成長から成熟へ ――さよなら経済大国 (集英社新書)

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  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087207132

作品紹介・あらすじ

戦後、人々の暮らしに貢献した広告はいまやグローバリズムのしもべとなり、人間を衝動的な消費者に変える片棒を担いでいる。60年間広告に関わった著者が語る成長至上主義の限界と新時代の希望!!

感想・レビュー・書評

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  • 去年の10月に亡くなったCMコラムニストの天野祐吉さんの最後の著作である。刊行がなくなった日のちょうど一ヶ月後なので、さぞかし悲愴な決意の遺作かと思いきや、闘病のあとは一切見せない、天野さんらしい、わかりやすい言葉で鋭く世相と世界を切り取り、方向性を示した好著になっていました。

    ブロローグで「世界は歪んでいる」と言って以下の事を例に出しています。
    マスク人間の増殖、原発再稼働、テレビショッピングの横行、福袋のブーム、利点よりも失われるモノが多いリニア新幹線。
    この「おかしさはみんな、いまの世の中の入れ物自体の歪みからきているんじゃないか」と著者は言うのです。

    その入れ物は、大量消費社会という入れ物です。大量生産・大量消費という巨大なシステムから、次々に吐き出されてくる膨大な種類と量の商品やサービスを、ぼくらは否応なく消費させられる社会に住んでいます。
    はじめのころは、それはぼくらの生活を快適にしてくれるいい面がありましたが、いまやそんな物やサービスがあふれかえって、福袋くらいしか買う物が思いつかない世の中になってしまいました。それでも経済成長を持続するためには、大量生産・大量消費の歯車を止めるわけにはいかない。なぜって、国民の消費支出、つまりぼくらがモノやサービスを買うことがそのまま経済成長につながっているからです。が、この仕組みがいまや限界にきて、音を立てて壊れようとしている。
    それがいまの世の中のいろいろなところで、さまざまな歪みになって現れてきているというわけですね。
    ついでに言うと、十数年前からしきりに言われてきたグローバリズムというのは、その行き止まりをこわすために、地球上をぜんぶ一つの市場にしてしまおうということのようです。大量生産のはけ口を、途上国に求めていこうということですが、これもいずれは行き詰まるのが目に見えています。つまりは、どうやっても限界ということで、そこまでいったときには地球上は、楽園どころか、地域文化も何も押しつぶされた一面の荒野になってしまうんじゃないでしょうか。
    それともう一つ、ぼくらが住んでいるこの大量消費社会というのは、都市化社会と表裏一体というか、大量消費社会を一ヶ所に圧縮したのが都市化社会というものじゃないかと思います。(略)
    もともと"生活"は再上限を求め、"生存"は最低限を求めます。誰だって、生活の豊かさは再上限を求めたい。が、それを求めつづけると、あちこちで無理が起きてきて、守るべき生存の最低限が危うくなってくる。いまはまさに、生存の最低限がおびやかされている、それも臨界点のところまでおびやかされているときだと、言っていいように思います。(21-24p)

    広告の世界から、「そのままいくと危ないぞ」と批判する目をずっと持って来た著者の止むに止まれぬ「警告」が、ここにある。

    著者はしかし、広告を発注する会社たちにもずっと寄り添って、どうやったら折り合いがとれるか考えできたのだと思う。その結論が
    「成熟社会」ということであり、
    「脱成長」ということであり、「老楽国家」ということであり、「再ローカル化」ということであるのだと思うのです。

    その詳しいことは、天野さんのお勧めする参考書物を読まねばならない。しかし、大企業と庶民とのパイプ役として「ご意見番」として半世紀を生きた人の「遺言」は傾聴に値すると思うのです。


    (BOOKデータベースより)
    六〇年にわたり広告の最前線に立ち会った著者が語るその内幕と功罪。そして成長至上主義が限界を迎えたいま、経済力や軍事力のモノサシで測れない成熟した社会のために広告ができることを提言する。
    プロローグ 世界は歪んでいる/第1章 計画的廃品化のうらおもて(電球の寿命は一〇〇〇時間?/それはヘンリー・フォードから始まった ほか)/第2章 差異化のいきつく果てに(アメリカ・アメリカ・アメリカ!/人生は広告を模倣する? ほか)/第3章 生活大国ってどこですか(「広告批評」の創刊/広告を広告する ほか)/エピローグ 新しい時代への旅(くたばれ中央集権/広告はどうなる ほか)

