- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087210873
作品紹介・あらすじ
2018年、M-1審査員として名を轟かせた芸人が漫才を徹底解剖。
M-1チャンピオンになれなかった塙だからこそ分かる歴代王者のストロングポイント、M-1必勝法とは?
「ツッコミ全盛時代」「関東芸人の強み」「フリートーク」などのトピックから「ヤホー漫才」誕生秘話まで、
"絶対漫才感"の持ち主が存分に吠える。
どうしてウケるのかだけを40年以上考え続けてきた、「笑い脳」に侵された男がたどりついた現代漫才論とは?
漫才師の聖典とも呼ばれるDVD『紳竜の研究』に続く令和時代の漫才バイブル、ここに誕生!
◆もくじ◆
プロローグ「僕が霜降り明星を選んだワケ」
第一章 「王国」 大阪は漫才界のブラジル
第二章 「技術」 M-1は100メートル走
第三章 「自分」 ヤホー漫才誕生秘話
第四章 「逆襲」 不可能を可能にした非関西系のアンタ、サンド、パンク
第五章 「挑戦」 吉本流への道場破り
第六章 「革命」 南キャンは子守唄、オードリーはジャズ
エピローグ「10年ぶりの聖地。俺ならいいよな」
◆著者略歴◆
ナイツ 塙宣之(はなわ のぶゆき)
芸人。1978年、千葉県生まれ。漫才協会副会長。2001年、お笑いコンビ「ナイツ」を土屋伸之と結成。
2008年度以降、3年連続でM-1グランプリ決勝に進出する。漫才新人大賞大賞、お笑いホープ大賞大賞、NHK新人演芸大賞大賞、
第9・10回ビートたけしのエンターテイメント賞 日本芸能大賞、浅草芸能大賞新人賞・奨励賞、第68回文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞、第67回芸術選奨大衆芸能部門文部科学大臣新人賞など、受賞多数。
聞き手 中村計(なかむら けい)
ノンフィクションライター。『勝ち過ぎた監督』で講談社ノンフィクション賞受賞。
感想・レビュー・書評
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【感想】
2021年時点で、M-1チャンピオン全17組中11組が関西芸人。非関西芸人は、04年のアンタッチャブル、07年のサンドウィッチマン、09年のパンクブーブー、15年のトレンディエンジェル、20年のマジカルラブリー、21年の錦鯉の計6組。このうちトレンディエンジェル以外は「コント系漫才」だ。(トレンディエンジェルも純粋なしゃべくり漫才かと言われると微妙かもしれないが)M-1はまさに「関西有利」なお笑いレースと言えるだろう。
そのM-1に非関西×しゃべくり漫才として殴り込んだのがナイツの塙さんである。今ではM-1の審査委員をやり、漫才協会の副会長も務める「お笑い界の重鎮」だ。
本書はそんな塙さんが「漫才」について語った本である。漫才の技術論、売れっ子芸人のスタイルの分析、M-1という「競技」のルールと戦術についてなど、取り上げられている内容は非常に幅広く、「お笑いの理論書」といっても過言ではないかもしれない。
タイトルにもあるとおり、塙さんは「関東芸人はM-1で勝てない」と言っている。その理由は主に2つあり、1つは「しゃべくり漫才が絶対正義だから」、もう1つは「しゃべくり漫才は関西弁話者が圧倒的に優位だから」だ。
漫才には「しゃべくり漫才」「コント漫才」の2種類がある。前者はミルクボーイ、後者はマジカルラブリーをイメージするとしっくりくると思う。要は話芸一本で笑わせるか、シチュエーション芸で笑わせるかだが、関西ではしゃべくり漫才こそが「伝統と王道」であり、コント漫才よりも高く評価される傾向にある。M-1審査員の上沼恵美子氏がマジカルラブリーを酷評したように、しゃべくり漫才と比べて亜流な要素はなかなか受け入れられないという。
ではしゃべくり漫才で勝てばいいのではと思うかもしれないが、しゃべくり漫才は圧倒的に関西弁が有利なのだ。
これは説明が難しいが、感覚的に理解できると思う。「なんでやねん」と「どうしてだよ」では、言葉に含まれるパワーや面白さが全然違う。「なんでやねん」はシチュエーションを問わず万能にツッコめるのに対し、「どうしてだよ」は何となく回りくどく、ワンテンポ遅い感じがあり、なにより真面目だ。
