大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起 (集英社新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087211061

作品紹介・あらすじ

なぜ大学改革は失敗し続けるのか――?
オックスフォード大学の苅谷剛彦と東大の吉見俊哉が徹底討論!

大学入試改革が混乱を極めているが、大学の真の問題はそこにあるのではない。
日本の大学が抜け出せずにいる問題の本質に迫る刺激的な対論!

【目次】(見出しは抜粋)
第一章 問題としての大学
東大が「蹴られる」時代/キャッチアップ型人材育成の限界/新自由主義と自己責任/問題発見型の学生はどうすれば育つか/世界の大学人が最重要視していること

第二章 集まりの場としての教室
学部生のレベルはハーバードも東大も同じ/日本の学生が「世界一勉強しない」理由/オックスフォードの贅沢な仕組み/チームティーチングへの移行が鍵/教室の外にあった学びの場/世界中の大学で同時発生している問題

第三章 社会組織としての大学
疲弊する若手教員たち/大学が生き残る二つの道/大学の中にある「村の寄り合い」/前例主義は覆せるのか

第四章 文理融合から文理複眼へ
文系学部廃止論とはなんだったのか/文系こそが「役に立つ」/文系を軽視する日本社会の陥穽/微分的思考の理系と積分的思考の文系/AIは人間にとって代われない

第五章 グローバル人材―グローバリゼーションと知識労働
本気が感じられない「スーパーグローバル大学」/グローバル人材で必要とされる本当の能力/東大独自のグローバルリーダー育成プログラム/補助金の計画主義から実績主義への転換

第六章 都市空間としての大学―キャンパスとネット
学生生活の始まりと終わりを儀式化する/大学とメディアのねじれた関係/日本の知が世界レベルだった半世紀/日本の知を誰が背負うのか

【著者プロフィール】
苅谷剛彦(かりやたけひこ)
●1955年東京都生まれ。オックスフォード大学教授。専門は社会学、現代日本社会論。著書に、『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』ほか多数。

吉見俊哉(よしみしゅんや)
●1957年東京都生まれ。東京大学大学院情報学環教授。専門は、社会学、都市論、メディア論など。著書に、『大学とは何か』『「文系学部廃止」の衝撃』ほか多数。

感想・レビュー・書評

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  • 吉見さんの本をもう一冊読んでみたいと思ったら、なんと苅谷剛彦さんとの対談が出たところ。
    二人から醸し出される意識高い系感(まあ、そもそも副題がトップユニバーシティーからの問題提起だもんね)に、若干たじろぐ。

    今の大学改革というよか、次の高校改革に向けて、持っておきたい視点が幾つかあった。

    例えば、深い学びについて。
    学びを深めるためには、教員一人あたりに受け持つ生徒が多過ぎてはいけないということ。
    でも、生徒一人の取り組む授業数が多過ぎてもいけないということが書いてある。

    それは知識網羅主義とも関わってくるわけで、より多くの知識を受け取ろうとすれば、そうなる。
    高校でも、もうすぐカリキュラムが変わるけど、沢山の科目を設定するのか、一つの科目に単位を多く設定するのかって大きい部分なのかも。
    もちろん単位を多く配置することは、教員の技量も問われるし、落とすことのリスクも生まれる。
    ただ、週二回の授業でやれることに限りはあって、深い学びを方針として打ち出すなら、その部分をスルーしてはいけないように思う。

    二つ目は、教科横断の可能性について。
    これも政府のパンフレットなんかで目にはするけど、具体的にどんな取り組みを言いたいのかはよく分からずにいる。
    この本では、文理融合から文理複眼へという章があって、以前読んだ吉見さんの本に書かれていた文系知と理系知の違いが書かれている。

    いやいや、文系とか理系とか、ないから!
    という意見も、勿論あるし、人に落とし込むからそうなるのかなと思っていた。

    けれど、それぞれの研究手法、アプローチの違いをちゃんと把握することで、教科横断の可能性が広がるように思う。
    そのためには扱う側も、横断的な考えがないといけないとは思うけど……。

