- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087444797
作品紹介・あらすじ
2020年 第18回 開高健ノンフィクション賞受賞作。
2021年 Yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞、ノミネート。
両手の指9本を失いながら“七大陸最高峰単独無酸素”登頂を目指した登山家・栗城史多(くりき のぶかず)氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ、SNS時代の寵児と称賛を受けた。しかし、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。
彼はなぜ凍傷で指を失ったあともエベレストに挑み続けたのか?
最後の挑戦に、登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は何だったのか?
滑落死は本当に事故だったのか? そして、彼は何者だったのか。
謎多き人気クライマーの心の内を、綿密な取材で解き明かす。
≪選考委員、大絶賛≫
私たちの社会が抱える深い闇に迫ろうとする著者の試みは、高く評価されるべきだ。
――姜尚中氏(政治学者)
栗城氏の姿は、社会的承認によってしか生を実感できない現代社会の人間の象徴に見える。
――田中優子氏(法政大学総長)
人一人の抱える心の闇や孤独。ノンフィクションであるとともに、文学でもある。
――藤沢 周氏(作家)
「デス・ゾーン」の所在を探り当てた著者。その仄暗い場所への旅は、読者をぐいぐいと引きつける。
――茂木健一郎氏(脳科学者)
ならば、栗城をトリックスターとして造形した主犯は誰か。河野自身だ。
――森 達也氏(映画監督・作家)
(選評より・五十音順)
【著者略歴】
河野 啓(こうの さとし)
1963年愛媛県生まれ。北海道大学法学部卒業。1987年北海道放送入社。ディレクターとして、ドキュメンタリー、ドラマ、情報番組などを制作。高校中退者や不登校の生徒を受け入れる北星学園余市高校を取材したシリーズ番組(『学校とは何か?』〈放送文化基金賞本賞〉、『ツッパリ教師の卒業式』〈日本民間放送連盟賞〉など)を担当。著書に『よみがえる高校』(集英社)、『北緯43度の雪 もうひとつの中国とオリンピック』(小学館。第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞)。
感想・レビュー・書評
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第18回開高健ノンフィクション賞受賞作(2020年)。
栗城史多をご存知だろうか。2018年、35歳エベレスト8度目の挑戦で滑落死した登山家だ。
毀誉褒貶の激しい人で、およそ正統派な登山家ではなかった。後年は あらゆる方面から批判ばかりだった。
彼を評するなら「承認欲求の権化が<登山><SNS>という装置を使って自分自身をエンターテイメントにしようとした」だろうか。
本書で知る彼の人物像は、自己啓発的な思考、浅慮、実力不足、ウソや誇大表現も方便とする不誠実、不義理、などあまり好ましくないものである。
その一方で天性のひとたらしでもあった。
著者の、栗城氏との関わりも「応援」から「観察」に変わり、やがて不信感や疑念から断たれるに至った。
人間には様々な側面があり、即断することは難しい。生き方も、理想も、人の数だけある。
栗城史多は何者であったのか、彼の行いをどう感じるか。是非本書を読んでいただきたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』集英社文庫。
第18回開高健ノンフィクション賞受賞作。
亡くなった人物を批難したくはないが、1ミリも共感出来ない人物を赤裸々に描いたノンフィクションであった。栗城史多の『一歩を越える勇気』が恐ろしいまでに内容が浅く、酷い自己啓発本だったので、これは最初から解り切っていたことなのだが。
タイトルの『エベレスト劇場』はまさにという感じだ。ドラマチックなストーリー重視の最初から登る気の無い態度は現地のシェルパにも指摘されている。
