本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
本 ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784065361726
作品紹介・あらすじ
ロングセラー『水中の哲学者たち』で話題沸騰!
対話する哲学者・永井玲衣、待望の最新刊!
見ることは、わたしを当事者にする。
共に生きるひとにする。
世界をもっと「よく」見ること。その中に入り込んで、てのひらいっぱいに受け取ること。
この世界と向き合うための哲学エッセイ。
わたしはどうやら、時間が流れていくにしたがって、
何かが消えるとか、失われるとか、忘れられるということがおそろしいらしい。
ここに書かれたもの。その何倍もある、書かれなかったもの。
でも決してなくならないもの――。
生の断片、世界の欠片は、きかれることを待っている。じっとして、掘り出されることを待っている。
感想・レビュー・書評
-
哲学対話のファシリテーターをしている永井玲衣さんのエッセイ集2作目。なんというか、文章のリズムというか、雰囲気が心地よい。ずっと読み続けていたかったが、読み終わってしまって残念。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「夜が明けてやはり淋しい春の野を
ふたり歩いてゆくはずでした」東直子
仮定法過去完了の「はずでした」には、後悔や願望の響きがある。
「もし一緒にいたならば3年になるはずでした」
でも、
「撮られなかったものも撮った写真に全部入っているんで。私がその前後を生きているんで。」
という友の言葉にハッとする。
自分が選んだ道は選べ直せなくても、選ばなかった道がそこに入っているとしたらポジティブな余韻が残る。
前回読んだ『水中の哲学者たち』より深い味わいがある。日常のことが、掘り下げられ、新しい角度で語られる。見逃してしまうこと、忘れてしまっていることにも光が当たる。不確かな記憶の中には思い出して欲しくて待っているものがありそうだ。
東日本大震災や世界情勢にも言及し、人とのかかわりの中で、それらの問題を哲学していく。
特に、においを保存したり表現したりすることの難しさを語る。味もにおいも手ざわりも体験であり、本当に体験した人にしかわかり得ない。パクチー、埃っぽいにおい、そして遺体を焼くにおい。においは保存されにくい。
でも、著者は、においも含めた感覚的な断片はそこに確かにいたという体験的事実なのだから、適切に保存したいと願っている。
これから自分の中で咀嚼していかないと、自分の言葉になっていかないが。 -
ラジオで時々永井さんの哲学対話を拝聴している。
私のような凡人では気づくことのない事柄や、記憶から抜け落ちてしまうような事を永井さんは本当によく覚えていて、それについて思考を巡らせている。
そんな風に生きていると、しんどくなったりしないのかな?と思ってしまうが、この本を読んでいると目が見開かれていくような気がする。
哲学対話は、日常で疑問に感じることを一人で抱え込まず、結論づけることなく皆で考えてみよう、という試みだ。
哲学を日常に…そんな永井さんの人柄が少し知れたような気がする。
-
「水中の哲学者」に続き、こちらも哲学の堅苦しさ、気難しさはなく、日常のふとした気付きやちょっとした違和感をすくい取りながら、たゆたうように考える面白さに満ちていた。合間合間に挟まれる詩も、永井氏の文章と相まって味わい深い。
日常の描写が多い中、震災やパレスチナに触れるところで、壮絶な体験をどう人に伝えるか、忘却させないためにはどうしたらいいのかということを考えさせられた。
「適切な保存」の「適切」は「正確」とは違うこと。「保存」されたものは生きていて、それを誰かに手渡し、つなげていくこと。体験を言葉にする難しさに打ちひしがれながらも、それをあきらめないところで、人が人とつながっていくのだろうと思う。考えること、言葉にすることを手放さずにいたい。 -
世界が無くならないように、形を変えないように、正しく「保存」することがテーマ。
永井さんが日々考えていること、感じていることが瑞々しい言葉で語られる。
「水中の哲学者たち」と同じく、永井さんの言葉を通して自分自身の思考がぽつぽつ浮かんでは消えて、を繰り返しているような感覚だった。
「保存」といえば私は昔から、人生の全ての項目を記録してくれるような仕組みがあれば良いのに、と感じていた。
ゲームのエンディングの後に出てくる全編を通してのresult。
コインを取った総数、死んだ回数、集めたアイテム○個/100個...
