犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

著者 :
  • 集英社
3.59
  • (6)
  • (26)
  • (22)
  • (4)
  • (0)
本棚登録 : 272
感想 : 21
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087206258

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 久しぶりに言葉より思いが前面に出ている文書を読んだ。国のためにスケープゴートを作らなくてはいけないシステムというのはシステムごと限界が来てるだろうな...

  • 『国家と犠牲』では靖国神社にみられる犠牲のシステムを分析しておられましたが、まったく同じシステムが福島・沖縄についても作動しているという指摘には、この国にいきるものとして、うすら寒いものをかんじざるを得ません。

    「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」

  • 第3章以降が著者の言いたいことの中心だった。その前は事実関係の整理で、原発事故以来、一定の時間経過があったいまとなっては、わかっていることが多い。
    震災後の「天罰」思考、また原爆投下後の「天恵論」が本質的に犠牲のシステムであることにおいて同じであるという。そして、基地問題における沖縄の犠牲と、原発事故における福島の犠牲がある部分では同質のものだとも。
    そもそもこの本を手に取ったのは、片山杜秀著「国の死に方」で、国家の存亡に関わる圧倒的な脅威の前で人間(国民)が犠牲にされるその有り様が、時代とともに変化していることが明らかにされていたからである。国家権力による犠牲のシステムの構築(最終的に戦没者が英霊としてたてまつられることとか)が謀られた時代から、犠牲のシステムに組み込まれるかどうかにもはや国家権力は効力がなく、もはや個人の「ボランティア」となってしまっているに等しいのが現代なのでは、とのことだった。ここに現れた「犠牲」というキーワードから、そういえば、というので高哲先生のこの新書を読み始めたのだった。
    読んでみると、片山氏は、どこか「犠牲(のシステム)」が存在すること自体は受け入れている。その上でその歴史的変遷を淡々とあぶり出すのに対し、高橋氏は「犠牲(のシステム)」そのものに疑義を唱える態度だった。どうしてこの人間世界に犠牲という概念ができちゃったのかを追究しているんだなと。
    片山氏が政治思想史が専門で、高橋氏が哲学が専門、というところからくるスタンスの違いなのだと思うが。

  • 鳩山内閣の普天間基地、菅内閣の浜岡原発の指摘は示唆に富む。

  • 基地の沖縄、原発の福島、そこに見える犠牲のシステム、植民地主義、そして民主主義の落とし穴を喝破した好著。
    この構図は核燃まで抱える青森県も同じなのは、書中に三村知事の名が出てくるのでも明らかですが、それに絡め取られてしまっている現実を何とかしないといけません。

著者プロフィール

1956年生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス科卒業。同大学院哲学専攻博士課程単位取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。著書:『逆光のロゴス』(未來社)、『記憶のエチカ』(岩波書店)、『デリダ』『戦後責任論』(以上、講談社)ほか。訳書:デリダ『他の岬』(共訳、みすず書房)、マラブー編『デリダと肯定の思考』(共監訳、未來社)ほか。

「2020年 『有限責任会社〈新装版〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

高橋哲哉の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×