- 講談社 (2024年1月19日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (144ページ) / ISBN・EAN: 9784065346952
作品紹介・あらすじ
第170回芥川龍之介賞候補作。
いい子のかんむりは/ヒトにもらうものでなく/自分で/自分に/さずけるもの。
ある事件以降、引きこもっていたしふみはテレビ画面のなかに「おねえちゃん」を見つけ動植物園へ行くことになる。言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ”シネノ”と邂逅し、魂をシンクロさせ交歓していく。
――”わたしたちには、わたしたちだけに通じる最強のおまじないがある”。
”女がいますぐ剥ぎ取りたいと思っているものといえば、それは〈人間の女の皮〉にちがいなかった。女は人間の〈ふり〉をして、ガラスの向こう側にたっている”
”女とシネノは同じだった。シネノのほうはそのふるまいこそ完璧ではあったけれど、それでも猿の〈ふり〉をして、あるいは猿の〈姿をとって〉、こちら側にいる”
ねえ、なにもかもがいやなかんじなんでしょう。ちがう?
感想・レビュー・書評
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★3.8
しふみとシネノ。ヒトとボノボ。
言葉も種族も越えて、彼女たちは通じ合った。
いや、そう信じたくなるほど、孤独だったのかもしれない。
「感動した」とか「泣いた」とか、そういう類の本ではない。
物語のすべてが抽象的で、境界が曖昧で、構造はまるで“夢”のようだ。
正直なところ、意味がわからなかった。
……が、それでいいのだと思う。むしろ、わからなさは、この物語の“仕様”だ。
「わからないから駄目」と切り捨てるにはあまりに惜しい。わたしの駄文を踏み台に、もう一度本書を手に取ってみてほしい。
なぜならこの物語は、わかりやすさや整合性ではなく、“魂の揺れ”を描いているからだ。
主人公・しふみは、かつて陸上競技での炎上をきっかけに、社会から距離を取るようになった女性。
もう一人の主人公は、言葉を教え込まれたボノボ(猿)のシネノ。人間の都合によって“知性”を与えられ、動物園に展示されている。
二人は互いを認識し、思い合っていく。
姿かたちは違えど、「期待を裏切った者」「役割を演じさせられた者」という点で、限りなく似ていた。
シネノ視点でのしふみと、しふみ視点でのシネノ。
互いが互いの目から自分も見つめ、交錯する。
視点が切り替わるたびにその差異はだんだん“遠近感”としてぼやけていくから、読み手は戸惑う。
それはもはや正しい混乱で、作者の意図するところなのだと思う。
言葉はしばしば隠喩としてしか機能しない。その世界観に、わからなさごと身を委ねてみる。
「猿の戴冠式」とは何か。
それは「あなたがあなた自身に与える王冠」。
他人の評価や、社会的な役割ではなく、自分の価値を、自分で認める行為。
しふみがその手話を使うとき、彼女は言葉にできないものを差し出している。
痛み、願い、そして、許し。
それはシネノに向けられているようで、実は“かつての自分”に向けたものかもしれない。
現実と幻想のあいだを彷徨いながら、しふみとシネノの境界の曖昧さはさらに加速していく。
台風の夜に、檻から抜け出すシネノ。
その姿を見たとき、しふみは再び歩き出す決意をする。
現実か幻想か境は、たぶん重要じゃない。
しふみが「自分で自分に王冠をかぶせた」――それだけが、真実なのだ。
「猿の戴冠式」とは、“猿に人間的な知性と尊厳を与える行為”であると同時に、
“しふみ自身が自分を赦す儀式”でもある。
だから、仮にシネノが実在していようがしていまいが、物語として成立してしまう。
シネノの視点というのは、しふみの願望や投影かもしれないし、あるいは本当にシネノが持っていた「内面」だったのかもしれない。
どちらとも確定できないからこそ、判断は読者に委ねられている。
与えられた知性は、贈り物か、それとも呪いなのか。
知性獲得がもたらす儚さは、どこか「アルジャーノンに花束を」を連想させる。
理解されたい欲求と、理解されない痛み。
知性は救いではなく、やはり悲劇なのだろうか。