巷で『下山家』と呼ばれた自称登山家の栗城史多の虚言と無謀な行動の数々が描かれている。始めのうちは『七大陸最高峰単独無酸素登頂』を目指すと宣言する栗城に興味を抱いていた著者もその嘘に心が次第に離れていく様子が伝わる。
先人たちの偉業を台無しにするような行動、エベレストへの敬意や畏怖が全く感じられない態度や愚行、シェルパの大隊を従え、酸素ボンベをシェルパに調達させての『単独無酸素』の大嘘。
それでも、栗城が無謀にもエベレストの最難関のルートを選び、滑落死するまでを描いているのには敬服する。
『夢の共有』をテーマに詐欺的な手法で資金を集め、両手の指9本を失いながら挑戦した8度目のエベレスト単独無酸素登頂への挑戦で滑落し、35歳の若さで亡くなった自称登山家……
本体価格750円
★★★★★ -
栗城さんの事は全く知りませんでした。
確かにこの登山のスタイルは賛否両論あるでしょうね。
共有という言葉が一つのキーワードになっていますが、最終的には共有が栗城さんにとって呪いみたいな効果になってしまったのではないかと思いました。真っ直ぐで頑固で純粋がゆえに。もうこの世にいないという事が残念でなりません。
YouTubeで野口健さんが栗城さんの事を話して下さっている動画があるのですが、この本を読んだ方にはぜひ見てもらいたいです。 -
日本の登山家 35歳という若さでこの世を去った栗城史多さん この本で彼の存在を知り色々な意味で、色々な方面で影響力のある冒険家と思った。凍傷で指を失いながらもエベレスト登頂に挑む姿勢。独自のこだわりがあったんだろう。登頂に成功していたら…もう その後に続く彼の描いたシナリオ夢や目標を知ることができない
南西壁挑戦の謎を解く
夢枕獏さんの「神々の山嶺」読んでみようと思います。 -
著者の河野啓(1963年~)氏は、北大法学部卒、北海道放送のディレクターとして、ドキュメンタリー、ドラマ、情報番組などを制作。『北緯43度の雪』で小学館ノンフィクション大賞(2011年)、本書で開高健ノンフィクション賞(2020年)を受賞。
栗城史多(1982~2018年)氏は、北海道生まれ。2002~09年に、6大陸(北米、南米、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア、南極)の最高峰、世界6位の高峰チョ・オユー、7位の高峰ダウラギリに登頂し、その後、2009~17年にエベレストに7度挑む(様々なルートで)も敗退、2018年に8度目の挑戦に失敗した下山中に滑落死した。35歳没。「単独無酸素」を謳うとともに、自らの登山の様子をインターネットで生中継することを掲げ、また、「冒険の共有」をテーマに幅広く講演活動等も行った。
本書は、2008~09年に放送局のディレクターとして栗城氏を取材し、TV番組も制作した著者が、栗城氏及び氏のエベレスト挑戦とは何だったのかについて、氏の死後に取材を行い、描いたものである。2020年出版、2023年文庫化。
私はノンフィクション物を好み、登山に関する本も、これまで、植村直己、山野井泰史・妙子、長谷川恒男、竹内洋岳等、少なからず読んできた。栗城氏については、高所登山をインターネット中継する新世代の登山家として認識はしていたし(ただ、不覚にも、氏を取り上げたTV番組を見た記憶はない)、本書が様々な議論を呼んでいることも知ってはいたのだが、今般、遅ればせながら読んでみた。
読み終えてまず感じた、というか、気になったのは、ノンフィクションにしては、構成が複雑だということである。時間の前後関係や、誰が言ったこと・感じたことなのか(栗城氏なのか、取材相手なのか、著者なのか)が、少々わかりにくいのだ。
そして、そのことは、本書の目的・本質にも関係している。解説でTBSのディレクター・金平茂紀氏は、「これは、称賛と批判のはざまで、さまざまな評価があったひとりの登山家の人生を活写したノンフィクションにとどまる作品ではない。それ以上の、あるいは「共犯者」としての自己を深く問い詰めながら、マスメディアという社会機能が抱える残酷さ、非情さに向き合う「内省録」ではないかと諒解した。」と書いている。
