考えるという感覚/思考の意味 (講談社選書メチエ)

  • 講談社 (2024年12月12日発売)
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本 ・本 (464ページ) / ISBN・EAN: 9784065352939

作品紹介・あらすじ

「考える」というのは人間だけに可能な営みなのか? そもそも「考える」とは、いったい何をすることなのか?――本書は、そんな根本的な問いに正面から取り組みます。
『考えるという感覚/思考の意味』というタイトルを見て、おや? と思うかたもいらっしゃることでしょう。本書の原題Der Sinn des Denkensには二つの意味がかけられている、と著者マルクス・ガブリエルは明言しています。一つは、「考えること(Denken)」とは、見ること、聞くこと、触ること、味わうことなどとまったく同じように「感覚(Sinn)」である、という意味。例えば、私たちは見ることでしか色には到達できませんし、聞くことでしか音には到達できません。それとまったく同じように、考えることでしか到達できないものがある――それが本書のタイトルに込められたもう一つの意味である「意味(Sinn)」にほかなりません。
 「考える」とは「自然的現実と心理的現実のあいだのインターフェース」だと著者は言います。もっとくだいて言えば、私たちが現実と触れ合う、その接点に生まれるもの、と言い換えてもよいでしょう。その意味で、ガブリエルが「三部作」として構想した三冊のうちの第一作『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)で扱われた「世界」と、第二作『「私」は脳ではない』(同)で扱われた「私」との接点に生まれるのが、「考えること」そのものなのです。私たちは、考えることで「かけ離れたいくつもの現実を結びつけ、それによって新たな現実を作り上げる」と著者は言います。つまり、考えるとは「結びつき」を作り、その「結びつき」を認識することです。
「ポストトゥルース」と呼ばれる現実が席捲する一方で、AIによって人間の知的な営みが奪われ、いつかは「考えること」そのものさえ人間には必要なくなるのではないかと考えさせられる今日、もう一度、原点に立ち返って考えること。本書をもって完結する三部作で、著者マルクス・ガブリエルは、人間にしか可能でない未来への希望を語っています。

[本書の内容]
序 論

第1章 考えるということの真実
第2章 考えるという技術
第3章 社会のデジタル化
第4章 なぜ生き物だけが考えるのか
第5章 現実とシミュレーション

本書のおわりに

感想・レビュー・書評

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  • 『考えるという感覚』の主張は大きく分けて四つ。

    1.「考える」ということは五感のような”感覚”である。
    2.「新しい実在論」の提唱
    3.構築主義を根幹とするトランスヒューマニズム、機能主義、神経中心主義、自然主義、ポストトゥルースを痛烈に批判
    4.「新しい実在論」で啓蒙的ヒューマニズムを援護し、人類が直面している危機に立ち向かおう

