クアトロ・ラガッツィ 上 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (576ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087462746

作品紹介・あらすじ

十六世紀の大航海時代、キリスト教の世界布教にともない、宣教師が日本にもやってきた。開明的なイエズス会士ヴァリニャーノは、西欧とは異なる高度な文化を日本に認め、時のキリシタン大名に日本人信徒をヨーロッパに派遣する計画をもちかける。後世に名高い「天正少年使節」の四少年(クアトロ・ラガッツィ)である。戦国末期の日本と帝国化する世界との邂逅を東西の史料を駆使し詳細に描く、大佛次郎賞受賞の傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 歴史で学ぶ単語の1つとして認識していた、「天正少年使節」を通じて当時の世界と日本を知ることができた。3の話は非常に興味深い。

  • 楠木建『戦略読書日記』で知った一冊。
    天正遣欧少年使節団の話と思いきや、彼らはなかなか登場せず、全575ページの中の519ページ目でようやく出航。それまでは派遣に至る経緯や時代背景が綿々とつづられるわけなのだけれど、幾多の史料を紐解いて書かれたこの内容が抜群に面白い。この上巻だけで独立した一冊の本(タイトルは『イエズス会と日本』あたりか)になっても何らおかしくないほど。布教への苦労やイエズス会の内幕がぎっしり詰まって、575ページの中にムダはなし。腹いっぱいで下巻へ。

  • ずっと読みたかった本。
    カタカナが苦手なゆえに世界史が苦手、という私には到底読み切れる自信がなく長年手を出せなかった。ある時、ドラマを観ることでしっかりとイメージ作りができたので挑戦してみることにした。

    読みにくさではフロイスの「日本史」といい勝負。けれど、学術的な側面からの情報が多く非常に面白い。自分の頭でしっかりと考えをまとめながらなので時間がかかるのだけれど、ページをめくる手は止められなかった。

    とにかく初めのうちは戦国時代のややこしい話と、世界史が混ざり合った複雑さ。少年4人はいつ出てくるの?まだ旅に出ないの?ともどかしい思いだった。

    船旅は風次第のこの大航海時代、ヴァリニャーノの手紙にしろ、使節団たちにしろ、奇跡的に海を渡った物語が400年を超えて語られていることに胸がときめく。日本だけでなく、イタリアにも残された逸話。
    下巻もとても楽しみ。

  • 1582年、宣教師ヴァリニャーノの勧めで、キリシタン大名の大友・有馬・大村氏はローマ教皇のもとに少年使節を派遣した。伊東マンショら4人は1585年にローマに到着し、教皇グレゴリオ13世に謁見した。

    教科書ではこのように簡潔な記述ですまされる天正少年使節が、なぜ派遣されるに至ったのか、どのような行程をへてローマを訪れたのか、帰国後どのような運命が待ち受けていたのか。
    本書は、ヴァチカンに収められた膨大な資料をもとに、1549年のキリスト教伝来から1633年の鎖国令まで、80有余年にわたるキリスト教布教史を俯瞰しつつ、日本にとって少年使節とは何だったのか、上下二巻にわたって説きつくします。
    上巻は、日本における布教の実態から始まり、ヴァリニャーノの信長への謁見、少年使節を派遣するまで。

    教科書的には、キリスト教の布教はスペイン・ポルトガルの海外進出とセットで進められ、貿易を望んだ大名の庇護のもと、信者を増やしたとされています。
    一面的には事実なのですが、本書では、仏教勢力との対立とイエズス会内部のスペイン・ポルトガル系とイタリア系の対立が、布教に大きな影響を与えたと指摘します。

    仏教勢力からの反発は激烈で、朝廷に再三働きかけて、布教禁止の勅命を出させ、以後、布教禁止を日本の公式見解とすることに成功します。
    違法状態にもかかわらず最大30万人もの信者を獲得できたのは、一つは、既存仏教からうち捨てられていた貧者や病者の支持があったこと、もう一つは、当時の知識人階級が、西洋の合理精神に共鳴し入信が相次いだこと。高山右近や黒田孝高(如水)はその代表例といえましょう。
    とりわけ最大の理解者は信長でした。朝廷の勅命を無視する形で京や安土での布教を認めます。ヴァリニャーノと謁見した際には、自らを日本の国王として、西の帝国(スペイン)との文明交流を望み、教皇への献呈品として安土城下を描かせた屏風図を贈ったといいます。