関西弁には、標準語に含まれているトゲトゲしさをマイルドにしてくれる成分があるため、ツッコミがうるさくならない。強い言葉で怒鳴っているが関西弁のおかげで毒が抜かれており、かけ合いの中で自然と笑いが起こっていく。
また、関西弁は言葉が早い。言葉が早いということは、それだけネタを詰め込める。
島田紳助さんは「紳竜の研究」で、「M-1は短いネタで、はっきりしたこと作らなあかんねん。二人が出てきて、うじゃうじゃ喋ったらあかんねん」と言っている。M-1の1次予選は2分であり、その2分で爆発するにはインパクトとスピードが重要だ。関西弁が圧倒的に有利なポイントがここであり、非関西弁だと言葉一つひとつに間が開きすぎてしまう。
とはいうものの、非関西芸人でも勝てる道がある。それが「コント系漫才」なのだという。
「コント系漫才」は「舞台装置」を別箇に用意するため、その世界の中では標準語で話していても違和感がない。言語の面白さというハンデも「設定の巧さ」によって補えるため、関東芸人でも互角に持ち込める。南キャンやオードリー、ぺこぱといった「強烈キャラ漫才」も関西ではなかなか珍しいため、ハネ方によっては十分勝ち上がれる可能性を秘めているらしい。
本書を読んでみての感想だが、塙さんは色々なところを見て漫才をしているんだなぁ、とびっくりしてしまった。ナイツのしゃべくり芸は本当に完成度が高いし、言い間違い→訂正の畳みかけるようなテンポの良さに笑いっ放しになってしまうほど大好きなのだが、ひょうひょうとした見かけの裏では漫才を真剣に考察していて、「自分たちの笑い」を確立している。まさに紳助さんなみの「理論派」芸人だと思う。
逆にこんな理論派でも勝ちきれないほど、M-1というのは「特殊競技」に近いものなのか、と唸ってしまった。
今ではめっきり見なくなったが、またやってくれないかな。ヤホー漫才。
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【まとめ】
1 関東芸人はM-1で勝てない
漫才は「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分かれる。漫才にはボケとツッコミがいるが、ボケで笑い、ツッコミでもう一度笑うという相乗効果が肝。中川家はその点で非常にバランスがいい。
ネタ合わせをしないほうが受けることがある。練習しなくてもいいネタは、ネタそのものが面白いし、そもそも自分たちに合っているからだ。
また、練習を重ねると新鮮味がなくなる。相手の言葉をきちんと聞いてから反応する、これは漫才の基本中の基本であり、ボケに対してツッコミは「何を馬鹿なこと言ってるんですか」と驚く。その驚きが嘘くさく見えると、お客さんの共感が得られない。
しゃべくり漫才のルーツは関西である。必然、漫才という演芸そのものが関西弁に都合がいいようにできている。言ってしまえば、漫才の母国語は関西弁だ。漫才とは、上方漫才であり、上方漫才とは、しゃべくり漫才のこと。漫才界の勢力図は今も昔も、完全な西高東低である。
M-1の持ち時間は4分しかないわけだから、勢いよくしゃべるほうが有利。早口なら、それだけたくさんの笑いを詰め込める。しかしその芸当は、関西弁というフォームだからこそできるテクニックでもある。しゃべくり漫才の母国語は関西弁なので、関東の言葉でそれをやろうとすることは、言い換えれば、日本語でミュージカルやオペラをやるようなものなのかもしれない。無理ではないけれど、どうしたって不自然さは残る。
M-1第一期(2001〜2010)に限っていうと、10回中6回はしゃべくり漫才系のコンビが優勝している。コント漫才は03年のフットボールアワー、04年のアンタッチャブル、07年のサンドウィッチマン、09年のパンクブーブーの四組だ。フットボールアワー以外は、非関西弁のコンビであり、第一期において非関西弁のコンビで優勝したのは、じつはこの三組だけ。つまり、関東言葉のしゃべくり漫才で戴冠したコンビは誰もいなかった。非関西系のしゃべくり漫才で優勝したのは、トレンディエンジェルが初。
2 技術
M-1で勝つには、とにかく笑いの数を4分間に詰め込まなければならない。その意味では、圧倒的なスローテンポで準優勝まで上り詰めたスリムクラブは「M-1史上最大の革命」だった。
M-1は100メートル走、寄席は1万メートル走。M-1で勝つにはどうしても4分間の使い方が鍵になる。
和牛のように入りがローすぎるよりも、霜降り明星のようにハイテンションで入り、ハイテンションのまま駆け抜けたほうが、戦術的には確かである。
