- Amazon.co.jp ・本 (226ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087203516
作品紹介・あらすじ
北インド・シャカ族出身の王子でありながら、自らの子に"ラーフラ(=悪魔)"と名づけ、さらに妻子を捨て、一族を捨てて家を出た若き日のブッダ!この仏教最大ともいえる謎に、宗教学の第一人者が挑む。そこから浮かび上がってきたのは、日本の仏教とはあまりに隔絶したブッダその人の思想であった。少子高齢化の時代を生きる二十一世紀の日本人にブッダは何を語りかけてくるのか。いまの日本にブッダを呼び戻し、その教えの真髄に迫る画期的な試み。
感想・レビュー・書評
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ブッダはルンビニーで生まれ、クシナガラで入滅。遍歴行脚は1000キロ。
ブッダの悟りは四締八正道と縁起の原理。
ブッダの説いた無常は、世の中に永遠なるものはない、形あるものは滅する、人は生きてやがて死ぬ、という無常の三原則。
欲望からの解放が最後の目的でない。欲望からの解放にむかって限りない努力を傾注せよ。というのがブッダの言いたいこと。
川口慧海(えかい)明治になって単身チベットに渡り経典などを多くを持ち帰った。
ブッダの教えに「浄土」という観念はない。「死者にこだわるな」
インドの仏教は「無我の仏教」日本のものは「無私の仏教」
三蔵とは経(ブッダの言葉を集めたもの)と律(在家信者の生活を律する綱領)と論(仏教を解釈・注釈の仕事)をいう。
親鸞「遺体は鴨川に流し、魚の餌にせよ」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
インドを考える
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悟りを開く前の釈尊(シッダールタ)が、息子に「悪魔」を意味するラーフラという名前を与え、さらにその子を捨てたのはなぜか、という問いをめぐって考察を展開している本です。
ただ、問題の提出にとどまっており、実質的な回答は与えられていないように感じてしまいました。好意的にとれば、悟りに到達する前の、一人の悩める青年でしかなかったシッダールタと、彼に捨てられたラーフラという二人の「人」の、実存的な背景に迫る試み、ということもできるかもしれませんが、そうだとしても仏教の思想と正面から切り結ぶような見方とはいいかねるように思います。
後半は、日本における仏教の受容と変容が、概論的に語られています。 -
新書文庫
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ふしぎなキリスト教と違って、こっちは何だか底が薄い印象があった。もちろん、こと宗教関係の知識はからっきしだから、自分に問題があるといえばそれまでだけど、上述の書の場合、それでもなお読ませる部分が多々あったのに対して、こっちはなんというか、独りよがりに見える部分の方がむしろ気になってしまった。タイトルからして、仏教の何たるかを考える本ではないし、そういう意味では“なぜ子を捨てたか”については、それなりに考察が巡らされていると思いました。
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著者は宗教学者である。しかし、本書はブッダや仏教に向けた著者の個人的・主観的な思いが書き連ねられているように感じる。つまり、ブッダの生き様の解釈の一例とでもいえようか。その中で篤い気持ちを吐露しているようだが、どうもそれが伝わってこない。難しい言葉や文章ではないので、言っていることはわかるが、著者の真意を汲み取るには、「仏教」や「ブッダ」に関しての多少の前提知識が必要なのかもしれない。
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20140211読了
2006年発行。悟りを開くまでのブッダがひとりの人間としてどのような経過をたどったのか。第一章「ブッダは、なぜ家を出たのか」第二章「ブッダは、なぜ子を捨てたか」●「家を出る」という行為が当時ヒンドゥー教でどのような意味を持つか。背景には「四住期」という考え方があった。学生期(がくしょうき):師について勉学し禁欲の生活を送る。家住期(かじゅうき):結婚し子をつくり神々を祀って家の職業に従事。林住期(りんじゅうき):妻子を養い、家業が安定した段階で、家長が一時的に家を出て、果たせなかった夢を実行に移そうとする時期。遊行期(ゆぎょうき):家族のもとに戻らずたった一人で「魂の看取り」を行う。ほんの一握りの人間だけが入っていく住期。●P114~ 日本に入った仏教の変化。風土による影響という視点がおもしろい。インドでは「乾いた仏教」、日本では「湿った仏教」。P152~ インドは無我。日本は無私。 -
ショッキングなタイトルに、思わず手にとった新書。
ブッダは出家したことで家族と縁を切っており、つまり子供を見捨てたことになります。
そこに着眼した理由が気になりました。
親捨て子捨てという悲劇を自ら生んだブッダが、どのように自己と他者をも救済するに至ったかが考察されています。
まずは、彼の名前の変遷の確認から。
彼は悟りを開く以前は釈迦、悟りを開いた後の時期は仏陀、青年時代はシッダールタという名前だったため、シッダールタ→シャカ→ブッダと名前が変わったことになります。
つまり本のタイトルは正確には正しくはないというわけです。
貴族社会に暮らすブッダの出家は、ある意味突然発作的なもので、「出家」というより「家出」に近いものだったという点が指摘されます。
またシッダールタは、自分の息子を「ラーフラ(悪魔)」と名付け、息子の誕生と同時に家を出たのだそう。
なぜなのでしょうか。
彼の出家に関して、妻や息子の視点からの考察は残されていないため、ともすれば自己中心的な願望で家を捨てた男という見方もされかねません。
家長の世俗的な責任の所在を放棄され、残された家族にとっては悲劇以外の何ものでもないのに、出家するシッダールタというイメージが、現実的な問題を曖昧なものにしてしまっています。
ここで、ガンディーとの類似が語られます。
南アフリカでアパルトヘイト反対運動に立ち上がった、非暴力抵抗主義者のガンディー。
確かにブッダ同様に美しい魂を持つ人物に思えますが、長男の再婚を許さなかったため、長男は荒んだ人間になったとのこと。
子供にはどちらもいい父親ではなかったようです。
ちなみに、十大弟子のアーナンダはシャカ族でブッダのイトコだとのこと。
ラーフラ以外にも血縁がいたんですね。
子を捨て、家を捨てたというブッダに、私は西行の姿を重ね合わせます。
最終的に自己を捨てるべく、修行を重ねていくブッダ。
仏教が、西欧人から宗教というよりも哲学や倫理に近いとされてきたのには、悟りに至るまでの彼の葛藤や苦しみがあったからでしょう。
信じるべき宗教ではなく、よい生き方を探す宗教だからです。
仏教もキリスト教も発祥の地では生き延びることができなかった事実、日本ではブッダ崇拝よりも先祖崇拝の意味合いの方が強いことなどにも言及された、面白いアプローチの本でしたが、最終章はほとんど私的エッセイだったため、拍子抜けしました。
もはや仏教が成立したインドのそれとはかなり別のものになっている、日本の仏教。
インドの仏教は「無我の仏教」で日本の仏教は「無私の仏教」だという、その違いにさらに注目していきたいと思います。