    信長との謁見後、ヴァリニャーノは少年使節派遣を企画します。目的は、日本での布教に必要な資金援助を獲得すること。もう一つは、日本人が直接、西洋文明とキリスト教の栄光を見ることで、日本での布教がさらに進むようにすること。
    船の出航が迫っていたため、計画はかなり突貫的に進められます。教皇にあてた大名の書状作成や使節の人選に十分な調整を重ねなかったことが後日、使節はヴァリニャーノのねつ造で、4人は大名の係累でないと告発されるスキャンダルに見舞われてしまいます。

    告発したのは同じイエズス会のスペイン人司祭ラモン。日本人の知的水準の高さを認め日本にあった布教を進めるイタリア人ヴァリニャーノに対して、スペイン人の彼にとって、布教とは未開の民を教化するもので、対等の関係はありえませんでした。実際、布教方針を巡ってはヴァリニャーノ、オルガンティーニらイタリア人と、コエリョ、フロイスらポルトガル・スペイン系は激しく対立します。この対立は、後に秀吉の時代、大きな悲劇につながっていくことになります。

    ともあれ、東西文明の架け橋として4人の少年たち(クアトロ・ラガッツィ)はローマに向けて旅立ちます。(下巻に続く)

  • 遠い昔、学校の授業で習ったはずなのだがまったく記憶にないのは
    どういうことか。隠れキリシタンや天草四郎は覚えている。なのに、
    天正遣欧少年使節については長じてからヴァチカン関連の作品の
    なかで触れられていたことしか覚えていない。

    九州のキリシタン大名の名代として1582年にローマへ派遣された
    4人の少年を中心とした使節団なのだが、本書ではキリスト教の
    日本上陸から描かれているので使節団がなかなか日本を出発しない。

    イエズス会vsフランシスコ会の確執やら、イエズス会が布教の一環
    として行った福祉活動など。膨大な資料を駆使して描かれているの
    でまったく飽きさせない。

    勿論、物語の中心は4人の少年使節なので彼らが日本を出発し、
    ヨーロッパへ到着するまでの航路や、ヨーロッパ各地で歓待さ
    れた様子、帰国後の運命のことを詳細に綴っているがそれだけで
    はない。

    信長・秀吉と、時の権力者が宗教をどのように政治に利用して来た
    か。信長は何故・誰に殺されたかの考察も参考になる。

    そう言えばいつだったか、上岡龍太郎が信長殺しは光秀ではない
    との話をしていたのをおぼろげに覚えている。

    実は日本史が苦手なので無意識に避けて来た。しかし、本書のような
    作品を読むと好奇心を刺激される。

    そして、巻末の資料一覧に目を通すとくらくらする。歴史を描くのは
    まさに資料との格闘なのだ。著者が格闘してくれるから、読み手は
    新たな興味を呼び起こされるのだ。

    日本史、勉強しなきゃいけないわ。こんなに面白いのなら。

    それにしても、キリシタン弾圧がなかったら日本はどうなっていた
    のだろうな。

  • 天正使節団、4名のキリシタンの子ども達が400年以上前にバチカンにまで行った。行くだけでも2年以上かかる旅程をよく行き着き、さらには無事で帰ってこられたものだ。
    16世紀の日本は、宣教師によりかなりの早さでキリスト経が広がっていった。貧しいものだけでなく、キリシタン大名と呼ばれる者も数名いたことから貧富の差なくキリスト経の来世があるという思想は、この時代民衆に受け入れられやすいものだったのだろう。
    しかし、天皇制をとる日本にとってキリスト経が広まることは、支配層にとって脅威であった。
    秀吉の時代からキリシタン弾圧がはじまり、その時期に帰国した4名の少年達は、つらい運命をたどることになった。
    生きた時代により、どんな運命が待ち構えているか誰にも予測がつかないし、自分の力だけではどうしようもないことがある。

  • 目からうろこが落ちっぱなし。こんなに重要な歴史をどうして今まで学ばずに来たのだろうと思う。
    背景理解のために第一章は大切なのだけれど、なかなか読みにくくて、挫折しかかってしまうのが難点。第二章まで頑張ればあとは読まずにいられない。物語が動き出す。