競走馬の距離適性のようなものが漫才師にあるとしたら、ナイツは長距離向け、サンドウィッチマンは中距離向け、中川家は全距離に適正がある、といった感じかもしれない。
自虐ネタは基本ウケない。漫才師は、ネタで自分たちの世界観を創り出すもの。その機会を安易な自虐ネタで終わらせてはいけない。人間の「おかしさ」を話芸で伝えることが漫才である。
漫才は三角形が理想。ボケとツッコミの掛け合い、それに客席がノッて三角形ができる。相方と客席を見ながら笑いを作る必要があり、ボケとツッコミの二人だけでしゃべくり倒して完結してはいけない。
M-1は、漫才という競技の中のM-1という種目の大会なのだ。M-1で勝つには「M-1用の傾向と対策」が必要になる。しかし、M-1を意識しすぎるあまり自分の持ち味を見失ってはいけない。
3 非関西系の逆襲
M-1の歴史の中で、関西弁以外で160キロを投げたのは、唯一アンタッチャブルだけだ。コントでありながら海砂利水魚のような言葉のセンスがあり、さらには圧倒的なしゃべりの技術があった。柴田もザキヤマも「絶対漫才感」を持っていた。
関西には漫才とはこういうものだという伝統と文化がしっかり根付いている。相撲でいう「ひとまずぶつかれ」同様、関西には、漫才たるもの「ひとまず掛け合って、テンポよくしゃべれ」という大原則がある。関東芸人が非関西弁というハンデを乗り越えて優勝するためには、突き抜けた武器が必要になる。
M-1第一期(2001〜2010)と第二期(2015〜)で変わったのは、「経験」より「新しさ」を求めるようになったこと。2018年がその例であり、うまさの和牛と新しさの霜降り明星で競った結果、霜降り明星に軍配があがった。
優勝者以外で革命を起こしたのは、04年の南海キャンディーズ、08年のオードリー、10年のスリムクラブ。いずれも非関西系だ。
南キャンとオードリーはいずれもボケが強烈キャラで、突き抜けたオリジナリティーがある。南キャンはツッコミが点を取りにいってもいいという流れを決定づけた。オードリーは「ズレ漫才」と評されるように、噛み合っていないながらも不思議なテンポで漫才を成立させる革命を起こした。
ただし、個の強さを活かした漫才は2本目のインパクトが薄れる傾向にあり、それがファイナルステージで勝ちきれない理由でもある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
笑えるって幸せですよね。
幸せにしてくれる漫才師をかっこいいと思います。もちろん塙さん、ナイツは大好きです。
ここまで「どうしたらウケるか」を突き詰めていることに、なぜか涙が出そうになりました。
近年のM-1は関東芸人も活躍しているし、また年末が楽しみになりました。
漫才協会も盛り上がってきているし、近いうちに寄席とか劇場へ大笑いしに行きたいな。 -
私はM-1は殆ど見ていない。
M-1は、というよりお笑い番組で欠かさず見ているのは"笑点"だけ。
あとは、たまたま好きな漫才師(ナイツ、爆笑問題、中川家、パンクブーブー)が何かネタをやるタイミングでTVをつけていたときに見るくらい。
M-1は吉本が企画した「吉本流」の大会、ナニワのしゃべくり漫才こそが漫才で、関東言葉の話芸とは似て非なるものという考えが根底にあるらしい。
2007年優勝のサンドウィッチマン以降は全て優勝者が吉本所属で、M-1でいい点を取るための漫才ネタになってるのかも知れない。
4分ほどで終わるネタばかりだし、優勝者の漫才が特に面白いと感じなくなってきちゃってるんですよね。
とは言え、M-1で勝ち上がってきた芸人たちについて塙さんが鋭く分析されていて、今後芸人を見る目が少し変わりそうです。
多くの読者が知っている共通の舞台であるM-1をいじることで、具体的に分かり易く伝える塙さん感覚の現代の漫才論でした。 -
芸人としても審査員としても出演している、筆者。
演じる側も評価する側も経験した筆者による、M-1の分析エッセイ。
おもしろかった。
関西寄りな点について、関東芸人だからこその指摘にはうなずくものがある。
分析は、ナイツだけでなく、ほかの芸人についても。
褒めるときも批判するときも、きちんと実名を挙げていて、内容も具体的。
説得力がある。
目次に並ぶQの内容だけで、わくわくできる構成。
聞き手である中村計の力も大きい。 -
「ヤホーで調べたんですけど」「ヤフーだろ!」