    そして三つ目。
    ただ単に留学することの危険性について。
    これはグローバル人材の章にあたる。
    一週間やそこら、わらわらと学生連れて行って修学旅行の延長線上みたいなことしたって、自分の中の価値観の揺らぎなんてあるわけないでしょ!
    ってか、日本という国のこともよく知らずに海外に浸り過ぎても、根無し草になりますよ!
    というご意見。

    周り見ても、この留学制度って思ったよりお金かかっていて、そして自分の時にはアイツもコイツも留学してます、なんて状況はなかった。

    だから、確かに何かは動いているんだけど。
    果たして何のために動いているのかが分からない。

    語学研修と自分探しがごっちゃになったような。
    結局、日本に比べて◯◯国は違う!え、何が?自由だった!自由って何?みたいな中身ない感に終わってしまう人もいるように思う。

    勝手に目的意識持って勝手に行くやつは良いのだ。
    でも、システムとして、行事として、それを若い子に与えるのなら、与える側の考えをもっと盛り込んでいく時期が来たと言える。
    いや、それはお国のために視察してきなさいってことじゃないからね……あしからず。

    最後に、大学のレファレンスが便利になりすぎて、自動で本が出てくるのは悪だという話に笑う。
    辞書と同じだなと思った。
    偶然の出会いによって自分の知は思いがけず進む。
    こういうのも、セレンディピティっていうんですかね。便利って、怖いわ。

    そして一言。
    なんぼほど長いレビューやねん!(星4で!)
    お粗末様でした。

  • 「○○はもう死んでいる」。北斗の拳で聞いたような台詞だが、本書で主に取り上げられているのは、オックスフォード、ハーバード、そして東大。決して死んでるような大学ではない。

    「(昨今の)日本の大学改革論の不幸なところは、コンセンサスを得ようとしたときに座標軸(大学は何を目指すのか、何がクリティカルかという軸)を設定する人がいなくなってしまい、どこで自分たちが対立していて、どこで折り合いがつかないのか見えなくなってしまっている」(p.37)。その背景には「経済ナショナリズム」(p.40)と国家予算の削減。これが現場の混乱をもたらしているのではないか。

    アメリカやイギリスの大学組織で見習うべき点は、教員・学生ともに複数の組織に所属しているということ。例えば、オックスフォードの苅谷剛彦先生の所属は3つ、「ニッサン現代研究所(地域研究)研究員」、「(ユニバーシティの)社会学科教授」、「セント・アントニーズ・カレッジ(学寮)フェロー」だ。一方学生は、メジャーとマイナー(あるいはダブルメジャー)そしてカレッジ(学寮)に所属する。つまり「多様性と流動性」が大学組織の中に組み込まれているのだ。

    日本の場合は、学部の上に大学院があることが多く、教員も学生も単一の組織の中で生活を送る。特に大学教員は、(グローバルな)横社会というより(多様性と流動性が乏しい)縦社会である。教員が求めるのは「安定したポスト」。実質的に教員が実権を握る日本の大学では、組織は一元的で、閉じてしまう。

    一方、学生にとって大切なのは「多様性と流動性」。この状況を補っていたのがクラブ活動や寮生活であろうが、その(実質的な)加入率、入寮率は極めて低い。だから日本では、単一の閉じた組織になる。これに拍車をかけるのが国際性の欠如と世代的同質性というわけだ。

    学問が、理系・文系に分かれたのは、産業革命(18世紀半ばから19世紀)以降。しかし、もともと大学のカリキュラムであった「リベラルアーツ」は、言語系の3学と数学系の4科。これらを同時に学ぶことで、当たり前だと思っていることを疑う「Critical Thinking」が可能になる。だから、少ない科目であっても(履修科目を絞ってでも)、文理複眼思考で「客観的な知識を分析的に獲得し、論理的に組立て、説得力ある意見をわかりやすく述べる」力の養成が必要となるはずだ。これが大学の学びの根幹(オックスフォードがチュートリアルの目的そのもの)ということだろう。

    最後に、「大学のキャンパスは(自由の根幹という意味で)遊び場でなければならない」(p.279)という理想。その一方でアカデミックキャピタリズムの担い手と位置づけられた大学の厳しい現実。イギリスとは異なり「大学とは何かということが社会の中で定義(共有)されていない日本」。そもそも「大学」って何なんだろう?