  • 初めてヨーロッパに渡った日本人は誰か。記録上では鹿児島のベルナルドで日本名はわかっていない。天正遣欧少年使節がローマ法王に謁見したのはベルナルド渡欧から約30年後の1585年。それまでは一部の宣教師や貿易商のみが知っていた日本人をヨーロッパが初めて見、逆にヨーロッパを見た日本人が日本の戻ったのもこの時が初めてだった。しかし、彼らが帰国する直前に豊臣秀吉がバテレン追放令を出しており、キリスト教は弾圧された。

    著者の若桑みどり氏は西洋美術史が専門で若い頃にローマを訪問しミケランジェロに出会う。しかし、「東洋の女であるおまえにとって、西洋の男であるミケランジェロがなんだというのか?」という心の声から西洋と日本、そして自分自身につながることを研究したいと出かけた二度目のバチカンで天正少年使節の豊富な資料と出会った。そしてローマ留学した自分と彼らを重ね合わせている。

    当時ヨーロッパではルターの宗教改革によりカトリック教会は組織的な見直しを迫られており、その一つとしてイエズス会が活動を始めていた。会の目的の一つが高等教育機関の運営と世界各地への布教活動でアジアではインドのゴアが布教の中心でフランシスコ・ザビエルが日本に来たのもその一環だった。またポルトガル、スペインが世界を二分しアジアはポルトガルが優先権を得ていた。ポルトガル商人は日本と中国の金と銀の交換比率に目を付け日本の銀を中国で金と交換し仕入れた生糸を日本で売る。その商人の一人ルイス・デ・アルメイダは1557年豊後に日本に最初の病院を建てるために私財を投げうったのだが何がきっかけでイエズス会に入ったのかははっきりしない。その後も九州で布教と無償の医療活動を続け日本で生涯を遂げた。

    九州の藩主がキリスト教を受け入れたのは南蛮貿易が頭にあったことは間違いがない。一方でアルメイダのように西洋の科学を知る者は日本人の知識欲を満足させた様だ。かのザビエルは「日本人は非常に好奇心に富み、知識に渇し、問題を出し、またその答えを聞いて、少しも疲れない・・・・」と辟易した様子を見せている。ついでにいうとザビエルは日本人は強欲で戦争ばかりしておりに本を占領するのは骨が折れるのでやめたほうがいい、中国人の方がさらに優秀であると言って本人は中国に行きたがったが果たせなかった。

    ザビエルの布教の後継者が天正少年使節を企画したイタリア人のアレッサンドロ・ヴァリニャーノだった。使節の目的は日本での布教のための経済的な支援をえることと、帰国した後の少年達に見聞きした物事を語らせ布教の役に立たせるためであった。ヴァリニャーノの宣教方針は日本の文化と伝統を尊重し、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信など九州ではキリシタン大名が一大勢力となり領民も多くがキリスト教に帰依した。

    ヴァリニャーノによる日本人の長所や特徴は以下の様なものだった。極めて礼儀正しく、理解力があり下層の人々も一般に高尚に育てられ仕事に熟達している。国土は貧しく庶民も貴族も極めて貧困であるが貧困は恥とは考えられていない。ある時には貧しくても清潔で低調に待遇されるので、貧困が他人の目につかない。日本人は世界で最も面目と名誉を重んじる国民である。彼らの間には世にも奇妙な支配の方法が見られる。彼らはその家庭に置いて、また配下のものに対して絶対的な君主である。・・・誰もが自分の家臣や子供を殺す。武器を重んじ戦うことは希であるがひとたび戦うと死に到るまで徹底的に戦う。相手が警戒していない時にだまし討ちにする。極めて忍耐強くあらゆる苦しみや不自由を耐え忍ぶ。感情を表さず誰かに対して復讐しようとするときも、ともに笑い、ともに喜び、相手が最も油断した時に刀に手をかける。通常、一撃か二撃で相手を倒し、それから何事もなかったように冷静に刀を鞘におさめ、動揺もせず、言葉も発せず、激した表情も見せない。うーむ中村主水の必殺仕事人だわ。

    日本人の悪い所は「好色(特に武将や僧侶の男色)」「裏切り」「虚言」「残酷ー生命の軽視」「泥酔」などここまで読むともはや文化的に理解しようとするのも難しい人種に思えてくる。しかし、その日本で子供の頃に洗礼を受けた純粋なキリスト教徒をヨーロッパに派遣することはカトリック教会にとってもその威光が世界の果てまで届いた証明でもある。また日本では寄付によって協会を運営するのははなはだ困難であり、布教のための教会や学校を運営するのには金がかかる。イエズス会は商売を禁じていたため本国からの援助も必要であった。