     一番興味をもったのは、「AIは”考える”ことはできない」という主張だった(1と3の混合)。以下にその道筋を自分なりにまとめたものを示す。

     著者は、AIには何かを理解することができず、「考える」という感覚を持たないと主張する。それはなぜか。結論から書くと次のように言える。
     生物ではないただの計算機では、意識が介在されることなく情報処理が進行し、その情報を理解しないまま統語論的に処理する為である。
     では、それは何故か。AI(人工知能)とHI(人間知性)の関係が、思考モデルと思考の関係に対応する為だ。つまり、AIは人間の思考のコピーではなく、あくまで思考のモデルとして機能する。その思考モデルとは論理(学)である。論理学は「(思考の本質が考えを把握することにある限りにおいて)思考の諸法則を研究する」ものであり、まさしく人間が思考のモデルとして作り出したものなのだ。AIが知的に、つまり意味を理解しているように見えるのも、(人間の)論理をインストールしているからにすぎない。
     まず、人間が或る文や考えを理解するのは、それらに人間の志向性(現実のものに意識を向けること)を貸し与えているからである(志向性貸与テーゼ)。つまり、私たちが現実に意味を付与しているのであり(投影テーゼ)、裏を返せば意味は思考する主体(人間)の外部にある現実との関係性によって与えられる(意味論的外在主義)。
     そして人間は、「貸与された志向性というニッチ(適所) を作り出すことで、自分たちの生にかかる環境の圧力を減らして」いる(「存在の意味論化)。つまり「人間の文化的活動の本質は、私たちが自分たちにはまったく制御できないさまざまな要因の手中にある、という印象を減らすこと」と言えるらしい。
     何故そんなことになっているのか。それを著者は次のように説明する。「私たちは思考する生き物として、自分自身に対して一つの態度をとっている、ということです。考えるという活動とその内容(つまり思想) を、私たちは常にある一定の仕方で経験しています。したがって、感情によって染められてもいます」
     こうしたその時々の心的状態である現象的意識は、志向的意識と相互作用があり、そのために思想に「色合いと陰影」(感情)を与える。つまり、「真理は私たちの思考プロセスを説明する唯一の要因ではありえ」ず、「人間としての生の形式と個人の人生が、意識的経験という背景のもと、私たちの頭に浮かんでくる思想を選び出す」。 このプロセスを「感情的知性」と呼ぶ。そして、真なる思想も偽なる思想も無限に存在し、従って現実の殆どが無限に複雑である為、こうした感情的知性なしでは、無限の対象から何かを選び出すことは不可能とすら言えるのだ。つまり、感情的知性のおかげで、私たちはこの接触をある特定のあり方で体験し、そうすることで、私たちは選び出した現実のものの一部を志向的に、つまり論理的にフォーマットし、さらに処理を進めることができるのだ。
     ということはつまり、AIも、感情的条件から解放されて複雑な現実を把握することは難しく、故に、人間の質的な経験を、(人間の思考のモデルという完璧ではない形で、)模造するしかないのだ。これはAIというシステムは、「システムの創造主たる人間の価値体系を暗黙裡に推奨している」ことを意味し、それにも拘らず、それを推奨していることを明らかにしないあり方に、著者は警鐘を鳴らしている。

     さて、ここまでが本書の主張のまとめだ(ホントはまだ続くけど)。
     うーん、結局、「AIが意味を理解しえないのは思考する主体を持たない為」とするのは循環論法になってしまうように思えるし、つまるところ「生物学的にあまりに複雑な人間の思考を完璧に再現することはできないから、人間の不完全なモデルでしかないAIは永遠に意味を理解しえない」ということだろうか。そうなってくると、哲学的にあり得ないというより、技術的にあり得ないというような、機能主義的なイメージに戻ってきてしまう気がする。

  • 哲学書としては異例のわかりやすさである。ただ、多くの映画を引用していたが、日本でそれほど人気を博した映画だけではないように思われる。AIについて言及しているので、AIには教育ができないということを説明している、ということを示す場所を探したが、それはなかった。

  • コンピュータは思考するか?
    人間の脳と何が違うのか。
    人間はどう感覚し、どう思考しているのか?

    実に興味深い。
    文章も平易、というか、ピンとくる、というかわかりやすい、というか、
    頭に入ってくる。
    自分は脳の働きに興味があるんだなあ、と思う。

    しかし、、
    情報量が豊富すぎて、結論、というか、著者が何を言おうとしているのかが、
    本全体としては入ってこなかった。
    これは斜め読みの欠点と、結局は私の理解不足。

    ただ思うのは、
    コンピュータが思考のまねごとをする、というのであれば、
    人間も同じ部分があるような気がする。
    ただ人間は生き物だから、理屈にない感覚、肌感覚、肉体的感覚で、
    衝動的に思いもよらぬことを考えたり行動したりする、ということではないか。
    コンピュータにはそれはないはず。あったとしたらそれは暴走か。

    基本は人間もコンピュータ同様、学習して少しずつ思考のレベルを上げる。
    赤ちゃんのそれと、63歳の自分の思考は明らかに違う。
    この積み重ねはコンピュータにも可能な気はする。
    ただ、それ以外の部分を人間は持っている、ということではなかろうか、