そんな風に、「友達の人数」「喋った単語の数」「使ったお金の総額」「ウニを食べた回数」...などなど
全ての項目を数値化して振り返ってみたい。
人と比べて違いを楽しみたい。
別に常にそんな事ばかり考えているわけではなく、こだわってもいない。
だけど、そんな「保存」に対する欲望は物心着いた頃から当然のようにうっすら自分の中にある。
私にとって「保存」っていうのは、数値のように単純なものにデータ化することなんだとこの本を読んで気付いた。
永井さんが感じている「保存」とはずいぶん違っているのがおもしろい。
みんなにとっての「保存」ってどんなことなんだろう。
いろんな意見を聞いてみたい。 -
「水中の哲学者たち」がとても好きだったのですが、今回はそれほど刺さらなかった。
途中まではなかなか入り込めず字面を目で追っているだけになっているような感覚でしたが、震災、戦争へと話が移って行くにつれて、少し読むスピードがあがった気がします。
-
水中の哲学者たちが、すごいブッ刺さって今作が発売されるや即購入して読みました。
はずでした、という話がすごく良かった。
やはり毎日、哲学したいものです。
しかし
唐突に始まるガザ関連の話。あまりに無力な自分を感じ泣きたくなるほど空虚なまま読了。
哲学すること、それに、どれだけ意味があるのか。
無力な自分に気付くこと、悲しい…
-
示される思考の対流に、不思議なほど翻弄され、見覚えのない場所へ運ばれていくような心地よさ。
流れをしっかり感じたくて、少しずつ読みました。
差し込まれた短歌や詩が、あまりにもぴったりで、語られる哲学の世界を深めていて、短歌の表現って哲学だったんだなぁと(前から感じてたと思うけど)言葉ではっきり認識しました。
最後に突然現れた、現在の国際情勢についての文章。
今まで自分のためだった思索、それで終えてはいけないことを知り直す。
なにか力になりたいけれど、強くそう思った一方で、正直に書けば私は自分の心を守るためにやっぱり忘れたいとどこかで思っている。
その積み重ねの先にあるのが今の世界。
せめて、この痛さを保存していかなければ。
きっと心を締め上げるようにして書かれたであろう言葉を大切にしたいです。 -
どんな本かわからずに手に取った。哲学??エッセイ??短歌の解説??
なんか、都会的なことば遊び?どことなくおしゃれな演出?と批判的に読んでいて、途中で一旦読むのをやめた。谷川俊太郎とかさくらももこみたいな印象もあり。(どちらも好きですが、)
2.3日おいて、再度読み始めたら、びっくりすることに、涙が止まらず、やたらと心が動かされている自分がいた。不謹慎なことにそれがとても心地よかった。 -
この本を読んでいると終始安全な場所に居るような気がした。誰にも知られずに見つめてきた世界、似た目を持った人の言葉たち。
書いてあること自体にも胸を打たれるものはもちろんあったけど、それよりも何よりも私にとっては著者のような目を持った人、その周りにいる人たちの存在に励まされた。
重くて、軽やかで、そしてとても誠実な一冊、水中の哲学者たちもこちらも大事な本になりました。 -
人がぽろりとこぼしたことばの新鮮な響き、どこにも記されない日々のなかで起きた出来事や感情、忘れてはいけないことをどうやって適切に保存するのか。読みながら、ぐるぐると考えて、いまもまとまらないまま考えている。頭の中に浮かんで消えていく思考も感情も生きている日々も、そのまま保存されることはない。それでもささいな日常のにおいや手触りやだれかの呟き、本を読んで生まれる自分の心のさざ波を、じっと見つめてみたいとも思った。
-
装丁の雰囲気が『水中の哲学者たち』と似ているので、しばらくの間、同じ出版社から出ているのだと思っていた。
装丁は同じ人のようだ。
2冊を本棚に並べたらいい感じになった。
適切な保存とは何か。
保存するものはさまざまだ。
震災や紛争、哲学対話でのひと言、亡くなった人のこと、授業の風景まで。