  • 大学は知識ではなく思考力を得るところ
    大学はカレッジ、ファカルティー、ユニバーシティが合わさったもの
    積分的思考の文系と微分的思考の理系が合わさって新しい知見が生まれる
    グローバル化を履き違えている日本の大学
    出版と大学による知の再生
    どれも新鮮な視点で、目が覚める様。
    日本の大学の未来は明るくないが、絶望的ではないと思う。

  • 大学は死んでなんかいない。東大生がいかにすごいかが書かれている。と私には読めた。ただ、もっと優秀な連中は東大は飛び越して海外に出ているようだ。オックスフォードはすごいらしい。しかし、そこはそこでいろいろと問題を抱えていることだろう。日本はダメだ、イギリスやアメリカがいい。日本は後追いだ。などとあると、いやいや、と思ってしまう。梅棹忠夫にかなり染まっているのだ。ヨーロッパと並行して日本は日本でいろいろ進んできたのだ。全面的に遅れていたわけではない。いや、それどころか、日本の稲作漁撈の文化は、世界に誇れるものなのだ。今度は梅原猛に染まっている。まあ、いろんな大学の現状を知ることはできた。おもしろい取り組みもあることが分かった。が、ここで、やっぱりお二人の話は、基本的にトップ層の話なのだと思う。大卒・非大卒間の格差だけでなく、大学間の格差もある。どこも同じ話では済まない。良い方向にシステムを変えるのも大事だが、なるべくは自由度が高い方がいい。私は、理学部で物理専攻だったが、人文学部の科学史の講座に週2回ほどは通っていた。興味がおもむくままに学ぶことができるのが大学であってほしい。留学生を入れるのもいいが、社会人の割合が増えるのもいいだろう。同じように授業料はらうのはちょっと無理だけど。

  • 宝金総長のおすすめ本

  • 大学は死んでいる吉見俊哉☆☆☆
    現代の大学論・改革論の基礎を網羅している、著者の見識の深さ素晴らしい
    されど日本社会は、少子化・財政逼迫の中で争われ、中期ビジョンの実行のための取組は為されにくい
    1.大学の環境変化
    ①18歳人口激減②グローバル競争激化③Digital革命の社会構造変化
    91年大学設置基準の大綱化 
     大学院の劣化 教養教育の弱体化
    「カレッジ」大学の基本 
     生活共同体(旧制高校) 帰属の単位→エリートの育成
    2.大学改革の機運
    ①日本社会にとって大学の重要性が高まる
    ②従来の大学教育には問題があった
    ③科目数の多さ15科目 
     米国は5つゼミのごとく 2冊読破/毎週→ハード実質
    ④大学入試が大学問題ではない 
     トータルシステムの見直し=教育・成果が本質

    3.印刷革命15世紀グーテンベルク活版印刷→知の拡散
    Digital革命も知の体制改革へ

     大学<出版の隆盛 知の拡大へ
     21世紀 Digital革命→新たな「知の再編・再構築へ」

  • 先行研究がないはずがない。先行研究を批判。

  • 吉見先生の日本の教育に関する見方は本当に好きです。

    以下読書メモ
    ーーーーーーー
    ・大学人にとって何が重要かというとポストを守ること

    ・昨今では、自分のアイデアや調べたこと、意見にそれなりにデータを添えてまとめていくのが研究だと勘違いしている学生がけっこういます。小中学生の学習レポートならばそれでもいいかもしれませんが、大学や大学院での研究は、そうした「まとめ学習」とは根本的に違います。研究とは、先行する優れた他者たちとの対決なので、先行研究がない研究なんてあり得ないはずです。それでもよく、「これはすごく新しい対象なので、先行研究はありません。私が独自にやりました」なんて、臆面もなく言って事実の羅列をする学生がいたりします。

    ・最も重要なのは、知識を網羅的に伝授するのではなく、いくつかの専門的なフィールドにおいて、物事をどう考えていったらいいのかの方法論を教えることに教育の重心がシフトすることです。

    ・文系で卒業論文を書かせるというのは、日本の大学のいい仕組みだと思います。アメリカでは大学によっては卒業論文がなかったりしますが、論文を書くというのは、まさに自分で読んで自分で書くということですから、広く浅い教育を最後のところで補えるのではないでしょうか。