  • 【由来】
    ・図書館の新書アラート

    【期待したもの】
    ・「60年にわたり広告の最前線に立ち会った天野祐吉が語るその内幕と功罪。そして成長至上主義が限界を迎えたいま、経済力や軍事力のモノサシで測れない成熟した社会のために広告ができることを提言する。」

    【要約】


    【ノート】
    ・広告にずっと関わってきた著者が、広告を切り口として社会の動きを分析、解釈して見せながら、これまでの経済成長を至上命題とする社会から、豊かさこそをよしとする成熟した社会へ、と提言する。ただし、それは分かりやすく言えば、「金持ち暇なし」と「貧乏暇あり」のどちらがいいかという選択でもあると著者は突きつける。

    ・世界的なムーブメントを作った海外の広告も紹介しつつ、国内では開高健、糸井重里などの著名コピーライターの作品が出てくる。糸井さんは今や「ほぼ日」で大ブレイク中で、彼の言動やブログを読むと、深いことを易しく語っているという印象がある。その「深い」の根底には、本書で示されている、社会に対する観察の作法のようなものがあるように感じる。糸井さんは吉本隆明と懇意で、彼に関する本やCDなんかも出版しているが、本書の中でも吉本隆明の言葉が出てくる。

    ・正直なところ、かつてはコピーライターなんて、クライアントを喜ばせるへ理屈だけを考えている詐欺師みたいな職業だと思ってた(これはもちろん偏見であり、やっかみだった)。実際のところ、彼らが紡ぎ出すシンプルな言葉の後ろには膨大な思考があり、糸井さんクラスになると、その思考は、社会の動きと日本語の両方を深く掘り下げたものになっている。そうでなければ人びとの心に働きかけることはない。広告に対して、絵画や映画に対するのと似たような鑑賞の視点というものがあるとは初めて知った。面白いなと感じる広告、つまらんと感じる広告はあるけど、その後ろに、社会やスポンサーや視聴者に対する批判的視点が存在しているなんて、考えたこともなかったし、もちろん、感じたこともなかった。

    ・ところで、全体的に面白く学びながら読ませてもらった本書ではあるが、最後はどうしてもいただけない。「政治家の人たちも、憲法をいじったり原発の再稼働をはかったりするヒマがあったら、経済大国や軍事大国は米さんや中さんにまかせて、新しい日本の国づくりに取り組んでほしいものです。 (P211)」 こういう「上から目線」的ニュアンスが強い、左翼的な物言いはもういい加減、辞めたらどうだろう。言わんとしている内容に対して反感を持つものではないが、こういうことをこういう表現で行うことによって、一体、誰にどうしてほしいんだろうと思う。これを読んだ「政治家の人たち」がハッと気づくことを期待して書いたんだろうか?ここで、ステレオタイプな表現が出てくると、急激に白ける。

  • 天野祐吉さんが亡くなられたことを、迂闊にも知らないでいた。
    今朝の朝刊で読んだこの本の書評で知り、慌てて書店に走った。
    本人の意向で葬儀は行わなかったということだが、亡くなられたのが2013年10月20日。出版が2013年11月20日であるからこの一冊は天野さんが私たちに遺した遺言に他ならない。

    天野さんは書かれたもの、語った言葉、TVに映った姿のすべてがすっきり筋が通っていて、しかも静かで品のある方だった。
    生前何度か話された「贅沢は素敵だ」のエピソードのことを、私はおりに触れ思い出す。
    「贅沢は敵だ」というのはあまりに有名な戦時下の国民を戒める標語だが、街に張り出されたそのポスターの「贅沢は」と「敵だ」の間にたった一文字落書きしただけで、国民が一人残らず狂気に取り憑かれてしまっていたあの時代の状況を笑い倒してしまっているかのようだ。
    当時、笑いごとではなく命がけだったかもしれないユーモアの主とそれに注目した若き日の天野さんの眼は、まさしく時代の
    真の底流を見抜いていたのだと感服する。