そう考えると、主人公である栗城氏については、氏が、登山家である以前に、一人のエンターテイナーであったと考えれば(事実、氏は高校卒業後、山登りを始めるより先に、お笑いタレントを目指してよしもとNSCに入学しているのである)、言動の多くは理解ができる(賛成するという意味ではない)ような気がする。ただ、氏にとって想定外だったのは、「登山(家)」の世界には、長年の歴史を背景としたカルチャーや暗黙のルールが存在し、かつ、それらは、ぽっと出の若者に侵すことの許されない、神聖・厳格なものだったということである。栗城氏の登山が本当に「単独」、「無酸素」だったのかに関しては、多くの議論がされているようだし、本書の後半でも分析が為されている。8回目の敗退時にエベレストで死んだということに関しては、そこが自分の死に時・死に場所と思ったのではないかという、何人かの取材相手の意見と、私は同感である。
また、マスメディアの一員としての著者については、随所に後悔とも自省とも受け取れる記述があるのだが、マスメディアが対象(物)のイメージを創造する力というのは極めて大きく、それゆえに、マスメディアは、対象(本件では栗城氏)に対しても、視聴者に対しても、より責任を自覚する必要がある(あった)のだろう。最近改めて話題になっている、小池東京都知事の学歴詐称疑惑なども、マスメディアの責任が問われるべき(長年疑惑を指摘されていながら、メスメディアは敢えてその確認を怠ってきた)、同根の問題である。
私は、既述の通り、栗城氏についての予断は持っていないし、本書を読み終えた今も、ネットに溢れているであろう栗城氏や本書に対する賛否の意見・情報はほとんど見ていない。
そうした立場で、少し冷めた言い方をするなら、「こんな若者がいたのだな」といったところではあるが、機会があれば、氏の書いたものも読んでみたいと思う。
(2024年5月了) -
カッコ悪いところを見せられることが、一番かっこいいのに。
話題性とユニークなキャラクターで一躍有名になり、「No Limit」「否定という壁への挑戦」という言葉を掲げてエベレスト登頂を目指すも、2018年に山中で滑落、不慮の死を遂げた栗城史多さん。彼の活動初期を共にしていたTVディレクターによるノンフィクションです。
栗城さんのことは存命中から知っていましたが、いいイメージではありませんでした。巧みな営業力で有名企業から援助として莫大な金を調達し、おかげで何度もエベレストに挑戦できているけど、実力もトレーニングも不足しているから毎度失敗し、時には登山データの改ざんも図るといった体たらくのため、アンチからは皮肉を込めて「下山家」と呼ばれている等、今でもインターネットを開けばいい側面よりも悪い側面のほうが目立っている様相です。
栗城さんの登山界におけるポジションは、美術界におけるラッセンのようなものではないでしょうか。栗城さんは登山界の権威からはほとんど無視されているけれど、世間の大多数の人には絶大な認知度がありました。登山に興味のない人の中で、栗城さんの名前は知っていても、他の登山家の名前を挙げられる人はほとんどいないでしょう。美術界からは黙殺されつつ、普段美術に触れない人をターゲットに飛ぶように絵が売れたクリスチャン・ラッセンと同じ、界隈からの孤立と世間からの称賛。それだってもちろん凄いことですが、一方ではオーセンティックではない、正統派ではないというイメージは免れられないでしょう。
著者はこの本を書くにあたって、栗城さんの学生時代の山岳仲間や恩師、ビジネスで関わった相手、サポートしたシェルパなど多くの方の話を伺っています。おかげで本書には栗城さんの来し方、取り巻く状況や登山記録などが丁寧に書かれています(後半の占い師やイタコの登場といったあまりにもなオカルト展開には面食らいました。原始から山は霊的な場所とされ、山こそスピリチュアルそのものではあるのだけど、、、。つくづく栗城さんは理屈の人ではないんだなあ)。
でもこの本を読んでも栗城さんの真意はつかめません。栗城さんの一番そばにいて、今も事務所を守っている元マネージャー小林さんからの証言を得られなかったこともその理由のひとつかもしれませんが、そもそもの話、生前の栗城さんのインタビューなどを読んでも、私は彼に共感できることは一切ありませんでした。なんで嘘をついてまで「単独」「無酸素」にこだわったのか。それこそエベレスト、登山そのものになんでこだわったのか(晩年、登山が好きだったかどうかさえ疑わしいのに)。なぜ「正統派」側の評価軸を手放さなかったのか。別の方法なら誰もが文句を言わない、かつ栗城さんだけがなし得る輝き方は絶対にあったはずなのに。栗城さんは聞こえのいい言葉を盾に、裏にあるカッコ悪い姿、それも含めた「真意」を必死に見せないようにしていると感じました。臆病な人だったのでしょうか。純粋な人たちの応援を反故にする恐怖があったのでしょうか。