    ・さらに、メンタルヘルスの問題も深刻化してきました。アメリカでも、メンタルに問題を抱えている学生の数は上昇し続けています。今日のアメリカの大学では、在学生の半数近くが絶望感を訴え、三分の一近くが「あまりにも気が滅入って過去一年間機能することも難しかった」と述べているそうです。学内のカウンセリングサービスは大忙しになり、利用率は一九九〇年代半ばから上昇する一方で、カウンセリングにやってくる学生たちの中で、深刻な精神的問題を抱える者の数も全体の半数に及ぶ状況だそうです。

    ・つまり大学は、それまでの公共的な学びの体制から、むしろより資本主義と直結した知と人材育成の体制へと転換しつつあるのではないでしょうか

    ・周辺に新しいものをベンチャー的につくるというところは、東大も似ています。柏キャンパスの新領域創成科学研究科も、私のいる大学院情報学環も、あるいは公共政策大学院も、やっぱり中心じゃなくて周辺です。古い学部や大学院研究科の仕組みにはなかなか隙間がありませんから、こういう周辺部の組織が隙間を利用して、ユニバーシティの目指す方向と結びつき、大学改革の原動力となっていく

    ・では、なぜ「役に立つ」という概念が狭すぎるのかという問題ですが、これにはいくつかの理由があります。まず、多くの人が「社会にとって役に立つ」という時に、たとえば「経済成長に役に立つ」「産業の発展に役に立つ」「日本の国力の増進に役に立つ」というふうに、国家や産業を前提にしてしまっている。しかし、大学は必ずしも国家に奉仕しなければならない組織ではありません。そもそも、大学は国民国家より前からあったもので、奉仕すべきなのはむしろ人類や地球社会であり、それが学問というものです。

    ・さらに、「役に立つ」ということには二種類あって、既に与えられている目的に対して手段として役に立つだけがすべてではありません。こういう目的遂行的、あるいは手段的な有用性とは別に、価値を創造することで役に立つという次元があります。ですから、ある学問が役に立つということは、目的に対する手段を提供することで役に立つのと、そもそもの目的、価値を創造するということで役に立つのと、二つあるわけです。

    ・手段的な「役に立つ」ということの中からは、歴史の転換期に新しい社会の目的や価値の軸を創造することはけっして出てきません。では、どこから出てくるかというと、当たり前だと思っていることを疑う、クリティカル・シンキングからだということになります。

    ・これはつまり、方法化された想像力を用いて違う価値とどう交渉し、対話するかという作業であり、まさに文系の学問が常にやっていることです。哲学も含めて、文系の学問というのは、この異なる価値軸の問題に関してはスペシャリストです。

    ・すごくシンプルに言えば、理系は、ある極限の一点で次に何が起こるかということに対する知の展開であり、微分的な思考と言えます。一方、文系は蓄積された知の中でそれをどうやって使いこなすかということが重要になってくるので、積分的な思考が重要になっていると言えます。たとえばオックスフォード教育で、政強であればギリシ ヤ哲学から始まっていきますが、そうした人類の知の集積の中で重要なものが、必ずしも理系的な意味で最先端である必要はないというのが文系の学問です。
    我々、社会人文学を学ぶ者にとっては、最先端だけを見ていたら、研究が行き詰まってしまうところがあって、これは、既存研究を勉強するということだけではなく、どこかで過去の蓄積との関係、そこで生み出されてきた知そのものの蓄積自体を追体験することによって獲得するものがあるからだと思うんです。そこが、最先端を目指す理系と違うところだと言えます。

    ・英語で言うと、ちょっとキザっぽいですが、オックスフォードの『チュートリアルとは何か』という本の中に「我々はエデュケイテッド・シチズンをつくっているんだ」という言い方があるんです。直訳すると「教養ある市民」なのかもしれませんが、僕はこれを

    ・「賢い市民」と訳しています。その「賢い市民」というのは、レトリックの力に長け、歴史をちゃんと反省できて、人類の知の蓄積の上に立っている。だから、違う局面が出てきた時も、そうした人物は多様な考えができて、比較的間違った判断はしないはずだという信頼があるんです。