    受け取る側にとっては、今という時代の底を見抜くための貴重な遺言のように大袈裟に受け取ってしまうのだが、書き手の天野さんは「思いつくままの雑感です」と、いつもどおり飄然としておられる。
    その雑感は、初売りの福袋に何千人もが行列を作る昨今の珍現象を「答えは簡単で『買うものがないから』です。『ほしいいものが見つからないから』です。でも『何かが買いたいから』なんですね」と喝破する。
    ここ何年間かお正月のニュースをみるたびに自分の感覚では全く理解不能なこの福袋の大行列に「いったいなにが嬉しくてならんでるんだろう」と疑問に思うばかりだった私などは、目から鱗が何枚も剥がれ落ちるような痛快な「雑感」である。

    天野さんが創始したと言っていい広告批評がまさしく対象とする広告のことを、「広告なんてすべてまがい物」とも書かれている。だが、同時に「平和憲法も世界に向けての広告」だと言い切ってしまう。実に明快かつ痛快だ。

    世の多くの人同様に凡人の私は、どんなに難しい本を一生懸命読んでも、グローバリズムって何なのか、その本当の意味は何なのかちっともわからないでいる。たぶん10年以上気になっているのだが解らないままでいる。
    それが、本書のなかでは、80年代までの高度成長を維持するための大量生産と大量消費の行き詰まりを指摘した上で、
    「グローバリズムというのは、その行き止まりをこわすために、地球上をぜんぶ一つの市場にしてしまうことのようです。大量生産のはけ口を、途上国に求めているということですが、これもいずれは行きづまるのが目に見えています」
    と、腑にオチすぎる明快さで語ってくれています。

    この天野さんご自身がいう雑感を、私は今を生きこれから生きて行く自分に遺して下さった貴重な遺言であると勝手に受け止めさせていただきます。生涯それを忘れたくないです。
    本当にありがとうございました。
    ご冥福をお祈りいたします。

  • 先日、亡くなった天野祐吉氏が、戦後から311後に至るまでの世の中の変化をCMと言う窓を通じて語っています。

    CMと言うのは本当に歴史なんだなと、思いました。戦後の高度成長期やバブルには、物欲を煽るCMが 多く、経済低成長時代には、生活やエコをアピールしたり。そういえば、以前あれだけ世の中を賑わせていた原発推進の広告やCMは3.11を境に何事もないかのようになくなりましたが、推進反対のCMは出てきませんよね。

    「ほしいものがほしい」と言う言葉、かって、スティーブジョブズが、消費者は自分たちが欲しいものが何か分からないから、それを示す必要があると言った。それに通じるものを感じました。

  • 大量消費に疑問を投げかける、このスタンスは最近流行してるのか、本でもよく見かける。

    若干内容自体がバブル気味で、似たような事を立場を変えてるだけの本が多い。

    この本も著者が広告に携わっていたというバックグラウンドだけがユニークで、内容自体は正直陳腐。はじめて触れるならともかく、タイトルにあるようなテーマに経験があれば改めて読むようなものではないかと。

  • 広告業界の批評の人、というイメージの強い天野祐吉さんの本。
    言ってることは、否定しないけど、批評の人の言葉、と思ってしまう。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685847

  • ・計画的廃品化
    ・広告の在り方
    ・フォルクスワーゲンの広告ポスター(うわべだけの新製品への批判)

  • ・人間的な速度の限界は、馬車に乗っている時の速度だと言った人がいる。それを超すと、周りの風景はどんどん流れ始めて目に留まらなくなってくる。

  • 広告批評の人。下品な広告と芸術として見れる広告とを区別していた人から見えた成長社会。それを成熟へシフトしないかという話。わかりよく面白い内容だった。

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著者プロフィール

天野祐吉(あまの・ゆうきち)
コラムニスト。1933年東京生まれ。1979年に「広告批評」を創刊。2009年同誌終刊後、「天野祐吉作業室」を設立。主な著書に『広告論講義』(岩波書店)、『広告五千年史』(新潮選書)、共著に『広告も変わったねぇ。』(インプレスジャパン)、『可士和式』(天野祐吉作業室)など。

「2012年 『クリエイターズ・トーク』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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