『猿の戴冠式』は、“わからなさ”こそを作品の一部にしているようだった。その体験は、しふみやシネノと同じように、「わからない自分自身を見つめ直す」契機を与えてくれる。
読む人の数だけ、解釈がある、という結論でいい本なのだ。
読むたびに、意味が揺れていく。
だからこそ、2度目、3度目に意味がある。
でも、それでもこの問いだけは、残るはずだ――
わたしは、わたしという存在に、冠を授けているだろうか?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
動物園の猿と競歩選手の人間が手話のような言語で通じ合い、魂の邂逅をする…みたいなお話しでした
設定や表記の工夫、比喩表現などは良かったけれど、猿と人間のシンパシー具合がわかるようなわからないような… やっぱりわからないかなあ
猿がちょっと人間と近すぎたからかなあ…
取り合わせってあるよなあ
共感100パーセント!となる一文の次に全くわからんです共感0パーセント…となりまた共感100パーセント!!の一文が来て、またまた全然わからんです0パーセント…となる、わかるとわからないが波のように寄せては返っていってしまう感じがあった
でも 猿が毛繕いする表現描写などはほんとうに夢見る心地よさでした
冠=プライドは他人から授かるものではなく自分で自身に授けるもの 間違っていても歩き続けるんだぞ、みたいに読んだけどちょっとそれも疑問があるような…読みきれなかったかなあ とゆうのが正直な感想です
もっと感覚的に聴覚的に読んだらよかったかもなあ
なんとなく著者のやりたかった事は後に九段理江が「しをかくうま」で大成功させたのではないだろうか…とも思った -
難解な純文学。
これぞ芥川賞候補作だと頷ける。
途中で頭が混乱して、しばらく中断したせいか、最後まで分からずじまいだった。けど、2回目に読めばなんだかわかる気がする。
さて、2回目の気分になるまで、無理に理解するのはやめようっと。 -
とても不思議な作品で、様々な解釈ができそうだ。ボノボとヒトが理解しあえるのかどうかや、そもそもヒト同士ボノボ同士で分かりあえることはできるのだろうかとか、ヒトへの進化の過程だとか、様々な解釈と回答が読む人の数だけ出てきそうだ。個人的にはヒトとボノボは分かり合えないと思ったし、そもそもヒト同士も分かりえないとも思った。それでいて、どこかに物理的な自分はそんざいしているし、論理的な(自我的な)自分もどこかに存在していて、分かろうと努力をしている。けど、どうなの? と小説が囁いてくる。奥深さを感じる作品だった。
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難しい純文学ですね。
多分2度3度読むともっと色んな事を感じると思いました。
人間と猿どっちのこと言ってるのかなって迷ったりして読んでました。
けどまた手にとって読んでみたいと思いました。 -
群像12月号より
小砂川チト氏の作品は前回の家庭用安心坑夫に続く2作目で、正直前作で感じた違和感より、更に強く感じた違和感とでも言おうか、わけわからなさが増し増しでした。今回も芥川賞候補作に選出されたので、読みましたが、そうじゃないのであれば、最後まで読めなかった作品かもしれない。
自分に読み取る能力がまだまだ備わっておらず、この手の作品は苦手である。
どこからが現実で、どこからが妄想なのかわからず、常に足場は揺ら揺らし、不安定な日常の中、壊れていく精神の崩壊。
実際、物語のメインパーソナリティしふみは引きこもり。アスリートでありながら
ある事件で世間を騒がせ、心を病んでいた。そんな中、たまたま観たTVに映った
類人猿ボノボ、シネノに自分の姉を重ね動物園に会いに行く。と言った話だが、最近読んだ中村文則の列で猿の生態や、猿の世界の序列と人間界のシンクロを狙ったものかと思いきや、そうではない。他の人の感想がとかく、気になります。 -
#猿の戴冠式
#小砂川チト
24/1/19出版
https://amzn.to/3v6DD4K
●なぜ気になったか
第170回芥川賞候補作。予期せぬ出会いがあるかもなので候補作は手にすることにしている。内容は深層心理に向き合うことができて楽しめるかもの感じ。さて、実際はどうであろう?
