしくほんわか柔らかい、少しのスパイスもある物語
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「一人称感」という言葉があるかどうか定かではないけれど、これはとても一人称感(私小説風、というのともまた違うニュアンス)の強い小説。特に、この作家にしては、と急いで付け加えよう。というのも、川上弘美の書くエッセイや日記形式の文章でちらほら語られていた自身に関する事々が、濃厚に(というのはエッセイ等ではその出来事に接している作家の心情はひどく曖昧なものとして描かれるのが常なのに、この本ではいやに赤裸々に語られるから)たっぷりと綴られているから。
『キャンディーはわたしのことを、おさる、とは決して言わなかった。もちろんテストをうつさせてもらうためだ』―『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』
例えば、ヒロミ・イズ・モンキー。この小説の主人公同様にカルフォルニアで幼少期を過ごしていた作家が、いつもお弁当にバナナを持って来ていたのを現地校の同級生が揶揄して(多分、東洋人だから、というニュアンスも含めて)そう呼んだのを聞き取り、それまで色の付いていない教室で一言も発せずお漏らしばかりしていた少女の世界が、急に言葉の意味と共に色彩を伴って蘇り、同級生と一緒になってヒロミ・イズ・モンキーと歓喜しながら叫ぶことによって、世界が再び意味を持ったという経験を記した話は「此処彼処」にあったのだったか。そう連想してしまうと、この稀有な作家の原点、あるいは原風景に迫るような話が、この本にはふんだんに盛り込まれているように読めてしまうのは、ただの錯覚だろうか。ここに登場するカルフォルニアのアパートメンツに住む近所の日本人の子供の全てにモデルが居るとも思えないが、最初の数章を読み進める限り、どうしても作家自身のことを語っているように読んでしまう誤謬に陥ってしまうのを避けられない。あるいは、突然実父と一緒に暮らすようになった話。それは「東京日記:251回 少し認識が。」から数回に渡り記されていて、件の「日本の歴史」を読む話も綴られている(そして、読み終えていない九巻から二十六巻を持たせて父を実家に送り帰す話も)。こんな符牒が其処彼処にあるのだから、この本がもしかして日記風のエッセイなのかと思ってしまうのも、決してこちらの過度な思い込みではないだろう。
『「八色さんは、そういうこと、ありませんでした?」わたしに向き直って、聞いてくる。「そんな昔のこと、忘れましたよ」』―『そういう時に限って冷蔵庫の中のものが』
そんなこんなあり、本の中盤で主人公の名前が明かされて、漸く、ほっとしたような気分になる。第一この小説の主人公には一緒に暮らす「家人」もいない。そうそう、川上弘美と言えば「椰子椰子」以来、「東京日記」にしても、本当のような嘘ばなしのような話を得意としている作家なのだから、この本もそういう一冊だということなのだ。と、しなくても良い受容の整理をして人心地つくことが出来る。もちろん川上弘美に一人称語りの小説がこれまでなかった訳ではないけれど、どちらかと言えばこの口調はそういった小説の文体ではなく、むしろ作家になる前の山田弘美がSFの評論を書いている時の口調、硬質の強い意志を感じる一人称語りなのだ。そこが、とても珍しい気がする。そんなことを考えていると、また、不穏な一文に出くわす。
『小説を書くとき、わたしはきっと自分の中に今ある何かを中にまぶしこむ。おととい聞いた鳥の声、歩いた道でみつけた白い花、駅ですれちがった親子のうしろ姿の印象。けれど、それらを小説の中にまぶしこんでしまうと、それらについての記憶は、わたしの中から消え去ってしまう。書かれたことでそれらは文章の中に永遠にとどまるが、わたしの中からは抜け出ていってしまうのだ』―『吉行淳之介だけれども、もとは牧野信一の』
これは、単純に小説家の主人公の言葉なのか、それともやはり作家自らの言葉なのか。もし後者だとすると、つまり、この歳になって、抜け出ても構わないと作家が判断した幼少期の思い出話をやはり小説の中に忍び込ませているということか、とあれこれ勘繰らずにはいられないことが書いてあるのだ。もちろん、小説の中の登場人物の言説全てに作家本人が投影されている筈などない(ご丁寧にそのことすら主人公の言葉として言及されている)のだけれども。それにしてもこの小説家の主人公の何と作家本人を想起させる書きぶりよ!
間違いなくこれは、あわあわ、とか、恋愛小説の旗手、などと言われていた作家の、新境地を垣間見るような一冊。もしあなたが熱心な川上弘美の読者なら、やっぱりこの人は中々に底意地の悪い性格をしている人なのだなあ、とくすりとしながら思わせてくれる一冊でもある。 -
川上弘美さん、もう65歳か。自分の歳を考えればそれはそうだな。作品だけをずーっと追いかけている作家さん。
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繊細そうな様子の男なのに、かなり不躾で、けれど人の一番の弱みは突いてこない
この一文がすごい好きだった。
著者プロフィール
川上弘美の作品






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