本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (200ページ) / ISBN・EAN: 9784087207187
作品紹介・あらすじ
「音楽の都」ウィーンを作り上げてきた楽友協会。この輝かしい200年の歴史を協会所蔵の貴重な資料─モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの直筆楽譜、手紙など─100点とともに紹介!
感想・レビュー・書評
-
素晴らしい響きのする黄金のホール、ウィーンのムジークフェライン(楽友協会)大ホールは、毎年放映されるニューイヤーコンサートのおかげで日本人にも知名度が高い。しかし、楽友協会とウィーンフィルハーモニー管弦楽団は全くの異なる歴史と経緯を持つ別組織である。
ウィーンフィルはウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーからなるオーケストラで、1842年に創設され国立歌劇場に属している。一方、ウィーン楽友協会はディレッタントと呼ばれていた音楽好きの者達によって1812年に設立された。楽友協会の目的は演奏会の開催や場の提供だけでなく、養成所や音楽教育機関の運営(音楽院)、資料の収集(資料館)であり、昔は独自の専属オーケストラも持っていた。
ちなみに当時のディレッタントの意味するところは単なるアマチュアではなく、プロの音楽家顔負けながら音楽を生業としない者たちを指していた。こうしたディレッタント達が演奏会を開き、音楽を学ぶ為にウィーンで設立されたのが楽友協会であった。発足当時の会員は500名ほどいたが、プロの音楽家はアントニオ・サリエリのみである。そして、楽友協会は建物を転々としながら活動は活発化し、1831年に初代会館を建てるまで成長する。
しかし、この建物もすぐに手狭になり、ヨーゼフ皇帝のウィーン改造の文化施設建設の際に新会館と楽友協会大ホール(Musikverein, Grosser Saal)を建設することになる。このウィーン改造で、市を囲んでいた城壁が撤去されてできたのがリング通りである。
リング通りからの騒音を避けるために新会館は、このリング通りから1本裏手の場所が選ばれた。そして、新会館は1870年に完成する。大ホールではシュトラウス3兄弟が、小ホールではクララ・シューマンがオープニングを飾り、当時からその音響は称賛の的だった。
また、当初の楽友協会の専属オーケストラは楽友協会のメンバーであるディレッタント達であった。このメンバー構成での活動が1859年まで続いた。そして、1900年になって、やっとプロの音楽家によるウィーン演奏協会管弦楽団(Wiener Concertverein Orchester)が設立され、楽友協会の専属オーケストラとして定期演奏会が始まる。のちのウィーン交響楽団(Wiener Symphonike)であり、これはウィーン・フィルとは別の団体である。ウィーン演奏協会管弦楽団では、作曲家ブラームスが1872年から演奏監督を務め、彼は団員の半分を宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーとすることに成功し、レベルも飛躍的に向上した。
一方、ウィーンフィルはこの時は楽友協会で開かれる特別演奏会に出演はするが、本業は宮廷歌劇場管弦楽団であり、彼等の余暇内での活動であった。楽友協会大ホールで定期演奏会をおこなうようになるのは1871年になってからである。
これらの経緯については書籍『ウィーン楽友協会 二〇〇年の輝きオットー ビーバ著, イングリード フックス 著』に詳しい。
続きはコチラから↓
https://jtaniguchi.com/wien-musikverein-philharmoniker/詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
[ 内容 ]
「音楽の都」として知られるウィーン。その名を世界中に轟かせるのに、もっとも重要な役割を果たしたのはなにか?
それは宮廷でも貴族でもなく、市民社会のなかから誕生したウィーン楽友協会だ。
クラシック音楽を市民のものとして育て上げ、音楽の喜びを彼らに伝えたのだ。
ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、マーラーといった有名音楽家でさえ、もしも楽友協会がなければ、現在のような名声を残せたかどうか。
この楽友協会の輝ける歩みを、資料館所蔵の貴重な資料図版一〇〇点とともに紹介。
資料館館長・副館長による日本のクラシック愛好家のための書き下ろし!
[ 目次 ]
第1章 ウィーン楽友協会とは何か?―その歴史を振り返る
第2章 楽友協会と演奏会
第3章 楽友協会音楽院
第4章 ウィーン楽友協会資料館
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
本棚登録 :
感想 :