    ・ウェーバーの「目的合理的行為」と「価値合理的行為」の二類型は、大学一年生が最初に習う社会学の基礎の「キ」

    ・しかし、目的合理的行為は、その目的そのものを超えることができません。目的と手段をつなぐ技術的体系が限界に達したら、その先を見定めることができるのは、そのような体系自体を内在的に批判していくことができる価値的な学問です。ここに人文社会系の知の学問的立脚点があると、もう一世紀以上も前の先達たちは考えたのであり、私たちは、そこで既に論じられていたことを、さらにその先まで進めていくべきだと思います。

    ・基礎科学は必ずしも手段的な知とも言えません。むしろ、大学での教育という観点から文理の違いで重要なのは、理系では数式を扱えることが最低限の基礎であるのに対し、文系では過去のテクストを精密に読みこなして相互の関係や矛盾を見出すことができなければ、文系の学生としては失格だという点です。

    ・つまり人文知がもっている力は、別に社会のために役に立つだけではなく、我々が日常生活を送るためにも役に立つ

    ・ですから、我々が若い学生をトレーニングしていく時の基本は、膨大なテクストをどう読み込んでいって、それぞれのテクストが違う立場から違う世界を語っているその向こう側にある問題状況をどう理解させていくかということじゃないですか。だから、たくさん

    ・読まなくちゃいけないし、精密に読み比べないといけない。違うテクストが違う理由を理解しなければいけないし、一つのテクストの中にある複数の声を読み解かないといけない。文系のトレーニングは、そういう作業を微細にやっていくわけです。その際、一つのテクストの中でも複数の声は非連続的に存在していますし、テクストとテクストの間には非連続性が常にありますから、そうした無数の亀裂や非連続性の上に、我々の現在の知識世界が存在しているわけですね。

    ・それによって、我々は過去がなんであったかも学ぶし、人間がなんであったかも学ぶわけです。人類がつくり上げてきた知の集積というものの大きさ、それをつくり上げてきた人類、あるいは過去に対して恐れおののく気持ちというものは、理系・文系に関係なく、大学という場所が伝えるべきものでしょう。

    ・でも、既知の範囲で研究していたら、新しいオリジナリティーなんて生まれないでしょう?研究者の仕事はその既知を壊したいわけで、人と話す場合も、たまたま本をみつけた場合も、偶然の要素というものは自分の研究者人生を振り返ってもすごくありますよ。その時の出会いのようなものは、組み合わせがたくさんありすぎて、これは計算できないし、A1ではたぶん片付かない。

    ・ 外側にある非連続的な、内側の常識ではよくわからない世界に恐れおののいていないと、その内側の常識を超える想像力は出てこないはずなんですね。だから必ずや、とりあえず文系的な知と言っておきますが、そういう知は必要で、それは大学こそが保証しなければいけないものです。大学は一種の知のアーカイブでもあり、積分的な知の場であることが必要です。これは、大学という機関の根幹に関わる部分だと思います。

    ・対談では、繰り返しアカデミック・キャピタリズムという言葉が登場する。アカデミック・キャピタリズムとは、大学の時間をグローバル資本主義の時間に結合させる大学側の戦略である。このことにより、学生は新しい知識産業の顧客となり、教職員はその産業の従事者となる。

    ・ しかし、知識産業化する大学をさらに超えて跳躍する人々を育てていくには、まだ何かが足りない。それは、机上の議論だけでなく、ローカルな現場での生身の実践との無数の往還である。その現場は、アフリカのスラムでも、東北の被災地でも、東京の町工場でもいい。ローカルな現場で培われる暗黙知との実践的な交渉が、ますます重要になる。そして、これまたアカデミック・キャピタリズムが新市場として取り組むリカレント教育の未来にも、そのような実践知と学問知の対話、社学複眼のポテンシャルがある。

    ・社会学で移民研究や留学生の国際的な移動を研究した中で、一九九〇年代の終わりから二〇〇〇年代初頭にグローバル・メリトクラシー(能力主義)という言葉が登場してきます。

    ・少なくとも、本当にグローバルに通用するような人は日本の国益に貢献する必要はなくて、人類に貢献すればいいんです。つまり、グローバル人材というのは人類に貢献する人たちの集団であって、貢献の宛先は日本のナショナリズムを超えていいんです。