●読了感想
芥川賞関係作なのを納得。違和感を感じ入り込めない表現、わかりやすくはないストーリー。つまりは僕には楽しめない作品。ただ、免疫力は向上しているらしく、途中断念することなく目は文字を追えた
#読書好きな人と繋がりたい
#読書
#本好き -
独創的すぎる。
自他境界、アイデンティティが曖昧で、ないまぜになって起きる幻想の文芸。
他種とのシンパシーにグラグラする世界観。
その疾走に酔いそうになるけれど読み進める。
前作も主人公は心的現実を生きていたが
言語化できないけれど、ありきたりなさに最後までどう展開するのか全く読めない。
けれど、しふみはきっと大丈夫。
いろいろな読み方ができる本は面白くて好きです。
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どこまで類人猿の描写なのか、分かりづらかったので、感情移入しようとか、その思想に共感や気持ちを寄せようと思っても、それが出来なかった。言葉が話せる生き物とコミニケーション出来たらいいなと思う。子供なら話せるような気もする。うちの犬を見てても、身体で話してるのはわかる。子供同士なら話せるのではと感じる
人に褒められて載冠するのではなく、自分で自分に載冠する -
装丁に心が奪われて手に取った。人間に教育されたボノボと、ボノボの近くで育った人間のお話。猿のふりをしている人間と人間のふりをしている猿。似ているようで違くて、考えていることが通じそうで通じ合えない。芥川龍之介賞の候補作であり、難しい純文学だった。もっと理解したいけど、わからない笑
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物語の語り手の視点がいきなり溶け合うような独特な文体で、読みにくさを感じました。
それは本作の試みなのだと思うし作者の狙いは成功していると思います。
後半の疾走感は私も好きな展開です。
けれど、心理面で最後まで共感できなかったので残念でした。
読み手によっては、私が苦手と指摘した点に面白さを見出す人もいるのかもしれませんね。 -
賢いボノボの雌シネノは、人間によって群れから離され、チンパンジーの雄と共にさまざまな実験をされた過去がある。今は動物園で他の仲間と一緒に飼育されているが、ある日、一人の女性客がシネノに特別な興味を示し、シネノもまたその女性=しふみと通じるものを感じる。心を通わせたふたり、シネノは思わず手話のようなものを使うが、その動画がSNSで拡散されシネノは取材のストレスにさらされる。一方しふみは実は競歩の選手だったが、ある事件を起こして炎上してからメンタルを病んでおり…。
『家庭用安心坑夫』(https://booklog.jp/users/yamaitsu/archives/1/4065288576)がとても面白かったので2冊目の小砂川チト。今作も突拍子もない設定だけれど面白かった。シネノとしふみ、ボノボと人間という種族の違いを超えてソウルメイトのようなふたり、終盤になるにつれてどんどん混濁してどちらの見ている光景、どちらの考えたことなのかわからなくなっていく。これはシネノが想像したしふみの生活なのか、それともしふみが妄想したシネノの未来なのか。
きっとしふみの狂気の中に読者も置き去りにされるのだろうと予想していたので、ラストが意外にも前向き(?)だったことに驚きました。シネノとの出会い(再会)もその後の展開もなにもかもすべてしふみの思い込みであったとしても、しふみが再び歩き出す勇気を得れたのならそれでいいと思えました。 -
面白かったー。
競歩の選手である主人公のしふみはレース中にとある出来事で炎上し休業状態にある。そんな中、しふみは動物園にいるボノボのシネノに自分を重ねて見るようになっていく───
最初シネノの視点で物語が進むのだが、読み進めていくと、シネノが見たり感じていることはおそらくしふみの妄想らしい…と分かってくる。
ボノボはチンパンジーと同様に遺伝子的に人間にとても近い生き物なのだそう。チンパンジーが同種を殺すこともあるほど獰猛な気性がある反面、ボノボは穏やかで同種を殺したりはしない。人間がどちらに近いのかといえば、残念ながらチンパンジーなのだろう。しかし、ボノボのように生きていくことも出来るはずだし、主人公がボノボに自分を重ねるのもボノボのような生き方への憧れがあるのかもしれない。
人間社会に絶望しつつもしねのが再び自分の足で歩きだそうとするラストは、希望を感じさせる終わり方だった。
やっぱり小砂川さんの表現は好きだなぁ。一番印象に残ったのは、「二匹のそれは言語をつかった有形の交流ではなく、もっとブヨブヨした一一一たとえばみずのはいった袋のようなものをふたつ持ち寄って、黙ってそっと押し付け合うような、そういう無音の、おだやかな交流のなかで進んでいった」という文章。すごく良い。 -
なかなかにごちゃごちゃとさせられた本だった。
文体の癖は強いわ、展開が突然飛ぶわ……。
何となく思ったのは、「猿」というメタファーとして現代社会に生きる我々は文化という服を着て歩いているだけで基本は野生の本能に従うだけの低脳で、粗野で、品性の欠けた「猿」そのものなのではないか、という事。
ネットでの炎上が作品内であげられるのにもそんな事を思った。 -
群像2023年12月号
前作『家庭用安心坑夫』も、本作も、私にはサッパリ理解できませんでした。
どなたかこの小説の良さを解説していただけないでしょうか。 -
ジャケ読み。
結びついた猿と猿と人間。