適切に保存するためにはよく見聞きしなければならないし、可能なら現地に行った方がいい。
偶然や言い間違い、ちょっとした間(ま)もスルーしない。
記憶や記録の中から何を引用し、切り捨て、どんな言葉で表現するかも重要だ。
人数が多ければ適切な保存ができるわけではない。記憶に残るエピソードは個々の細部に宿っていることも多い。
俯瞰からの全体像、最大公約数的な情報量の多さを求められているとは決めつけない。
当事者と非当事者の間にある無数のグラデーションと時間感覚。
うまく伝わらなくてもいいので、においや味や触った感覚や間を表現してみること。
新聞やニュース番組の報道は大事だが、それだけでは適切に保存されない。隙間を埋め、忘れられないようにするためには何が必要か。
いろいろとヒントを得られた。
他にもたくさんあったと思うが、適切に書き留めておけなかった。
この本には詩や短歌、小説やエッセイなどの一節がたくさん引用されている。
著者は気に入った作品を小まめに保存しているようだ。
ただ保存しておくだけでなく、無数にある選択肢の中から適切に出せる引き出し力はすごい。
いままで自分はあまり詩や短歌に触れたことがなかったが、エッセイの流れの中で楽しむことができた。これはこの本を読む前の想像とは違っていた部分だ。
印象に残ったエッセイを抜粋する。
P24「誰かの記憶」
コロナ禍のオンライン授業で学生たちに「授業中の風景を絵にしてください」と頼む。
すると、200人の受講生のほとんどが、似通った絵を思い浮かべたそうだ。
『正面に黒板とその前に立っている教師。そして教師の話をノートに取る生徒たち。数十人の背中が並び、従順そうにじっとしている。それらが俯瞰的に描かれる。』
ディスカッションをしていたり、生徒が前で話している描写はないという。
自分も似たような構図が頭に浮かんだことにガッカリしつつ、いわゆるチョーク&トークの一方通行的な教育についても考えた。
とくに指示されていなくても、全体をとらえようとしてしまうのか。
自分自身の個人的な視点で描いてはいけないと勝手に決めつけてしまうのか。
P62「はずでした」
『夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした 東直子』
「はずでした」という5文字の中には、そうなってほしかったという願望と、それが実現しなかったという無念さのようなものが含まれている。
過去の出来事を語るときに、ただ「Aが起こった」と言うのと「Bが起こるはずだった(がAが起こってしまった)」と言うのとでは全く違う。
文章を書くとき、あれこれ推敲した結果、削除してしまうものも多い。
書かれなかったものは忘れられてしまう。書かれる「はずだった」ものはどこへいってしまうのか。
これに対するカメラマンの言葉も面白い。
『その問いに対して、わたしには明確に答えがあって。それは、撮られなかったものも、撮った写真に全部入っているんです。』
『わたしがその前後を生きているから。』
写ってはいないが入っている、という考え方。
とても勇気づけられた。自分はもの書きでもカメラマンでもないけれど。
P172「はらう」
いまは東京に住んでいる福島出身者の原発事故に関する言葉が印象に残った。
「外部から何かを加えてはいけないっていう感覚」について。
『そのひとたちのかなしみに変に混ぜ物をしたり入っていったりして、なんか、治りが遅くなるとかっていうか、自分で自己、引き受ける機会を収奪するんじゃないかみたいな。』
東京在住の自分と現地に残る人との時間感覚の差について。
『自分自身は変わって行ってるんだけど、地元の友だちたちと会ったときは、同じ目線、あまり変わってないって感覚があるかもしれないですね。』
『それって、変わりたいって思いますか?』
『あまり変わりたいとは思っていないですね。』
震災や紛争が起こったとき、当事者と非当事者という視点で考えたことはあるが、その中間にいる人の視点を考えることはなかった。
そこには無数のグラデーションがあることも頭に入れておきたい。