うんこをもらしたことでいじめられていた少年時代。
それを逆手にとって笑いを取った時、彼は「最強の鎧」を身につけた。
松本人志に感動し、本気で芸人を志した。
「どうしたらウケる事が出来るか」
大学の後輩土屋伸之とコンビを結成。
M-1で決勝まで進出するも、頂点を極めることは出来なかった。
「大阪は漫才界のブラジル。M-1は100メートル走」
独自の視点から、M-1を、漫才を語り尽くしていく。
2018年12月、著者はM-1審査員の席に。
そこで生まれた「初ゴール」。
優勝した霜降り明星に1票を投じた理由とは。
笑いを真剣に、縦横無尽に語り尽くす。
ページを止められない。
堪らない高揚感が続く。
「人類が芸術を生み出したのは、言葉で伝えきれない思いを作品で表現しようとしたからです。芸術家が感動したとき、それが『感動』という言葉で足りていたなら、絵画も音楽も創造し得なかったと思うのです。
漫才師も同じです。人間の『おかしさ』をおかしいと言うだけでは伝えきれないから、ネタを思いついたのです。漫才という話芸が誕生したのです。
深いところからお客さんの感情を揺さぶり続けるために漫才師ができること。それは優れたネタを考え続けることしかないと思います」
「浅草の星」が漫才を語り尽くす。
昭和には、立川談志の「現代落語論」。
平成には、松本人志の「遺書」。
令和の「現代漫才論」ここにあり。-
2019/11/16
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M-1を笑いをここまで分析しているとは感心します。
所々クスッと笑えるところもあって、さすが芸人さんだなと。
第一回大会からもう一度見てみたくなりました。 -
「ナイツ」の塙宣之の語り下ろしによる「M-1グランプリ」論。――と、一言で説明すればそうなるのだが、それだけには終わらない奥深さを具えた本である。
聞き手を務めるのは、講談社ノンフィクション賞も受賞したノンフィクションライターの中村計。彼の構成の巧みさもあって、読みやすいが内容は濃く、一冊の本としてよくできている。
全90問の「Q」が、小見出しの代わりになっている。この構成は、わりとコロンブスの卵。
通常の本のように小見出しで内容をつないでいく形にするより、読みやすさが増している。
『言い訳』というタイトルは、〝チャンピオンになれなかったナイツ(3年連続で決勝には進出)の塙がM-1を論じても、言い訳にしか聞こえないと思うが……〟という苦い自虐を孕んでいる。
本の成り立ちとしては、「髭男爵」山田ルイ53世の『一発屋芸人列伝』に近い。
自らも一発屋芸人である山田が、自分たちを含む一発屋芸人たちを描いた同書は、彼にしか書き得ない本であった。
同様に本書も、M-1グランプリの頂点目指して戦い、現在はM-1の審査員も務める塙にしか作り得ない本になっている。
みなもと太郎さんや夏目房之介氏のマンガ評論がそうであるように、〝実作者にしか持ち得ない、深い批評眼〟というものがある。
本書で全編にわたって展開されるM-1批評――各年のM-1で優勝を争った漫才師たちへの批評――もしかり。そこには、評論家による漫才批評にはない臨場感と納得感がある。
M-1グランプリを毎年熱心に観ている人ほど、本書は面白く読めるだろう。だが、そうではない私のような者にも、十分に楽しめる。
いまはYou Tube等で、本書で言及されている「◯◯年決勝第1ラウンドの〇〇のネタ」が後から見られるし……。
M-1歴代王者のストロングポイントの絶妙な解説が、本書の中心になる。が、それだけには終わらない。M-1論が漫才論になり、お笑い論になり、ひいては関西・関東のお笑い比較文化論にもなるのだ。
「M-1審査員が贈る令和時代の漫才バイブル」という帯の惹句にウソはない。M-1を目指す漫才師の卵が本書を読んだなら、M-1必勝法をつぶさに明かしたバイブルになるだろう。
本書をボロボロになるまで読み込んで優勝するような芸人も、やがては出てくるかもしれない。
だが、一方で、塙は次のようにも言う。
《いちばんやってはいけないことは、M-1を意識し過ぎるあまり、自分の持ち味を見失ってしまうことです。
(中略)
M-1に挑戦するという若手に僕はよく「優勝を目指さないほうがいいよ」とアドバイスします。心からそう思えるようになったとき、初めて自分らしさが出ますから。