    ガブリエルの言ってることと違うかもしれないけど。

    なぜ世界は存在しないのか、「私」は脳ではない に続く三部作の完結作。
    二つ、読んでたかどうか、、


    まえがき

    序 論

    第1章 考えるということの真実
    無限の複雑性/考える? それはいったい何だ/考えることができるのは人間だけではない/宇宙の範囲/アリストテレスの感覚〔Sinn〕/コモンセンスは時に感覚的/「感覚〔Sinn〕」の意味〔Sinn〕、あるいは思い違いの仕方あれこれ/宇宙に亡命し、そこから眺めているのは誰だ/すべての対象が物なのではない/赤い蓋は(現実に)存在するか/思考は神経の興奮ではない/真理以外の何ものでもない/世界はお望みのままに/フレーゲの「思想〔Gedanke〕」/意味と情報、そしてフェイクニュースのナンセンス/私たちの第六感

    第2章 考えるという技術
    地図と領土/コンピューターは中国語ができるか/写真はクレタ島を覚えていない/一匹のアリが砂の上を這いまわることは、なぜウィンストン・チャーチルと無関係なのか/インターネットという神/文化の中の居心地悪さ/感情的知性と、記号のデジタルジャングルに隠された価値/「機能主義」という名の宗教/思考はタバコの自動販売機ではなく……/……心はビール缶の山ではない/ステップ・バイ・ステップで脳をぺースメーカーに?/技術という理念、あるいは、どうやって家を建てるか/総動員/社会はビデオゲームではない/機能主義のアキレス腱

    第3章 社会のデジタル化
    論理的でしょ?/集合とのピンポンゲーム/いずれすべてがクラッシュする/そもそもコンピューターにできることはあるのか/ハイデガーのつぶやき/奇跡も多すぎると不安になる/「完全なる用立て可能性」の時代に/『サークル』に捕まった?/ヴィンデンへの寄り道/意識一つ、テイクアウトね/ここでは誰が問題を抱えているのか

    第4章 なぜ生き物だけが考えるのか
    ヌースコープ/魂とカードボックス/「さあ、来い、古箒!」/照らし出された脳/意識ファースト/内、外、それとも、どこでもないところ?/湿っぽくて絡み合った一個の現実

    第5章 現実とシミュレーション
    空想はスマホと出会う/避けられない「マトリックス」/追 悼/ホラーとハンガー(ゲーム)/美しき、新しき世界/あなたは目覚めているのか、それとも、夢と独り言の中に囚われているのか/あなたはオランダを知っていますか/物質と無知/現実とは何か/どっちつかずの現実/魚、魚、魚/つかみどころのない現実の変動幅/カエサルの髪とインドのマンホールの蓋とドイツ/フレーゲのエレガントな事実理論/私たちの知の限界を超えて/思考の現実は頭蓋基底のレッスンではない/マッシュルームとシャンパンと思考‐思考との違い/人間は人工知性だ/人間の終焉

    本書のおわりに
    謝 辞

    原注
    文献一覧
    語彙集
    人名・作品名索引

  • sinn

  • 考えることの重大性を様々な角度から検討している。前2作とも関連するが必須ではない。

    問題意識の一つに人工知能の万能性への懐疑がある。人間性、生きることを取り戻す試みだ。思考とチューリングマシン(あたかも思考しているように思える)は位相が違う。

    また、より大きな文脈としては、社会構築主義と科学至上主義への反駁がある。わかりやすく言うと、この世は有意味であると言う主張だ。

    プラトン、アリストテレス、カント、ウィトゲンシュタイン、フーコー、ボードリヤール、サール、ブランダム、クワインなどが縦横に引用される。本書で最も重要なのはフッサールだろう。また、SF的な映画、小説の引用も豊富だ。

    リルケの詩の紹介は中でも最も印象的な部分だった。また、ゲーテのファウスト博士の嘆きを理解できたのも大きかった。p340

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著者プロフィール

【著者】マルクス・ガブリエル
Markus Gabriel/1980年生まれ。後期シェリングの研究によりハイデルベルク大学から博士号を取得。現在、ボン大学教授。日本語訳に、『神話・狂気・哄笑:ドイツ観念論における主体性』(ジジェクとの共著、大河内泰樹/斎藤幸平監訳、堀之内出版、2015年)、『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ、2018年)、『「私」は脳ではない:21世紀のための精神の哲学』(姫田多佳子訳、講談社選書メチエ、2019年)、『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書、2020年)、『アートの力』(大池惣太郎訳、堀之内出版、2023年)など。

「2023年 『超越論的存在論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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