P207「適切な説明」
道案内の受け答え。
お客さんに勇気を与える「不安がらずにまっすぐ」のひと言。
自然に言える人間になりたい。
P261「安藤さん」
亡くなった人を適切に保存するには。
『釜ヶ崎はお別れの多いまちだ。あなたがいなくなってしまう。だから、適切に、適切に、できるだけ適切に保存したい。そうして思いはつのり、まだ目の前にいるのに、お別れのことを考えてしまう』 -
人は誰もが、すでに哲学者である。哲学者になろうとすることもできるだろう。だが、詩人に「なってしまう」ことはできても、詩人に「なる」ことはむずかしい。
と本文にある。
哲学者と詩人は相反するように思っていたが、詩人も哲学者も言葉にこだわる存在である。
この本には多くの詩や短歌が紹介されていて、その言葉が本質を射抜いている。
詩と哲学両方が楽しめる
-
『水中の哲学者たち』につづく永井玲衣さんのエッセイ。
前作よりも個人的なエピソードに言及しているものが多い印象で、短歌や小説等からの引用も多いのでその点も楽しんで読めた。
タイトル『世界の適切な保存』にもあるように、記憶からはこぼれおちてしまうようなささいな事どもを、私たちはどのように保存しておけるものか。
日々の感情の移ろいや、誰かが言った言葉、この目で見たもの、風の匂い、雲のかたち、光。どうしたって自分でしか覚えていられないこと。
忘れてしまうのが悲しいので、バーチカル手帳に行動や食べたものを記録したりして自分なりに食らいついているつもりだけれど、それでも忘れていることのほうがほとんどだ。日記だって、書こうと思ったときにはすでに大方を失っている。
そうしたことについて、永井さんはこのように書く。
〈だからわたしは、思い出せないということを書く。何かが失われたということを書く。適切に保存ができないということを、くり返し、くり返し書く〉
〈あなたのちいさなにおい、感触、体験をきくとき、そう思う。保存したいと思うが、保存しなくても本当は消えない。それでも、欲深さが消えずに、適切に保存したいと願ってしまう〉
〈生の断片、世界の欠片は、きかれることを待っている。消えかけているかもしれないが、確かにいる。じっとして、掘り出されることを待っている〉
なんてしなやかで大らかな捉え方なんだろう。
保存しなくても本当は消えない。みつけられるまで、そのことに安心していたい。
哲学者が問いをむけつづけることは、そうした断片や欠片を集めることにつながっているのかもしれない。 -
人からふと出た言葉を聞き逃す事なく、想像し考える。哲学と言うと一見小難しい感じがするけれど皆んなどこかで引っかかる事を見たり聞いたりしているのではないかと思う。「余計な心配」が特に面白かった。私も意外と余計な心配をする方かもしれない。
-
240918*読了
まず、この本との出会いを書きたい。
東京旅行で立ち寄った、紀伊國屋書店新宿本店。
本好きとして日本最大規模の書店に立ち寄って、一冊は本を持ち帰りたい。意気込んで訪れ、階段を何階かのぼって訪れたそのフロアにこの本はあった。
永井さんのお名前はそれまで存じておらず、まずタイトルと装丁に惹かれた。
サイン本だったことも大きい。
サインの上に耳の絵と、よくきくって?と書かれてある。
サイン本が欲しくなる理由は、価値が高まるからではなくて、その本の著者が触れた本だから。
数秒でも表紙を開き、そっと押さえて、マジックでサインしたその記憶がこの本には保存されている。
時を隔てて、著者から本を受け取ったような気持ちになる。
常日頃、哲学に触れているわけでもなく、語る言葉も持っていないのに、自分と同世代の女性から語られる言葉で哲学を知りたいと思った。
読むほどに、その思いに引き込まれて、ページをめくる手が止まらなくなった。
一篇、一篇について共に思考し、つたなくも考えを述べたくなった。
ここに記そうとすれば、きっと書いても書いても終わらないと思う。
自分より2歳年下の彼女とは、ほとんど同じ時を歩んで、同じようなものを見てきたはずなのに。