    ・海外の国際会議で、もう逃げられないというところに本人の存在そのものを置いてしまわないとだめなんです。おもしろいことに、発表が近づいてくると、みんなだんだん真剣になってくるわけですよ。結果としてうまくできなかったというケースもたくさんありますが、必死になって準備して、とにかく発表するという経験が彼らを変えていくんです。それは人間が持っているポテンシャルだと思いますし、あるレベル以上学んでいるからこそ生まれるポテンシャルでもありますね。

    ・成功しても失敗しても、やってみると違ったことが見えてくるということです。もちろん、成功するにこしたことはありませんが、とにかくやってみなければ、何も変わらない。

    ・確かに、冷静な頭と眼を使って現状を精緻に分析し、問題点を取り出し、その理解を広げるという研究者の仕事も重要である。しかも、社会科学の研究者が現実の問題を分析する時には「最悪のケース」が起こりうることを考慮に入れて現実を見る。悲観論者の視点である。

    ・英語でナレッジというと、抽象名詞で、単数形も複数形もない。要するに、一つの塊の概念なんです。

    ・フィロソフィーは「知を愛する」ということですが、それがなぜ知の追求になるかというと、ギリシャから始まったものにキリスト教が入ってきた時に、全知全能の超越的な存在を前提にした世界像が構築されたからだと思います。

    ・「知識の伝達」は、講義などで十分可能です。けれども、オックスフォードのチュートリアルでやっている「知の形成」は、批判的思考力や、どうやってナレッジを再生産していくためのスキルをつけるかということで、実は、このスキルもナレッジの一部です。チュートリアルで教えているのは、いかに考えるかということですから、そのためには知識の内容は極端に言えばどんな学問からでもいい。だから、広く教えなくていいということになります。

    ・なぜ日本の、特に人文社会系の学問が西洋文化のコレクターであり、紹介者であったかというと、自分たちのオリジナルが最初からあったのではなくて、あくまでも外に知の体系があって、それをコレクトし、学び、編集し、翻訳し、そして日本の読者に送り届けてきたからです。これは、大学でやっていることと実は似ているのですが、出版は大学よりずっとマーケットが大きくて、しかも大学に入り込めない膨大な読者がいたわけですね。

    ・能力のある人たちはどんどん海外へ出ていって、日本のことを研究しながらもちゃんとそれを海外の知につなげていくということが理想だと思いますし、僕自身も及ばずながら、そういうことを考えながらオックスフォードで仕事をしています。英語ができて、日本語の読み書きができる、特に読めるということはす

    ・ ネットメディアによって知の分断が進む今の時代、大学人の役割は、学生を教えたり、アカデミックな知の生産をするということとは違うところにもあると思います。少なくとも大学という枠を超えた、読者というもっと広い人たちを目指した知の生産と伝達が非常に重要です。

    ・つまり、日本の大学の役割の中心にあるのは、知の生産や知識人の生産よりも、ビジネスマン、あるいは世俗的な近代化の担い手の生産なんです。

    ・こういうエモーショナルな部分を含む知の交流、人と人との出会いが、教育や学問の根底にはある。それが魅力的なのは、「楽しい」からだ。そうした知の交流・交換の場を提供できるところに、大学の強味がある。次の世代を組み込んだ、知の生産・再生産の場であるからだ。

  • #大学はもう死んでいる ? #刈谷剛彦 #吉見俊哉 #集英社新書 #読書記録

    283ページの新書の中で、日本の大学改革についてから、グローバル人材の定義、日本の大学と知と出版について、日本の大学の成り立ち、難しさ、優位性についてまで、幅広く語られる。
    最後は、それまで端端で語られてきたように、オプティミズム。


    語られる中で、自分の仕事に結びつけて、考える。それは、大学改革というテーマに関わらず、人の生き方や、考え方や、動き方について。
    これが、いわゆる知なのだろうと、文系の学問の意味のものすごい狭ーいけれど、発展的なものなのだろうとも思う。

    脳に汗が出るほど考える、思考する日々を、学ぶということを、したい、と思いもする。

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著者プロフィール

オックスフォード大学教授

「2023年 『新・教育の社会学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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