    イエズス会の隆盛と一転しての弾圧は信長の天下取りと密接に結びついていた。信長は比叡山や一向宗については徹底的に弾圧しており一方でキリスト教は庇護した。また、自らを神のような存在にしようとしており天皇家や将軍もないがしろにしていた。秀吉の豊国神社、家康の東照宮と二人が死後神として祭り上げられたのに対し、信長が祀られたのは明治になってからだ。古くは応神天皇、平将門、菅原道真と恨みを持って死んだものは祀られたのに対し信長は捨て置かれている。話がそれてしまった。

    1582年に使節が出発しその年の6月に本能寺の変が起こった。彼ら4人の運命は下巻にて。

  • ★私たちはいま500年単位で歴史を考えるときがきている

    クアトロ・ラガッツィというのは「4人の少年」というイタリア語で、九州のキリシタン大名3人が戦国時代末期にローマ教皇庁へ派遣した日本の少年4人、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノのこと。

    世界史的にはちょうど大航海時代のど真ん中、織田信長の命を受けて天正10(1582)年にイエズス会に率いられた4人の少年使節が、小さな帆船でローマめざして日本をいざ出発。大海原をものともせず2年かけて到着を果たし、少年たちは袴姿に刀を差して晴れがましくローマ教皇に拝謁したのでした。こんなとてつもない計画立案・実行をしたのは、イエズス会の伊太利亜人ヴァリニャーノで、彼は日本や中国を西欧とは違うが同等の高度な文明をもつ国として尊敬していて、この使節派遣も東西文明の相互理解を目的としたものでした。出発して8年を経て、彼らは帰国して西欧で得た知識や文物そして印刷技術を伝えました。でも、あれほど絶頂期でキリスト教保護に熱心だった織田信長もすでにこの世になく時代は急変して、四人は迫害のなかで病死したり、殉教に倒れたり、棄教したりする者もいるというなんとも最悪の末路でした。最後は、60歳になったかつての少年使節のひとりの苛烈な死とマタイ伝の引用で幕が降ります。

    初めて読んだ若桑みどりは、『戦争がつくる女性像 第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房1995年、後にちくま学芸文庫2000年)だと思っていましたが、ひょっとして別かも知れないと、今回いろいろ調べてみるとやっと判明しました。それより1年前の生意気盛りの中1の時に読んだ、雑誌『夜想5』(1992年)に載っている論文というかエッセイが最初なのでした。

    それは「屍体 幻想へのテロル」という特集の中で、「屍体のメタモルフォーズ」というもので、どういう内容のものなのかは、今すぐその雑誌が見つかりませんので不明ですが、同誌には他に、由良君美の「Necrophagia考」とか、中野美代子の「屍体幻想」、深作光貞の「全身木乃伊の生と死」や、中井英夫の「屍体透視」、寺山修司の「屍体の告白」などそうそうたるメンバーが執筆しています。

    1992年といえば彼女は57歳、まだ千葉大教授でしたが、こういう変わった嗜好の雑誌に堂々と書いていたということに驚きます。

    ◆レビュー日:2008年03月23日
    ◆推敲(更新)日:2012年11月21日

  • 4人の少年がローマで教皇に謁見するにいたるカトリック、日本の事情を当事者の日記、手紙などの資料をもとに解説。
    旅の記録、4人それぞれのその後の人生まで丁寧に記述している。
    なかでも使節団の企画者、イエズス会宣教師ヴァリニャーノのエピソードは興味深い。
    イエズス会というと「剛」のイメージが強かったのだけど、彼の柔軟性、開明性、適応性はホントにすごいと思う。フェルディナンド2世の家庭教師が彼だったら30年戦争もなかったろうに・・・

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著者プロフィール

若桑みどり (わかくわ・みどり):1935-2007年。東京藝術大学美術学部芸術学専攻科卒業。1961-63年、イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。専門は西洋美術史、表象文化論、ジェンダー文化論。千葉大学名誉教授。『全集 美術のなかの裸婦 寓意と象徴の女性像』を中心とした業績でサントリー学芸賞、『薔薇のイコノロジー』で芸術選奨文部大臣賞、イタリア共和国カヴァリエレ賞、天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ』で大佛次郎賞。著書に『戦争がつくる女性像』『イメージを読む』『象徴としての女性像』『お姫様とジェンダー』『イメージの歴史』『聖母像の到来』ほか多数。

「2022年 『絵画を読む イコノロジー入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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