その思考や、主に大学生から社会人、今に至るまでの経験が自分とはまるで違っていて、自分は何も知ろうとも考えようともしてこなかったのではないか、とガツンと頭を殴られた気がした。
東日本大震災、パレスチナ占領とガザ虐殺とどんどん深くなっていく。
支えきれないほどの言葉の重さ。
そのとめどない思いを、何度も消しては書いた文章で、伝えようとしてくれている。
その言葉をかき分けるようにして、読み進めた。
詩や書物、新聞からの引用が多々あって、その中で印象に残っているのは、大江健三郎さんの被爆者について語る言葉。
大江さんの文章に対して、もっとおそろしい目にあった、きれいごとじゃないという批判。
自身が高校で所属していた創作ダンス部の全国大会で、戦争をテーマにしたとき、審査員もおなじ言葉を私たちにぶつけた。
戦争はこんなに美しくない、と。
私は永井さんと同じ場所にはいなかった。
そこにいなかったという事実はありながらも、今、こうして永井さんの言葉を通じて、その出来事の片鱗を知った。
経験していないことを、知ろうとすること。
見ようとしてもすべては見えない、どれだけ分かったつもりになっても、分かったとは言えないのかもしれない。
適切な保存とはなんなのだろう。
それが適切なのかどうかはいつまでも定まらず、たゆたうのかもしれない。
それでも、永井さんの紡いだ言葉たちは適切な保存を試みた真摯さと共に本となって保存され、私を含む読者に届いた。
それがこの本の役目で、受け取った自分がまたこうして、自身の言葉で保存をして、伝えようとすることにも意味があるのではないだろうか。
紹介されていた、ブローティガンの西瓜糖の日々を読んでみようと思った。
これも適切な保存から生まれた、一つの願いであり、後に行動になる。 -
れいさんのことを検索すると、東進予備校の授業の映像がでてくる。
小論の講義か、論理的思考の解説をしている。「論理的とは、根拠と主張が結びついていることです。」
前半では、詩や短歌が多く引用されているのだけど、それらは全く論理的ではなく、根拠と主張が明らかに結びつかない。そんな言葉に頭を殴られたような気持ちになるらしい。
私は、詩や短歌は、意味が分からなくても良かったんだ、と初めて知った。いやむしろ、分からなさを面白がるものなのだと理解した。これまで、私は読んでも分からないけれど、きっと分かる人には分かる暗号解読キーのような教養的知識があるのだろうと思っていた。ただ想像力がありさえすれば良さそうだ。
哲学って、私にとっては詩と同じ。ちょっと何言ってるか分からない(サンドイッチマン風)のだけれど、親和性があるのかな。
後半は、東日本大震災やガザ侵攻、生活困窮者の支援、釜ヶ崎での活動など…
自然災害、戦争・虐殺、社会的弱者、、多くの人が考えることさえ無意識に避けてしまう重たい問題に逃げずに向き合っているのかと、自分が恥ずかしいような気持ちになる。
けれど、綴られた思いは、同世代だから感じられる共感とデジャヴに満ちていて、泣きそうになった。バブル崩壊後の日本で混沌とした中過ごした10代、大震災に無力さを感じるばかりの20代、パンデミックと武力侵攻、社会格差など今の世界の脆さが露呈しお前はどっち側だと迫られる30代。
考え続ける胆力が必要だ。 -
書き綴られる言葉の一つ一つが、とても丁寧に選び抜き並べられ、まるで紙の上に宿る静かな生物のような印象を受けました。
見ること、きくこと、考えること、書くこと…人間が当たり前のように日々やり過ごしていく営みに、こんなに美しい一面があったのかと気づかされます。 -
この人の文章は何か独特なものがある。自然でさりげないのだけれど強さもあり、評判が高いのも納得である。
読んでいるとなんだか心があるべきところに収まっていく感じがある。自分が自分のままでいいのだと思えてくる。
こうやって自然体で、かつ周りに影響力を持つ人に憧れがある。村上春樹がその極地だろう。
著者プロフィール
永井玲衣の作品