本書にある言葉のひとつに、私は強く共感します。「かっこ悪いから、かっこいいのだ」。栗城さんは自分のカッコ悪い姿を晒すことを避けて、繕おうとした。カッコ悪いところを見せられることが一番かっこいいのに。しかし同時にこの言葉は私にも突き刺さるものであって、カッコ悪いところを晒すのはとても勇気がいることと、つくづく身につまされる心持ちがしました。
栗城さんのファンは彼が亡くなった後、どのような感情を抱いたのでしょうか。没後、彼の写真展示会が催された時の記事や動画を拝見しました。場内にはファンが訪れ、設置されたメッセージスペースには来場者から栗城さんへの言葉が書かれていて、「ありがとう」「感謝」「憧れです」など、真っ白いスペースが美辞麗句で埋め尽くされた中、目に飛びこんできたひとつのメッセージがとても印象的だったのです。
「死んじゃダメなのに」
自分に対する苦言を最後まで受け入れなかった栗城さんを気遣いつつ、追悼ムードに水をさしかねないギリギリのラインで伝えようとする、書いた人の意思を強く感じるメッセージでした。賞賛ばかりの世界は不健康(アンチばかりも然り)です。そんなメッセージがあったことにホッとしたことを覚えています。 -
栗城さんの活動の初期に取材で関わった著者が、没後、彼の周囲の方々を取材し、謙虚に丁寧に書き上げられた良書と思います。
私自身は、彼の夢の共有には一度も参加することなく、ネットの記事を追いかけていた程度の者です。興味はあったので、購入して、自分にとってはとても早く、3日ほどで読み終わりました。
孫正義さんの、「未来をつくるため、いかがわしくあれ」という、インタビュー記事を思い出した。
当時なかった登山のライブ中継や、動画配信、夢の共有といったキャッチーな行動が多くの人に受けいれられ、彼はいかに見せ、自分がどうあるべきか、登山そのものより、追求された。見え方を追求しすぎて、いかがわしさももっていたのだと、思った。
ただ、新しいことを周りに受け入れてもらうには、多少のいかがわしさも併せ持つことは、仕方がない。現在のYouTubeなどで起きている、自分の経験を配信する行動は、これが一つのきっかけとなったとも言えるのでは、ないか。
彼が、山を下りてからどのような活躍をしたか、それがなされなくなったことは、残念に思いました。 -
登山家・栗城さんの訃報はなんとなく覚えている。
自分の登山する姿をネット配信するヒト、ぐらいの認識だった。
一人の人間が持つ魅力、エネルギー、挑戦、挫折、そして人間としての弱さを丹念に描いた文章にドラマ以上のドラマを感じた。
最後、それまで著者がその存在に胡散臭さを感じていた占い師との対話によって一気に解き明かされる本当の姿。
著者が栗城さんに対して抱く浅からぬ愛憎があってこそ、たどり着けた真実であるように感じた。
白くて大きく立ちはだかるエベレストに、ちっちゃなちっちゃな人間が挑む。
でもその人間自身もその人生の毀誉褒貶や、複雑な人間関係をはらむ、いわば小宇宙なのだ。 -
登山家の世界は よくわからないけど いろいろなタイプの人がいて いいんじゃないか、と思った。何者なのか?は 何者だったのか? それでいいと思った。本当のことなんて 本人しかわからないから。わからないなーで閉じた。
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今年から雪山に登るようになったせいか書店でふと目に止まり読んでみました。彼の事は知らなかったのですが、帯にある通りまさに毀誉褒貶、賛否両論といった具合で山の本というよりは現代社会の宿痾のようなものを感じました。自分自身を商品として企業に売り込み支援してもらい、マスメディアに取り上げられ箔がつく。その繰り返しの中で制御不能になり止まれなくなった末の悲劇だったのか。彼を死に追いやったのは自分かもしれないという著者の反省に何とも言えないもどかしさを感じました。
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