M-1の「傾向と対策」は存在します。できることはしたほうがいい。でも最終的には、今の「自分」で戦うしかない。》(117ページ)
ナイツの軽やかな笑いの背後に、これほど深い「笑いの哲学」があったのかと、感銘を覚える。
……というと、堅苦しい内容を想像されてしまうかもしれないが、そうではない。何よりもまず、楽しく笑える本である。
M-1グランプリの楽しみ方、漫才の楽しみ方がいっそう深まる一冊。 -
「大阪は漫才界のブラジル」
「M-1は100メートル走」
「関東の日常言葉は感情を乗せにくい」
「M-1は新しいもの至上主義」
「南キャンは子守唄、オードリーはジャズ」
今や最も注目を集めるお笑いイベント「M-1」について、関東を代表する漫才師の一人であり、昨年のM-1審査員も務めたナイツ塙が語り尽くしたのが本書。
いちいち腑に落ちるし、時に眼から鱗が落ちました。
私は、M-1を第1回から欠かさずテレビで視聴しています。
視聴後は、興奮の余りブログに決勝出場者のネタの感想を書き綴るほど。
ど素人が評論家気取りで書く感想ほど「イタい」ものはありませんが、止められないんだなぁ。
生放送を見るだけでなく、折に触れてVTRも見返します。
M-1は出場者だけでなく、お笑い好きの視聴者にとってもワクワクするコンテンツですね。
ですから、こんな本を待っていました。
2時間の一気読み。
まず、M-1は吉本芸人のための大会だということを再認識しました。
特に関西芸人が幅を利かせているのは周知の通り。
第1回優勝者の中川家が「M-1はしゃべくり漫才の大会」だという先鞭をつけたのが大きかったのだとか。
たしかに、第1回の優勝者によって、その賞の性格が決まるということはありますね。
で、しゃべくり漫才だと、やはり関西芸人に有利です。
「サッカーで言えば、関西は南米、大阪はブラジルと言ってもいいでしょう。ブラジルでは子どもから大人まで、路地や公園でサッカーボールを蹴って遊んでいます。同じように、大阪では老若男女関係なく、そこかしこ日常会話を楽しんでいる」
とは言い得て妙。
では、関東芸人は関西芸人に勝てないのか。
そんなことはありません。
風穴を開けたのは、アンタッチャブルでした(2004年)。
さらに、敗者復活から劇的な勝利を収め戴冠したサンドウィッチマン(2007年)、パンクブーブー(2009年)と続きます。
3組に共通しているのは、「しゃべくり漫才」ではなく、「コント漫才」だということ。
関西弁と違って感情を乗せにくい関東の言葉でも、「コント漫才」なら十分、関西芸人と伍していけることを、この3組の優勝は示しました。
さらに、M-1は「新しいもの」を評価する傾向があります(特に松本人志はその傾向が強い)。
その意味でM-1は「お笑い界の新人賞」だということができます。
その点、スリムクラブは新しかったと塙は評価しています。
M-1は、最長でも4分という短い時間の中で、どれだけ笑いを取れるかの勝負です(この点でも、しゃべくりに秀でた関西芸人に分があります)。
にも関わらず、スリムクラブは実にゆったりと、間も大きく取ったネタを披露したのです(文字に起こすと、NON STYLEの「溺れている少年を助ける」約2000字に対し、スリムクラブの「葬式」約800字!!!!!)。
M-1でこういうネタは当時新鮮だっただけに、驚きとともに腹を抱えて笑った記憶があります。
「笑いの神様」である松本の「時間が惜しくないのか」という評は、スリムクラブにとって最大の賛辞だったでしょう。
塙は「M-1史上、最大の革命」だと言っています。
革命といえば、南海キャンディーズもそうでした。
「オカッパメガネのあやしい男と、それに負けず劣らずあやしいでっかい女」(本書より)が出てきた時の「キワモノ感」は忘れられません。
ネタを見終わって、「新しい笑いが誕生した」と衝撃を受けたのも強く記憶に残っています。
本書では、いろんな意味で物議を醸した昨年のM-1までをカバーしています。
塙は、最終決戦で和牛ではなく霜降り明星に一票を投じました。
その理由は「強さ」だったとプロローグで語っていますが、「なるほどそうだったのか」と感動しました。
M-1ファンには必読の書。
個人的には、ものを作る全ての人に参考になる本だと思いました。 -
m-1の歴史を振り返り、それぞれ活躍した芸人の漫才、m-1とは何かを考察していく。
お笑い好きにはたまらない1冊。今後の漫才の見方が変わる。そして、やはり芸人はストイックでカッコいい。